第三章 孤独な景色 01
鑑察課長リアン・ハーディが、部下を課長室に呼ぶのは、珍しいことだった。
大抵は、部下の方から課長室に押しかけるか、執務室に出向いたハーディから声をかける。いずれもハーディに愚痴を言って、不満を解消する場となる。業務指示を出すのも、皆のいる執務室ですることがほとんどだ。
リドリーは、朝からずっと時計を気にしていた。朝に予定していたスダリの取り調べが、急遽延期になったのだ。緊急事態なのだという。初めての経験だった。
遠に、昼を過ぎていた。まだ連絡が来ない。
リドリーがロイと二人で課長室に入ると、ハーディは、いつものように落ち着きのない様子で、席から立ち上がった。
額から掻き上げられた茶色の髪は、少しポマードの艶があった。細い眉の間には、笑っても消えない皺が立っている。窪んだ垂れ目で、その眼差しはおとなしく、少したるんだ涙袋が印象的だった。いつも困っているような顔に見えた。
二人が部屋に入ると、ハーディは扉が閉まるより早く話し出した。頼りなげに浮かべた笑みも、あまり目を合わさないようにするのも、いつも通りだった。
「延期されていた取り調べは、すぐにでも始めていいそうだよ」
と、ハーディは言った。「それから、警察からの要請があってね」
ゆっくりとした遠慮気味な声の響きだったが、「要請」と聞いて、リドリーは身体に緊張が走るのを感じた。見ると、ロイの表情も固くなっていた。
「昨日、ドレッドでの捜査で、新しい事実が出たらしくて、たった今、ウチにその資料が届けられたんだ」
どことなく、他人事のような響きがあるのもいつも通りだった。
警察からの使者がいたとは、リドリーも気づかなかった。課長室は廊下側にもドアがあり、外部の繊細な情報は、そこから直接もたらされることが多い。
ハーディの話は、マクダリオの死に関する警察の報告から始まった。
マクダリオは、四年前に事故で命を落としていた。
ドレッドの町を見渡せる高い丘の上の邸宅で、二階の寝室バルコニーから、手すりを越えて転落。屋根を転がり、庭の花壇に並べられた縁石に頭を強打し、即死だったという。
当時のグラファド商会は、商人ギルドから制裁を受けて、取引量が十分の一以下に激減していた。扱う荷馬車は一頭立てがわずか二台、家事使用人を含めても、通いの三人程度を雇う規模にまで凋落していた。かつての大商人の不慮の死は、町中の好奇の話題となった。
その日、夕方に邸宅に帰って来た家事使用人が、降り始めた雨の中、庭に倒れているマクダリオを発見した。ドレッド所轄の警察によると、バルコニーの手すりには、金属で擦れた新しい傷跡があり、マクダリオが腰につけていた鍵束で付いたものと考えられた。
オリナは部屋で療養していて事態に気付かず、寝ているところを家事使用人に起こされたという。
記録では、マクダリオの後頭部は割れ、頸椎が脱臼していた。
だが、胴体には他に強い打撲痕などはなく、四肢やあばらも折れていない。庭の柔らかな土のためと解釈されていた。
地方の町や村にはよくあることだったが、解剖術師や鑑察官がおらず、経験の豊かな警官が、簡易の法具を用いた検分で処理していた。
その死因に、今回ドレッドに向かった捜査官たちが疑念を持った。
きっかけは、スダリを雇っていたという荷馬車の運送組合の記録を調べていた時だった。
マクダリオの死亡日と、スダリが仕事を休んだ日が、一致していることに気づいたのだ。
組合に保存されていた雇い簿には、使用人たちの日々の勤務内容が記号で表されている。組合が活動していない祭りの日を除いて、それまで毎日働いていたスダリが、その日にピタリと休みを取っていたことが、疑念を強めた。
決定的だったのは、スダリの同僚だった者たちに捜査官が聞き込みをしたところ、マクダリオに関する証言が得られたことだった。
スダリが『父親が解雇されたことを恨んでいた』と言っていたことがあり、『前に仕事をしていたところに挨拶をしに行く』とスダリが仄めかしていたというのだ。
捜査官たちは、
『私が殺したはずです。私はそういう人間なのです』
と言ったスダリの最初の供述が、頭によぎったという。
こうして、事件当日の様子が推定された。スダリはグラファド邸に向かい、家事使用人が留守だった昼過ぎに到着。マクダリオを殺害後、転落事故に偽装した、と警察は睨んだのだ。
ハーディは一つ息をついて、資料を読み続けた。
「このドレッドからの知らせを受けて、捜査室はスダリを尋問した。スダリは、父親と共に解雇されたことでマクダリオを恨んでいた、と供述した。捜査室は所轄と連携し、マクダリオ・グラファド氏殺害容疑で、スダリを逮捕した」
「もう逮捕ですか?」
リドリーが目を丸くした。ここまでの話では、まだ物的証拠が出ていない。もちろん軍を意識しての逮捕なのだろうが――
「また、殺害を自供をしたんですか?」
「あ……ああ。捜査室で昨晩スダリを取り調べたところ、殺害を認めたようなんだ」
「どんな供述ですか?」
オリナの件と同様、曖昧な供述で犯行を認めたのではないか、とリドリーは訝った。
立て続けに質問を受けたせいか、ハーディはどもりながら、
「頭を、後ろから殴った、と。凶器は木槌で……大きめの、この、地面に杭を打ち込むための、両手で持つ木槌だそうだ。先端に、こう……少し鉄を巻いて補強しているやつらしい」
ハーディの手が、言葉の拍子を取るように、縦に振られた。
リドリーは、ロイと目を合わせた。
「今回は、具体的な自供だね」
「あとは、その証拠が出るかどうかだろうね」
とロイは頷いて、視線をハーディに戻した。「凶器は、どこにあるのですか?」
ハーディは資料をめくった。だが、すでに答えは頭の中にあるのだろう。資料を読んでいる様子でもなく、
「ああ……犯行現場と凶器の場所については、まだ自供がないんだよ」
「殺害を認めているのに、ですか?」
「そのようなんだ。様子からすると、その……黙秘をしているらしい」
リドリーは、先日の取り調べで、スダリが凶器に情動が残るのかと質問してきたことを思い出した。この件を言っていたのであれば、スダリはドレッドの捜査でここまで嫌疑が及ぶと考えていたことになる。
もちろん、この件はオリナ邸の火災とは別の案件だ。これからスダリは二件の犯行容疑で、並行して追及を受けるだろう。
だが今の捜査室に、この二つの案件を捜査する余裕があるのか、とリドリーは急ぐ逮捕を訝った。
ハーディは、落ち着かない様子で、片手を閉じたり開いたりしながら、再び話し始めた。
「現在、警察は軍からスダリの身柄引き渡しを迫られていてね」
それは、火災現場における軍の救護任務に起因する案件だから、という当初からの理由だった。
そこに、軍任務外であるマクダリオ殺害容疑が浮かんだことで、互いにスダリの身柄を綱引きする状態となった。ただ、これも押し切られるのは時間の問題だという。物的証拠が固まっていないからだ。
しかし、マクダリオ殺害の件は、今回のオリナ殺害の動機に絡んでいると考えられた。つまり、救護任務に起因する事案ではなく、私情による犯行であれば、軍の要請を拒否できるというのだ。
「スダリは、火災現場で、オリナを口封じのために殺害した、と自供したんだよ」
ハーディの言葉に、リドリーは言葉を失った。
スダリは、マクダリオを殺害したことを、何かをきっかけにオリナに知られたため、殺害を決意。失踪したオリナの所在を突き止めて、その邸宅を管轄する夜警団へ要請派遣を利用して配属。殺害の機会を伺っていたところ、オリナの屋敷で火災が発生、現場においてオリナを口封じのために殺害したのだという。
ドレッドの仕事仲間の証言も根拠になった。マクダリオ死亡の一年後に失踪したオリナを、スダリが探し回っていたというのだ。まもなく運送組合を退職し、彼もまた行方が分からなくなった。オリナを追って行ったのだろうと噂された。
「所在を突き止めて、口封じ……」
あり得ない、とリドリーは思った。
スダリは、火災現場で初めてオリナの存在に気づいたと供述していた。スダリは、その供述も翻そうとしているのだ。
火災現場の寝室で見た『邂逅』情動と照らし合わせると、スダリは要救助者がオリナだとその時まで知らなかったはずなのだ。「所在を突き止めて」夜警団に入り殺害しようなど、あるはずがなかった。
それにスダリは、なぜ最初からこの件を自供しなかったのか。避難経路を間違えた失態を隠すためにオリナを殺害した、と供述を作る必要などないはずだ。こうしてより具体的な自供もできるのだから。
「そこで、警察からの要請の話なんだけど」
ハーディは申し訳なさそうに、「スダリは、オリナにマクダリオ殺害を知られたという失態を隠そうとして、『失誤の隠匿』情動が生じてオリナを殺害した、と鑑定書に書けないかと、その可能性を尋ねられているんだ」
リドリーは、ハッとした。
可能性を尋ねる、とまるで質問されているだけのように聞こえるが、こうして警察が鑑定内容に言及するのは、事実上の指示なのだ。ハーディが「要請」と言ったのも控えめな表現だった。
そもそも、今回の『失誤の隠匿』では、殺害は完遂していないのに――
リドリーは、その言葉を飲み込んだ。代わりに、
「まだ、情動を裏付ける証拠を取れていません」
するとハーディは何度も頷いて、
「君の意向に沿わないことは分かっているんだ。本来、情動の鑑定は鑑察官の独立権限によるものだ。たとえ、軍の圧力があるからと言っても、まだ他の可能性があってその解釈が固まらない内に、一つの鑑定に絞るのは、私も本意じゃない」
ハーディの言った懸念は、リドリーのそれとは違っていたが、ハーディは再び深く頷き、眉間の深い皺をさらに寄せ、申し訳なさそうに、
「だけど、今ここで保安局との連携を乱すこともできないんだ」
保安局は、目下、治安の強化に力を入れている。法王庁が帝国の治安維持に尽力して捜査に積極協力することは、当然に義務付けられていることだ。捜査官として警察から兼務任官を受ける以上、保安局の意向は無視できない関係にあった。
ハーディは、同じ資料だよと言いながら、一束の書類をリドリーに手渡した。そして、
「すまん」
と詫びた。「鑑定が困難なようなら、担当を変更してもいい」
リドリーは、一瞬で頭の中が真っ白になった。言葉を失うリドリーに、ようやくハーディは視線を合わせた。だがすぐに逸れた。その目はロイに向いて、
「その時は……」
と言い淀んだ。
すると、ロイは一瞬考えるような間があった後、静かに頷いた。それを見て、リドリーは思わず声を上げた。
「ロイ!」
「主任は僕だ。僕が裁量する」
ロイは、にこりと微笑んだ。
主任という役職は存在しない。仕事の段取りを調整する役回りをそう呼んでいるに過ぎず、裁量権限などなかった。明らかに課長の裁量だ。後始末をすべてロイに託すことが、今日のハーディの目的だったのだとリドリーは悟った。
「課長、鑑定書は私が書きます。もう少し時間をいただけますか? 捜査をさせてください」
リドリーの言葉に、ハーディは口を引き結んで返答しかねている様子だった。
ロイは、ハーディをまっすぐ見据えたようにして言った。
「もしも、『失誤の隠匿』の後に『辛苦からの解放』があったとしたら。課長なら、どう鑑定されますか?」
思わぬ発言に、リドリーの胸がざわめいた。
「ロイ」
ハーディは、理解が追いつかなかったのか、窪んだ垂れ目をキョトンとさせた。やがてその目が見開かれ、動揺が湧き出てくるかのように、表情が強張っていった。
「……まさか、そうなのか?」
ハーディとて、長年現場に立ってきた現役の鑑察官である。
「『失誤の隠匿』で被害者が死体になれば、『辛苦からの解放』は出現しない……」
「そして『辛苦からの解放』は扼殺を選びません」
ロイが言葉を継ぐと、ハーディは数秒間ぽかんと口を開けていたが、
「君が、見えると言っているものが、そうなのか?」
リドリーの返事を待つでもなく、「それは、立証できるものなのか?」
その答えは、持っていない。
「必ず、見つけます」
苦し紛れの自分の言葉に、唇を噛んだ。
リドリーが、スダリの取り調べの時間だからと告げて一礼し、部屋を出ていこうとすると、ロイはハーディに付け加えた。
「その要請、なるべく時間を稼いでください。課長が理由をつけられる、無理のない時間で結構ですから」
二人は、課長室を出た。ハーディは、しばらく動かなかった。




