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第二章 瞳の奥の記憶 13

 老解剖術師は、ニ冊の紙束を持って、解剖準備室から窓際に沿って戻ってきた。アラバスターの窓から差し込む褐色の光が、白衣を淡く染める。


「これのことか?」

 解剖局にある執務室の応接スペースで、ジルはテーブルに手をつきながら、ソファに浅く腰掛けた。手にした書類の一つをテーブルの傍に置き、もう一冊をロイの前に出した。


 それは、オリナの解剖結果報告書だった。前に見た時は一枚目しかなかったが、今はすべての解剖結果がきれいに綴られて、厚い冊子になっていた。その仕上げを見て、

「ありがとうございます。お忙しかったのに、手ずから製本されたのですね」

「縫い締めが甘いと資料棚から出しにくくなる。管理をさせてないから、みな分からんのだろうな。つい自分でやってしまう」


 そう言ってはいるが、細工好きのジルが作業を手放さないのは、ロイもよく知っていた。


「お願いしていた件ですが」

 ロイは、オリナが罹っていたという『遺伝病』について、解剖結果に出ていないか、ジルに確認を依頼していた。


 解剖時は、犯行にまつわる見た目の検査だけでなく、血液をはじめとする体液検査や、体組織の病理検査などの基礎解剖を行う。どんなものでも、死因や生体反応に関連してくる可能性があるからだ。医療法術の発展につれ、綿密な規格の術を駆使して検査が行われるようになってきている。


「死因には直接絡んでないから、表紙には出てこないが」

 ジルは数ページめくって、目を細めながら、ある項目を指差した。


「プログノシストダイモニ。病理で出た。遺伝病と言ったのは、こいつのことだな」


「初めて聞く病気です」

 得体の知れない響きの名称だった。尋問の調書では、昨日のクレイのものにも、今朝のリドリーのものにも、この病がオリナを苦しめていたくだりがあった。


「まあそうだな。これは学名だから馴染みはないだろうが、それでも確かに珍しい病気だよ。石化関節症とか、錆手足とか呼ばれるが、珍しい分、広く知られた通称がない」


「遺伝するのですね?」

「ああ。とは言え、家系がみな発病するわけじゃない。そうだな、四、五人に一人くらいだろう」


 スダリの供述調書では、父マクダリオは発病していなかったと書かれていた。だが、姉弟は二人とも発病したという。ロイは、世代を超えて眠っていたこの不気味な病に、凶暴な牙を見た気がした。


「重い病なのですか?」

「進行の速さはまちまちだが、最初は関節の動きが悪くなる。可動域の限界点で痛みが出ることもある。幼児から発症した場合は、症状が進むと骨の成長を阻害する。確かに今回の被検体は、比較的小柄だったよ。もっと進んでいれば、たとえ大人になっても、子どもの姿のままに見えることがあるらしい」


「命の危険もありますか?」

「ん、そうだな……。まずこの病原で死ぬことはないんだが、ある意味で、命の危険はある。こいつの病名には『悪魔の予告』という意味があってな」


 ジルは、少し言いにくそうに、「ある程度この病が進むと、発作が出るようになる。四肢の関節を割れるような激痛が襲うんだ。それこそ、気を失うくらいの痛みだという。だが、この病が本当に恐ろしいのは、発作の一時間前に、関節がピリピリとしびれる『予告』があることだ。発作が始まるまでの間、その激痛がやって来る恐怖に苛まれる。……その恐怖に負けて、自ら命を断つ者もあるくらいだ」


 ロイは、思わず息を呑んだ。どれほどの激痛なのか、想像を超えた。


「悪魔の予告……」

 発作のとき、オリナは薬で痛みを防いでいたという。

 その話をすると、ジルは小さく何度も頷いた。


「薬と療養で、かなり痛みの緩和ができる。まあ相当高くつくが。珍しい病だから、よほどの専門機関じゃないと、薬の入手すら難しい」

 ジルは、解剖結果報告書に目を落として、「この被検体は、裕福な家の出身だったんだろう? こういう言い方も何だが、それがせめてもの救いだったな」


 オリナは、薬と療養環境には恵まれていたということになる。


 では、弟のハリは、どうだったのか――


 父親から絶縁され、パルファと共に、この病を抱えたまま放り出された。スダリの話から計算すると、すでに七年ほど経っている。


 ハリとパルファは、どんな思いで過ごしたのか。

 そして、今どこでどのように暮らしているのだろう。


「この病は、治らないのですか?」

 ジルは渋い顔になった。

「進行を止める方法は、まだ見つかっていない。関節の可動域なら、ある程度までは回復訓練でしのげるかも知れんが、簡単なことじゃないだろう。痛いと言って動かんままだと、錆びが進む」


 家族が去っていき、塞ぎ込んだオリナは、ますます身体を動かさなくなる。そんなオリナの心の隙を、悪魔は見逃さなかっただろう。


 より一層、ハリとパルファの七年間が不吉に思えた。ハリの病の発症は、不貞の疑惑を晴らす証になったはずだ。その嘆願も叶えられなかった絶望を、母子はどうしたのか――


「弟子の世話は、どうだい?」

 思考から呼び戻され、ロイは視線を上げた。ああ、と笑みが出る。


 ジルの言う「弟子」は、今はサリアスの弟子リドリーではなく、いつからかエリスを指している。リドリーが育成担当になったことを、何故かジルは喜んでいた。


「弟子の方が、熱心です。色んな意味で」

 いいことだ、とジルは破顔して、ソファに深く座り直した。

「教える立場になると、自分を振り返るものだ。プラムを思い出すことも、自然と多くなる。自分のやり方も見えてくる」


 サリアスを諱で呼べるのも、庁内では数人だけだろう。


「同じ修行をしたら、誰もついて来られないかも知れませんね」

 ジルは声を上げて笑った。

「違いない。プラムのあれは、特別だ」


「今のところ、リドリーに無理な気負いはないようです。今はエリスの好奇心をきっかけに、要所を指導しています」

 ジルは小さく何度も頷いた。ソファの背にもたれ、両手を腹の上で組んで、天井を見上げた。

「いいことだ」


 呟く低い声に、ロイは、老術師が記憶の中に潜っている様子を感じた。

「リドリーを、初めて連れて来た時――」

 まるで、おとぎ話を語るような響きだった。「プラムは、とても焦っていたな」


 初めて聞くことだった。ロイにとってサリアスは威厳と自信に満ちていて、およそ焦りや動揺からは縁遠い印象の人物だった。多くの者が、そう感じているだろう。


「自分が退官するまでに、どれだけリドリーを鍛えられるだろうか、どれだけ技を授けてやれるだろうか。そればかりだった」


「あのサリアスさんが、意外ですね」

 ロイの言葉に、ジルはニヤリとした。

「つまりプラムは、そんな焦りを隠し切った、ということだな。焦りが出ると、弟子に伝わる。これも『遺伝病』だ」


 ジルは、背を起こして前かがみになり、膝に両肘をついた。指が、解剖結果報告書を指していた。


「クレイが、こっちに何度も来た。今回は、よほど証拠が集まらんのだろう。苦労をしてるようだ」

「ええ。被疑者の記憶が曖昧なまま、自供だけが先行しています。変わった事件です」


「そうだな。たとえ誰かを庇うにしても、動機と記憶は用意するもんだ」

 ロイと目を合わせて、「おまえの所にも来たのか?」

 質問ではなかった。笑みが浮かんでいる。


「事実が見つかるまで探すのは、プラムの信念だった。あいつは()える奴だったから、貪るように現場にいたよ。だが、それを証明するのは容易なことじゃない。リドリーもそうだろう。自分が見たもの、感じたものを、納得できるまで探そうとする。師匠の教えには忠実だ」


 ロイが頷くと、ジルは真面目な顔になった。

「だがな、ロイ」

 穏やかな、低い声だった。「証明できないことなんて、いくらでも存在する。そしてこの苦悩は、()た本人にしか克服できん。こればかりは、どうしようもない」


 そうですね、と言って出てきたのは、既に準備していた言葉だった。

「必ず証明の手立てがあると、信じるだけです」

 何も答えていない拙い答えだ、とロイは自分で思った。


「本人はそういうもんだろう。だが、おまえは大丈夫なのか?」

 ジルは案じるように、「おまえは、もう少し、自分のことを考えていい。あまり気負わないことだ。……プラムの事はあるだろうがな」


「ありがとうございます。ですが、自分で決めた事ですから。……サリアスさんのようには、いきませんが」


「そう、プラムには見え――」


 言いかけて、ジルは小さく喉の奥で唸り、口を引き結んだ。次いで出る言葉を飲み込んだように見えた。ふと、その口元が苦笑に歪んだ。


「長く生きているとな、自分が正しいと思うことが増えて、たまに節介を焼きたくなるんだ。また付き合ってくれ」

 ロイとジルは、互いに微笑みを交わした。


「もう一つ、あったな」

「はい。ゆうべの変死体の件ですが――」

 ジルは、また仕事の顔になった。



 翌朝。逮捕五日目。


 警察の捜査室は、にわかに緊張感を増した。


 ドレッド捜査の第二陣が、予定より一日早く情報を持ち帰ってきたことで、カッツが捜査の方向を変えたのだ。軍への先行有利をとるための方策と言ってよかった。


 まもなく、法王庁の鑑察課にも伝えられた。

 それは、スダリをマクダリオ殺害の容疑で逮捕したという知らせだった。

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