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第二章 瞳の奥の記憶 12

 捜査室長のシラウス・カッツは、片手のパンをかじった。


 警察本部の捜査室にある小さな休憩スペースだった。衝立で仕切られただけの簡易なものだが、ここに入ることすら何日ぶりだろう。


 店で買ったパンは、いつもは捜査室に戻る道すがらに食べ切っていた。今は、すっかり固くなっている。もともと昨日食べるはずだったものだ。自席に置きっぱなしにしていたものを、さすがに昼下がりに皆の前では憚られ、衝立に隠れて食べている。


 四十を超えて、短い黒髪に白い線が混じってきたが、引き締まった身体には、ちょっとした捕物なら先陣を切って片付けるだけの機動力は残っていた。だが、今の事件を扱ってからは、ほとんど外に出ることはなく、情報整理と打ち合わせの連続だった。


 食べていても、頭が事件から離れられることはない。だが、仕切られた場所でこうしていると、一から考えに耽る良い時間になった。


 昼に、鑑察官のロイがやって来て、スダリが避難経路を間違えたのではないことを聞かされた時は、衝撃を受けた。まさかこんなに簡単に動機が消えてしまうとは。


 押収物は調べ切ったと思っていたが、『付託』情動の結晶との関連には気付かなかった。通常、犯意には絡まない情動だからだ。


 じきに軍からスダリの身柄引き渡しの再要求があるだろう。彼らが実力行使をしてくるまで跳ねつけてやろうと思っていたが、犯意どころか動機の目処も立たなければ、勾留の維持すら難しくなる。こんなタイミングでスダリの供述が覆るのは、致命的と言っていい。


 いや、自供に頼った危うい立件であることは最初からわかっていたし、『付託』のことも自分たちが先に気づくべきだったのだ。


 もっと早く分かっていれば、ドレッドでの捜査も早く展開できたかも知れない。とにかく時間がなかった。何しろ、指示出しの伝令だけでも早馬で半日かかる。伝書鳩なら二時間くらいで着くが、そもそもドレッドに飛んでくれる鳩など常備していない。帝都に帰ってくる鳩をドレッドに持ち込んでおくくらいしかできなかった。


 太く角張った眉が、吊り上がった。


 カッツは、パンの一切れを丸呑みした。固い塊がゆっくり腹に落ちていく感覚を静かに追った。苛立ちを鎮めるカッツの儀式だった。


 オリナとの関係を掴んで動機を見つけたかった。だが、そもそもスダリの人となりが分からない。交友関係はないに等しく、夜警団でさえ交流が薄い。軍の同僚たちから情報が得られるわけもなかった。


 ひとまず、スダリの周辺人物の捜索を追加で指示した。特にスダリの話に出てきた人物から聞き込めば、殺害動機につながる情報を得やすいと思った。


 スダリの父親は病で、マクダリオは事故で、それぞれ既に死去していた。残るは、支配人、ハリ、パルファだ。もちろん帝都に来ている可能性もあるため、捜索の手を回した。


 一方で、スダリへの尋問は、新たに動機の確認を図っていたが、どうにもスダリの口が開かない。


「時間稼ぎでしょうか?」

 と捜査官の声も上がっていた。軍の動きから考えれば、引き渡しまで黙秘する作戦は考えられる。しかしカッツの目には、スダリは本当に動機がわからないのだと感じられた。


 むしろ、スダリは引き渡しなど望んでいないだろう。何しろ、扼殺したことは引き続き認めているのだから。こんな異常な被疑者は初めてだった。


 ――犯行現場で、いったい何があったんだ!


 カッツは、最後の一切れを丸呑みした。


 現場の状況はスダリの犯行と言ってよかった。それは間違いない。扼痕のある死体があり、侵入者はおらず、部屋に二人きりだった。他に犯人がいるというなら連れてこい!


 たとえ傷害罪でもいいから起訴してしまおうか。そう考えたことも何度もあった。しかし、裁判になってから重い罪状に変更するのは、条件が厳しく困難を伴う。


 公判中に被害者が死亡した場合なら、殺人未遂を殺人に変更することはある。だが、既に被害者が死亡している事件では、最初から殺人で起訴しておかなければ、どんなに捜査陣が被疑者の本音を掴んでいても、なかなか変更を認めてもらえない。


 スダリの記憶さえあれば、ほとんどが解決するのだ。


 被疑者が犯行時のことをしっかり覚えていないことは、よくあることだった。時間とともに記憶が薄れたり入れ替わることもあるし、記憶が無意識に覆い隠されてしまうこともある。その影響で、供述が変化することも珍しくなかった。一方で、犯行時の状況を被疑者と話している最中に、ふとその記憶が蘇ることもある。


 記憶があやふやなのは、犯行後の精神作用によるものだ。犯行時には、確かに犯意感情が流れている。現場に残された情動結晶は、その時の犯人の犯意を紛れもなく裏付ける痕跡なのだ。


 だからこそ、それが裁判でも重視される。解釈し得る範囲でどんな犯意を示せるかを、公判では強く問われることになる。被疑者の記憶が曖昧ならなおのことだった。


 今は、殺人につながる情動解釈の可能性がほんのわずかでもあるのなら、それを犯意の証としたかった。


「室長。戻りました」

 クレイが衝立から顔を覗かせた。スダリの取り調べを任せていた。この若い部下も力なく首を横に振った。


「何の鍵かも、動機も……」

 スダリは、呆れるほどあっさりと扼殺を認めていた。嘘の自供をしたことよりも、カッツはそれが気に入らなかった。


「スダリは、このヤマを早く終わらせようとしてる。何か隠しているはずだ。時間のかかるヤマになる」

 そう言いながら、立証を急いでいる自分も苛立たしかった。軍からの圧力さえなければ――


 何より、スダリが事件に向き合っていないことが、一番苛立たしかった。


「何を裁かれようとしてるんだ?」

 カッツは小さな声で吐き捨てた。「今のあいつに、裁判を受ける資格なんかねぇ」


 急に悪態を浴びたせいか、クレイは目を丸くしていた。

 カッツは、パンをすべて食べてしまったことに気づき、空の手を振った。


 不意に、捜査室のドアが乱暴に開いた音がして、騒々しくなった。


 衝立の向こうから、大声が聞こえた。

「室長、第二陣が帰ってきました!」


 そんなはずはない、とカッツは思った。少なくとも、明日の昼までは戻らない予定のはずだ。


 こういう時は決まっている。とてもいい知らせか、あるいは――


 カッツは、クレイを押し出すように、部屋に戻った。


 見ると、白いリネンのシャツに革の馬上着姿の捜査官が二名いた。早馬は二騎一組と決まっている。有事でもどちらかが伝令を果たすためだった。


 一人は立っているが、もう一人は床に膝をついて動かない。


「ご苦労だった。まず横になれ」

 私服警官たちは、床に崩れた者を両脇から支え、奥に運んでいった。長椅子に寝かせると、タイトな馬上着のボタンを緩めた。膝まであるブーツは、編み上がった紐を足首まで切断し、慎重に脱がしていく。


 立っていた大柄な一人が、カッツに近づいてきた。

「ドニー、ご苦労だった」

「鳩を飛ばそうかと思ったんですが。でも、でかい話だったんで」


 突然、絞り出すような呻き声が聞こえた。

 奥の長椅子で、脱がせようとしたブーツが、擦過して膿で固まった皮膚をめくりあげたようだった。早馬ではよくある怪我だった。跳ね上がる肩と脚を数人で押さえつけ、一人が慎重にブーツを引っ張る。長椅子の上で苦悶に喘ぐ顔が見えた。食いしばる歯から、ほとんど声にならない呻きが漏れていた。


 ドニーと呼ばれた捜査官は、手にしていた革の帽子を机に放り投げ、タスキに巻いた鞄のベルトを解いた。手綱を握り続けていた手は、革の手袋をしていたはずだが、赤く腫れ上がり、水膨れができていた。


 鞄から、不揃いな書類の束を出した。

「ドレッドの所轄資料の複写です。証拠書類は、原本を押さえました」

 私服警官たちが、ドニーの周りに集まってきた。その場で、報告会が始まった。


 しばらくの間、ドニーの声と、皆のざわめきが入り混じった。


「――それは、確かなのか?」


 カッツの緊張した硬い声に、ドニーは力強く頷いた。

 書類の中から、紙質の違う黄ばんだ一枚を抜き取った。


「はい。ドレッドでスダリが勤めていた運送組合に、当時の日雇い簿の書類が残っていました。このように虫食いはありますが、記録が確かであることは、組合の執務長が認めています」


 カッツは、ドニーの肩を掴み、心を込めて叩いた。


「よくやった。よく調べてくれた。とにかく休んでくれ」

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