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第二章 瞳の奥の記憶 11

 修法院二年生の終わりに、リドリーは術士課程から鑑察専攻の導士課程に進むため、情動採取の試験を受けていた。十六歳になったばかりの頃だった。


 試験会場は、実習棟の大きな部屋の中に造られた、部屋の一角の模造だった。模造には屋根もなく、まるで舞台演劇のハリボテのようだったが、実際の事件現場から壁床や絨毯など調度品を収集して組み上げたもので、犯行時の情動がそのまま残っていた。


 とはいえ、事件から数ヶ月は経過して、風化が進んだものが選ばれている。強い情動のままだと、未熟な術者には危険な精神負荷になることがあるからだ。


 試験といっても、知識より適性を見るためのものだった。採取場所も印を打って決められている。それに情動も特徴的で分かりやすいものだった。読み取れることをすべて書くよう指示されていた。


 院生は、一人ずつ舞台の情動を採取していく。リドリーも無事に採取を終え、別室で結晶化した。

 そして、解答用紙となる鑑定書を、その日のうちに提出した。


 そのリドリーの鑑定書が、まずかった。


 翌日、教官棟の指導室で、合否の通告が行われた。

 リドリーは名を呼ばれ、ひとり指導室に入った。窓からは明るい光が差し込んでいたが、部屋は広く、天井の光球が点灯していなかったので、薄暗く感じた。


 横に並べられた二台の机に、合否を告げる二名の試験官が、窓を背にして座っていた。一人は灰褐色のコートを着ており、講義で見たことがある男性の教官だった。もう一人の方は、面識がなかった。


 リドリーが机の前に立つと、灰褐色の試験官が、リドリーの鑑定書に目を落としながら言った。


「君の鑑定ね、結晶をここまで想像で書いてはいけないよ。脚色が多すぎる」

 と、ため息混じりに、「やれ、犯人は最初は逃げようとしたが、恐らく部屋から出られず、閉じ込められたと感じていた。やれ、当時は恐らく部屋の灯りが消えて暗く、犯人はしばらくの間、手探りで出口を探していた。やれ、その直後に被害者が部屋に入ってきて驚かれた。やれ――」


 リドリーは、法杖を両手で握りしめたまま、じっと俯いてその声を聞いた。聞いているうちに、すっかり気を落としてしまった。途中から、何を指摘されているのかも分からなくなる。何がいけなかったのか理解ができなかった。


 試験官は、続けた。

「情動はね、先入観があっては正しく解釈できないんだ。残念だが、今回は失――」


「追試だ」


 隣に座っていた試験官が、宣告を遮った。たった一声の響きで部屋中の空気が震え、リドリーは鼓膜と肌がしびれた気がした。


 すこし癖のある暗い赤髪が肩まで伸びた、年配の女性だった。背筋はまっすぐ通り、その凛とした佇まいを、薄緑の法術衣で包んでいる。乱れた前髪から覗く鋭い眼差しは、リドリーではなくじっと正面を睨んでいた。


 リドリーは、この試験官の機嫌も損ねてしまったのかと思った。


 法術衣の試験官は、灰褐色の試験官に小さく「失礼」とことわって、彼の手からリドリーの鑑定書を取った。それを指の間に挟んだまま、リドリーの顔に向けて突き返した。


 目が合った。射るような視線で、一瞬リドリーは恐れを感じた。だがその鋭い視線は、何故か戸惑いで揺れているようにも見えた。深い藍色の瞳だった。リドリーは、息を呑んで見つめ返した。


 そしてその試験官は、よく響くアルトの声で言った。だがリドリーには、まるで内緒話のように聞こえた。


「おまえ……どこまで見えている」


 リドリーはどきりとした。私が試験会場で見たものが、ひょっとしてこの人には分かるのか――


 リドリーが「先生は」と声をかけ始めた瞬間、法術衣の試験官は、リドリーに鑑定書を突き付けたまま、


「採取した情動結晶のみについて書け。明日の講義が始まる前に教官室に来て、私に提出しろ」


 と、言い渡した。ゆっくりとした口調で、決して大きな声ではなかったが、異論を許さない厚い響きがあった。


 灰褐色の試験官は、少し当惑したような表情を見せていたが、

「サリアス先生が、そう仰るのなら」

 小さく頷いて、「では、そのように」

 と、リドリーを促した。


 ぼおっとしたまま部屋を出て、講義棟につながる渡り廊下を歩いていると、

「リドリー・レノウェンス」

 と呼び止められた。振り返ると、教官棟から出てくるサリアスが見えた。交互に素早く繰り出される長い脚で、大股に歩いて来る。


 法術衣が胸元から後ろにはためくほどの速さで、あっという間にリドリーの目の前に迫ってきた。


 背が高い。深い藍色の瞳を、リドリーは仰ぎ見た。部屋で見たよりも穏やかな表情に感じた。


 はいと返事をする間もなかった。


「明日、朝一番の講義は何だ?」

 いきなり、そう聞かれた。歩く速さとは裏腹に、落ち着いた口調だったが、リドリーは気圧されそうになった。


「『広域法印術式の例外』の二回目、平面文法の並列について、です」

「わかった。それは出なくていい。後日、私が実地で補講する。明日、解答を提出後、私の仕事に付き合ってもらいたい。杖と術衣も持って来るように」


 リドリーの返事も待たず、今度はゆっくりと踵を返した。

 ふと止まって、思い出したように首だけ少し振り向けて、


「それから今後、()えたことは、鑑定書に書くな」

 と背中越しに言って、歩き出した。「私に伝えろ」


 それが、プラム・サリアスとの出会いで、また最初の教えでもあった。


 翌朝には、そこがどこかも分からない住宅街の路地に連れて行かれた。ちらほらと、法術衣姿の鑑察官たちの人影があった。


 場違いな気持ちで不安になっていると、うちの一人がサリアスに尋ねた。

「その子は?」

「私の弟子だ。現場の捜査を見せる」

 と答えていた。そこが傷害事件の現場だということと、自分が弟子になっていたことを、その時に初めて知った。


 後でサリアスから教わったことだったが、その頃のリドリーの情動感知は、範囲を絞り込まず、辺りの情動が無作為に見えてしまう状態だった。


 試験会場では、印がつけられた指定の場所から情動結晶を採取した。だが、情動感知で見えていた景色には、周辺の残存情動が入り混じっていたのだ。


 以降リドリーは、頻繁に院の講義を欠席して、サリアスの助手を務めた。あちこちの古い事件現場に連れて行かれて修行を積むことになった。まず、情動感知の精度を高める訓練として、採取場所の感知と情動世界の感知の使い分けを叩き込まれた。その訓練のほとんどが院の単元にはないものだった。


 修行の日の夜や休日は、院の補講をサリアスから受けた。


 導士課程を修了し、今の配属になってからも、リドリーはサリアスから教えを受け続けた。

 やがてサリアスは退官し、今に至っている。


 リドリーは、あらましを話し終えた。


 半ば呆然としたような表情で聞いていたエリスは、

「……誘拐ですね、それは」

 リドリーは吹き出した。笑いながら、

「うん。さらわれてるね」

「先輩の話には、どうしても事件性が出るんですね」

 しかし、エリスは嬉しそうに笑った。

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