第二章 瞳の奥の記憶 06
まだ、ベッドが残っていた。
もちろん、灰や煤で覆われていたし、あるべき天蓋は骨組みだけで、布は焼け落ちている。それでも天井が半分残っているためか、部屋には、まだ住処としての表情があった。
リドリーは、玄関からホールを抜け、壁のなくなった廊下を左に曲がり、今は壁ごと開け放たれている寝室の前に立っていた。
同じ気持ちになれるわけではないが、供述通りの経路を辿り、その光景を思い描いた。
目を閉じて、そこにあったはずの扉を眺めた。
スダリは、ここを開けてオリナと再会したのだ。
寝室は少し古い造りで、居間を兼ねた構造だった。ちょっとした広間ほどの大きさで、暖炉や建て付けの書棚があり、精緻な装飾の鏡台も残っている。エリスが情動採取をした時は、大きなシャンデリアも下がっていたが、今は夜警団が撤去していた。
追加の崩落を防ぐため、ロイが壁や半壊の天井を術で固定してくれていた。
エリスは寝室の傍に立ち、リドリーの様子を伺っているようだった。
術者を観察することは、技術の練度を磨くのに役立つ。法印の法術文字の配列からだけでも、その術者の工夫がわかることがあるからだ。
リドリーは、法杖を抱きしめているエリスから、場違いなくらいの熱い視線を感じた。事件現場のくすんだ空気が一転して明るくなったように思えて、ついクスッと笑ってしまった。なぜかエリスは手を振った。
大理石を敷いたテーブルとベッドの間に立ち、目を閉じた。
「安らかに」
法印がリドリーの足元に現れた。
リドリーの法印が同心円から螺旋に変わるや否や、膨大な量の法術文字が溢れ出た。流れを追うだけでも大変な速度である。
リドリーは、法印の中に意識を降ろしていった。
足に地を感じて、目を開ける。
何もない薄明の空が、遠く地平まで続いていた。視界がいい。ここにも鮮やかな情動が残っているはずだ。
柔らかな風が吹いていた。リドリーは、何の起伏もない暗い地面を、風上に向かって歩き始めた。
周囲の地平に霞がかかり、いつの間にか薄青く輝く高い壁が遠くに現れた。青と黄緑の色彩が、互いに滲みながら、しかし混ざり切らずに揺らめいている。リドリーは、部屋の窓から見える森の景色を連想した。オリナの記憶か心象の風景と思われた。
空は、黒い雲が低く垂れ込め、リドリーの後方へ流れていた。
ふと、足を止めた。何かが聞こえた気がした。
――子どもの声?
リドリーは一瞬、自分の記憶が漏れたのかと思った。だが情動からの干渉は、まだないはずだ。注意深く風上を見た。
遠く、笑い声とも話し声ともつかない音が、近づいて来た。
フワリ、とその白い人影は現れた。だが人と言うには異形で、両腕にあたる部位は地面まで届いており、身体は白くぼんやり輝き、紙のように風になびいていた。
子どもらしき声が消えた。
四肢が、地から切り離された。風で宙に巻き上がる。
すると、紙は黄色の火に包まれ、周囲を強く照らした。火はすぐに消え、握りこぶし程の大きさの黄色い光の球が、リドリーの目の前に残された。
リドリーは、輪郭の定まらない光球に近づいた。
その色彩は『邂逅』情動だった。角度を変えると、赤くぼやけた筋が、黄色の表面に漂って見えた。淡い光の球はプカリと浮かんだまま、風に流れていた。そして、リドリーを避けて迂回し、ゆっくり通り過ぎようとする。
「少し、調べるからね」
リドリーは呟いて、法杖の石突きを光球に向け、そっと触れた。
すると光球は、一休みでもするかように石突きにくっついて、また離れていった。
情動の個体識別に使う特徴が採取できた。サリアスが情動の『紋』と名付けていたものだった。
実物の法杖にその情報が残るわけではないが、この特徴をもとに、情動の持ち主を同定できる。
紋は、リドリーには、ぼんやりとした形が手触りとして感じられた。丸くて硬く、スベスベしている。河辺の石を思わせた。その一方で、時折、感情を駆り立てる脈動のような「弾み」を持っていた。
突然、周囲を黄色の強い光が照らした。リドリーは思わず目を細めた。
見ると、前方にまた一つ、光球が浮かんでいた。
――また、二体目?
今度は音は聞こえてこなかった。前触れのない『邂逅』だった。
思いがけず誰かに出会い、期待を伴う驚きを発した時に出現する『邂逅』の情動は、同じ相手に続けて二度出てこない。当時の現場には、オリナとスダリの二人だけだったはずだ。つまり、互いに対する『邂逅』情動が発現していたことになる。
かつて知り合いだった二人は、ここにいることを互いに知らなかった――
二つ目の光球からも『紋』を確認した。一つ目とは異なり、少し扁平な「大人しい」紋だった。
リドリーは、風に流れる二つの光球を、後方に見送った。
やがて、景色は薄明の空に戻っていった。
「女神の庇護に、憩い給え」
風下の光に、リドリーは祈った。




