第二章 瞳の奥の記憶 04
リドリーが執務室に戻って来たのは、正午になる頃だった。
ロイとエリスを加えた三人は、法王庁近くの食堂で昼食をとった後、幌馬車で火災現場に向かっていた。
「オリナに、意識があった……」
ロイは、スダリの記憶の話を聞いて、呟いた。
「うん。少なくとも扼殺行為に入る直前までは」
どんどん難しい方に展開してしまう、とロイは考え込んだ。扼殺行為は完遂していなくとも、扼痕が付くほどには首を絞められている。にも関わらず、何の生存情動もでないこと自体が、そうあることではなかった。
いわゆる生存情動は、恐怖や絶望、後悔、未練など多くの感情が、抗う、戦う、回避するなどの、これも多くの行動欲求に繋がり、実に多様な情動となる。だが現場には、そのどのような形跡も残っていなかった。
リドリーも怪訝そうに、
「スダリとオリナには、よほど強い繋がりがあったんだと思う。ちょっと想像できないけど」
「一方で、『邂逅』情動の件に触れようとしなかったところを見ると、スダリは二人の関係を隠そうとしているわけだね」
リドリーは頷いた。
これは少々厄介だ、とロイは思った。情動の順番を証明するには、書斎でどんな会話があったのかを辿ることが一番なのだが、果たしてスダリは、オリナとの会話を素直に話してくれるのかどうか。
「それに、記憶を思い起こそうとしているスダリの態度は、演技には見えなかったんだ。殺人罪を背負う覚悟をしてる一方で、失った記憶は取り戻したいと思っているみたいだった」
リドリーの話に、ロイは内心で天を仰いだ。そもそも、そのスダリの記憶が戻らなければ、書斎でのオリナとの会話は充分に再現できないのだ。何か、きっかけになる手がかりがあるといいが――
「今日、ドレッドでの捜査情報が、警察に入るそうだよ。それでどこまで供述を引き出せるかだね」
「ちゃんと情報を集めてるのかな」
と、エリスが面白くなさそうに言った。「先輩に無理ばっかり押し付けて。今朝だって、クレイさんは先輩に注文をつけるつもりだったんでしょ?」
リドリーが、なだめるような口調で、
「捜査室が焦る気持ちもわかるよ。クレイは、事態をなんとかしたくて、自分から損な役回りをしてるだけだよ」
「本意じゃないことは知ってますけど……。いいように捜査室に指示されてるだけなんだろうし」
エリスは容赦がない。いずれにしても損な役回りだ、とロイはクレイのふてくされた顔を思い浮かべた。
「彼らは情報を無駄にしたりしない。安心して待とう」
と言って、ロイはリドリーに目を向けた。「たぶん持久戦になるね。焦らずに進めよう」
「そうだね」
リドリーが穏やかに微笑んで頷いた。
ロイは、その様子を見て安堵した。リドリーの笑みの中に、かつて見た表情が含まれていないかを、いつしかロイは探すようになっていた。
ロイの脳裏に、リドリーが執務室に『修行』から帰ってきた時のことが、ふと思い出された。
今から三年前、ロイが地方から本庁に異動して来てから半年ほど経った頃だった。
当時、巷を騒がせた猟奇殺人があった。懸命の捜査の末、被疑者は逮捕され、事件はおおむね一段落を迎えていた。
その日、前夜に警察からの待機要請があり、ロイが鑑察課に出勤していた。非番の予定だったが、他の多くの鑑察官が多忙明けで休みにしており、手配できる者がおらず、ロイが待機勤務となった。
昼下がりになって、突然、執務室のドアが開いた。前かがみの姿勢でゆっくり部屋に入ってくる人影があった。非番のはずのリドリーだった。いつもは更衣室に置いてくるはずの法杖と法術衣姿のままである。
リドリーは、すぐにロイに気が付いたようで、背筋をすっと伸ばした。笑みを浮かべ、
「みんな休みじゃなかったの?」
「リドリーはどうし……」
言い終わる前に、ロイはリドリーの異変に気づき、駆け寄った。リドリーの身体がその場に脚から崩れ落ちた。
床に倒れたリドリーの顔は蒼白だった。ロイは、額と頬と首に手を当てて熱と脈を測った。火照っていたが、手を握ると冷たい。強い法術酔いと思われた。リドリーの法術衣を脱がせ、起きあがろうとするリドリーを抱き上げて、ソファに寝かせた。
「ここで休んで」
自分の法杖を取りに行き、リドリーの身体から相当量の鬱滞した術力を抜いた。
「事件でもあったのかい?」
「……差し詰め、『修行』かな」
リドリーは、身体を起こそうとソファに手をついた。ロイが留めようとしたが、
「大丈夫だから」
と、リドリーはそれを制した。張り詰めた弦のような力だった。強いて起き上がり、ソファに座った。
「だらしないとこ見られちゃったな……」
と、苦笑いした。まだ顔色は悪い。
「じっとしていて」
ロイは、杖頭の装飾部をリドリーの頭上近くに掲げ、疲労を癒す術を使った。掛かった。だが、どうしたことか、術の手応えは間もなく頭打ちになった。
体調を戻せない。ロイは焦った。リドリーの疲労の領域に、どうしても術が届かなかったのだ。
少なくとも昨日今日の不調ではなさそうだった。鑑察課内全員が、多くの案件を抱えながら、猟奇殺人の捜査に振り回されていて、全く気づかなかった。
「ありがとう。とっても楽になった。こんな難しい術を持っているんだね。驚いた」
リドリーは、遠慮がちな笑みを浮かべていた。
ロイは、ちょうど休憩をするつもりだったからと言って、二人分のお茶を入れた。甘みのある薬草茶にして、ゆっくり少しずつ飲むよう勧めた。
そうして時間をかけて話をすると、リドリーは猟奇殺人の現場を回って、情動感知をしていたという。
「猟奇殺人の証拠だったら、もう充分に取れているだろう?」
だが、リドリーは首を振った。
「その事件のためじゃないんだ」
と居心地が悪そうに、「迷惑をかけておいて、話さないわけにはいかないね……」
情動感知で、サリアスに教えを受けていたという。
当時まだ退官前だったサリアスは、ロイにとっても大先輩である。異動当初から多くの事件で協力していたし、捜査の手管を色々と教わってきた。法王庁でベテラン鑑察官として第一線にいた人だった。
リドリーは、修法院の院生の頃からサリアスに鍛えられていた。ずっと現場に連れられていたからだろう、その話は鑑察課では知らない者はおらず、異動して来て着任早々にロイの耳にも届いていた。
その鍛錬のおかげなのか、リドリーは配属三年目ながら、既に中堅並みの仕事ぶりと存在感だった。一人でふらりと出掛けることが多く、帰ってきたら事件を解決していた、ということも日常だ。それは皆も不思議に思うほどで、サリアスが二人いると表現した者もいた。
「情動の特徴を観察して、しっかり捜査の手がかりを見つけるための鍛錬だから」
その日、ロイは初めてリドリーの特殊な情動感知の能力を知った。サリアスが同類の能力を持っていることは、サリアス本人から直接聞いていたが、リドリーまでとは思っていなかった。
その能力ゆえの単独行動だったのか、とロイは思った。
リドリーは温かい薬湯を一口飲んで、独り言のように、
「だけど、このところ、見たことを証明できてなくて」
そのため、今日の『修行』をサリアスに申し入れたという。
声色は明るかったが、リドリーの微笑みに力はなかった。透き通った茶色い瞳の輝きが、まつ毛の影に沈んだ。
そして、もう無理はしないからと言い残すと、改めてロイに礼を告げ、帰宅の途についた。
ロイは、その時の瞳の翳りを、記憶の中で見つめた。
幌馬車が、止まった。
馭者台から、現場到着を知らせる声が聞こえた。




