第一章 彩りを読む人 10
薄暗がりの中で、リドリーは目を開けた。
そこは、夜明け前の空が明るくなり始めたような空間だった。空には雲はなく、しかし、まだ見えるはずの月も星もなかった。ただ薄明の空が、遠く地平までひろがっている。かすみ一つ見当たらない。
情動が新しい現場では、こうした視界のいい空間になる。
地面は、暗い。土のような感触だが、どこまでも平坦で、遠く何の起伏も見られない。
リドリーは、ぐるりと辺りを見渡した。逃げ込むところも、隠れるところも、何もなかった。
風が、穏やかにリドリーの前方から吹いていた。これは時間の流れだとサリアスから教わっていた。常に風上に気を配るようにと何度も指導を受けた。
――情動は、風上からやってくる
法杖が、その円い杖頭から柔らかく明るい法印の光を放っていた。リドリーは、左手の法杖を後ろで横持ちし、ゆっくりと風上に向かって歩き出した。
周囲の地平に、変化があった。
リドリーから遠く離れたところで、色彩のある高い壁が、揺らめきながら姿を現し始めた。赤や黄の暗いまだらな色彩が、次第に明るくなっていく。まるで、境目がぼやけて揺らぐステンドグラスの向こうで、赤や黄の光と闇とが激しく混ざり合おうとしているようだった。
気づけば、赤黒い雲が低く垂れ込め、前方から背後に流れている。
オリナとスダリの二人が見ていた火災の光景が、心象風景として混ざり合ったものだろう、とリドリーは思った。
断続的に、炉の蓋を開けたような熱さが、空間に満ちた。リドリーの身体は焼かれないが、体感は熱に襲われる。リドリーは軽く法杖を振り、透明な球形の水膜で身体を覆って熱から守った。
その時、パンッと高い破裂音が響いた。瞬間、紫色の光の筋が空を前後に走る。犯行現場には珍しい『付託』情動の色彩だった。
犯行の情動は近い、と思った時だった。
じゅるり、と液体が気泡を吐き出すような音がした。見上げると、リドリーの前方で、赤黒い雲を背景に、半透明の塊が上空から落下してきた。べちゃりと地にはじけて飛び散った破片は、もとの落下点に集まり、大きなひとかたまりのゾル状の物体になった。灰緑色の淡い光を放っていた。
落下途中で空中分解したのか、さらに大小の塊が落ちてきては融合し、物体はリドリーの背丈ほどの高さになった。太い釣鐘の形で、中央部が最も色が濃い。体表は透明に近く、いくつもの小さな突起がリドリーの方へ向いているのがわかった。
リドリーは、慎重に距離をとった。
――灰緑色。『失誤の隠匿』情動
先にこれが出現した。つまりこの後に『辛苦からの解放』情動が出てくることになる。
扼殺は完遂不能だ、とリドリーは思った。
犯行現場の情動は、産み落とされた当時の性質を持ったまま残存し続け、その場にいるリドリーの情動に反応する。
――『共感』はするな。『観察』だ
サリアスに教え込まれた言葉が蘇る。
釣鐘のゾルは、灰緑色に淡く光りながら、リドリーに向かって地を這った。じわじわと接近してくる。体表の突起が、間合いをはかるようにそれぞれが伸縮していた。リドリーは左手の法杖を握りなおし、わずかに腰を落として身構えた。
釣鐘の前進が、ぴたりと止まった。
釣鐘の突起が触手となって飛んでくるのと、リドリーが右手を振り上げるのと、同時だった。
リドリーの足元から、青い光の壁が高く立ち上がり、半透明の触手を跳ね上げた。リドリーはすかさず左足を前に踏み込み、左手の法杖を身体の前に立てて、弓を引く構えになった。法杖から弦を絞るように右肘を引くと、法杖を直径とした法印が浮かぶ。
青い光の壁が消えた直後、白く輝く五本の矢が、法印から水平に出現した。
引き絞っていた右手の指が開く。
ゾルに向かって矢が一斉に放たれた。
矢は、釣鐘の裾に沿って次々に突き刺さり、ゾルを地面に固定した。
リドリーは間合いを詰め、法杖の石突をゾルに差し込もうとした。
じゅるっ、と空からの音を聞いて、リドリーは慌てて後ろに飛び退いた。バランスを崩し、地面に倒れた。
――二体目⁉︎
べちゃり、と灰緑色のゾルが、リドリーがいた場所に落ちて飛び散った。リドリーを一飲みにできるほどの大きさだった。破片は互いを吸い寄せるように地を這い、大きな釣鐘状に盛り上がっていく。一回り大きく感じた。体表の突起が、もう伸び始めていた。
リドリーは後ろに倒れ込んだ姿勢で、右手を前に突き出した。その腕に重い衝撃があった。手のひらに法印を宿した円形の盾が、飛んでくる触手を辛うじて受け止めていた。だが、今度は前に引き寄せられた。盾はそのまま触手に引っ張られ、リドリーの手元からもぎ取られていった。
新しいゾルは、白い煙をあげて盾を釣鐘の中に取り込みながら、体表の突起の動きをぴたりと止めた。
直後、複数の触手が飛んできた。リドリーが右手を勢いよく真上に振り上げると、地面から青い光の壁が立ち上がる。
ガラスが砕けたような音がした。四本の触手が、壁に突き刺さったのだ。
うちの一本が、壁の内側まで突き抜けていた。触手の先端は、人の唇の形になった。リドリーを向いて、
「先輩!」
リドリーは急いで立ち上がり、間をとった。
――記憶を読まれた! あんな距離で⁉︎
法杖を高く掲げると、リドリーの正面に法印が生まれた。中央から銀色の槍が現れて、ゾルをめがけて勢いよく放たれた。
槍は、釣鐘の中央を捉え、いびつな形で地に串刺した。
二つのゾルは、そのまま地面に急速に吸い込まれていった。
リドリーは呼吸を整えた。『失誤の隠匿』情動が、間を開けて二つ出現した。自己の失態を刺激された瞬間が、二度あったことになる。
スダリとオリナの間で、いくつかの会話があったと考えるのが自然だった。つまりこの時点では、少なくともオリナには意識があったのだ。
ゾルが地に消えると、リドリーの前方の地面に、ズンッと重い音をさせて、人の頭ほどの大きさの岩石のような塊が落ちた。水色に輝いている。見上げると、赤黒い雲を突き破って、水色の塊が大量に降り注いでくるのが見えた。
リドリーは、頭上で右の手のひらを杖頭に重ね、高く突き上げた。すると、リドリーの視線の方角にその先端を向けて、大きく長い円錐形の輪郭をした光が、白く淡い輝きを放って浮かび上がった。
水色の塊は、一つひとつがゴツゴツとした形状で、円錐形の光の障壁に次々と激突した。その度に、金属のような衝突音が響く。その重い衝撃はリドリーの膝にまで伝わってきた。岩石は次々に弾かれながら、いくつもの水色に光る軌跡を残していった。リドリーは術圧を保ちながら、円錐の内側からその光を観察した。『辛苦からの解放』情動の色彩だった。
ひとしきり衝撃に耐えた後、激しい音と振動が止まった。しかし間もなく、パンッと高い破裂音が聞こえた。紫色の光の線が空を走る。
――『付託』? また、ここで?
見上げていたのが幸いだったと言えるだろう。同じ方向から、水色の輝きが広がって飛来するのを目視できた。おびただしい物量で、空が水色に染まっていた。
リドリーは術に集中し、円錐の障壁に術圧をありったけ詰め込んだ。円錐は内側から軋みを上げ、表面は白く輝き、蒸気のような術力が立ち昇った。
嵐のような衝撃が始まった。水色の塊は、もはや隕石のような勢いであたり一帯に降り注ぎ、ガラスが破砕するような音や、金属同士の衝突音が響く。足元には地鳴りのような振動が渦巻き、リドリーの身体を激しく揺らした。
塊がぶつかるたびに円錐の表面に白い閃光がほとばしり、障壁は削られ、砕き取られていった。空いっぱいに、水色と白色の光の破片が星屑のように撒き散らされた。
衝突の振動と重圧で、リドリーは腕と膝が折れそうになった。リドリーは踏ん張って、ひたすら術圧をつぎ込んで障壁を支えた。
いくつかの塊が、障壁に突き刺さっていた。リドリーの頭のすぐそばでも、ガラスが砕けるような甲高い音が響いた。思わず頭を伏せた。
ジュウッと聞きなれない音がした。衝撃を受け止めた壁が、術圧で水色の塊を締め付けていたが、その接触面が焼けただれ、溶けた鉄のような色になっていた。
「……熱い!」
次々に障壁に弾ける水色の光は、ほとばしる水飛沫のようだったが、溶岩のような熱気が、障壁越しにリドリーの神経を焼いた。
水色に輝いていた空が、にわかに暗くなった。
衝撃は、なくなった。
リドリーは肩で息をして、法杖で身体を支えた。ひびだらけの円錐の障壁は、淡い輝きを放ちながら砂のように崩れ落ち、空中で消滅した。
赤黒い雲は厚みを失い、薄明の空が見えた。
いつの間にか、地平のある風景が広がっていた。
「……女神の庇護に、憩い給え」
風を、汗に濡れた頬に感じた。




