序章
部屋が、燃えていた。
四方の壁からは、白い煙が染み出してくるように立ち上り、一部はまだらな褐色に侵食されていた。天井は一角が焼け落ち、剥き出しになった梁から、赤い炎が生き物のように吹き出している。
壁にかけられた、大きな羊皮紙製の地図が、上部から火がつき、徐々に燃え広がってきた。壁の腰板は熱で反り返って変形し、すでに何枚も剥がれ落ちている。
小さな暖炉の傍には、重厚な執筆机があった。壁から溢れ出た炎で真鍮製のペン立てが炙られ、羽のペンは燃え尽き、封蝋は溶けて皿から流れ出していた。美しく彫刻された引き出しが、一つ開いている。
部屋が、赤い。
スダリは、いま見ている景色が何か、考え始めた。
突然、左肩を掴まれ、強く揺さぶられた。
「しっかりしろ!」
耳を、怒鳴り声で殴られた。
スダリは、自分の身体の感覚に気がついた。どうやら、脚と腰を床に落としている。上半身は起きていたが、両腕も床まで重く垂れ下がっていた。
炎で、顔が熱い。
煙で、目が痛い。
全身は、水浸しだった。
すぐ目の前に、女が倒れていた。すみれ色のドレスのような部屋着で、床に仰向けだった。スダリの右側に足が向けられ、左側に頭。目を閉じていた。
――死んでいる
スダリは、そう思った。
先ほど怒鳴ってきた男が、
「要救助者、一名!」
と、号令のように言った。素早く、懐から赤色のハンカチのような布を出した。機敏に動くたび、水飛沫が飛ぶ。男もまた、全身に水を浴びていた。兵卒の軍服に似ているが、帽子ではなくフード付きの短く厚いコートを羽織り、腰をベルトで締めた簡素な服装だった。
赤いハンカチが、倒れている女の口元に当てられた。だが男は表情を雲らせて、
「……だめだ。空気を集められない!」
スダリは、そのハンカチが、患者の口にきれいな空気を送り込む法具だと気づいた。法術が仕込まれた『浄息巾』と呼ばれる救助道具だ。同じものが男の首にも巻かれていた。実地でも救助訓練でも、何度も使っている。浄化が追いつかない空気では、作動しない。
男は、女の口に浄息巾を当てるのをやめ、素早く懐に戻した。
絶え間なく、バチン、バチンと木の爆ぜる音が大きく響く。
炎で明るいはずの部屋が、煙で暗く覆われ始めてきた。
「もう、どの水の法術も効かない! じきに二階が落ちてくるぞ!」
男の声に悲痛が混じっていた。
スダリは、また肩を揺すられた。
「しっかりするんだ! とにかく搬出する!」
男は、両腕で女の肩と脚を抱き上げ、「退避!」
その号令に、スダリの脚が動き出した。革のブーツが床を捉えた。低い姿勢で立ち上がる。緩慢だが訓練通りの身体の反応だった。スダリは、ただその流れのままに動いた。
その視界の端で、足元に浄息巾が落ちているのに気づいた。自分が懐に持っていたものだと思うより早く、反射的に拾い上げた。自分がいつ懐から取り出していたのか、覚えていなかった。
たとえ呼吸がなくとも、鼓動がなくとも、我々はその場所から人を救出し、あらん限りの蘇生術を施す。諦めてはならぬ。そういう訓練を受けてきた。
スダリの目が、抱き上げられた女の姿を映した。
――死んで、いる……?
女は、部屋の外へ運ばれていく。
――私は、どうして……
まだ定まらぬ意識で、考えた。
――この女性が亡くなっていることを、どうして知っているのか……




