画家と宇宙人
俺は一人いつか来た公園のベンチに一人で座っている。絵の資料が欲しかったのだ。宇宙人があの部屋から居なくなって、二年が過ぎた。分厚いコートもそろそろ必要になってくるような厳しい寒さの中、元気に遊ぶ半袖の子供達を見ていた。人を描くのはサヨさんがどの画家より上手い。人間の骨格を常に想像しながら絵を描かなくてはいけないのだとサヨさんはよく言った。
そんな当たり前のことではサヨさんには決して追い付けない。しかし他に何も思いつかなかったから、とにかく人間を見に来た。動く少年達を見ているとその人体が如何に自由に働いているのかがわかる。だから絵が上手くなったなんて事ないのだけれど、それでもただ愚直にぼおっと眺めている。
突然、スマートフォンがけたたましく鳴って、現実に引き戻される。
「麟太郎、今何してるんだ」
「公園でぼーっとしてますよ」
「まぁいい、サヨ先生がまたどっかに消えた。早く探せ」
「あの人、追っかけられるの嫌いじゃないですか」
「追ってんのは俺じゃなくて締切だっての。つーか追い抜かされてんの、俺らが追わなきゃいけないの。とにかく居ないんだな、弟子なら師匠の場所くらい把握しとけ、荷物持ちしとけ」
電話はプツリと消えて、余韻が頭に響く。本当に騒がしい人だ。サヨさんは有名な画家になって、俺は画家の卵としてサヨさんの傍に居る。サヨさんが俺に求めていたのは卵ではなく男としての部分に留まって、俺はそれについて快も不快も特に無かった。
あの部屋は誰も住まなくなった今もあのままだった。それからあの人の事を追おうとは思わなかった。どこにでも居る彼女をわざわざ追うには遠すぎるのだ。結局流されて流されて流れ着いた場所に居着く。俺はサヨさんの隣に居着いてしまったのかも知れない。窮屈と言うには満足で丁度いい場所なのだ。
冷たい風が一気に俺の身体の熱を盗んで逃げていった。立ち上がって、今落ちようとする枝に着いた枯葉に目をやる。年がまたひとつ終わって、来年はもう三年。未練がましく思うには関わる歳月が短過ぎた。
また電話がかかってくる。今度はサヨさんからだ。
「リンタ、お話あるからちょっと車出して来てよ。事務所の方ね」
「突然ですね。安田さんが探してましたよ。『締切を追う側だ』って」
「やばいね。わかった後で連絡しておく」
電話を切った後で吾郎との会話を思い出す。あの店にはしばらく顔を出していない。何だか少し寂しくなってきた。
公園からの帰り道、在るべくして石はある。例えばこの中に、傷付いた鳥とか狐とかそういうのが居るのならどれだけ俺の心は救われるだろうか。俺はこの世界に居るべき理由を得た。しかしそれは同時に、居なくても構わないところに存在の価値を依存してしまったようにも感じる。赤いレンガと黒い屋根が特徴的な一軒家を見つける。その前に立って見上げてみれば威圧的なその風貌に気圧される。ガレージを開けて丸っこいミント色の車に乗り込んだ。
車内もなんだかミントの匂いがする。歯磨き粉みたいで良い香りだけど、食べ物の匂いではないと再確認した。清涼感の魅力とは結局嫌なことを痛快に忘れさせてくれるところにある。俺は可愛い車に見合わない曲を掛けたくなった。Bluetoothを付け、Metallicaの「master of puppets」を流し鼻歌で共鳴する。
車が事務所の前に着くと、わざわざサヨさんが道に立っていた。後ろの席に座って少し落ち着いたのをバックミラー越しに確認する。
「早かったね。ありがと」
「いえ、何かあったんですか」
「あったよ。リンタにね」
車を出して、取り敢えず家に向かう。道路は若干混んでいてやはり在るべくしてあるもの達だと実感する。
「なんですか、聞きたいな」
「どうしようかな、吾郎くんのお店いこ」
「車で来ちゃったし飲めないですよ」
「また車置かせてもらお」
安田さんに怒られるな、なんて思いながら右に曲がるべき道を真っ直ぐ進んだ。計画性はやはりない。しかしそういうのには随分慣れてしまった。サヨさんは大きなカバンからオレンジ色と黒色のノートを取り出して、それから鉛筆と消しゴムを次々広げる。
「消しカス落とさないでくださいね」
「無理無理」
サヨさんは軽く笑うが、それでも全く止まる気配がない。憎めない可愛げのある狡い人。絵を描くことが生活の基本にあって、それ以外の時間で俺を使う。さっきまで勝手に事務所と呼んでいる二つ目のアトリエで絵を描いて、こうやって移動しながらも別の絵も描いている。
例えばあの人を宇宙人としたのなら、きっとこのサヨさんも俺にとっては宇宙人なんだ。地球人なんか実は何処にもいないのではないか。道を往く車の中にはそれぞれ必ず人が居て、人それぞれに目的があってどこかへと向かっている。俺はこれだけ人が居て、全く誰一人その素性を知らない。きっと、皆宇宙人なんだ。俺以外の皆が宇宙人なんだと思った時、その逆様が彼女だとやっと分かった。
いつも静かな車内にはなんだか少しいつもと違う緊張感が漂っている。俺だけがそれに気が付いて居るのだろう。いつもと違うのは俺だけなのだから。
鉛筆の走る音が車内で唯一楽しそうにリズムをとっている。長い長い道を短い時間で駆けていく。暖房の風が顔にかかって、煩わしい。
「絵本書いてみない」
サヨさんが絵を描きながら呟いた。一瞬独り言なのではないかとすら思うほど、寂しそうに呟いた。
「合いますかね」
「ピッタリだよ」
嬉しい話だ。しかしどうもサヨさんの声色が気になる。嬉しい話でもないのかもしれないと言うな気分にさせられる。
「どうかしたんですか」
「売れてもさ」
車が段差に乗り上げて身体が一瞬宙に浮く。驚いて二人で声を上げてしまった。そんな様子が張り詰めた空気と対照的で、滑稽で、ミラー越しに顔を見合って笑った。
「それで、どうしたんですか」
「いや、可愛い絵ばっかり描いてるからなーって」
「悪いんですか」
「悪いよ、悪い人」
店の裏にある車庫に車を入れて、あのネオンの看板の横を通り過ぎる。暗い店内では吾郎が嫌そうな顔でこちらを観ている。
「また車置いてくんだな」
「わりーな、よろしく」
「よろしく」
サヨさんはワザと声を高くしてぶりっ子のこだまをした。吾郎は呆れてちゃんと帰ってもらうからなと溜息を吐いた。
カウンターから離れた、より暗い席に着く。揺れるライトをいつもより遠くに感じて、まるで映画のワンシーンを見ているような気持ちになった。テーブル席なのに、サヨさんはわざわざ俺の隣に座る。腕に寄りかかって甘え始めるので仕方なく頭を撫でた。
「絵本のね、中身は有名な人にお任せするの。だからリンタはその人の指示通りそれっぽい絵を描けばいいだけ」
「俺じゃなくても良いっすね」
「誰じゃなくても良いのよ、リンタがチャンスを得たの。要はそこでどうなるかはあなた次第ってこと」
どう見ても、明らかにサヨさんのコネだろう。気にかけてくれているんだって嬉しい気持ちになる。しかし同時に認められていないこともよくわかった。吾郎が二杯のウイスキーをテーブルに運ぶ。どうにも飲む気になれない。思い付いた様な演技をして立ち上がる。
「飲む前に一旦車置いてきちゃいますね」
「嫌だった? ごめんね行かないで」サヨさんが袖をひく。
「車置いてくるだけですよ」
店を出ようとカウンターの方へ向かうと吾郎がまたコップを拭いて目配せをした。彼の目線が差す方を見ると、カウンターに座る客のスマートフォンにはとある記事が開いたままになっている。そこで俺はあの宇宙人の顛末を知った。
久々に歩くエントランス。ここには暑い日の思い出があって、寒い日には何だか似合わない。エレベーターに乗ってあの階に昇る。部屋の前に来て、冷たい金属のドアノブに手をかけた。手をかけたまま止まって、俺は開けられないままその場に座り込んだ。
「引退したって見たよ。お疲れ様」
この部屋に彼女がいるはずはない。
「昔は毎日泣いてたもんね」
居るはずはないのだ。けれど、身勝手なことにもし居なかったら堪らない気持ちになる。それが怖くて開けられないのだ。
「俺しか知らないんだってちょっと自慢だったんだ」
埃の集った整頓されている部屋を思い出す。きっと今頃この部屋もそうなっているのだろう。
「結局あんたの名前知らないままだったね」
車の中で見た朝日を思い出す。目に違和感ふつふつと湧いてきて、瞬きをしなければ耐えきれない。もう二度とこの部屋に来ることは無いだろう。背中に当たるこの厚い扉を開けてしまったらきっと引き払えなくなってしまうのだ。
俺は目を瞑ってたった一つの光景を噛み締めるように思い出す。
大理石の床に、憧れていた。彼女は優雅に上を歩く。手にある二つのマグカップからは湯気が登っていて、どちらからも上品な良い匂いがする。ソファーで絵を描く俺の隣に座って、寄りかかる。マグカップを受け取った俺は何がおかしくてか分からないけれど笑って彼女の方を見る。彼女も同じ様に笑っている。
「何書いてるの」
穏やかな声が優しく空気を撫でて俺の耳元に漂った。一本線を重ねて、顔を上げる。部屋の中の様子をじっと心に焼き付けて、それから俺はこのスケッチブックを改めて見直す。
「木の船、憧れを目指してた俺の事」




