朝日と画家
美しい女が背中側から腕を伸ばして、身体中に何本も何本も巻き付ける。刺激的な臭いが散漫になった意識をそのままに、俺の鼻先で遊んでいる。それでも俺が危機感を感じないままで居られるのは俺がこの空間を欲して呑み明かしたからだろう。巻き付いた腕を優しく撫でて、天を仰ぐ。吊るされた虚しい青のライトがゆっくり揺れていた。俺はもっと人間の奥の方に蠢く醜さが描きたい。ずっと誰にも理解されない様なものでも構わないという気になって鉛筆を握り締め、目の前の真っ白な紙へ向かう。
「上手いじゃん」
「ペラッペラの褒め言葉だな」
吾郎はまた相も変わらずコップを磨きながら薄目を開けて楽しそうに笑った。バーテンダーとしては失格な程に愛想が良い奴だ。
俺の絵は、着実に上達してきている。自惚れていなければそこら辺に有触れたプロの流れ作業のようなアニメだのイラストだのなんぞより余っ程上手にかける気になっている。案外才能があるのではないかと思う時が大部分でありつつも、全く絵が描けない様な時もある。ある程度の才能はきっとあって、それに縋りながらこの間貰った十万円の使い道を考えていた。
「お前まだ宇宙人ちゃんの所に住んでるの?」
「あぁ、小遣いもあるし気楽なもんだよ」
「物好きだなぁ」
あの宇宙人はちゃんと約束を守った。むしろ、それ以上に気に入ったらしく少し多めに包んでくれた。俺は時間が合えばいつも彼女の目の前で絵を描いた。彼女が紅茶を淹れ、その匂いを感じながら一日の中の思い出をひとつ絵にする。そういう時間が俺にとって大切なものになりつつあったし、きっと彼女もそうだったと思う。
開店して間もない店にはほとんど人が居ない。肌寒くなってきた世間には、そろそろコートが見え始める頃だ。あと三時間もこの辺で飲んでいれば彼女が家に着く時丁度帰っていられる。そしてまた彼女の前で絵を描くのだ。
「絆された?」
奇妙な事を言う。俺はいつも絆されてるし、いつも愛させられる。ほんの少し高い酒を傾けて、吾郎の顔を覚えたまま目を瞑る。
「絆されてるよ、いつも。良いもんだよ、絆されるのも」
まだウイスキーが喉の奥の方に残ったまま熱い言葉を奴にかける。彼はなんだか穏やかに笑う。
「いつもより幸せそうだ」
なんだか上から目線だ、気持ち悪い。もう一度口の中を消毒して、それから少し上がった口角を手で隠す。水より高い粘度の液体を舌で転がして、よく味わって、それから体温と同じくらいの温度になったらゆっくり飲み込む。ひりつく様な痒みが喉を伝う感触を明瞭に感じて、鼻から抜ける芳ばしい香りを楽しむ。
グラスのかいた汗を親指で拭って、手に着いた水に目を落とす。両手を合わせると手の間の水滴が温まるのを感じる。そのまま消えてしまったけれど、まだその水滴の感触を感じていたいと惜しくもなっていた。指から去った水滴を思う時は身勝手だ。無くしたのは自分自身で無いことを願ったのもまた自分自身のはずなのだ。
吾郎が裏に帰って、俺一人きりになる。吾郎と居ると何だか中学の頃のことばかり思い出してしまう。皆が高校への進学に心を躍らせている中、体育館の裏で俺は一人、惨めに蹲っていた。制服の右胸には造花が着けられていて学校は俺のような問題児をさっさと追い出す準備を整えた。体育館の中から仰々しいクラシック音楽が聞こえる。
どこへ行く宛ても思い付かず、これからどうやって生きて行こうか分からないままでいた。母は病床に伏し、家にはもう金がない。別に母の面倒を見てやろうとかそういう義理の為に高校進学を諦めて働く訳ではない。僕は家を出て一人で生きていく。母がどこで野垂れ死のうと別に構わない様な気でいたからだ。
とにかく金は稼がなくてはいけない。しかし、誰が僕のような何も出来ない十五歳を雇うだろうか。僕の世界は生きて行けないほどに狭い。
「体育館裏で座ってても名前なんか呼んでもらえないぜ、麟太郎」
顔を上げるとそこには吾郎が居た。綺麗な制服は今朝きっと彼の両親が祝福の為にアイロンをかけたのだろう。僕は幼馴染のそんな幸せな様子にさえ嫉妬してしまう。
「んだよ、待ってねぇよ。お前みたいなのは静かに体育館のパイプ椅子にでも座っていろよ」
「口が悪ぃなぁ、また喧嘩する気か?」
「僕は落ち込んでんだ。茶化すだけなら優等生に戻ってろよ」
「まぁそんな怒んなって」
吾郎は俺の隣に座った。慰められるのは、それはそれで気持ちが悪い。
「覚えてる? 体育祭の放送乗っ取ってスズセンに死ぬほど叱られた時のこと。あん時ヤバかったよな。それから文化祭で勝手にキャンプファイヤーやってそれもまたスズセンに死ぬほど怒られて……。あいつ今お前のこと泣きながら必死に探してるぜ。おセンチになってんだ、笑えるな」
「やばいやん。逃げたろ」
僕らは顔を見合わせて笑った。体育館の中に聞こえてしまいそうなほど大きな声で、沢山笑った。それから急に吾郎は真剣な顔になって、真っ直ぐに僕の目を見つめた。
「高校進学しないんだろ。学生生活最後の日だ。なぁ、湿っぽい体育館に若気の至りをお裾分けしてやろうぜ」
僕は吾郎の事が好きだった。自分がゲイなんじゃないかと疑ってしまうほどに馬が合う。しかし、この好意はどこまでも恋愛とはかけ離れた所にあって、どこまでも純粋に、アホでいられる世界だから好きなんだ。吾郎が背中から打ち上げ花火を取り出す。そこから先は果てしなく楽しかった。大勢の大人から追いかけられながら、俺らは最後に顔を見合わせる。
「麟太郎、この花火、お前の為なんだ。選別だぜ、選別。どんな手を使っても夢を手に入れよう。俺はバーでお前は大理石」
そのセリフが俺の学生生活を彩って、それからの人生に通る一本の筋になった。「どんな手を使っても大理石の床を手に入れる」しかし、それ以上に、もっと有意義で根本的な何かを彼との間に手に入れた様な気持ちに浸れた。
裏から吾郎が帰ってくる。
「暇だしポーカーしようぜ」
中学の頃のまま、成長していない吾郎がそこに来た。
「良いね、搾り取ってやるよ。千円からな」
「財布軽くしてやるよ。お客様」
勝つ度に酒を煽って、随分頭に血が昇った。蒸発しそうになる頭の中では、やたらとツーペアとフルハウスばかりが鳴り響く。ツーペアだったら一枚変えて、フルハウスならば変えなくて。他の客が来て、参加者が増える。
「またやってるな吾郎たち」
「バーっぽくねぇな」
十人かそこらまで来た時、俺はフォーカードの手を揃えた。俺の笑い声ばかりが脳内で響く。口から漏れ出て、頭を巡り、ぐるぐる俺を嘲笑う。何もかも失ってから一ヶ月ほど。俺は大理石もある程度の金も、それから吾郎達と遊ぶ時間も全て手に入れてしまったのだ。
良い気になってふらふら家路を目指す。未だに笑い声が耳に張り付いて離れない。静かな街頭がやたらスカしてて気に食わない。説教のひとつも垂れてらやんと気が済まなかった。凛々しく立つ電信柱に寄りかかって、街と正面向き合う。すると自然と足の力が抜け、固く薄汚い地面に滑り落ちる。身体から揮発するアルコールの予感を感じていた。まくったシャツの袖を手で弄って、無くなった包帯の感触を思い返す。俺が満ち足りる瞬間は来ない。もしくは満ち足りるものを目指す中で必ず落下するのだ。
「大丈夫?」
囁くような小さく高い声。あのアイドルとは全く違う声色で、これもやはり知り合いのものでない。女が水の入ったペットボトルを投げる。鈍い音と共に目の前に転がったそれを受け取って彼女を見上げた。派手な真っ黒のドレスと長く下ろした髪が下から覗くと随分威圧的だ。
「ありがとう」
断片的な記憶はここで終わって、俺は翌朝その知らない女の家で目が覚める。今度はちゃんとベッドの上で、それにあの女は目の前で、裸になって眠っている。全く同じふうに持って帰られたが、今回は随分のいい目覚めだった。未だに痛む頭とは裏腹に、心は様々移り変わる。取り敢えず、落ち着く為にベッドから顔を出して床を確認してみると、木目調の綺麗なものだった。あのアイドルが見たら怒るだろうかとか、取り敢えず俺の救いをひとつ増やしておこうかとか、そんな事ばかりを打算的に考えては被害者ぶろうと努力した。
女が起き上がってくる。その真っ白な顔に絡む髪の毛が茨に見えた。真っ白な絹の布が肩から流れ落ち、薄桃色に艷めく素肌が見えた。
「おはよう。昨日のこと覚えてるかな」
「いいえ、とにかく介抱してくださってありがとう」
「他人行儀ね。寂しいよ」
目の前の女と話しているつもりでも何処かあの女を思い返してしまう。確かに他人行儀過ぎて、不自然だ。いつもの俺ならこのままここへ住む算段を企ててなんやかんや上手いことこの家に居着く。しかし、今の俺はそうでは無い。あの家に戻らなくてはいけない気持ちになって居るのだ。
「シャイなのね」
黙ったままの俺を見兼ねて、彼女は優しく頭を撫でる。細く長い指が俺の髪に絡んでしまって、これがどうにも心地良い。
「俺帰らなきゃ」
「朝食くらい食べていかない? 連絡先も欲しいし」
「なんかストレートに話しますね」
「含んだって伝わらないよ」
ふふふ、と笑う姿を見れば、それには一般的な高尚で優美な魅力が尽きず有る。女は俺に抱きついて、そのままベッドに倒れ込んだ。
コーンフレークを食べながら、彼女は俺の顔を見る。ジロジロ観られたって何も出やしない。牛乳の染み込んだ柔らかいものを選んでスプーンに乗せ、零さないように気を付けて持ち上げ、口で迎えに行く。
「絵、好きなんでしょ?」
「えぇ、まぁ最近描いてますけど、何故そう聞くんですか?」
「ポケットに絵があったから」
「好きかどうかなんて聞かれちゃうと困りますね。大抵どんなものにだって好きも嫌いもどっちの気持ちも有るじゃないですか。でもよく描きますよ、上手とまではいきませんが、とにかくよく描きます。好きとか分かりませんが」
女は全てを見通したかのように目を細めて、小鳥が鳴くように高く小さく笑った。
「よく話すわね。酔ってた時なんてたった一言『ふきぃ』って言ったのよ」
随分間抜けそうに真似をする。気恥しくなり、それでもなんだか笑ってしまった。彼女は俺のそんな様子を見て、満足そうに口角を上げる。
「私も絵、好きなんだ。食べていけるほどじゃないんだけどさ。君の絵を見てなんだか素敵だなって」
折り畳まれた一枚の紙が手元にあって、それを広げると俺の絵が見える。昨日描いたバーカウンターの絵だ。余り上手にいかなかったから、彼女に見せずひっそりと別の無難な絵にすりかえる予定だった。「素敵」なんて他人に言われてみると、気に入らなかった濃淡やら下手くそな遠近感やらが良い味を出しているように見えてくる。
「あなたの絵も見せてくださいよ」
「サヨ、サヨさんって呼んで。私自分の名前好きなの」
サヨ、今までの彼女たちの誰とも合わない名前で助かる。
「じゃあサヨさん、あなたはどんな絵を描くんですか」
その言葉を待っていたかのように頷く。ベッドの反対側から腰を下ろし、わざわざぐるりと回って俺の方に来る。それから手を差し伸べてきた。
「着いてきて、アトリエを見せてあげよう」
ベッドの正面には少し浮いた本棚がある。彼女がそれを引くと実は扉になっていて、それは奥の部屋へと繋がっていた。
朝日の差し込む部屋の中心には色を付けられたキャンバスボードが座っていた。その正面にあるパレットには絵の具が一見乱雑そうに付いていて、床は所々相応しくない色に染まっていた。整理整頓されているその部屋の中は、心を締め付けられるほどに美しかった。
俺は彼女よりも先に歩きだし、部屋の中を回る。机に広がる下書きの束、幾枚もの失敗を決して蔑ろにしない丁寧なものだった。手の形をした模型や、それから偽物のリンゴにバナナ籠。鉛筆は各太さ様々用意してあって、それらは尖っていたり先を丸く整えられていたり、その拘りが伺える。
部屋をゆっくり回っていると、半周した所でようやく心臓の鼓動を感じた。俺のものではない、この部屋の乃至はあの女の心臓。キャンパスノートには血のような赤黒い絵の具がべっとり着いていた。それは渦を巻いて中心へと向かっている。吸い込まれるようにその渦に視線を持っていかれた。呑み込まれている様で恐ろしく、しかしそれは酷く魅力的だった。徐々に赤黒さが薄くなって、気がつけばそこには座っている男の様な形がある。胸を締め付けられるような虚しい裸の老人だ。何かを大事そうに抱えているが、その正体は決して見えない。
「これはなに?」
「人生の終わり? みたいな。心の底? みたいな。解説するの好きじゃないのよ」
俺はそれをじっと見た。サヨさんの意図は分からない。何を考えて、何を書いているのか、きっと俺に理解出来はしないだろう。しかし、俺はこれが父親に見えた。殆ど記憶には無い、他人よりも知らない男の顔が、この老人に張り付いている。もうこの世に居ない、誰も別れを惜しまなかった様な男。奴の最後は知らぬ若い女との心中だった。家族を俺ら以外にもどこかに作っていて、そっちが本妻だったらしく俺らのことは全くニュースにならなかった。悉く何もかもから恨まれるような人生。一体奴が最後の最後まで欲して手放さなかった物とはなんだったのだろう。絵の中の老人を見詰める。長く傷のような白い髪。細くやせ細った触手のような手足。瞬きをした瞬間、老人は俺の方を振り向いた。真っ白な目の奥には何も無い。俺は驚いて後ろへ倒れ込んだ。
「大丈夫? どしたのよ」
老人は何かを抱えて居るままだった。
「何でもないです。大丈夫、大丈夫。サヨさん、すごく絵が上手ですね」
「お世辞言っちゃって」
「伝わらなくても良いですよ」
俺は珍しく、女の友達を作った。サヨさんは本当に尊敬できる画家だと思う。崇高さも聡明さも有名さも、俺にとっては何も価値を持たない。ただ彼女の描く世界観と技術、それから才能に心酔しこれがまったく友愛と敬愛に染まってしまった。
サヨさんの話を彼女にしたい。そうだ、三人で遊びに行こう。きっと絵が好きなのだろうから良い友人同士になれる。サヨさんの絵を見ればきっと彼女も喜ぶだろう。
街中に音楽がかかっているみたいだ。穏やかに揺れる心をそのままに半ばスキップの様な足取りで歩く。思えば出会いも似たものだった。吾郎の知る所か否かと言う程度の差しかない。そんな所から話すのもいいだろう。いや、しかし、それだと昨夜の話をしなくてはいけなくなる。要らぬ誤解、という訳では無いが、否誤解されたとて大きな問題にはなり得ないはずだ、が、しかし、それをどうにも彼女に話す気にはなれない。家を失う恐ろしさも、サヨさんという所謂友人の様な関係性の人間のおかげで感じずに済む。とにかく嫌なのだ、心が明確に拒否しているのを感じる。彼女の心がそれを拒否してくれることを祈っているように。
家の前、家というのはもう説明の必要が無いことを期待している。そのマンションの前である。俺はいつの間にか居場所を得ていた。これを居場所であると納得していたのだ。そして、あの女の、結局名前も知らぬあの女の正面の席が俺の席になっていた。合鍵を使ってエントランスの扉を開き、もうエアコンの切れたエレベーターへ乗る。
昨日家に帰らなかった。それはあの家で暮らし始めて初めてのことだった。なんだかたった今になって、徐々に足元から這い上がってくるような緊張感に気付く。俺はあの居場所を失ってしまうのではないかと恐ろしくなる。家に向かい始めた頃の前向きな気持ちはどこかへ散ってなくなっていた。心臓の音が聞こえる、手足が痺れる。エレベーターが止まって、その重い扉が開く。
目の前には男女が立っていた。女の方はあの女だった。見慣れぬ男は随分と整った顔で、頭が真っ白になる。ばつが悪くなって他人のフリをするべきか、それとも一度問いただしてみるか。とにかく一瞬で俺は何をするにも決められない。背の高い男だった。サイズのあった綺麗なスーツを来て、高そうなネクタイピンをしているのが印象的だ。
俺は一礼して、エレベーターを降りる。早足で部屋の扉へ向かう。視界に移る灰色の、コンクリートむき出しの廊下の景色が目に焼きついていく。
「待って」
肩に手が置かれ、振り返ると彼女の頭頂部が見えた。彼女の息がきれているのを初めて見た。
「おかえり」
長くない距離だったが焦って追いかけてきてくれたのだろう。
「ただいま、大丈夫。お仕事の人でしょ」
大丈夫、なんて自分で言ったくせによく分からない。何が大丈夫でないとされていて、それからそれがなぜ大丈夫なのか。何も考えずにそう言った。
「そう、事務所の偉い人。麟太郎くんの事は弟って言ってあるからそれでよろしく、またね」
そのまま彼女は振り返らずエレベーターへ戻って行った。
扉を開けて、部屋の中へ。なんだか他人の部屋みたいだ。他人の部屋で間違いがないのだけれど、それが何だかとても寂しい。やはりサヨさんの話をするのは辞めよう。俺ばかりが傷ついてしまいそうだ。カーテンを開けて、サボテンに水をやり、それからはソファの上でじっとしている。時計がない事に初めて気がついた。陽の光家の中に差し込む。美しい大理石は輝いた。俺がここに留まる理由は、大理石なのだ。だから、例え彼女があの男を狙っているとして、その保険のために俺に嘘をついていたとしても、俺自身はこの大理石を眺めていられるだけで良いのだ。だからなんてことはない。ソファの上で膝を抱えている。今は、この大理石の上に立つことが出来ない。
血液が惨めったらしく駆け回る。俺の体中を這い回っているのだ。俺はなんて身勝手な男だろう。浮気してるのは俺の方だ。反論の余地もなく本当に浮気していたのは俺なんだ。しかし、どうにも胸が締め付けられる。俺は悪いやつだ。悪いやつなのに傷付いて、虚しくなっている。きっとあの男は良い男だ。そういう雰囲気がした。
俺みたいになんだかどこで買った分からないような、三千円しない安っぽい服を上下着た様な男ではなく、ああいう風な男が良いに決まっている。ふざけるな、やっぱり皆金なんだ。権力ばっかりじゃないか。いや違う、そんな嫌味を言いたいんじゃない。目の奥に残った灰色の背景が色濃くなり始める。明瞭な視界には何も映っていなかった。
海の中心にはあの醜い老人が居た。青い世界の真ん中に小さく踞る白い点。俺は彼の傍によって、しゃがみ込む。自然と恐怖心はなかった。胸を締め付けられるような虚しさがそこにあった。
「それを手放すのは怖いね」
老人は身体中で黒い何かを包みながら、震える声で、どこか聞き覚えのある様な声で、こう言った。
「こわい、こわい。この絵から追い出されてしまうから」
これは父親なんかの声じゃない。きっと、いや父親であっても、それ以上に俺なんだ。そう気付いた瞬間に、全身の力が抜けた。涙がこぼれ落ちるほど、恐かった。全身が震えて立っていられない。
なにかにしがみついてその恐ろしい老人から逃れようと必死になった。
「大丈夫、大丈夫」大丈夫なんかじゃない。恐ろしい、絵から追い出されるのが、何からも必要とされないのが。
「大丈夫、大丈夫」その優しい声に騙されてしまいそうだ。最後に俺に残るものは何も無い。きっと彼女もいずれ宇宙人に戻る。俺にとって何も分からない他人に戻るんだ。
その手は優しく俺の顔を撫でた。いつの間にか眠っていて、それが心地良いものだったと振り返る。ソファの上の俺は、彼女の手の中にいた。彼女は愛おしそうに俺の方を見ている。いつの間にか寝ていたのだ。無意識に掴んだ彼女の服はにはシワが出来ていて、それのせいで離れられなかったのだと悟る。
「ごめん、おかえり」
「ただいま。ねぇ、私以外一生誰も愛さないって誓える」
「え?」
「うそうそ、冗談。昨日は何してたの」
どう答えたらいいのか分からない。きっとどう誤魔化したってもうこの宇宙人は全てわかってしまうだろう。彼女の手の中にいるのだからその手の外から出ない限りお見通しのはずだ。
「凄い画家の人から絵を教えて貰ってたんだ」
「すごい画家ねぇ」
彼女は俺の頬を優しく撫でた。それから鼻を優しくつまんで揺らす。
「ほんとにだめなイケメンさん」
もうすっかり暗くなった外の景色を感じ、室内が間接照明で照らされているだけだったことに気が付く。俺が何を言おうか考えている内に二人の間には随分長い時間が過ぎていた。
「私ね、宇宙人なの。地球人を好きにならないし、そっち側とこっち側ってね。でもさ、それで私の名前知らないままなのは寂しい?」
「そうだね、『彼女が』とか『あの人は』とかって言うしかないから少し不便かも」
「じゃあ、あなたにとって『女』も『人』も『宇宙人』だって、全部私を経由するのね」
「と言うと?」
彼女はそれ以上何も言わなかった。ずっと俺の頬を撫でて、ずっと俺の目を見ている。いつもどこか寂しそうな顔をしていたのだが、それが今度は何処か優しさを見つけた様な表情だった。長い夜の端っこで二人きりの時間が過ぎる。長い髪が俺の所へ伸びてきて、視界が彼女で塞がれた。
次の日から、彼女はこの家に帰らなくなった。




