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木船  作者: 枯れる苗
2/4

大理石と朝日

扉が開いて中の空気が俺らを押し返そうとする。正面には大きく真っ白なベッドがひとつあり、その両脇には大きなハンガーラックが二つずつ洋服の束の様になって鎮座していた。

「ベッドは無いって」

「言ったかしら」

「言ってたはずだ」

化けの皮が一枚剥がれた、割に宇宙人は全く動揺していない。俺にはこの状況が受け入れられない。ベッドの有無なんかはほんの小さな事のように感じられるほど、宇宙人はより深い疑念を産みだした。、

「なんでここに?」

「忘れ物」

「こうも都合よく?」

監視カメラでも仕掛けているのだろうか。明らかに間が良すぎる。俺が扉を開けるタイミングを寸分違わず知っていたかのように宇宙人は背後に現れた。

「ええ、都合よく」

その声からは怖いほどに何の感情も読み取れない。それから彼女はくるりと後ろを振り返って、テーブルの上に不自然に置かれた水筒を持ち上げた。ほら、これ。と、わざとらしく掲げてまた玄関から出ていった。こうも不自然な人間がいるものか。それならばいっそのこと玄関ではなく窓やら壁やらから外に出てくれた方がいい。その方が彼女を疑うことなく宇宙人だと認められる。

開けっ放しの扉と、安堵の部屋がそこにある。特に用もないのだけれど、そのまま部屋に入って、ベッドの辺りを覗いてみる。何だかとても大きな違和感を感じた。しかしそれはきっと、あの宇宙人がここで眠っていたという情報からくる違和感だろう。何となく白いシーツの感触を確かめるように手のひらでマットレスを押す。非常に柔らかく、それでも十分な反発をした。とても良い具合だった。

座ろうとする身体を本能が止める。脳が理解するよりも先に手のひらがこのベッドを嫌悪していた。このシーツには埃が集っていたのだ。その瞬間、また背後に気配を感じる。振り返るがそこには誰もいない。俺はとうとう疲れて、わざわざベッドの真横に座った。

この家は洗練されていた。必要以上の物が必要最低限に整えられている。その様子が俺の目には洒落て見えた。このベッドもその一環だ。正しく人間の居住スペースを模してこの間作りました、と言わんばかりの薄っぺらさなのだ。余分な拘りもなければ怠惰に不足している訳でもない。この家にはまるで人間の血が通っていない。ここで一晩過ごした人間として奇妙な話ではあるのだが、ここで暮らすイメージがまるで浮かばない。

俺は出て行く訳にも行かなかった。それはただの怠惰な不足であり、それはただの無意味な拘りである。しかし、だからこそ俺は俺を人間であると定義付けられるような気もするのだ。天井を仰いで、静かに目を瞑った。

不意に昔見たジブリの映画を思い出す。ここに居る理由をソフィーに習って得ることにした。掛け布団を退けて、シーツを剥がして、どちらも丸めて洗濯機に押し込む。箒を探し、雑巾を探し、兎に角部屋の隅に集った埃を掻き出した。折れた片腕が煩わしい。


昨日の夕焼けと違って、今日は妙に灰色の空になった。あの子は無事に家に帰れただろうかと、過剰に親切で居たくなってきた。これはきっと「無意味な行き止まり」なのだろう。一つにまとめたビニール袋は取っ手が切れそうなほど張り詰めていた。冷蔵庫に飲み物も食べ物も全くなく、そもそもコンセントすら抜かれていることに気がついた時には思わず頬を抓った。仕方が無いので財布にまだ残っていた二千円で根菜と鶏肉と飲み物、それからほんの少しのお酒を買って帰る。これで二、三泊程度の宿代くらいにはなるだろう。

熱気を纏ったままエントランスを抜け、冷気の這出るエレベーターに乗る。石油の様な独特な臭いが籠っていて、見た目の割に古いんじゃないかと不安になった。身体の芯の方はまだ熱さを忘れていなかったが、表面は簡易な心地良さに心が移る。七階に到達して、部屋の中へ。近くのスーパーまで随分遠かったと、背中の汗に気が付いて理解する。

重い扉を押して、エアコンが点いたままの室内へ。午前中、ベランダに干しておいた布団類を片付けたらもう全くやることが無くなってしまった。片腕で料理は出来ないし、それ以外に何かするべきことがないのだ。

俺は再びここに居る意味というものについて悩まなくてはいけない。やることが済んで、満足したわけだからここからは退却しなければいけないのだ。役割を果たした人物は舞台袖に隠れなくてはいけない。この家から降りることの出来ない俺は、逆説的に何か役割を見つけなくては行けないのだ。非常に弱いもので言うのならば、俺は夕飯の代金を支払ったわけだからそれを元手に二、三泊という元々の思惑に至る。しかし、それは彼女にとって不要であるというのならば不要であるはずだ。飽くまで俺自身の満足の為に行ったと言われればその通りであるとすら言える。

では、ここで改めて俺の価値というものは何処に発見できるだろうか。今まで、例えばりなさんやその他俺の元カノ今カノ達の為に俺がいる理由はなんだったんだろう。第一、普段の俺はそこに居ようとすら考えていなかった。何となく彼女らの部屋に上がり込んで、ダメになりそうだったら次の家へ。そうやって高校卒業後から七年ほど、住処に困りながらも生きていた。

しかし、今度ばかりはそういった距離感が掴めない。他の人とは全く違う。宇宙人の目の前に経つと何らかの発表会をさせられている気分になって、どうにも緊張して滅多な事が言えなくなる。

恋愛的な要素を全く外してなのかどうかはまだ分からないけれど、珍しい人間だと魅力に感じていることは確かだった。そんな面白い人間に何か自分もその同類であると証明したいのかもしれない。気に入った分、どこか気に入られたいのかもしれない。

俺の気持ちはいつも憶測で、不確実だ。後からどうとでも言えてしまうような気がする。だから、本当はここから離れたいのかもしれないし、後々になって実は離れたくなかったとまた裏切ったって全くその通りだと思う。暗くなる空の中に夜が一粒、また一粒と増えていく。サボテンの表面の水滴はもうとっくに無くなっていて、一日の速さを身に染みて実感する。いずれ帰ってくる宇宙人の事ばかり考えていた。お互いの関係性が非対称になっていないといいのだけれど、それはそれでまた自然なことと受け入れてしまいたい気分でもある。

インターフォンが鳴り、都合良く彼女が帰ってくる。夜になりきる前に彼女は帰ってきた。俺は今朝よりさらに綺麗になった部屋を眺めて、それから冷蔵庫の中の食べ物を思い返した。玄関へ向かう扉を開いて、しかし、そのまま彼女を迎えに行きたい気持ちを抑えた。玄関扉が乱暴に開いて、見慣れない安心できる顔が見える。長い髪がくたくたに縒れていて、顔は随分弱々しくなっていた。宇宙人は靴を乱雑に脱ぎ捨てて、カバンを床に置き、ワンピースをそのまま玄関に脱ぎ捨て、リビングへ来た。

「居てくれてありがとう」

「俺は天皇か」おかえり、なんてものよりも前に出てきた言葉は思いの他心地が良い。あっという間に下着姿になった彼女に困惑するには一晩の関係性は深過ぎた。第一声は思った様な言葉ではなかったが、まだ想定の範囲内だ。表面では気付きにくい細かな部分を良くしたので、これから徐々に気がついてくれるだろうと俺は悠々構えていた。彼女はひと息分笑って、俺の目を真っ直ぐに見る。

「それ以外は別にどちらでも良かったの」

どちらでも良かった、なんて何だか俺の気持ちを覗かれた上で馬鹿にされている気分だ。

「俺のこと好き?」

腹が立ったのでどうにか俺は優位性を確保しようとした。

「うん。顔が良いから好き」

しかし、彼女の調子に飲み込まれていく。俺は、ここに居る理由を明確に発見できないのかもしれない。と、言うよりも探すべきここにいる理由が間違っていたのだ。まるで今日一日を無為に浪費し、宇宙人の関わらないはずの時間でさえ弄ばれるための時間であったかの様だった。価値観が合わないのか、知能が合わないのか、とにかく噛み合っているようで噛み合っていない。俺は出鼻をくじかれた。しかし、決して嫌な気持ちがした訳ではなかった。

不安定な茶碗を箸で突く。正面の宇宙人はその茶碗を悠々片手で持ち上げて楽しそうに食事をしている。

「スマホ、治った?」

「明日取りに行くんだ。そういう約束になってる」

「じゃあ連絡先交換しなきゃね」

思い返せば一昨日、否。昨日の夜まで全く赤の他人だった。付け加えるなら俺にとって明日その他人に戻るかもしれないという関係でもあった。しかし、彼女は思いの外俺をこの家に起きたがっている。それはやはり父親譲りの顔のお陰かもしれないが、とにかく俺にとって都合が良かった。何ヶ月先まで居られるかは分からないが、しばらく野宿しなくてもいいと言う安心感は根無し草の身として非常にありがたかった。一方で、今俺の救いは一本化されてしまった。この名前も知らぬ女以外、俺は頼る先を失ったのだ。

しばらくここに暮らすにしては、俺はこの宇宙人について何も知らない。例えば、恋仲を装って暮らすとして、この女の好みくらいは把握しておかなくてはどうにも立ち行かない。顔はとにかく付いている以上を提供できないのだから、それは一旦良いとして、またそうではない要素についてどこからか見つけ出して来なくては行けなくなった。

彼女の顔を見つめる。味噌汁のお椀を口に宛てて、上下のまつ毛を合わせている。

「あの人みたいだ、あの、『ティファニーで朝食を』の人」

彼女は口角を耐えきれないみたいに不自然に上げて、俺を笑わないように努力しているようだった。

「『ローマの休日』で『マイ・フェア・レディ』の?」

「マイ・フェア・レディなんかは知らないけど、そう『ローマの休日』の」

彼女は随分嬉しそうに鼻を鳴らした。

「食後に紅茶を入れてあげるわ」

俺は何だか変なスイッチを入れてしまったようだ。彼女が鼻歌を歌っている間、何処に目をやるか思いつかないままだ。映画の話題なんかをテキトーにふって見た訳だけれど、むしろ相手の方が詳しいのだからよく分からない。昔の映画が好きなのだろうな、という部分だけはどうにか察したという具合だ。

「お互いの事を知ってみない?」

「例えば?」

俺はとうとうすべき質問に着手した。それは仕事の事か、趣味の事か、普段の話か。彼女の肩甲骨は翼のようで、しかしそれは大きな谷の入口のようにも見えた。随分と静かな部屋の中、食器の擦れる音が僕らを見守る。

「私、アイドルなんだよね」

「宇宙人の続き?」

「違う。地下の」

「知らない訳だ」

彼女は驚いた表情で振り向いた。ふっ、と。力が抜けた様に肩を落として呟く。

「アイドル興味無いんだね」

「無いなぁ」

わざと腑抜けた様な声で呟いてみる。何だかその言葉一つ一つがこのアイドルの逆鱗に触れてしまいそうな緊張感だ。結果的にその気持ちは見えないのだからアイドルだろうが宇宙人だろうが変わらない。俺に言わせて見ればそれは大して変わらないことなのだけれど、彼女は甚だしく神妙な面持ちである。

「私も無いわ。流されて、流されて、流れ着いた場所で居着いただけ」

彼女は紅茶のカップをテーブルに置かず、俺のものと二つ持ったまま後ろに歩いて行った。

「ここは私の居場所じゃないの。居る理由と場所があるだけ」

居場所じゃないって言うのは随分と傲慢だ。彼女の部屋で、彼女だけの居場所であるべきであるはずだからだ。俺の思考がそこに惹き付けられたって彼女は気にせず続けた。

「ベッドも、椅子も、絨毯も、テレビも、それからこのテーブルだって今日初めて使ったようなものよ。私ね、ここに居たくないの。本当はもっと退屈で居たいの」

ずっと寂しそうに話している。胸の奥でムラムラ腹が立つ。俺の境遇を笑われている気がしているからか、もしくは能天気にこの忌まわしき境遇を目指しているからか、とにかくどうしても嫌なことを言ってやりたい衝動に駆られる。

「退屈で居たって、あんたの望むベッドも椅子も絨毯もテレビもテーブルも見付からないよ」

「だから、いらないのよ。私が私のお金で私の為に買った私にとって要らないもの」

あのアイドルは俺の後ろから腕を伸ばして、首筋を湯気が掠めるように熱い紅茶をテーブルへ置いた。耳元で響くその声が、なんだか妙に震えていたせいで俺はどうにも恐れる気になれない。この時になってようやく気が付いた。彼女のこの震える心はずっと在る果てしない虚しさに耐えていたのだ。その自衛のために熱を宿していたのだ、と。

彼女は正面に座る。お茶菓子でもあれば良かったんだけど、なんて少し恥ずかしそうに言って、さっきまでの張り詰めた空気を無かったことにしようとしている。

「いつもそういう感じなの?」

畳み掛けなければ彼女の世界へのチケットを永遠に失ってしまいそうで恐ろしい。

「アイドルってさ嫌なことばっかりだよ。私が向いてないだけかもだけど」

彼女の声色はまた酷く沈んだ。慰めようにも、落ち込ませたのは俺自身なのだ。しかし、不自然なことに、俺は全く後悔をしていない。難攻不落にも見えた宇宙船の入口を発見したようだったからだ。俺はこの事を思い付いて、酷い自己嫌悪に陥る必要性が生まれた。色々随分客観視して、付け足すようにこう述べておこう。もうどれだけこういう嫌な人間として生きてきただろうか。俺は彼女の傍に寄る。

「それは大変だね」

「私、そういうのばっかりだから通じないよ」

俺の手は彼女の肩に触れる寸前で止まった。包帯を巻き直さなくてはいけない、彼女が解いてしまったから。行き場を失った健常な腕で真っ白な包帯を掴み悲しみを持って、苦笑いで席に帰る。

「良いよ、気にしなくって。私失える方が好きだから。いる理由が無い方がここにふさわしいよ」

彼女は紅茶に口を着けた。熱い紅茶を冷ますことなく口に含んで、真っ白なマグカップから顔が見えてから間を置いて喉が鳴った。何を言っても俺らの間に映る景色は変わらない。俺はこの女の魅力をこの伽藍堂な態度に発見した。

大抵皆虚しさを装うものである。俺だってきっとどこか端っこの方で寂しさを抱え、そのまま虚しさに繋げ、無意識に演じてしまっている部分が有るのだろうと思う。しかし、どうにもこの女の装う虚しさはただ装っただけの虚しさとは違う様に思えた。俺の心さえ寂しくさせる深く暗く冷たいものだった。俺が装う形ばかりの虚しさを堂々と上から描き消してしまう、そんなものだった。

彼女が風呂に入っている間、俺は一枚の小さな絵を描いた。一羽の鳥と、それから二匹の小さな猫。薄い線を幾本も重ねて、浮き出てくる立体を整えるように描いた久しぶりの落書きだった。学校に通っていた頃、ずっと俺がしてたことで、ずっと俺の世界はここだけだった。いつの間にか離れてしまっていたけれど、久々に描く絵はあの頃よりずっと大人びている。

俺と彼女がこの小さな猫達のつもりだ。この憐れな二匹の手の先に羽ばたく鳥は、一体何であることにしよう。描いたままその答えを見つけられないままでいた。さて、ペンを置き冷静に眺める。これは中々に洒落臭い。らしくない様な気がして、消してしまいたい。一匹の猫は俺の方を見向きもせず、もう一匹の猫は横目で見つつも、やはり鳥から意識を外さずに。込み上げてくるような大きな感情が在る。抑え込めないほどに膨らんだってどうにもならない。

「絵、上手だね」

「あんたはいつも神出鬼没だ」

髪をタオルで包みながら、彼女は俺を見下ろしている。シャンプーの良い香りがいつの間にか広がっていた。絵が上手いなんて褒められたのはいつぶりだろうか。

「ねぇ、毎日一枚絵を描いてよ」

「なんで?」

「いいじゃん。ひと月ちゃんと描いたら三万円あげる」

「やったね」

淡々と進む会話にもはや違和感すら覚えなくなっていた。俺と彼女の距離感はきっとこんな感じで不思議の中にあるのだろう。彼女はきっとまた何かそういったより彼女に寄った不思議な価値観の中で俺の絵をとにかく気に入ったのだろう。俺はなんだって良くて、とにかくお小遣いの宛を手に入れた。机の上にある俺の絵。お世辞にも売れる様な出来では無いはずだけれど、存外悪い出来でもない。

「明日は何を描くの?」

「何だろう。そうだなぁ」

静物。生ハムとトマト、それからモッツァレラチーズ。染み出すトマトの果汁がモッツァレラチーズに絡みついて、そこに反射する光を生ハムが吸収する。鉛筆だけで暗い世界を描き、濃淡で弱々しい光を表現する。今目の前で俺を待つのは彼女が作ったカプレーゼだ。触れれば触れる程静物とは不思議な言葉だ。この生ハムもトマトも、それからモッツァレラチーズも全て徐々に腐る方へ向かっている。言うまでもなく生命活動は終わっているが、例えばその腐る方向を反対に絶命活動とするのならば、これらだって未だに活発に活動しているのではないだろうか。

この生ハムにもモッツァレラにもよくよく見れば個別に特出した個性がある。否、あればいいと思う。いつか俺がこんな風になってしまった時、いくつもの死体の中で同じ様に見られるのが嫌なのだ。

未だ孤独に個性を証明する静物達。俺はそういうものを大切にしたい、なんて俗物的な正義感に浸りながら鉛筆を走らせた。

「そんなに真面目に描いてくれるなら作った甲斐があったよ」

正面で頬杖を着きながら彼女はフルートグラスを覗き込んだ。まだ口を待つけていない白ワインは彼女を欲して待っている。しかし、それは棄てられるだろう。俺は彼女と過したこの一週間で彼女について随分と多くのことを学べた気分だ。変わっているからこそ、わかり易い。矛盾しているようだけれど、笑えるくらいに単純だ。ただ「自分がこうする」とか「逆に絶対にしない」とかそういう主観的な予測を廃して客観的に無意味なものを考えてみる。するとようやく彼女が少しだけ見えてくるのだ。

昔ある男が言っていた、「無意味なものほど美しい」という言葉を思い返す。彼女を見ると何だかそれはただ騙されているだけなんじゃないだろうかと思ってしまう。本当は合理的で有意義なものの美しさは現金だからその反対を勝手に幽玄的な魅力と感じるのではないか。しかし、この議論にもやはり間違っているからその反対は正解なのだろうという錯覚が存在する。どちらも間違いで、またその次元に正解は無い。

カプレーゼが皿に、また空気に馴染んで俺用のグラスの水滴が落ちる。彼女のグラスはもちろん空で、予想通りアルコールを全く摂取していない彼女は未だに頬杖を着いて俺を見ている。別に絵を描く間見ている必要は無いはずだ。この間そう言ったら「高校の時、私美術部入っててさ、皆が描くの見てるのが好きだったんだ」と、何だかまた寂しそうに言った。「絵は描けないの、私美人だからモデルしかしてない」誤魔化すようにそう笑っていた。

見られながら描くのは緊張するし、製作の過程を美術部の皆々様と比べられても困る。しかし、そんな風に逃げられては咎めるのも野暮だから気が引ける。彼女はこういうずるい手をよく使う。最近はもはや寂しそうに話すのは日常であるから、むしろ元気に話す方が何かしらの意図を持っているように疑ってかかる。そういう時大抵俺は彼女を見失って、また見つけるまでその掌で迷子になってしまうのだ。

俺は彼女がアイドルであることを確かめなかった。絵を描けば金をくれる女。もしくは家を持っていて役立たずを置く変わった女だと勝手に思っているだけだ。それ以上踏み込んだ時、彼女の「失えないもの」になってしまってそれが結果的に彼女の興味を損ねてしまうのが怖かった。それか、もしくは、単純に面倒だったのかもしれない。俺はただ、毎日絵を描いて、彼女はそれを見ている。それ以外の時間、彼女は不定期に家を空け、俺は家事だのゲームだのをしながらダラダラ過ごしていた。

「良い出来だね」

「なぁ、それ本気で言ってるの?」毎度言う彼女のお世辞にも飽きていた。そりゃ驚く程に下手って訳でもないだろうけれど、彼女が描けと言った手前否定するはずがない。

「信じられない?」

「そういうのじゃなくてさ、なんて言うか、あんた以外に見せた事ないからわかんないんだ。上手いとか下手とか」

「だからさ、上手いって。水仙みたいな事言うね」

出来なんか本当はどうでもいいはずだった。やっていれば金は約束されるはず。しかし、一日の大きな行事として長く絵と向き合うことが俺の価値観にそういった変化を齎している。今では上手に描きたい、描けないのならば描く意味がない気がしてならない。褒められたってどうにも納得出来ないくせに、何かもっと他の言葉を欲してしまう。

俺はまるで意識的に拗ねている。どっちだって構わない。別に下手でも金は貰う。何だか頭の中を蜘蛛が這い回っている様だ。鉛筆をこのまま離してしまいたくなる。離せばきっと、俺はもう作品の出来を問う事はなくなるだろう。そう思うと何だか離すのが惜しい。あと少しで完成する様な予感がしてから、もう暫くずっと鉛筆で紙を撫でている。

「もう出来た。本当はきっとさっきからできていたんだ」

「そうね」

「ちょっと外に出てくるよ。頭を冷やさなきゃ」

「じゃ車出してあげる。ドライブしよ」

流れる街。白い光が忙しく駈ける。街灯の一つ一つに意味なんかありはしないけれど、それでもどこかにその意味を探してしまう。助手席に乗るの慣れていた。免許を取りたいと思っていた時期もあったけれど、酸っぱいぶどうをもうワインにしてしまった。彼女の横顔をわざわざ見てみれば、こちらになんか振り向かない。暗い車内に、外の光が差し込んで、重厚感ある闇が生まれた。

「どこまで行くの?」

外に出たって行く宛てなんか無かった。行先は気紛れな彼女頼り。座高さえ俺より少し低い小さな横顔に任せている。

「何処にも行かないよ。別に」

「何かあったの?」

行動が読めてしまって、なんだか違和感を感じる。エアコンの風が顔に触れて、少し肌寒い。

「アイドル、向いてないかも」

彼女はこの一週間。時に冗談交じりに時に真剣に、よくその言葉を零した。それを聞く度どんなに軽く彼女が口を開こうと、耐え難い居心地の悪さを感じる。何か彼女を慰める言葉が欲しい。どんな言葉も嘘っぽくなってしまいそうなのだ。

「向いてるよ、顔良いもん」

「よくないよ」

「良いよ」

「信じられない」

震える声に、俺は返す言葉を見つけられなかった。顔の善し悪しという表面上の問題ももちろんではあるが、それ以上に彼女の心を理解する事が難しい。互いに、互いの事なんか例えどれだけ長く居ようとも分からない。似ていても反対でも、好き同士でも嫌い同士でも。

「何かあった?」

話を逸らす。彼女が少しでも下ばかり見なくて良いように。

「テレビに出るの。アイドルとして」

「良かったじゃん」なんて、うっかり言ってしまいそうになる。彼女は決して良かったなんて顔をしていない。嫌な事ばかりが頭を過ぎる。

「高嶺の花になりたかった。アイドルとして」

夢の体温を小さな水滴に集めて一滴だけ零す。肩が震えて、呼吸が荒くなるのが聞こえた。

「観てるよ」

「うん」

車道にはどこまで行っても俺らの車しか居ない。午前三時をほんの少しだけ過ぎた頃合だったからだ。高速道路に乗って、一直線に走り出す。時々トラックやら高速バスが過ぎていく。タイヤが道路と擦れる低く小さな音を心地よく聞いていた。

次第に視界の端が白く輝き出す。白い光は赤みを帯びて、時刻は午前四時半。あっという間に朝が来ていた。輝き出した太陽に照らされて、その反対側に海が顔を覗かせる。

彼女は海岸沿いの道路に車を停めて、座ったまま二人で現れる朝日を悠長に待った。ずっと会話をしていない。疲れていても眠くはならなかった。彼女が俺の肩に頭を乗せる。その頭の上に頬を乗せ、黙ったまま水平線を眺めていた。

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