宇宙人と大理石
大理石の床にいつも憧れていた。真っ白な天国の空を黒く激しい雷が走るあの大理石。冷たく無機質な表面とその内側に潜む普遍的な価値が堪らなく好きだった。上を歩く人間に対して一々差別なく、また決して媚びない。それが揺るがぬ意志となり、難攻不落の要塞の高潔な威厳を根底から支えている。立つ人間の様相を二段階も三段階も上品にできるのだ。正しく大金持ち、それから権力者。そういうものの象徴の様に感じられた。
小さな僕は埃っぽい部屋の中で、ありもしない金やら、権力やらを勝手気ままに妄想する。「将来の夢は?」と聞かれたら、僕は「大理石の床」という所から切り出さなければいけなかった。つまり、その床は僕にとって向かうべき道だったのだ。窓から射し込む白い光にさえ、僕は大理石を重ねなくてはいけないほどだった。靡くカーテンの柔らかさを憎んでしまうほどに大理石が好きだった。
茶色い木目調の床に走る溝を、真っ白な指先でなぞる。部屋の隅から隅へ。日が昇ってから落ち始める頃まで。不意に木材の細い繋ぎ目で行き詰まる。その時、内から込み上げてくる沈む様な虚しさが、耐え難い極限の空腹さえ忘れさせていた。さっきまでガリガリと機嫌良く音を立てていたのは痩せ細った僕の指に浮き出る惨めな骨だった。ガリガリ、ガリガリ。僕の指は孤独な僕を笑う骸骨だった。
床が蝉の声を反響している。しかしそれでも尚、寂しさだけは内包したままだった。指の底にへばりつくほんの僅かな肉に食いついたまま、この細い溝は小さな指紋に明確な運命を刻み付けている。
散らかった部屋の底から指が離れない。手を着いたまま、崩れる様に座り込む。もう疲れてしまった。風船が萎むように力が抜ける。これが自分の運命かと悟った刹那に、テレビから流れてくる大邸宅の映像が目に着いた。
潔癖な程に真っ白な大理石が極めて美しく煌めいて、穢れた木目もなければ煩わしい溝もない。そんな純白な床が磨きあげられた茶色い革靴の下に拡がっていた。あれが、僕の望む大理石だ。
無垢なその純白を、目に焼き付けようとまじまじ眺める。すると、次の瞬間に見覚えのある顔が突然映った。
「えぇ、まぁ、大したものではありませんけれど」
焼けた肌が良く似合う中年の男だ。産まれたばっかりの時は父親だった男だ。僕は何を思ったか、そのテレビの画面から目を離せずに居た。じっと、ただじっと座り込んで、嫌になるほど騒がしい蝉の声の中、たった一人、父親を観ていた。
それからしばらくの間、父親の背中はどこに行っても発見できなくなる。
午前中に水っぽい雪が降った日だった。父親の最後を電車に貼り付けられた週刊誌の見出しで知る。父らしいというふうにも思うし、また、それは何処か最も嫌い合っていた筈の母に似ているというふうにも思った。それ以上のことは無い。ただふと、俺も同じ様にこの避けられぬ家族たちの運命に溺れるのか。と、どこか少しだけ虚しい気持ちになっただけだった。履歴書を握る手が悴んでいる。高校進学の道を逸れて、虚しい街へ。電車の床には木目も無ければ溝も無い。しかし、無垢と呼ぶにはあまりに踏みつけられ慣れている。
新宿へ向かう電車。空気は冷たく、人の視線はもう何処へも向かっていない。前を向くにも気まずくて、折れた腕の包帯を撫でていた。乗って、しばらく暇を潰し、それから目的の場所で降りていく。そういうのを永遠繰り返し、知り合いに似ている顔を見掛けては気付かれない様に顔を伏せた。もうそういうのは午前中に散々やったのだ。
俺ばかりが迷子になった様な気持ちだった。俺のスマートフォンは腕と同様に今朝突然に壊された。あの娘との関係は色んなものを巻き添えにして壊れていった。前までの自分は一体何を考えてこの退屈な電車の時間を耐えていたのだろう。なんだかんだスマートフォンをいじってばかりでも無いような気もするし、しかし、まあ本当に、只々無意味に画面を見ていた様な気もする。綺麗に巻かれた包帯を引っ張って、直すフリをした。窓の外では黒い大きな建物がやたら忙しく右から左に流れて行く。小さな窓の外の社会は有意義に動いている。愚かな痴情のもつれでベランダから突き落とされた俺は、無意味に怪我をして、動けないままだった。
とにかく俺は可哀想なのだ。骨折なんかのことではない。自業自得で折れた役に立たない腕の骨を、ただ放っておくだけの事でさえ耐えられず、医者だの看護師だのそれから電車の運転手だのの手を煩わせてしまった俺が、果てしなく惨めで可哀想なのだ。
もう今度ばかりはもう引き時だろう。彼女にした「金の貸し借りだけ」という言い訳は、決して嘘ではなかった。しかし、それ以上に親密であることを、あの子との間で内々に育ててしてしまっていた事もまた変わり様のない事実であった。結局、心に疚しい靄がかかっている以上、隠し通そうと躍起になり、醜態を晒し、端っから正直に話している以上に惨めに立ち振る舞う事になった。金が無いのはどうしようもなく、また金の為に気を持たせるのもどうしようもない事だ。しかし、様々重なればどうにも納得させられないものになっていく。
電車は相変わらず人々を街から街へと動かす。揺れる列車には判を押したように同じような人間が横にずらりと並んでいる。俺らは生まれた時からこの様に列を成す運命だったのだろうか。産まれた時さえ同じ様に泣き喚いて、死んでからも皆同じ様に黙るばかりだ。
窓の外が若干暗くなって、ようやく新宿駅だ。電車の扉が開くと熱気が俺を押し返す。八月もそろそろ中旬に差し掛かり、一年で一番暑い日を競い合っているみたいだった。暗い天井と、灰色の床材。乾き始めた口の中で居心地の悪そうな舌がより良い位置を探す。人の波に流されるまま進んでいくと長いエスカレーターに到達した。既に蒸れ始めている包帯の中は、きっと酷い異臭だろう。鼻につく湿布の爽快感は不本意にも俺の不快感を和らげようとしている。
スーツケースを引く人達と、それを嫌悪するサラリーマン。俺はその舞台に立つことさえ出来なかったのだと実感する。俺はやたらと金が好きだった。自分からいちばん遠いところに有るからだろう。好きなものを嫌いになりたくないからか、俺は全く金が稼げなかった。履歴書を今まで一体どのくらい書いただろうか。何枚書いてもひと月かふた月か経つとまた白紙に戻るので、しばらくやって、もうやめた。確かに何となく生きていく術は知っている様な気がする。しかし、それがまともでなくなってしまうような気がして恐ろしかった。本当はなんとなく生きる術なんか知らない。矛盾しているようだが、それが俺にとって唯一縋るべき処世術なのだった。
人の波がまた上下に揺れて、自然と駅の外へ押し出される。戻る方法を探すのもなんだか退屈に思えて、気の向くままに歩き始めた。歩けば歩くほど徐々に人の数は減り、ようやく自由に歩いている様な気になる。日陰を探して、やっと自由に右往左往。今日初めて見上げた陽は、やたらと元気だった。
足が掃けた真っ黒なコンクリートを歩き始めて、なんだか気分が悪くなる。視界が歪む程に強烈な陽炎がなんてことの無いつまらない道の上で浮かんでいる。もう何処を歩いているのかも分からない。気が付けばそこはもう俺だけの道になっていた。もうなんでも構わない、もうなんにも見たくない。どうしようもないほど、退屈な普通の道。
とうとう歩き疲れて、公園のベンチに腰掛ける。日が沈むまで、まだ時間がある。ポケットの中の薄い財布には、千円札がたった二枚挟まっているだけだった。折れた左腕の包帯の中に、ペットボトルが一本隠してある。「水があれば死にはしない」と投げ渡された物だ。優しい女だったと今になって思う。今になって彼女を肯定する言葉を思い返すのは随分未練たらしくて気持ちが悪い。しばらくは世間に落ちている彼女の欠片が俺をこういう生きにくい世界に追いやるのだろう。ひとつの天罰と納得して、受け入れるしかない。
しかしどうやってこのキャップを開けようか。退屈しのぎにもがいてみる。歯を使ったり、ベンチの隅を使ったり。
「おっちゃん何してるの?」
失礼な子供だ。俺はまだ二十代前半の若者である。しかし、まぁ確かに小学生から観ると俺も、三十路のおっさんも大して変わらないのかも知れない。
「丁度いいや、これ開けてくれ」
ペットボトルを差し出すと、男の子は嫌な顔せずに受け取った。
「ありがとな」
「別にいいよ。可哀想な人は助けなきゃね」
心外だったが、確かに俺は可哀想な人で間違いない。
「でもさ」少年は人差し指を立ててわざとらしく呟いた。
「親切にも無意味な行き止まりと意味のある循環があると思うんだ」
急に「意味」だの「循環」だのと言い出すものだから驚かされる。少年の顔が妙に大人びて見えた。まるで子供の様な風貌のジジイを目の前にしている様だった。奴の目は俺の方をじっと見つめている。妙な緊張感が俺らの間に漂った。俺が小さかった頃、こんなにも狡猾だっただろうか。
「言ってご覧」
「大した事じゃないよ。ただボールを探して欲しいんだ」
「サッカーボール?」
「野球のやつ」
少年は見たところ一人きりだった。一人で野球ボールを持って公園に来るなんてなんだか妙な気がした。しかし、お節介だろうから黙って従うことにした。
「おじさんはそっち側さがしてね」
少年が俺と反対側に歩き出す。俺は少年を呼び止めて、とある奇妙な違和感について言及しようとした。振り向いた少年は、なにかに気がついた様で、わざわざ全身でこちらを向いた。その様子がなんだか惨めだったものだから、俺は奇妙な違和感をそのままにすることにした。
「どの辺で遊んでたんだ?」
「向こうの方で遊んでて、それでこの辺に飛んできたと思う」
橙色に染った公園の隅。また俺はベンチに座っていた。そろそろ頃合だろうと立ち上がって、あの少年に手を振る。少年は向こうの方で大袈裟に両手を上げた。
「ボールあった。ありがとうおじさん」感謝されたのはいつぶりだろうか。きっとこの人生の所々で小さな感謝が時々頬を掠めたはずなのだ。しかし、俺がそれを心地好い言葉だと真っ直ぐに受け取らない人間になっていたのだ。夕日に背を向けると俺を起点に夜が伸びた。その方に向かって歩き始める。
俺は来る時よりも清々しい気持ちで公園を後にした。「親切の循環」とはなかなかいいものだ。真上の空で二羽のカラスが巣へ帰る。歩く俺の足元にはやたらと小さな石ころが落ちていた。
小さな石ころの数は徐々に減り、道が無機質になっていく。きっと孤独が列を為したのだ。予定通りに向かうバー。予想外につまらない。しばらく歩けば辺りは街灯ばかりになっていた。昼間には息を潜めていた本音の様だった。
ネオンで飾られた妙ちくりんな看板の前で立ち止まった。「roman」なんて、小洒落た名前を好んで使うつまらない男が頭に浮かぶ。しかし彼を目当てに歩かなくては他に歩く街すら思い当たらない。どうせ開店しているだろうと無造作に扉を開けた。
薄暗い店内の中は床もテーブルも真っ黒に揃えられている。カウンターには青いライトが弱々しく一本通っていて、それがトレードマークなのである。バーテンダーの顔が見えるように下から白いライトを当てているのが小賢しい。
「おー、麟太郎じゃん。おつかれ〜」
「はいはいはーい」
聞き飽きた言葉を遮って手を振った。吾郎はニヤニヤしながらカウンターの向こうでコップを拭いている。何もそんなに拭かなくったって良いのに格好付ける為だけに拭いているのだろう。
「どしたのその包帯。またそういうのにハマった?」
彼が思い出しているのは小学生の頃か、それとも中学二年生の頃か。半笑いなのが気に障るが、しかしまあ、奴が言うと何だか笑えてしまう。この声が俺を落ち着かせるのだろう。
「そうだよ、まぁなんか邪龍かなんか」
「ウケる」
「ウケるっしょ」
「まぁ座んなよ、何飲む?」
「もう座ってる」
店内は静かで、俺は当然異質である。カウンターの奥に一人女性が座っているくらいで、他に客は居ない。話し掛けるべきではないと察して、俺は吾郎に値段で選んだ酒を頼んだ。軽い返事と共にカウンターへ潜ってそれから色の着いた瓶を二、三本取り出した。
「そうそう、こちら本物の宇宙人さん。美人だよな? こういう日に来るなんてお前は随分ラッキーだ」
こちら、なんて言うならきっとそこの女性なのだろうと向くと、彼女は優しく手を振っている。「宇宙人さん」ってのは何のことだろう。ハーフアップに派手な服装。キャバか何かだろう。
「宇宙人ってのは失礼にならない? あんなに綺麗なのに酷いじゃんか」
彼女は思いの外手を叩いて笑った。「なーに言ってんの」なんて呟きながら吾郎が淡々と酒を調合し始める。
「宇宙人さんってのはなんで?」
「私宇宙人なのよ。遠い惑星から来たの」
吾郎が囁くように笑う。その宇宙人はやたら真面目な顔をしてそう揶揄ってくる。反応を期待されるのは苦手だ。何と言っても話が広がらない。宇宙人だからなんだ。宇宙人だってならなんだって言うのだろう。俺は宇宙人だろうが亡霊だろうが怪物だろうが興味無い。そこから一体どう話を盛り上げるつもりなのか、いや、そんなつもりも無いのだろう。「宇宙人」の次に「遠い惑星」なんてざっくりした退屈な句が続くのだから。俺はこの雑に広げられた風呂敷の畳み方を半ば他人ごとのように考えていた。
ようやく目の前に置かれたお酒を眺めて、何だか素に戻る。俺は帰る場所を探さなくちゃいけない。そう考えたならこの女は邪魔だ。ただ二人きりで吾郎と話がしたい気持ちになったのだ。きっと俺はほんの少しだけ寂しいのかもしれない。この寂しさをよく知りもしない宇宙人に盗み聞かれて溜まるか。
目の前に零れたばっかりの話題とやたら広い風呂敷がある。これらを纏めて持って帰ってもらおう。
「それで、宇宙人さんはなんでこんな所でご休憩を? 宇宙旅行でお忙しいでしょうに」
つまり俺は「帰れ」と思った。
「地球人さんは忙しかったら無駄なことなさらないの?」
つまり彼女は「気にするな」と言いたそうなのだ。しかしまぁなんともセンスの欠けらも無いセリフだ。どうにも伝わっているのか気になって、ナンセンスな言葉を重ねたくなる。そんな気持ちをアルコールで腹の奥に流し込んだ。
「生憎、忙しかったことが無いもので」
「あら、羨ましい」
随分間抜けそうな人だが、くだらない皮肉には悲しいくらいに敏感だ。寂しいライトが店内を駆け巡る。グラスに付いた塩が美しく煌めいて涙を流し結露を溶かした。頬杖を着けばこの瞬間の終わりを早めてしまいそうだ。たった一つの動作さえ何だか無頓着に行えない。浮かび上がった話題の中で、彼女の寂しさに触れている様な気持ちになる。無駄に何かを考えさせられるようで嫌だ。
「そう、忙しいの」
女が口を開く。きっと何も定めていない、そういう投げやりな言葉だった。
「この後にもお仕事があるんですもんね」なんて吾郎は言うと、宇宙人は少し嫌な顔をする。こういう所作を見れば確かに宇宙人だ。
「いえ、会議ですよ。ただの宇宙会議。小さな部屋の隅っこで大統領達と会合するのよ」
悔しい様な表情だった。俺は蚊帳の外からこの会話が彼女の気を損ねてしまうのではないかと不安に眺めていた。
「やっぱり宇宙人だなぁ」吾郎はまた、一つ乾いたグラスを取り出して拭き始める。女は一向に宇宙人であろうとし続けた。
「隣いい?」
「こいつ女癖悪いから気を付けてね」
「宇宙人を泣かせたことは一度も無いよ」
「だろうね。今日もまたお前が泣かされたと見える」
苦笑いする宇宙人に、未だ居心地の悪さを感じさせてしまっている気がする。何だか少し気は引けるけれど、それでも何もしないで見ている訳にも行かないような気ばかりしていた。きっとそれはグラスに着いた結露が、俺かそれともこの宇宙人のものか分からなくなったからだろう。珍妙な吾郎の前にこういうキザなのは辞めておきたい。その宇宙人はまるで自分を写している鏡の様であるが、それでいて何一つ分からなかった。実際自分の事など自分でもよく分からないのかもしれない。
「宇宙人もお仕事するんだね」
「えぇ、でもまぁ、お仕事の話なんかもうやめてください」
俺は頓珍漢にその言葉を理解する。彼女は俺から目を隠すようにグラスを傾けた。距離感がどうにも掴めない。まぁ、それもまたやはりひとつの人間関係であると達観してみる。宇宙人と言うからには多少は当たり障りのない柔らかな人だろうと勝手に勘違いしていた。他人と称するに相応しいつまらない鍔迫り合いのような会話が始まる気がしてならなかった。近付いたことを後悔するように、俺は椅子の端っこに座る。
「面倒ですね」彼女は思いの外空気を読んでいた。
「君が言うのか」
宇宙人はニヤリと笑った。裏が読めないのは無い所為か、いや、つまりこの子が宇宙人だからだろうな。
彼女の星はまさしく地球の様で、外の話を聞いたって面白くなかった。しかし、俺や吾郎の周りの話はしばらくかの宇宙人の気を惹いた。
「あぁ、それで、まぁこの吾郎という珍妙な男が偶然俺の前を車で通り過ぎようとしてくれてね」
「死んでると思ったんだが、残念。明日を生きたい数万の優秀な人間は死ぬ癖に、こういう輩は皆が望んだ明日を悠々生きやがる」
「残念ながらね」
「本当にね」
宇宙人はいつも豪快に手を叩いて笑う。バーに似つかわしくない笑い声は次第に辺りに客を呼んだ。「またこの間の話をしてやがるのか」「バーなんかやめて居酒屋にしなよ」「吾郎は料理できないからな」
段々と酒が回って、目も回る。宇宙の中にたった一人、俺だけが居るような気がして、もがいて、それからあの宇宙人がこちらを見ながら手を振った。
「りんたろーくんまたダメになったわ」「あーあー、飲みすぎ飲みすぎ」「吐くなよー」薄っぺらな言葉が俺の熱い顔に貼り付いて気持ちが悪い。遠くの方になんだか懐かしい声が在る。それを聞いて、なんだかすごく遠くて侘しくて、寂しくなった。
十人かそこらの内の誰かに奢られて、俺はきっとまたその内の誰かの肩を掴んだ。そいつも俺を抱え上げて、それから車に載せられた。何だか美しいダイヤモンドが目の前をいくつも通り過ぎて、「吐かないでくださいね」って言葉を何度も反芻していた。
大きな海が足元に控えている。いずれ俺を呑み込む予定なのだろう。砂が足の指の間に迷い込んで、食らいつく。身体の中心の方にある重たい臓器が、じんわりと下の方に引き寄せられていく。息苦しくなって、もうしゃがみこんでしまいたい。何処までも何も無い世界。水平線の向こうまでただ真っ青に据えている。両手で水面を救ってみると、そこにはたった一人の俺が居た。いつか見た海も、川も、それから二人で歩いた晴天の日も、もう何処にも無いのだ。
「ねぇ、起きてよ地球人」
頬に張り付くのは感覚がおかしくなるほど冷たい地面だった。コンクリートだろうか。薄目を開けると天国のように白く、それから世界を劈く地獄のような黒い雷が走っている。俺は目を閉じて、憧れの大理石の冷たい感触を楽しみ始めた。いや、とにかくさっさと起きないと身体が固まって苦しくなる。どちらでもいい。この感覚を大事にしても、この身体を大事にしても。夢の先の、ちょっとした体験期間。
「もう、困った人だな。この地球人は」
なんだろう、聞いた事があるような気はするのだが、誰の声か心当たりがない。りこさんは一昨日俺を突き落として居なくなったし、それと同時にあやちゃんも消えた。あと、じゅりちゃんは町田の方に居るはずだし、しゅなはもっと声が高いはず。心が躍らないのはきっとこうやって思い当たらないからだろう。
そもそも「地球人」ってのがどうも奇妙だ。そんな女と付き合った覚えは無いし、女でなければ俺の寝顔なんか見ないはずだ。
「おはよう、地球人」開いたままのカーテンがあの宇宙人を真黒に隠す。
「おはよう、宇宙人」床に寝転がったまま彼女を見上げる。宇宙人はたった一枚の薄い布を身体に心細く掛けただけの格好だった。何かを聞くにも面倒だったが、とにかくベッドは何処かと聞いた。
「無いよ。いつも椅子で寝てる。貴方は倒れて寝るのね」
「そうだろうね。そう、地球では横になって寝るんだ」
真っ白な陶器の食器に、銀色のフォーク。ベーコンに目玉焼き、山吹色のトーストと真っ白なコップに真っ白な牛乳。テーブルの向かいには彼女が居て、窓から入ってくる風がカーテンと彼女の茶色の髪との境界線を曖昧にしている。
窓の向こうには微かにビルの影が見える。何だかんだまだ都心からは離れていないのだろう。帰るにしても宛がない。じゅりちゃんには同棲中の彼氏が居るし、しゅなはそういうのに敏感であるから、できることならまだ頼りたくないのだ。悩みながら白身を綺麗に食べ切った。
「黄身苦手なの?」
俺の皿の真ん中には確かにわざとらしく黄身だけが寂しく落ちていた。
「昔は苦手だったんだ」
「なんで?」
「分からない」
彼女は俺の目を不思議そうに見つめている。この宇宙人に不思議がられるのは心外だ。口の水分が持っていかれるとか、芋のような食感のわりに卵の癖が強い味わいが苦手だったとか、そんな理由だったと思う。
「じゃあ、今は平気?」
俺はフォークの上に黄身を乗せて、ひと口で食べた。宇宙人は俺の方をじっと見ながら何かを考えているように振舞った。寝癖で綿のような髪を着けた頭を片肘ついて支えている。俺は口にまだ違和感がある内に「平気」とだけ淡白に答えて、牛乳で残りを流し込んだ。
宇宙人は笑うと目が細くなる。肘を着いたままフォークを上品に持って、その背を上に向けたまま食事を続けた。黄身を割って、一口大に整える。皿が汚れるのが気になった。フォークの刺さった部分さえ痛々しい様子がなく、元々その様に作られた絵画の様だった。ゆっくり持ち上げて、彼女の口許へ向かう。決して乱雑に口に放り込んだりせず、一瞬で吸い込んだ。淡い色の唇に黄身が照る。真っ赤な舌が口の端から延びてきて、右端から左端へ。それから瞬きを二回して、俺の方に注意を逸らした。
「ごめん」「別にいいよ」彼女の仕草はきっと上品な食べ方では無いのだと思う。最も俺には何が上品で何が下品なのか判別つかないのだけれど、触れ合ってきた多くの常識的観念からみればこの食べ方が異質であることを理解していた。しかし、俺はこの食べ方について否定的に考えることが出来ない。目を奪われたのが良い証拠だ。この人だけの美しさをその非常識に発見しているのだろう。
「いいね」
説明の仕様がなかったので何となくそう呟いた。
「良いでしょ」
何の事だか分からないけれど、きっと悪くはとられなかったのだろう。もう一度彼女はフォークを皿に向かわせ、ひと口、またひと口と食事を進める。
「随分良い家に住んでるんだね」
「えぇ、お金はあるの。お金は」
「へぇ、そりゃすごい」彼女が意図的に重ねた言葉は、俺の背中を引っ張った。お互いにその違和感を共有しているはずの癖に、踏み込むには互いの距離が遠すぎる。
彼女は溜息をひとつ吐いて見せた。何だかその様子がわざとらしくて、酷く傲慢で、丘の上に靡く白いワンピースの様だった。尽きぬ欲の最後が例えば漠然とした幸せだとするのならば、その一翼を担うのは金であるはずだ。否が応でもそのように世界は回ってしまうのだ。しかし、人の心を打つ結論はそれを退屈であるとする。俺はそう言う不誠実なのが嫌いなのだ。この食器だって目玉焼きだって大理石だって、全部満ち足りるほどにある筈だ。金に与えられた喜びであるはずなのだ。あれば十分じゃないか、金以外に更に何を求めようか。
いいや、本当はそんなところが憎いのでは無い。羨ましいのだ。俺が欲しても欲しても手に入らないものを呆気なく手の中で見せびらかして、更にその手に何かを乗せようとしているのがたまらなく羨ましいのだ。
「地球人にはお金が無いんだね」
「二千円くらいなら昨日まであった」
「それは随分怠惰ですね」
宇宙人は既に食事を終えていた。それから立ち上がって、皿を片付け、忙しなく準備を整える。足音がたった一人のものではないみたいだった。俺は何となく部屋の端っこにある居心地の良さそうな椅子へ腰掛けて、その様子を傍から眺める。彼女は黒いワンピースか何かを持って部屋を出る。まだそれを持ったまま部屋に戻って来て、ああでもないこうでもないと独り言をぶつぶつ呟く。今度はテーブルにそれを置いてそれから似た服を二着も背負って部屋にまた戻ってくる。終いにはこれでいいやとなにか吹っ切れた様子で、今度は洗面台へ早足で向かう。窓辺にある小さなサボテンに朝露が染み込んだ。「怠惰」なんて侮辱を奇妙なほど素直に納得した。
何やら騒がしく水が跳ねる。もう何時間もこの椅子の上に座っている様な気がした。居てもいなくても変わらないという感覚は自分の存在をより不確実なものにした。天井に格子状の模様が拡がっている。不確実な俺は居てもいなくても変わらない。不確実性が俺に時間と余裕を与えている。
「あ、そうそう」宇宙人が向こうの扉から顔だけを覗かせた。不確実性は論理的に破壊されるのだ。崩壊していく過程が不確実性をより凝固に不確実にさせていくから、これはこれとして時の流れの一環として嫌いではなかった。何も言わずに彼女を見詰め返す。
「帰りたくなったら部屋の鍵は机の上、家を出たらポストに入れて」俺は揺れ動く不確実性をただその運命のあるがままに受け入れていくしかなかった。
「不用心だね。わかった。ありがとう」
「え、あぁ、怒ってないんだ。黙ったままだったから怒ってるのかと思ったよ。地球人は良い人だね」
玄関の扉が閉まって、馴染めないままの部屋で一人きりになった。
居間の奥の方に何の変哲もない扉をひとつ発見する。もちろんその中身は知らない。俺はこの家についてリビングと洗面所、それからその方向にあるであろう風呂場くらいしか知らないのだ。しかし、この部屋が妙に気になる。
もちろん部屋の奥の方であるから、窓際からは遠い位置にある。それが原因でとても暗くミステリアスな雰囲気を作り出しているのだ。変に散策をするのは悪いことだ。しかし、ただ部屋の中のひとつの扉を無作為に開ける行為が散策に当たるだろうか。偶然ただ少し俺の気を引いているだけで傍から見ればただの扉だ。
ゆっくりと近付くと、胸の中にすんなり何かが通り抜けた。ドアノブに手をかけると、やや熱を帯びている。握り締めて、荒くなる呼吸を床の軋む音に感じる。
「そこ、開けたいの?」
耳に生暖かく湿った空気が当たる。俺は飛び上がってドアノブから手を離そうとする。しかし、その手は上から押さえつけられて、逃げ場が無いまま離せずに居る。宇宙人の手は酷く冷たい。凍えるほど不気味な心拍音が響いてくる。
「乙女の寝室を覗くなんて、地球人は悪い人だ」




