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シリーズ 睡眠役

睡眠役(II)ーパラドックス

作者: あみれん
掲載日:2026/02/26

二週間ほど、まともに眠っていない。ベッドに入っても、目だけが冴えてしまう。眠れない夜は、音がよく聞こえる。冷蔵庫の低い唸り、アパートの壁を伝う水道管の音、隣の部屋のドアが閉まる乾いた響き。少しの揺れや振動にも、まるで地震が起きたかのように体が過敏に反応する。

これを睡眠障害と呼ぶのだろうか?

こんな事は初めてだ。

原因が分からない。


会社では会議中、書類をめくる音が妙に大きく響き、頭の奥でかすかにガン、と痛む。

パソコンのキーボードの打鍵音も頭を突き刺すような打鍵音で、指が思うように動かず作業効率が下がる。

目もジワジワと涙目っぽくなってきた。

それとちょっとした振動にもビクつくようになり、エレベーターに乗るのが怖くなって、5階にあるフロアまで非常階段を使うようになった。

どれも寝不足が原因なのだろう、だが…不思議と睡魔は襲ってこない。

日に日に仕事への集中力が薄らいでいくようで、大きなミスをしでかす前にこの睡眠不足を解消しなければならない。

と言うか、仕事でミスる前に身体がどうにかなってしまうだろう。

だが帰宅して横になっても、ただずっと天井の色を眺めているだけだ。

夜が…終わらない。


診療内科を受診することにした。扉を開けると、白衣の女医が机越しに静かにこちらを見ていた。椅子に腰を下ろすと、落ち着いた声で生活のリズムや眠れない夜の状態について質問を始める。原因に心あたりのない私は、曖昧な答えしか返せなかった。


やがて女医はゆっくりと言った。

「あなたの症状には、対症療法として睡眠導入剤も効果的だと思われますが、もう一つ、別の方法があります。これはまだ治験段階ですが、人体に無害であることは検証されています。もちろん治療費はいただきません」


「どんな治療ですか?」

「“妄想療法”と呼んでいます。就寝前にこの薬を一錠飲み、布団に入ってあなたが理想とする情景——楽しい気分や優越感に浸れたり、ストレスを思いきり発散できる場面——を想像してください。薬の作用で、その場面が妄想として鮮やかに現れ、幸福感と充実感で満たされます。そして自然に眠りに導かれるのです。依存性はなく、続ければ薬なしでも妄想で眠れるようになります。もちろん強制ではありません」


女医は、声を低くした。

「一つだけ注意があります。訓練を終えて薬なしでも眠れるようになった人は、その妄想が現実になった瞬間、そこで眠りに落ちることがあります。妄想が“眠りのスイッチ”として脳に定着してしまうからです。例えば、理想の妄想が高級車を運転することだった場合、実際に運転した途端に……お分かりですよね。ですから、危険に直結する妄想は避けてください」


小さな白い箱が机の上に置かれた。

「まずは一か月、続けてみてください」


その晩から妄想療法を始めた。錠剤を飲み、ベッドに横たわる。だが「安心」より「警戒」が先に立ち、浮かぶのは夜の自室だけだった。暗い中で外の音を聞きながら、眠れないまま朝を迎える。現実と変わらない。


一週間続けても効果は感じられなかった。そもそも理想の妄想が何なのか、わからない。だが、不思議なことに、眠れない私は妙に落ち着いていた。夜の部屋でじっと起きていると、体の奥が静まり、何かを待ち受けているような感覚になる。


ある晩、大学時代からの友人・飛鳥とビデオチャットをした。ゼミも一緒で、就職後も何かと会ってきた仲だ。夜中のメッセージにすぐ反応してくれる数少ない相手でもある。画面の中の飛鳥は部屋着姿で、背後には植物が並び、湯気の立つマグを手にしていた。


「眠れてる?」

「全然」

「こっちは今日も快眠。仕事帰りに電車でうたた寝したくらい」

「羨ましい」

「身体、大丈夫なの?」

「もうそろそろ限界…」


「そういえば、2週間前の地震、大きかったよね。夜中に起きたやつ」

「ああ……あれ、私ぜんぜん気づかなかった。爆睡してた」

「ええっ? 私は飛び起きた。すごく長く揺れて、怖くて……」


揺れの話になると、喉が少し詰まった。飛鳥は気づかずに話を続けた。

「妄想療法って、どんな感じ?」

「理想の妄想をしろって言われても、できない。草原や海を想像しても、虫や潮の匂いが気になって……結局、眠れないまま朝を迎える自分を思い浮かべるだけ」

「それ、治療になってないじゃない」

「でもね、眠れないのに不安はない。不思議でしょ」


毎夜、眠れない私が見ている天井の映像が頭に浮かんだ。

白い天井は暗闇の中でボンヤリと白んでいる。

そのとき、時計の音が耳の奥で膨らみ、モニターの光が柔らかく揺れた。自分では会話を続けていたつもりだったが、気づけば通話は終わり、パソコンが閉じられていた。


数日後、飛鳥から「証拠」と題したメールが届いた。添付動画には、ビデオチャット中の私が映っている。まぶたがゆっくりと下がり、そのまま動かない。背景の時計は、私が目を閉じてから10分以上進んでいた。

え?!私がチャット中に眠っていた…?


医師にその動画を見せると、あるシーンで再生を止めて静かに言った。


「ここで、あなたは眠っています」

そう言いながら動画をふたたび30秒だけ巻き戻して再びそのシーンで再生を止めた。

しかし私には、そこに映っている「私」が眠っている、という事実を受け入れきれていなかった。


「あなたは“眠れない妄想”をすることで安心し、眠っていました」


眠ることを無意識に怖がる——睡眠恐怖症。眠れない状態を作ることで、自分は安全だと感じられるのだという。


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわめいた。2週間前のあの地震——白い壁、低い唸り、天井の影、本棚の倒れる音、埃の匂い、喉に残るざらつき。暗闇の中、眠っていた私は何もできず、ただ身を固くして揺れの終わりを待っていた。


眠らなければ、何かあってもすぐに動ける。その思い込みが、私を長く守ってきたのだろう。


妄想療法をやめることにした。効果がなかったからではない。むしろ、効果があったからだ。眠れないと思えば思うほど心は安定し、いつの間にかその“眠れない私”を妄想し、そして眠ってしまう。

今日、帰宅時の満員電車の中で立ちながら、今夜も眠る事が出来ないかも知れない自分を想像していたら、車内に響く走行音が遠のいていき突然膝が崩れて倒れそうになった。

その瞬間、危険妄想を避けろ――あの女医の言葉が遅すぎる警報のように頭で点滅した。


錠剤はもういらない。眠れない私、という妄想が睡眠の誘発スイッチとして十分に定着したのだ。


その夜、布団に入り天井を見上げる。「今日も眠れない」そうつぶやき、時計の音を数える。一、二、三 ——呼吸が深くなる。私は眠っていない。まだ眠っていない——

はずだ。

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