ライオンデイズ
動物園の最寄り駅は、夏休み中の子どもたちで賑わっていた。
本日、八月十日は「世界ライオンの日」だという。
ちょうど休暇が取れた私は、久しぶりにこの地を訪れていた。
駅の改札口を出ると、すぐに動物園の正門が見える。小さな川と道路を渡ればすぐに動物園だ。
電車でのアクセスが良いので、この動物園には一般車向けの駐車場がないらしい。
「サファリバス乗りに行こうよ! 早くチケット買わないと乗れなくなるよ!」
「やだ~! コアラが見たいの~!」
正門付近で、小学生くらいの姉弟だろうか、小さい子たちが喧嘩をしていた。
騒がしい子どもがいる場所では気が休まらない、という大人もいるかもしれないが、私は昔からこういった雰囲気の場所の方が落ち着くタイプであった。
「ヤダーーーッ!」「いいから、早く行くよ!」
泣き叫ぶ男の子と困り顔の女の子を眺めて、私は思わず苦笑してしまう。
「懐かしいなぁ」
私にも仲の良い姉がいた。
昔は、そんな姉といつまでも一緒にいられると信じて疑わなかった。
姉とは、ここ数年全く会っていない。
野鳥のさえずり、風に揺らぐ木々の音。
風に乗って、動物たちの香りが漂ってくる。
「そうそう。こういう感じだったな」思い切り園内の空気を吸い込んで、私は懐かしさで胸がいっぱいになった。
ところで、皆さんは、サファリバスをご存じだろうか?
ライオンなどの猛獣が放し飼いにされている広大なエリア内に、客が低速の車両で入って見学するというコンセプトの展示施設だ。
檻に閉じ込めた動物を外から見るのではない、伸び伸びとした動物たちの姿を間近で観察できるこの形式は、昭和三九年(一九六四年)に都内の某動物園で世界で初めて導入され、大人気となった。
今では、同様の展示施設は国内だけで十か所以上は存在し、中には自家用車で入れる施設も存在するという。
発着場の建物で耐震強化やバリアフリー化のための工事が必要らしく、この動物園のサファリバスはしばらく運航停止になっていた。
数年前に再開したと聞いていたけれど、今でも人気アトラクションなんだなぁ。私は少し嬉しくなった。
「せっかくだし、色々と見て回っても良いんだけど……」
園の正門から続く緩やかな坂道を登っていくと、左手にはギフトショップやカフェなどがある。
それらの建物の前を通り抜け、右手に現れた急な坂道を登って真っすぐ進んでいく。
「そろそろ見えてくるかなぁ……あれっ!?」
特徴的なデザインの屋根が見えてくるはずだった。
アフリカエリアなのに、何故かインドのタージ・マハルっぽいデザイン。
わりと好きな建物だったのだが、それが綺麗さっぱり無くなっていた。
「もしかして、地震に弱い建物だったのかなぁ」
思い返してみると、結構古そうな建物だった気もする。取り壊しちゃったのかぁ、残念だな。
見慣れないチケット売り場でチケットを購入して、待つことしばし、ようやく新しいサファリバスに乗ることができた。
ちょうど、先ほど正門付近で見かけた姉弟も同じバスだった。
「すげー! ライオン! 近い!!」
先ほどは大泣きしていた男の子も、ライオンを見たらすっかり機嫌が直ったらしく、大興奮といった様子で窓に額をくっつけている。
バスの側面には餌である生肉が取り付けられており、ライオンの方からバスへと近づいて来てくれる仕組みだ。凄い迫力がある。
ライオンの大きな肉球や爪、牙や舌使いまで、窓のすぐ向こうで詳細に見られるのは、サファリバスの醍醐味だ。
「近づいてくるのは、メスライオンばっかりだねぇ」姉弟の母親らしき女性が呟く。
「ライオンのオスって、ほとんど狩りに参加しないんだって!」どこかで読んだのだろう。姉らしき女の子が元気よく言った。
思わずそちらに目をやった私は、母親らしき女性と目が合ってしまう。
「すみません。騒がしくて……」申し訳なさそうに頭をさげる女性。
「いえいえ、とんでもないです。とっても詳しいなぁ、と思って感心していたところですよ」私は笑顔で返した。
褒められた女の子が嬉しそうに「自由研究でライオンについて調べてるんです!」などと教えてくれる。
夏休みと言えば自由研究か。なるほど。そう言えばそんなことをしていた時期が私にもあったなぁ。
「夏休みの宿題かぁ。偉いねぇ。ライオンのどういうところが好き?」気が付くと、私は見ず知らずの女の子に質問をしていた。
急に問いかけられた女の子は、少し考えた後で「強くて頼もしいところが好きです。あと、連携して狩りをするところも好きです! ライオンの群れはプライドって呼ばれるんですけど、プライドのメスはずっと変わらず一緒で、ずっと仲良しなんです!」と教えてくれた。
「本当によく知ってるね」私は素直に凄いと思った。想像していた以上にしっかりした答えが返ってきて、驚く。
オスライオンは色々なプライドを転々とするが、メスライオンは基本的に生まれた時から祖母、母親、姉妹などとともに変わらず同じプライド(群れ)に居続ける。
狩りにオスライオンが参加しないのは、体格が大きすぎて隠れ切れないというのも一因なのだろう。
しかし、それ以上に、常に同じプライドで気心知れた連携をするメスライオンたちと比べ、数年に一度のペースで入れ替わる可能性があるオスライオンは、どうしても連携力が劣ってしまう。
だからこそ、オスライオンには子守りなどを任せて、メスライオン達が餌を取りに行くのだと言われている。
ただし、もちろん例外はある。メスライオン達では手に負えない相手、外敵がやってきた時などがそれに当たる。
「あっ、オスが来たよ!」窓に額をくっつけていた男の子が声を出した。
立派なタテガミを持った若いオスのライオンだ。初めて見る。最近新しく生まれたのか、他の園からやってきたオスかもしれない。
さて、どうなるか。
窓に額をくっつけていた男の子を見つけたオスライオンは、ちょうど停車しているバスの真横にある木製のデッキに登って、男の子と目線の高さを合わせた。
まるで、獲物を品定めするかのような目だ。
傍から見ているこちらとしても、手に汗握る緊張の一瞬である。
バスの運転手さんが、近づいてきたオスライオンのプロフィールを丁寧に紹介してくれた。やはり、聞きなれない名前だ。昔はいなかったオスであることは間違いない。
オスライオンは男の子と窓越しに額を擦り合わせるようにする。まるで、親しい友にそうするように。
「あっ、今のはもしかして、仲間への挨拶みたいな感じかも!」女の子が嬉しそうに言って、メモ帳に何か書き留めていた。
オスライオンは、さっと窓ガラスから離れると、何やら自分の身体が気になる様子で、しきりに首を振っている。
残された男の子は、しばし呆然としていたが、急に窓ガラスを舐めようとして母親に怒られていた。
「こらっ、汚いから止めなさい!」
バスが再び発車する。
何事もなく済んで良かった。私はホッと胸を撫でおろしていた。
遠くなっていくデッキの上では、新しいオスライオンが、プライドのメス達に歓迎されている様子が見えた。
その中の一頭と目が合う。
もうすっかり年老いてしまっていたが、私はすぐに、それが姉だと分かった。
――――
子どもの頃のことである。
私は両親や姉とともに、目新しい展示を見に行った。
それがサファリバスと呼ばれるものである、ということすら当時の私は理解していなかった。
しかし、思い返してみると、広大なエリア内に建つ、例のタージ・マハルみたいな建物の傍に、奇妙な模様が描かれたサファリバスが出てくる戸があったという記憶が残っている。
私は、その奇妙な乗り物に興味を惹かれ、全速力で道を走っていった。
途中までは姉も一緒だったはずだ。
でも、気が付くと、姉はどこかに行ってしまっていて、奇妙な乗り物の近くに到着したのは私だけであった。
姉の到着を待ったが、振り返っても呼んでも、姉は一向にやってこなかった。
待ちきれなくなった私は、姉を待たず、乗り物に近づいていってしまう。
奇妙な乗り物は動いていなかったが、唸り声のような低音をずっと発していた。
運転手は、よく分からない言葉で車内に向かって呼びかけているようだった。
私は恐る恐るそのバスに触れた。
――駄目! 戻って!
どこかから、姉の声が聞こえた気がした。
けれど、周囲を探しても、姉の姿はない。不安よりも、好奇心が勝った。
私は、改めてバスをよく観察してみようと思い、周囲を見回す。
近くの足場に登れば、乗り物の側面にある窓ガラス越しに、中を見ることが出来そうだった。
両親や姉が追いついてきたら、きっと叱られるに違いない。
私は、申し訳ない気持ちで一杯になりつつも、足場に登り、乗り物を覗き込んだ。
運転手も含め、乗り物に乗っているのは皆、見慣れない姿をした様々な種類の動物であった。
驚いたことに、その動物たちは、皆そろって窓越しに、私のことを凝視しているのだ。
正直言って、かなり怖かったが、その中で一匹だけ、友達になれそうな小柄な動物がいた。
窓越しなので、安全だろうと思った。
私は窓越しに、そいつとしばし見つめあい、それから挨拶をした。
挨拶をした瞬間、不思議な現象が発生した。
私の頭の中に、様々な知識が一気に流れ込んできたのだ。
まず、私と見つめあっていた、そいつの名前を知った。
そいつは、小柄な種類の動物だったのではなく、人間の子どもだったことを知った。
この乗り物がバスという乗り物であることを知った。
ただのバスではなく、サファリバスという特別なバスであることを知った。
バスに乗っていたのは様々な種類の動物ではなく、皆、様々な服を着た同じ動物――人間であったことを知った。
人間たちがバスの窓越しに見つめていた私は、ライオンと呼ばれる生き物であったことを知った。
自分が今まで生きてきた世界は、動物園と呼ばれている檻の中であることを知った。
もう自分はライオンではなく、小さな人間になってしまったということを知った。
そして、窓の向こうで慌てているオスライオンの中身は、この小さな人間の中にあった魂なのではないか、と気付いた。
私と小さな人間は、入れ替わってしまったのではないか、と悟った。
無情にも再び発進したバスがオスライオンを置いて走り去ってしまうまで、私は何度もライオンの言葉で自分の身体に向かって話しかけ続けた。
もう一度、頭を窓ガラスに擦り付けるようにと、呼びかけた。
でも、駄目だった。入れ替わってすぐだったので、ライオンの言葉が分からなかったのかもしれない。
私は、元に戻ろうとして、何度もサファリバスに乗ろうとしたが、人間の家族に止められてしまって、泣いた。
泣きつかれて眠ってしまった後、目が覚めると、元に戻りたいという気持ちが薄れてしまっていることに気付いた。
人間の身体の記憶が自分のもののように使えるようになって、人間の言葉も難なく話せた。
けれど、もうライオンの言葉はよく思い出せなかった。
それでも、人間としての生活は、動物園での暮らしよりも幸せで、新鮮な経験に満ち溢れていた。
小さな人間から引き継いだ身体と記憶を必死に駆使して、夏休みの自由研究をこなした。
受験勉強をした。
就職もした。
その間、何度かサファリバスに乗って自分の元の身体や姉に会いに来た。
けれども、私は、ついに元の身体に戻ることは叶わなかった。
オスライオンの寿命はメスライオンよりも短いという。
飼育下でも十数年で限界を迎えた。
私がここ数年、この動物園に来ていなかった一番の理由。
それは、もうここに来ても自分の元の身体に戻ることは叶わなくなったからである。
なぜ、このような入れ替わり現象が発生したのか。
随分と賢くなった今の私でも、明確に答えを出すことはできていない。
しかし、一つ、仮説を立てることはできた。
飼育下のライオンは、野生のライオンと異なり、外敵に襲われるという心配がない。
他のオスライオンがプライドを襲ってくることもない。
ゆえに、オスライオンがプライドを追い出されることもなく、いつまでも同じオスライオンが居続けることになる。
そのため、メスがオスに飽きてしまう――つまり、人間で言うところの倦怠期のようなものが訪れてしまうのではないだろうか。
その際、メスからの愛情を欲したオスの身体は本能的に無意識的に、せめて魂だけでも別の存在に入れ替わろうとしてしまうのではないか。
入れ替わったところで、大した問題は起こらない。戸惑うのは最初の数時間だけである。
それを過ぎれば、入れ替わった後の身体の記憶も全て思い出すことができるし、戻りたいという欲求も減っていく。
誰に気付かれることもなく、入れ替わりは完了する。
……そう思っていたのに。
いままさに、サファリバスの窓の外を、一頭の年老いたメスライオンが追ってきている。
私の姉であった。
「どうして……」
気が付くと、窓に額を擦り付けるようにして、私は静かに涙を流していた。
向こうはもう、私の顔なんて忘れてしまっていると思っていたのに。
バスの運転手が、追いかけてきている姉の姿に気付いて、姉の名をアナウンスしてくれる。
私はとうとう涙が止まらなくなった。
姉は、次の停車位置で追いついて、窓越しに私と最後の挨拶を交わしてくれる。
瞬間。私の頭の中に、姉の身体に宿る記憶が一気に流れ込んできた。
姉の魂は、すでにそこにはなかった。
私と入れ替わってしまった人間のために、死の間際に自分の身体を差し出していたのだ。
人の人生を奪ってしまった私の罪を償う機会なんて、もう二度と訪れないと思っていたのに。
姉のおかげで、およそ二十年ぶりに、私が奪ってしまった肉体は、元の持ち主へと返されたのである。
――ありがとう。もう一度、会いに来てくれて。
礼を言いたいのは、こちらの方だ。
おかげで、私は姉の最後の願いを叶えてあげることができた。
胸を張って姉と再会できるというものだ。
私は急に重くなった身体を翻し、デッキを降りて、一つ前のデッキへ向かって歩き出す。
急にオスライオンになって戸惑っているだろう男の子を、少しでも安心させてあげるために。




