足りなかったもの
週末の午後。
駅前のカフェは、遅めのランチをとるカップルや友達同士でにぎわっていた。
私はその中で、一人きりでホットラテをすすっていた。
スマホを何度も見てしまうけれど、優斗からのメッセージはなかった。きっと、まだ仕事をしているんだろう。
彼は真面目だ。恋人としての責任を、しっかり果たそうとするタイプ。
…でも、最近、その「しっかり」が、重く感じるようになっていた。
「お前といると、がんばらなきゃって思える」
それは、直人がまだ私と付き合っていたころに言った言葉だった。
そのとき私は嬉しかった。
私の存在が、彼を高めている——そう思えたから。
でも今になって思う。
もしかして、それってプレッシャーだったのかもしれない。
私はいつも正しくあろうとした。
料理も、仕事も、時間の使い方も、付き合い方も。
「これが理想の彼女」だと、信じて疑わなかった。
だけどそれは、彼にとって“居心地の悪い正しさ”だったのではないか。
カフェの窓から外を見ると、向こう側のベンチに座るカップルが見えた。
彼女は彼の肩にもたれて、何かを笑っている。
彼は、その髪をくしゃっと撫でて、何も気にしない顔をしていた。
——あのときの直人も、あんな顔をしていた気がする。
でも、それは私といるときじゃなかった。
別れたあと、偶然街で見かけたときの、彼と“あの子”の顔だった。
なんで、そんな無防備な顔ができるんだろう。
あのときの私には見せなかったのに。
夜、優斗からやっとメッセージが届いた。
「遅くなってごめん。今日は疲れたから寝るね。また明日話そう」
優しさの中に、壁のような距離があった。
私たちはきっと、「ちゃんとした関係」になりすぎたんだと思う。
ルールがあって、秩序があって、正解ばかりを選んできた。
でも、心って、そんなふうに動くものじゃない。
直人が私を選ばなかったのは、
もしかすると私が「隙を与えなかった」からかもしれない。
頼らせてあげる場所も、甘えさせてあげる余白も、なかったのかもしれない。
完璧な彼女だったかもしれないけど、
“ただの人間”としての私を、見せてなかったのかもしれない。
寝室のベッドに体を横たえて、天井を見つめる。
思い出が、頭の中を巡る。
直人の笑い声。
優斗の真面目なまなざし。
どちらも、嘘じゃなかった。
でも私はどこかで、いつも「評価される自分」でいた。
もし、あのとき。
もっと弱さを見せていたら——
もっと甘えたり、わがままを言っていたら——
彼は、私を選んだだろうか?
そして今、優斗に対しても私は——
“また同じこと”をしているんじゃないだろうか?
心の奥に、薄くひびが入った音がした気がした。
それは、過去の傷ではなく、現在のもの。
優斗との関係が、静かに崩れはじめていた。
そのことに気づいても、私はスマホを閉じるだけで、何もできなかった。