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微睡む牙古鳥の随筆

愛すべき我が地元

 令和の……六年だったか。西暦の2024年も、最早半分どころでなく過ぎて、今年も盆がやってきた。

 あるいは、盆が過ぎようとしている。個人的見解で言うならば、「盆」と呼ばれる季節や時期というものは、社会人にとっての休暇日程の一つに過ぎず、故にまとまった(・・・・・)休暇の(・・・)日程(・・)の呼称であるものとして、意味的に再構成されているように感じる。


 あまり文化の詳細に関して明るくはないが、要するに「盆」というのは祖霊が生前の居場所に帰ってくること――楽土から不完全な現世を懐かしみ、今を生きる我々と限定的、あるいは部分的な交流を図ることを目的とした、一種の里帰りをする季節であるのだ、と理解している。

 実際にはどうなのか、などは知る由もない。少なくとも、私はまだ自認において死を迎えておらず、既に死んだ知り合いのいま(・・)を本人から聞くこともあたわず、たとえば現に盆の期間に昔死んだ知り合いを夢に見た、みたいなことも(少なくとも記憶の上では)全く無いのだから、かねてより尽きず疑問のある「死後の世界」という概念について、私は一定の明確な結論を持っていない。

 それでも「こうだったらいいのにな」という、無根拠な感覚はなくもない。それこそ盆の期間だけでも現世に戻ってきて何かをするだとか、そうでないにしろ、たとえばボードゲームで一人だけ先にあがり(・・・)を迎えた後のように、後はうしろから好きなふうに口を挟みつつただ眺めるだけの、ある種退屈であり得ても平穏で不安のない、次が始まるまでの猶予期間を暇に過ごすかのような、前向きな無駄の時間だとか、そういうのであればいい。


 それでも、人が飽きもせずに(・・・・・・)生まれてくる(・・・・・・)ということ自体に、死と不在に対する非常に悲観的な想像も、決して脳裏から離れることはないといえる。



 終わって、無に還っては、おぞましい苦痛に耐えなくてはならず、我々はそこから逃げるように、現世に弾き出されているのではないか、と。


----


 とはいえ、現実的には人――のみならず、全ての生き物というものは、ただなんとなく「その方が良いに違いない」と、意識的かどうかに依らず、それぞれの手段をもってただえていくのに過ぎない、とも思う。

 生きる理由を知らないのと同じく、死を避けたい理由も本質的には知らないのだから、死ぬことが一概に悪いと断じられる理由も存外になく、精々苦しみから遠ざかりたいとか、生きる過程における「満足」の獲得を求めて、そういう意味で「死んでは何も始まらん」からこそただ生きることを継続したいとか、別にそんな程度の納得でも構わない。


 生きるにせよ死ぬにせよ、そこに伴う理由は明確で、強固な方が良い(・・)のだと思い込む傾向があるようには思うが、理由の明確さと強固さは、それを否定されたときの反動も相応に大きくなるのだから、所謂いわゆる「考えても仕様がないこと」に関しては、結論付けるよりはなんとなく納得した気になっている(・・・・・・・)程度の方が、生存確率は上がると言えよう。

 本質的にはどちらでも、生きたいように生きて、死にたいように死ねればいいのだから、ここで私が言うところの「存在イデアの強度」と「生存の確率」、そのどちらが高いことが一概に正道と断じられるかは、物事の解釈によるだろう。一般的には、後者の方が正しい生き方だと思いますけど、まぁまぁ。



 例によってそんなことはどうでもよくて、今年の盆は地元に帰りましてね。麗しの、播磨国はりまのくに

 ざっくりと言えば兵庫県南西部を指すらしい旧国名だが、個人的見解で言えばアレは要するに姫路のことを指すのだと勝手に再解釈はしており、それにおいて国宝「姫路城」の存在は、私個人が何かしら実際に権限を持つことは皆無であるにせよ、自認において


「全部ワシのもんじゃ!」


 と思う程度には、さながら自宅の庭にでもあるような気分で誇らしく思う、地元の宝である。

 ……宝と言えば、そういや土産屋で玉椿(※)を買おうとしていたのを完全に忘れていたな。まぁいい。


 夏の昼や夕方に、鮮烈な日光を浴びながら歩いて帰る、地元の景色が好きだった。

 姫路駅近辺は、まぁ都会の街並みでありながらも(条例的に)高い建物はなく、圧迫感のないところで、少し歩いて駅前を離れれば、立ち並ぶ街路樹が誇らしげに緑に輝いている。

 青空の下には雄大な姫路城が、町のどこからでも……は、流石に過剰な表現だが。近いとどこからでも見れます。

 ちょっと前――とは言ってももう数年どころでなく前だと思う(※)が――、改修工事があってすぐは、見慣れない真っ白な屋根瓦が敷き詰められていたが、今では落ち着いた黒っぽい色の屋根瓦に戻りつつある。というか、以前は(・・・)白かった(・・・・)というのが、伝聞の知識だけでなく、現にそうであることを再演されてすら、未だに納得には程遠いままだ。


 でもまぁ、地元のいいところで語るような事はそれくらいしかないし、単に「地元だから」好きなのだと言ってしまえばそれまでだろう、とも思う。

 自家用車がないと、自由に買い物に行くのにすら難儀するし、娯楽施設が大量にあるわけでもない。うちの近辺には街路樹とか公道(※)、図書館や美術館や動物園しかないし、姫路城なんて学生の時分に事あるごとに行っていた気がするから、目新しさは別にない。案内板の表示は全部丸暗記している、というのはもちろん嘘で。


 どちらにせよ、住んでいるところ――位置というよりは概念的な意味で――について、それを良いところだと思うか、悪いところだと思うかは、その場所に対する自分自身の解釈によってこそ大きく変わり、何が足りていなくても十分だと思えば十分だし、何が欠けていなくても不満足だと思うなら不満足でしかない。

 場所であれ、境遇であれ、その他諸々の何かであれ、概念を結論付けて価値を享受するのはあくまでも個人であるから、差し伸べられる手を妨害だと感じることも、悪意に由来する助力の良い部分だけを掠め取ることも、気の持ちようで現実は色を変えるものだ。色即是空、空即是色というわけですな。たぶん。


----


 これといって主張したい内容があるわけでも(普段から基本的には別に)ないわけで、後はあったことをベースにしててきとうに締めに向かっていくわけだが。


 これはもう分かりきっていたことではあるが、帰省中に結構太りました。

 そりゃまぁ最近は精力的に運動を、だのとか食事量もいくらかどうこう、だのとか部分的にでも気を払っていたところを、食事の性質も基本的には家族任せ、運動に至っては


「実家で汗掻くのもなぁ」


 とかいう、極めて雑な理由で「もとよりする気がなかった」とくれば、体重は戻るのが必然である。なので、一人暮らしの家に戻ってからは、増えた分はまた痩せることが出来るというわけだ。



 それがどんな些細なことであろうと、あるいは人生の分岐点ともなるような一大事であっても、万象は起こるように起こり、過ぎるように過ぎて、結果が後に残るばかりなので。


 そこで人生を終わらせる気がないのなら、起こったことは受け入れて、あるいは一切受け入れられなかったとしても、その後に続いていく過程を、より良いものに進めていく。


 そして、いずれは終わる道程に。


「色々あった気がするけれど、概ね良い人生でした」


 と、魂に刻み付けて、ゆっくり眠りたいですね。

 それでは、これからも頑張りますか。ほどほどに。

※玉椿:伊勢屋本店の和菓子で、姫路の定番の土産物。たぶん。甘くて美味しいので好き。


※姫路城の改修:2009-10/2015-03の期間とのこと。約十年前じゃねえか。


※公道:国道の間違い。公道は通常どこにでもある。

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