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第34話 囚われの姫を救いに

 お腹いっぱい食べさせてもらった蕎麦屋を過ぎ、坂道を上ればいよいよ扇家の敷地が見えてくる。――そう思った時だった。


 オオオオオ、ヨ……ド……ダ、オオオオオ


 地響きのような声が聞こえ、心臓がどくりと跳ねる。体は勝手に震えて止まらない。

 全身の毛穴が開き、そこから禍々しい呪いが流れ込んでくるようだ。


 呼吸を忘れてしまいそうなほど邪悪で、凶悪な妖気を感じる。


 ヨメ……コ……、オオオオオ、……ヨメ


 鳥の群れが何かから逃げるようにして一斉に飛び立った。

 息を整えどうにか顔を上げると、八滝山から夕暮れ時の空に向かって黒い影が煙のように伸びているではないか。


「あれは一体?」


 隣で耕雨が空を見上げて呆然と呟く。


(これが山の妖の力? だとしたらあまりに危険で、旦那様の手に負えるわけがない)


 蒼葉は運転手に車を停めてもらい、砂利道に降りる。


「耕雨様と運転手さんは今すぐ引き返してください!」


 本能的に、ここに居ては危ないと思った。

 どんな災いが降りかかってくるか分からない。惣田や行雲、扇家の人間も早く避難させなければ。


「蒼葉ちゃんは!?」

「たぶんあそこに旦那様がいるんです! 助けに行ってきます!」 


 蒼葉が駆け出すと耕雨も慌てて車を降り、後を追ってこようとする。


「僕も行くよ。一人じゃ危険だ」

「大丈夫です。私は普通の人間ではないので」


 蒼葉はわざと耳ともふもふの尻尾を生やして彼に見せた。

 人でないことがついに知られてしまうが致し方ない。


「蒼葉、ちゃん?」


 耕雨は目を丸くして尋ねる。運転手もずれた銀の眼鏡をかけ直し、化け狸の姿を凝視していた。


「はい。あの黒い煙もたぶん、こういう類のものなんです。何が起こるか分からないので逃げてください」


 精一杯説得したつもりだが、それでもまだ耕雨の表情に迷いが見えた。


 いつの間にか黒い煙は天井を雲のように覆い、今にも災いが降りかかってきそうだ。


(そうだ)


 蒼葉はふと耕雨への頼み事を思いつく。

 

「あの、一つ大切なお願いをしても良いですか? 行雲様の勤め先に行って、土居大佐という人にこのことを知らせてほしいんです」


 行雲の上官ということは、妖討部隊の偉い人のはずだ。巨大な妖が現れたと知れば、援軍を送り込んでくれるかもしれない。


「あ、ああ。分かった」


 耕雨は心配そうに眉を顰めている。

 急に得体の知れない存在を目の当たりにし、それに身内が巻き込まれていると知って、恐怖や不安を感じているのだろう。


 蒼葉も強大な邪気を撒き散らす黒い妖が怖かった。けれど、無理やり笑顔を作って宣言する。


「心配しないでください! 旦那様は私が無事に連れ帰ります!」

「分かった、気をつけて」


 ようやく車に乗り込んだ耕雨に向かってぺこりと頭を下げ、蒼葉は扇家に向かって走り出す。


(耕雨様、今までお世話になりました)


 行雲を無事帰すことができても、化け狸の蒼葉はもうあの家には居られないだろう。

 

◇◆◇


 扇家の門は閉ざされていた。


(ふぐぐぐぐ……! ふんぬぅっ!!)


 蒼葉は狸姿に戻り、門の下をなんとか潜り抜ける。今まで引っ掛かることなく通れていたのに、このところ食べ過ぎて太ったらしい。


 敷地の中は案外静かだ。蒼葉は一直線に酒蔵へと向かう。


 オオオ……ドコダ、オオオオオ、ヨメ……

 

 べしゃり。


 何かが地面に落ちてひしゃげる音がする。渋柿でも投げられたかと思ったが、黒い塊だった。


(ぎゃっ!? 何これ! 空から降ってきた!?)


 見上げると空からまばらに、ぼとり、ぼとり、と黒いものが降ってくる。

 何なのかは全くわからないが、絶対に触れてはいけないものだろう。


 地響きのような声がする度に黒いものが放出されるようだ。

 蒼葉は心の中で「わぁ〜!!」と泣き叫びながら、空から降ってくる妖の爆弾を避けて走った。


「おやっさん、早く家へ入りましょう!」


 酒蔵の前には男が二人いた。


 一人は姫花の父で地面に膝をつき、開かれた酒蔵の戸をぼんやり見つめている。顔面蒼白、目は虚ろ、まるで魂が抜けてしまったように見える。


「もう駄目だ……終わった」

「ぼーっとしてる場合ですか! 早く逃げないと黒いやつに当たって死んじまいますよ!」


 もう一人の若い従業員は必死に避難を訴えるが、姫花の父には届いていないようだ。

 放心状態のまま「封印が解けたんだ、どこに居ても同じだ」と呟き、ぼとぼと落ちてくる黒い塊からも逃げる気配はない。


「あなた、一体何が起こっているんですか!?」


 母屋の方から姫花の母親が血相を変えて駆けてくる。


(よっ、おっと、ほっ)


 皆、異常事態に気をとられ、背後で踊るように黒い塊を避けている狸には気づかない。


「龍神の封印が完全に解けたんだ」

「龍?」

「堕ちた龍だよ」


(それは子どもに言い聞かせるための作り話では?)


 昼間、彼の口からそう聞いたばかりだ。姫花の母も疑問に思ったようで、蒼葉と同じことを聞いてくれる。


「いや。本当の話さ。龍はここに封印されていたんだ。それを誰かがこじ開けてしまった。……きっと百鬼の息子だ。復讐しに来たに違いない」

「どういうこと……? 全く話が見えないわ」

「おやっさん、おかみさん、それより今は早く避難すべきです!」


 話が嚙み合わず凍り付く夫婦に、若い従業員は声を裏返して訴えかける。

 今すぐ逃げ出したいだろうに、主人を置き去りにできない青年が段々可哀そうになってきた。


(ん?)


 誰かがゆっくり近づいてくる気配を感じ、そちらの方に目をやると、瘦せ細った女性がふらふら歩いてくる。

 蒼葉は一瞬、誰なのか分からなかった。


「姫花……?」


 母親が呼んだ名前を聞いてようやく、骨と皮ばかりの女性が姫花なのだと知る。


 美しい面影はどこにもなく、目は落ち窪んで死人のようだ。蒼葉は変わり果てた恩人の姿を見て胸を抉られるような強い衝撃を受ける。


 彼女は両親には目もくれず、酒蔵に向かって歩みを進める。どうも様子がおかしい。


「姫花、ちょっと待ちなさい!」


 ヨメ……ヨメ……ツイニ……、オオオオオ


 母親は娘を追おうとするが、それを妨げるように彼女の前に黒い塊が落ちた。


(まずい!!)


 姫花を迎え入れた蔵の戸は、他の者の侵入を拒むように閉まりかけている。


 蒼葉は右へ左へ、落ちてくる黒い塊を避けながら全力疾走し、扉が閉まりきる前になんとか隙間を潜り抜けた。

 あともう少し太っていたら、体を挟まれていたかもしれない。

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