三月二日
「おはよう。」
寝起きのままぼーっと前を見据える。前から部屋着のパパが私を見ていた。
春の寒い空気がふんわりと、頬に伝わる。
「おはよう。よく眠れた?」
後ろからまだ眠っているお母さんの温もりが感じられる。寝ているからだろうか、お母さんが普段より涼しい。前のパパは、まだ部屋着のままだから寝起きなんだろう。
「うん。」
優しいけど、少し眠たげな目付き。
「パパもよく寝た?」
「うん。よく寝たよ」
私とは違う、真っ黒な瞳が見える。
パパの黒い瞳をじーっと見詰めた。じーっ、と。
「なに?」
私の頬に手を添えて、とても優しい声で訊ねる。ひたすら優しいだけの声。
パパの問ににんまりと笑い返す。
「なにその顔。お母さんの真似?」
にんまりと笑い返してくれた。笑顔に笑顔で答える人って意外と少ないんだよな。
「ばれた?」
今度はにこにこと笑う。
「ばればれだよ」
にこにこと笑い返してくれる。
幸せそうな顔だねぇ。こっちも幸せになるくらい。
「ん」
ほっぺたをぐりぐりと弄られる。
「んふふ」
パパがお母さんみたいに笑った。楽しくて、嬉しくて仕方がなくて、少しだけ意地の悪い顔で。
人によくこんな顔で眺められる気がする。どうしてだろう。
「やめっ。」
頬を弄る手を押し退ける。
「だめ?」
「だめ。」
媚びてる?
「ほっぺたなでなでするのだめ?」
媚びてる。
「駄目。」
私の頬へ伸ばす手をぎゅーっと握る。変なことしないように、ぎゅーっと。パパの手大きいから指三本くらいしか握られなかった。
「分かった」
悪戯っぽく笑いながらやめてくれた。それとほぼ同時にぎゅーっと抱き締められた。後ろから、お母さんに。
「うちの娘になにすんのよぉ」
パパに見せ付けるように、私の頬をぐりぐりと。弄ぶ。
ちょっと強いな。ほっぺた痛いよ。
「こらっ。強引に扱っちゃ駄目でしょう?」
「あたしの娘だもんっ」
頬が掴まれてなんも喋れないので、ただ黙っていた。
「君だけの娘じゃないよ」
パパがお母さんの額をとんと指で刺す。
「……」
頬は離してくれた。
私が言うとあまり効かないけど、パパの言葉はよく効く。どうしてだろう。
「朝からもてもてだね、マリエは」
にこにこ笑いながら、パパと笑い合うお母さん。抱き締める力がちょっと弱まった。
仲いいね二人とも。さっきまで私で喧嘩してたんじゃなかったっけ。
「あっ、だめ」
「うぎゅぅ」
弱まった隙を狙って逃げようとしたが掴まれた。早いなぁお母さん。
「ご、ごめんね……」
ずるりと元のところに引き上げられる。
「………」
これを見て楽しいのか、うちのパパは。悪趣味だな。
娘が痛いのにくすくす笑いやがって。
「痛かった?」
お母さんがぎゅーっと抱き締めてくれた。優しく。
「痛くはない。」
手も足も縛られて動けない。お母さんの中に収まってしまった。
真っ青な空の下。
建物と車の間に並ぶ人々を横目に、自分の行き先を見据える。
遠くから子供達の騒がしい声が聞こえる。
近くから社会人達の騒がしい声が聞こえた。
道の隅にはなぜか黒い染みがいて、端っこには小さな靴が一つ。立っていた。
「……あ」
小柄な体。
白くて綺麗な足が靴を抜け出してスカートの中に潜む。
膝より下から腰まで体を隠すスカート。濃い水色のそれは自分のとは違って、とても品のある感じだった。
小さい手。
腰あたりに指先を合わせている。
白くて、同時に赤いその手は元気な色合いをしていた。
「わ、しいちゃん。」
じっと見つめていると視線が届いたらしく、こちらを見て手を振ってくる。ゆら、ゆら、落ち葉よりゆっくり。招くように。
「………」
誰が見ても幸せそうって言われる顔だ。
誰にでも見せる幸せそうな顔だ。
愛おしくて、愛しい顔だ。
何回か手を振ってまた元に戻る。信号が変わるのを待ちながら、遠くを眺める。
なにを見ているのか。なにが見たいのか。教えてくれない。読み取れない。
全然わからない。
「おはよう。」
隣に並び立つと聞こえる、小さな声。
「うん」
隣に並び立つと渡される、小さな手。
ちっちゃくて可愛いお手。
「手、暖かいね。」
無邪気な瞳。青い瞳。
「うん……」
小さい手を握る。
「変な本でも読んだ?天上天下唯我独尊って顔してるよ。」
「ん?」
なにそれ、初めて聞いたんですけど。
「すごい顔って意味だよ。」
ほっぺをつんっと刺された。それと同時に信号が変わった。
「悪口じゃないから安心していいよ。」
にこにこと笑う彼女に、手を引っ張られる。
とっても楽しそうで、嬉しそうで、幸せそうな顔で私を見つめる。
水色の目には自分だけが映る。
水色の自分と見つめ合う。
「今日も晴天だね。どこかで空でも見上げたいな。」
歯を見せつけるように微笑んで、前に向き直る。そのまま私を人混みの隅に連れていった。
「椎香。」
人の通りからちょっと離れて振り向く。
私より小さい体で、私を見あげる。
「服乱れてるよ?」
少し背伸びして私の襟元を直す。
えっ、可愛い。
「ありがとう」
「どういたしまして。」
直してとん、と。胸を軽く叩いた。
「よし。」
ほのかに微笑みながら再び手を繋ぐ。
「えっ、可愛い」
言葉に出ちゃった。どうしよう。
「んふふ、ありがとう。」
褒められて嬉しいのかな。可愛いな。もうっ、可愛いなぁ。
いけないいけない。乱れちゃった。私はマリエの友達だから、しっかりしないと。
「しいちゃん。今日寄り道する?」
横目で私の顔を覗く。心配、躊躇い、それと愛。そんな感情が混ざったような声に聞こえる。
「………うん」
長く付き合ってきたからわかる。いつもと違うところに行きたいんだろう。
「うふふ。ありがとう。」
純粋に嬉しそうな顔。
こっちまで嬉しくなる。
「どこ行く?」
午後の四時くらい、部活に頑張る後輩たちを眺めながら。
椎香と二人で歩く。
「内緒。」
自分の唇に指を当てて、悪戯っぽく笑う。椎香が好むようなところではないので黙っておくことにした。
「そう」
別に気にしないって感じで答えた。答えたけど、顔はすごく気になるって言っている。
わかりやすいなぁ。
「私が好きなところに連れてってあげる。」
もっと好奇心を刺激させると、もっともっと気になるって顔になる。
このまま椎香が嫌いなところに連れて行ったらどんな顔をするんだろう。それも楽しそうだけど、やめよう。
今日は椎香の嬉しそうな笑みがみたい気分だから。
椎香の手を取って、握り締めて、私の好きなところへと連れて行く。
校門を抜けて振り向く。椎香の恋を込めた瞳と視線が重なる。にっこりと微笑んで前に向き直る。
「期待してもいいよ。」
「……」
返事はないけど、握った手に少しだけ力が強くなる。
「しいちゃんったら、静かになったねぇ。」
橋を渡って、信号を待ちながら隣に並び立つ椎香を見上げる。力がいっぱい入った、強ばった顔。
「もともとだけど」
「ツンデレだねぇ。」
ほっぺをつんつん。お母さんのお腹より柔らかくない。椎香はもっと食べた方がいい。お母さんはちょっと運動すべきだと思う。
「昔みたいに媚びてもいいのにな。」
「媚びない」
「照れてるぅ?」
「してない」
あらまぁ。照れ屋さんだね。
変わった信号に合わせて歩きながら椎香の頬を弄りまくる。握ったり、解いたり、握っだり。
「にゃにすんの」
「しいちゃんのほっぺで遊んでるよ。」
揉み揉み。
「歩けないんだけど」
「それだけ?」
頬から顎に、手をすぅっと滑らす。くすぐったいのか体がびくっとした。
「いちゃいちゃ好きでしょ?椎香。」
「これはいや」
弄りすぎたんだろうか、手を掴まれた。
「一人だけ楽しそうに…」
むっとした顔で頬を膨らました。
「好き嫌いは後で考えて、あれ食べよ?」
握られた手をよくよく解いては握る。掌を包むようにぎゅーっ、と。
「アイス?」
「うん。」
訝しげな顔ではあるが、大人しく自販機まできた。
「私これ。椎香は?」
ころんと落ちたアイスを取り出して椎香を見ると、まじまじと私を見詰めていた。
「食べないの?」
じーっ、と。よく見えないものを見ようと頑張るように。
「………」
こっちも同じように見詰め返す。
じーっ。
どうしよう。目がからっからだよ。やめたいよ。やめちゃおうかな。
椎香すごぉい。もう何十秒も瞬きせずにいられる。椎香って瞬きしなくてもいいのかな。なんか羨ましいなそれ。
あ、今瞬きした。でも見詰めるのはやめないんだ。
「……?」
椎香を見詰めながら、アイスを食べ始める。椎香がちょっと困惑した顔になった。
「………」
無言にぺろぺろとアイスを舐めたら、舌をじーっと見詰められた。
「行くよ?」
あまり見られ慣れてないところをまじまじと見られて恥ずかしい。耳がちょっと熱くなるのを感じなが椎香から離れる。
「?」
椎香と遊んで、別れた頃。
一人で家に帰っているとよく見かける猫が現れた。白と黒が交互に彩られた毛が少しだけ濡れている。
散歩してるんだろうか。でもなんか変だな。
なぜか私をじっと見詰めてくる。ご飯でも欲しいのかな。近くにコンビニってあったっけ。覚えてないな。
黒い右足を踏み出して、私の前までゆっくり。のろのろ、歩く。
私をじーっと見詰めながら近付いてくるんだから、なにか用でもあるんだろう。
猫の顔がよく見えるように屈む。
うるるるって音が聞こえる。動画で聞いたことある音だ。猫が甘えたい時によく聞こえる音だった。甘えたいんだろうか。
あらまぁ。
手を伸ばしたら顔を擦ってきた。こんなに懐いてくれるのって初めてだな。
柔らかい感覚にふにゃふにゃとなってしまう。
「あぁ!ねこ!」
猫の額を親指で擦っているとどこからか子供の声が。
「あれぇ?」
その子の手が少し濡れていて、猫は警戒する。水遊びの後に猫遊びなのかぁ。贅沢な遊び方だね。
「こんばんは。」
にこにこと笑いながら手を振った。
「えっと、こんばんわ」
お腹に手を当ててぺこりと挨拶する。猫は挨拶するのと同時に私の腕に抱き着いた。猫の腕輪が出来ちゃった。
「あの、おねーちゃんのねこですか?」
ぱっと見て幼稚園児みたいなのに礼儀正しいね。いいことよ。
「うぅん。違うよ。」
猫を見て、私を見て触りたがるように聞いてくる。腕に少し力が入っていた。でも私に近付かない。我慢しているんだろうか。いい子だねぇ。
「あ、逃げた。」
子供に感心したら猫が逃げてしまった。撫でられたくなかったんだろう。手濡れてるし。
「あぁ…」
子供が猫を見ながら残念そうに呟く。でも、猫を追って走ったりはしなかった。人前だから我慢したみたい。偉いねぇ。
「………」
落ち込んだ様子でてくてく近付いてくる。どうしたんだろう。
「……だっこぉ…」
屈んだままだったからか、子供がぎゅっと抱き着いてきた。さっき初めて見た仲なのになぁ。
無邪気だな。よくないよそういうの。
「おねーちゃん……」
どうしたらいいんだろう。怪しくは見えないだろうか。
「うふ…」
取り敢えず抱え上げる。なんかすごく幸せそうな声が聞こえた。私って子供に愛されるタイプだったんだ。
「お母さんとか、お父さんは?」
「しらない」
えぇー。
「家はどこ?」
「おおきいとこ」
えぇぇー。
厄介だな。交番に任せて帰りたいな。
「猫追ってたらここにきたの?」
「うんっ」
猫を追ってたらここにきたってことだから、多分ここら辺に住んでいるんだろう。
まずは猫たちが集まってるとこに行ってみよっか。
「わぁ!」
歩き出すとはしゃぎ始めた。誰かに抱えられたままゆらゆらするのって楽しいよね。分かるよ。
楽しいのは分かるけど、じっとして欲しいな。
「わ!」
空を飛ぶ鳥に感心したり。
「お!」
垂れた枝に感心したり。
「ねこ!」
寝てる野良猫に感心したり。
「まな!」
人に感心したり。
めっちゃはしゃぐな。子供だな。
「あま?」
まなって呼ばれた人が近付いてくる。知り合いなんだろうか。顔が似てるから家族?
「いぇーい」
なぜか両手を上げて歓喜する。なんでだろう。
「ぁー……その子の姉のまなです」
お姉ちゃんなんだ。うーん、似てるかも?
「初めまして。」
ぺこりと、頭だけ下げる。
「あっ、初めまして」
向こうも同じく下げる。姉妹で挨拶の仕方が似てるね。お腹に手揃えて。そういう教育でもされたんだろうか。
挨拶は上半身が下げれば大丈夫って学んだ私とは違うねぇ。
「まな」
「うん、なに?」
お姉ちゃんなのに名前で呼ぶんだ。仲良さそうじゃん。いいな、私もやってみようかな。
「さがしたよ?」
君が言うのか、それ。
「ごめんね」
微笑みながら返事するお姉ちゃん優しいね。お姉ちゃんやってる。
「すみません、うちの子が……」
「ひひ」
頭を下げて申し訳なさそうに話す姉と違って、妹は無邪気に笑う。可愛いね。
「大丈夫大丈夫。」
微笑みながら軽くゆさゆさ妹を揺らす。
「へへ」
すると楽しいのか、嬉しいのか。腑抜けた顔になる。
「もう、あまったら……」
そんな妹が可愛くて可愛くて仕方ないって感じで、姉も腑抜けた顔になる。
同じ顔するね。
「ん?あ、はい」
姉に妹を手渡して、妹に手を振る。
「ばいばい。」
家族見つかったしそろそろ帰っていいんだろう。
ちょっと急かな。まぁいいだろう。近くに住んでるならまた会えるから。
「ばいばい」
小さい手で挨拶する。可愛いねぇ。
「ありがとうございました」
姉はぺこっと器用に体を下げる。頭だけ下げてもいいのに、健気だね。