三月九日
鳥の鳴き声だ。メジロかな。
家を出て早々鳥の囀りか。なんかいい気分になる。
朝日を浴びながら鳥の囀りを聞くのはどうしてこんなにも幸せな気分になるんだろう。
こつん、こつん。
一歩進む度に足音が聞こえてくる。
静かだな。
隣を見るとすぐに車とか、人とか見えるのに。一人だけ動いてるみたい。
「ん…」
涼しい春風が耳元を通り抜けた。
風の音がする。
「ひひ……」
風に髪の毛を揺さぶられて、撫でられる気分になる。
えらい、えらい、と。
今がすごく好きで、こんな気持ちになったんだろうか。
今に満足したからこそ、こんな気持ちになれるんだろうか。
「幸せそうだね」
突然聞こえた声にびくっと体を震わせる。
「やぁ、マリエだったっけ?」
声の方向を見るとそこには。
「真希だよ。覚えてる?」
天使を名乗る人がいた。
「不審者。」
翼は未だに背中を覆っている。実はコスプレじゃなかったりするのかな。
「そんなに怖がらなくてもいいよ?」
両手を上げて、敵意がないことを示す。顔もにこにこと笑っている。
信じていいんだろうか。
「今日はね、誤解を解きたくて来たんだ」
一歩、近付いてくる。
「そうですか。」
一歩、下がる。
「だから、ね?」
また、一歩近付いてくる。
だから、一歩下がった。
「帰ってください。」
どうしてだろう。
口角が少しだけ上がったあの笑顔を見ると、とても心が落ち着く。
実はいい人だったんだろうか。いや、顔だけで人を判断するのはよくない。
よくないというより、危ない。
「つれないね。仲良くなりたいだけなのに」
微笑みながら私を見るその顔には、言葉と違って少しの悲しみも含まれていない。
声と顔が違う。
似合わない。
「こういう性格なので。」
こういうタイプの人だったのか。
「そう?子犬みたいに尻尾振るタイプだったと思ったのに」
「……」
拳をぎゅっと握って、睨む。
少しでも大丈夫だと思ったら終わりだ。そういう感じがした。
「褒めてたんだよ。気を悪くしたらごめんなさい」
ずっと笑顔だ。少しもぶれない。声は変わるのに。
「….…ふふ、いい顔してるよやっぱり」
「近寄らないでください。」
どうしよう。だんだん好きになってくる。
心のどこかで撫でて欲しいと訴える。言われた通り、私は犬なのかも知れない。
「分かったよ。今日は帰るね、マリエ」
にっこりと笑って、背中を向ける。
背中から生えている白い翼が、綺麗だった。
「ねねねね、見て見てー」
「なになになに。」
どたどたと、廊下で走り回る葵が見える。ぐるぐる回ったり、走ったり。一日忙しいな。
「手紙貰ったよー!」
「おめでとう。」
嬉しいことなんだろうか。
「ラブレターだよきっと!」
「そうだね。」
紙が穢れないように、両手で持ち上げる姿がすごく初々しい。
嬉しそうだね。
「ねねね、読んでみる?」
「なんで?」
「知りたくない?」
顔がちょっとだけ赤い。走ってからだろうか、それとも他に理由があるからだろうか。
恥ずかしいのかな。
「それ葵のじゃん。」
「あたしのだから読んで読んで」
小島葵に、と。丁寧に書かれている手紙を無理矢理押し付けてくる。
なんか、強引だな。
自分で確かめたくないんだろうか。
「声に出して、心を込めて読んで!」
「それはちょっと…」
違うんじゃないかな。それ書いたの私じゃないよ?
「いいじゃんいいじゃーん」
恥ずかしい気持ちになるのを私で堪えるつもりなんだろうか。
葵ならそうかも知れない。
「知りたいでしょ?読みたいでしょ?顔が熱くなる恋物語だよ?」
もうラブレターだって確定してる。もし違ったらどうなるんだろう。急に冷めちゃうのかな。
「んー、まぁ。読んであげる。」
「じゃ、じゃあ…どうぞ」
急に大人しくなったな。
両手をお腹の前に揃えて、挨拶するように頭を下げる。なんで?
「手紙、くれないと読めないよ。」
手紙も渡せずなにやったんだろう。葵なりの緊張をほぐす方法なんだろうか。
「あぁ、そうだった。どうぞ…」
手紙を持った手がぷるぷる震えてる。顔は下げたままだ。
なんか、偉い人になった気分。
口角が少しだけ上がるのを感じながら手紙を受け取る。
わっ、今時の手紙って重いんだ。間違えて紙じゃなく違うのを入れたんじゃないかってなるくらい、重い。
「覚悟はいいなぁ?」
「…はいっ」
今になっては体もぷるぷるしてる。
緊張してるんだ。
このままだと一文字も頭に入らなさそうだから、落ち着かせよう。
「飴食べる?」
「え、食べる」
ポケットから飴を一つ、葵に手渡す。
葵が口に飴を放り投げると、さっきまで強ばっていた体が脆くなった。
あれ、この前に甘いのあげた記憶があるな。ケーキだっけ。
「甘っ」
飴が割れる音がした。歯固いな。
「よかったね。」
あの飴って結構硬い方だと思うのに。
「もう一個」
「まだ食べてるでしょう。」
「ちょうだい」
「食べ過ぎ。」
「お願い」
我儘だな。
「ねぇ、おねがーい」
顔を近付けて、私を見上げる。
まぁ、もう一個くらいは大丈夫だろう。
「わぁあ」
飴一つでめっちゃ嬉しそうに笑うね。純粋なんだな。
子供なんだな。
午後の五時、色鮮やかな花々に包まれたマリエを描く。
赤く、白く、紫色に包まれている姿はとても幻のように儚く、美しい。
「しいちゃん。」
今はただ、自分に見える景色を写す。
答えは後でもいい。
「チョコ食べる?」
ほとんど動かないまま、器用にポケットからチョコレートを取り出す。
その行動一つ一つが彼女の美しさを増す。
「うん」
わ、あれ私の好きなチョコじゃん。嬉しい。覚えてくれてたのかな。
彼女から渡されたチョコレートは普段から好んでいる物で、ちょっとだけ気分がはしゃぐ。
「しいちゃんってさぁ、昔と比べて結構大人げになったねぇ。」
マリエが、チョコを大きく一口かじる私を見て微笑む。
「でも、無理して大人ぶってるようにも見えるよ。」
彼女が目を閉じた。
「まぁお陰で、たまに見せる子供っぽさが可愛いく見えるんだよなー。」
そう指摘されて、今の自分を見返す。
だらしなくチョコレートを両手に持ち上げ、頬がぱんっぱんになるまで口中に詰め込んだまま、もぐもぐと。
「わざと難しく考えて振る舞わなくてもいいんだよ?この前見たけどさ、椎香はちょっと頭を空っぽにする必要があるよ。」
見たって、なんだ。
思考は、見れるのか。
「なにを、どう…?」
考えを覗いたなんて有り得ない話なのに、彼女なら楽々とできそうだ。
そういう雰囲気をまとっている。
「普通に日記で見たよ。」
「日記で?」
なになになに、日記って。
「これ。」
彼女が左耳を露わにすると、そこにはきらりと光る緑色のピアスがいた。
「しいちゃんのは、ネックレスでしょう?」
日記って、そういうことだったんだ。
「これがねぇ、内容が周りの人と勝手に変わるんだよ。私じゃない人の心が、私の日記に書かれちゃう。」
楽しかった昔を思い返すように、「最初は驚いたよー」って無邪気に話す。
待って、待って。
勝手に変わるんだったら、今のも書かれるんじゃないの?
ぇ、恥ずかしい。
やばいやばい。変なこと考えてないのかな私。
「しいちゃん?」
いや、変なことがなくても見せられたくない。恥ずかしいに決まってる。
日記のせいでこうなるんだったら、日記を外せば。
「ぅんんーっ」
家に帰って早々、背伸びするお母さんが見えた。その隣にはちっちゃい子が、一緒に背伸びしていた。
「あま?」
「ん?」
なんでいるの。
「お帰りーぃ」
「おかえりー」
一緒にストレッチでもしてたんだろうか。二人ともボールの上に座っている。
あれなんて名前だっけ。バランスなんちゃらだった気がする。
「ただいま…」
私に挨拶するとすぐ、元に戻るお母さんとあま。なにをするのかはよくわからないけど、体を伸ばすことは伝わった。
呆然と二人から離れ、部屋に入る。
お母さんが連れてきたのかな。それとも家族同伴できたのか。
でも靴はなかったけど。
なんだろう。
わかんないな。
「ふーぅう……」
聞いてみようと思って戻ると、今度はお母さんの背中をあまが踏んでいた。
お母さん、気持ちよさそうな顔してる。
マッサージなのかなあれ。
「ね、お母さん。」
「うぅん?なにぃ…?」
「なにぃ?」
一言足すの、なんか似てる。母娘?
「どこで連れてきたの?」
「そこら辺で、迷子になってたから…拾って来たよーぉ…」
「うんうん。ひろわれた」
あまが自慢げに胸を張る。迷子なのになぁ。自慢するもんじゃないと思うよ。
「お母さんにも連絡したから、今日中に来るんだって」
緩いな、そっちのお母さんは。お父さんも緩かった気がする。
「おばさんが、おねーちゃんみられるからこいって」
私を囮にしたのか。うちのお母さんは。
「ほぼ誘拐じゃんそれ。」
「よくない言い方」
「わるい?」
「悪い。」
「そうだねー」
お母さんなにか楽しげに笑いながら、あまを下ろす。
「あまちゃん、叔母さんはそろそろご飯作るから、お姉ちゃんと遊んでくれる?」
「うんっ」
「マリエも、ちゃんと妹と遊んであげて?」
「ぅん?」
なんで急にそうなるんだろう。
おかしいな。
「おねーちゃん」
「なに?」
ちょっと、頭が追い付かない。
お母さんと遊んでたのに、下ろして、私と遊べって。
「これやる」
ぅーん?
「うん。わかった。」
わかんねーなー。