第三六五話 シャルロッタ 一六歳 魔王 一五
——床を覆い尽くすようにじわっと広がる泥濘……それは訓戒者を飲み込みゆっくりではあるが、世界を滅ぼすために侵食を開始していた。
「……これが原始の海……? 一瞬で欲する者が溶解したぞ……」
クリストフェルは、目の前に広がっていく染みとも液体とも判別できない混沌の泥濘が広がっていくのを呆然とした面持ちで見ていた。
訓戒者が飲み込まれた瞬間、泥濘はまるで生きているかのように彼女を包み込み溶解させ、そして満足げな吐息を吐くようにドプン、という音を立てて跳ねた。
それはつまり……この泥濘、原始の海と呼ばれるそれは生命ではないが、生命のように活動する何かであるという証左だった。
彼の知識量では推し量れない存在であり、マルヴァースの歴史上初めて原始の海はその姿を現したといっても良い。
一〇〇〇年前にはこの泥濘は世界に出現しなかった……勇者アンスラックスがそれをさせなかったからだが、もしその時にもこれが出現したとすれば、彼はこれを押し留められなかったかもしれない。
「……魔力いや、神力と言ってもいいのだろうか、恐ろしい魔力が込められている……」
「婚約者どの、まずいですぞ……昔聞いた御伽話の中にこれについての伝承がありましたが……原始の海は一度発生すると止めるのが難しいです」
「……本当か? あの起動のための魔法陣は……」
クリストフェルがじっと広がっていく泥濘へと視線を向けるが、すでに混ざり合う魔力の前にその正確な位置を掴むことは難しくなっている。
勇者の瞳を持つ彼の目にじんわりと泥濘の中心に当たる部分に黄金の光が見えたような気がして、彼は剣を構えたまま一歩歩み出ようとするが、その動きに呼応するように泥濘の中心が膨れる。
それがまるで人間の腕のような形へと変化すると、手を模った泥濘はその手のひらの中心に当たる部分へと黄金の瞳が出現し、ギョロリとクリストフェルを見つめた。
その黄金の瞳は山羊のような縦長の瞳孔を持っており興味深そうに目の前に立つクリストフェルを見つめると、泥濘の意思のようなものが頭の中へと流れ込んできた。
『融合、統合、同一、接続、融解、合致、結合、合致』
「なんだ……頭の中に……」
「なんてシンプルな思考……」
『合併、合流、同然、連鎖、結合、符合、合体、吻合』
それはただ一つの目的のために活動する擬似生命体であり、全てを取り込み融解し同一化するためだけにデザインされた混沌の意思のようなものだ。
頭の中に響く声は規則正しく、それでいて強い恐怖や不安感を与えない一定のリズムに則って語りかけてくる……まるでそこには安寧と幸せが待っているかのように、強い興味を掻き立てられる。
その中へと一緒になりたいと思ってしまうような、心地よさがそこには存在している……クリストフェルは自分のその考えに気がつくと、軽く頭を叩いて首を振る。
違う、これは自分の意思じゃない……隣に立っているユルも背中の毛を逆立ててはいるが、尻尾は軽く揺れておりあの泥濘の中に光る瞳に強い誘惑を感じているのだとわかった。
「……恐怖すら感じない、それが原始の海か……」
「まずいですね、我もこの誘惑に抗うのは難しい……」
「一般人ならすぐに取り込まれて終わりだろうな……」
クリストフェルは自らを叱咤するように名剣蜻蛉を構え直す……虹色の刀身が淡い金色の光を反射してキラキラと輝く。
その光を見た原始の海の黄金の瞳は、目の前にいる二人が自らの誘惑を受けなくなったということに気がついたのかぐにゃりと笑みを浮かべたように目を細めた。
意思がある……とてもシンプルなものではあるが、それでも生命を操り取り込もうという目的が果たせない今、それは何を考えるのか?
手の形をとっていた泥濘がゆっくりと膨れ、次第に一つの形をとり始める……それは身長はそれほど高くないが、はっきりと人間の女性に似た姿をとり、渦巻く黒色に彩られた上半身を作り上げた。
顔に当たる部分には何も存在せず、その両手にあたる部分……手のひらに一つずつ黄金の瞳が開眼すると、ゆらりゆらりとその存在を維持するかのように体を揺らす。
『融合、統合、同一、接続、融解、合致、結合、連合』
「人の形を……? いやこれは……」
「女性……いったい何者だ?!」
『合併、合流、同然、連鎖、結合、符合、合体、吻合』
クリストフェルの問いに原始の海は答えない、その答えの代わりに両手に輝く黄金の瞳がギラリと輝くと共に、不可視の衝撃がユルの展開していた防御結界に凄まじい振動と共に伝わる。
ズズンッ! という鈍い音を立てて結界に守られていない周囲の地面がひび割れ、崩壊して隆起を始めていく……破壊力はそれほどではないが、それでも結界がなければすりつぶされていた可能性がある攻撃だ。
戦闘能力を失わせて取り込む、という意思表示に近い……そしてじわじわとだが、クリストフェル達の周囲を泥濘が覆い尽くし始める。
逃げ場所を失わさせて確実に融合する……そんな意図を感じてクリストフェルは軽く舌打ちした。
「逃がさないつもりか……!」
『融合、統合、同一、接続、融解、合致、結合、連合』
「だが焼き払えば……ッ! 紅の爆光ッ!!」
ユルの咆哮と共に爆炎が泥濘へと直撃する……それと同時に巨大な爆発が周囲を包み込み、嫌な臭いを上げながら先ほどまで立ってい人型の何かがしゅうしゅうという音をあげて炭化し、崩れ落ちていくのが見える。
だがそれも土塊と化した泥が再び泥濘の中へと沈んでいくと、新たな人型のそれがずぶりずぶりと音を立てて立ち上がる。
そして再び脳内に原始の海の声が響くが、クリストフェルやユルが自らに敵対する存在だというのは理解したのだろう。
泥濘の中に複数の手が伸びると、その全てに黄金の瞳がギョロリと開かれた……その手が間髪を容れずにクリストフェルを取り込もうと凄まじい速度で彼らへと伸びていく。
『融合、統合、同一、接続、融解、合致、結合、連合』
「くっ……!」
「婚約者どのッ!」
クリストフェルは剣を振るって自分を捕まえようとする泥濘の手を切り捨てる……切り捨てられた手は、すぐに砂となって崩れ落ちるが、すぐに泥濘より生える手が再び彼へと襲いかかる。
根本の原因を取り除かないと……とクリストフェルは必死に前進しようと剣を振るうが、まるで何百人の敵を相手にしているかのように迫り来る手の前にその場で防戦一方に追い込まれる。
窮地を察知したユルが火球を打ち出し、なんとか数を減らそうと炸裂させるが勢いは衰えず彼らはその場に釘付けになっていった。
まずい……ッ! とクリストフェルはユルの側まで後退すると、お互いに背中を預けて猛烈な勢いで迫り来る泥濘の手を切り払い続ける。
そんな彼らを見て黄金の瞳は脳内に響く声を繰り返し喋り続けていた。
『合併、合流、同然、連鎖、結合、符合、合体、吻合』
「……めんどくさ、決着のつかない戦いってクソゲーなのよね」
わたくしは魔剣不滅を手にし苦笑いを浮かべたまま肩をすくめる。
そもそもこのまま削りあってもお互いが消耗するだけで何も意味はない……こちらの手としてはクリスとユルがなんらかの意図を持って地下の方へ向かったので、そこで何かが起きるのを待つしかない。
状況は完全にこう着状態……お互いに何度も魔法をぶつけ合っても消耗するだけだとわかった今は、大魔法による消耗を避けた立ち回りへと移行している。
魔王トライトーンが放つ黒い炎をわたくしは拳で叩き落とした後、お返しとばかりに瞬時に数十本生成した魔法の矢を撃ち放つが、着弾と同時に炸裂する魔力は彼を傷つけられない。
爆炎が収まった後お互いが無傷であることを確認して軽い舌打ちを漏らすが、これは予想の範囲内……少なくともクリスがどこかへ行ったことを相手に悟られるわけにはいかないため、茶番とわかっていてもやらざるを得ない。
「……さて、どうするか……」
わたくしが次の手を考え始めた瞬間……ゾッとするような背中が総毛立つ感覚を覚えて思わず背後へと視線を向ける。
なんだこれ……まるで濃縮した混沌の力が漏れ出したような……悍ましさを通り越した嫌悪感すら感じる凄まじい力、驚くべきはその力そのものに敵意を感じないことだ。
ただただ不快、そしてその魔力がわたくしに触れるたびに怒りを覚えそうになるほどの凄まじい邪悪……城の地下に何か仕込んでたのか。
わたくしの表情が変わったことに気がついたのか、魔王トライトーンの瞳が細められる。
『……どうやら欲する者が最後のピースを揃えたようだな』
「欲する者?! あり得ない……わたくしが滅ぼしたはず!」
『トドメを刺さないのに滅ぼしたはいかんな勇者よ……』
魔王トライトーンは瞳を細めて笑うと、魔力を集中していく……そうか混沌の眷属同士お互いがちゃんと存在しているのか、そうではないのか感知できるってことか。
あの時近くにアメミトがいたことですっかり忘れていたが、確かに最後の瞬間はわたくしは確認していない。
なんらかの形で生き残っていたとして、彼らが最後に使う手は……おそらくこちらの想像を超えた凄まじい力を放ってくるに違いない。
だが、今は目の前の魔王に対抗しなければ……慌ててわたくしは対抗するために魔力を集中させる。
お互いの魔力が最高潮に達した瞬間、同時に魔法が放たれる……それは周囲を崩壊させつつ、ちょうど両者の中間でせめぎ合うように拮抗した魔力の嵐となって吹き荒れる。
「神滅魔法……雷皇の一撃ッ!」
『混沌魔法……狂気の妄想』
_(:3 」∠)_ まあ詰めが甘いんで……
「面白かった」
「続きが気になる」
「今後どうなるの?」
と思っていただけたなら
下にある☆☆☆☆☆から作品へのご評価をお願いいたします。
面白かったら星五つ、つまらなかったら星一つで、正直な感想で大丈夫です。
ブックマークもいただけると本当に嬉しいです。
何卒応援の程よろしくお願いします。











