第三四〇話 シャルロッタ 一六歳 序曲 一〇
「クフッ、ハハハ! どこへ行くのかな?」
「はあっ! はあっ! ……ぐは……うぐ……ッ!」
金級冒険者パーティ「赤竜の息吹」リーダーであるエルネット・ファイアーハウスは、全身を襲う痛みを堪えながら足を引き摺りながら、オーヴァチュア城の中を必死に歩いていた。
長年愛用してきた兵士鎧の胸甲にはくっきりと闇征く者が残した大きな凹みが残されており、魔人が放った攻撃が尋常ではなかったことを示している。
エルネット自身も逃げている最中にも何度か口元から血液を吐き出しており、どうやら損傷してはいけない臓器に深刻なダメージが入ってしまっていることを認識していた。
死の影が一歩一歩背中から迫ってくるのを感じて、彼は冒険者としての生活の中で初めて強く死の恐怖を意識し始めている。
「くそ……こんな場所で……」
「諦めてこちらへ来るといい、私が君の体を癒してやろう」
「自分で傷つけておいて治してやるだと?! ……げほっ!」
「もちろん命を救う対価はもらうよ? 我々と手を結ぼうじゃないか」
エルネットが口元を拭うと手の甲にはベッタリと血液が付着し濡れた感触で、今まさに自分の命が削られているという現実に強い恐怖を覚える。
冒険者生活の中で多くの死者を弔ってきた、そういったものを見るたびに彼は悲しさと共に自分の死に際がどうなるのか想像できずにいた。
仲間も自分たちが死ぬなどと思っているものは一人もいない、共に歩むからこそ絶対に死なないと信じて背中を預けているからだ。
過去には死の恐怖から間際に泣き叫ぶものもいた、神への祈りを捧げながら亡くなる者、親の名前を泣きながら呼ぶものも多かったと思う。
命を救う……おそらく闇征く者の言葉には本当に嘘はない。
約束を守る対価として自らを差し出すというその選択肢さえなければ、守るものがいなければ……エルネットは黙って救いを求めたかもしれない。
「ふざけるな……堕落しろという相手に……頭をさげるなど……」
「今君は死の恐怖に争っている……安心しろ、私と手を結ぶことで死の恐怖はなくなる、永遠の命が手に入るのだ」
人間が死を間際にしてどのような行動を取るのか? 闇征く者は一〇〇〇年の間にいくつかの事例を持って経験していた。
自分が確実に死ぬとわかっていて、生への執着を捨てられるものは少ない……どのような豪の者であっても、醜い金の亡者も、権力欲に取り憑かれた者も等しく命乞いをして助けを求めた。
美しくない、とは思うがそれが定命のものである人間が抱える二律背反であると今では理解している……だからこそエルネット・ファイアーハウスは生を選択すると考えていた。
人間とは生に執着する生き物だ、魔物よりも動物よりも生きるためなら平気な顔で人を裏切る、人を殺す、人を貶める生物だと思っている。
「さあ、この手を取りたまえ……それで君は助かる」
「ふざけ……ふざけるな……」
「君の恋人リリーナ・フォークアースを永遠に愛せるぞ……」
エルネットの脳裏にリリーナの顔が浮かぶ……オーヴァチュア城突入へ「赤竜の息吹」が同行できなかったのは、彼女の体調がひどく悪かったことにある。
城内へと向かうエルネットに本当に心配そうな表情を浮かべていた彼女に、そっと口付けをしてから分かれているが、自らの体が死へと向かっていく最中、彼の心は揺れ動いていた。
手を取れば助かる、生き延びることができる……死の恐怖を免れ、そして愛する者の元へと戻ることができると言う欲求は争い難いほど強い。
リリーナの美しい笑顔が、恥ずかしそうに腕の中で小さくなっている時の表情が、彼と共にいる喜びを浮かべた表情が目の前にあるかのように思えた。
ゆっくりと手を伸ばそうとするエルネットを見て、闇征く者は仮面の下で歪んだ笑みを浮かべていた。
「さあ、手を取れ……共に堕落の道を歩むのだ」
「……は……っ……」
「どうした早く手を取るのだ英雄よ」
「いらねえよ……」
彼の手を握ろうとした闇征く者の手を払うと、エルネットは痛みを堪えながら立ち上がった。
その瞳には強い光が込められているような気がして、訓戒者はその行動が理解できずに思わず二、三歩後退りしてしまう。
エルネットは黙って剣を構える……恐ろしく魅力的な誘惑だったが、それに乗っかってしまった時にどうなるのか想像すらできない。
そしてそれを選んだ瞬間に、自分が愛するものの元へと二度と戻れない気がした……ただそれだけの理由だったが彼にとっては全てを捨ててでも選ぶことのない選択肢だったに違いない。
闇征く者はほんの少しの間黙っていたが、次第に肩を震わせて引き攣ったような笑い声をあげた。
「……クフ……ッ! 英雄とはかくあるべきか、一〇〇〇年生きてきて君ほどの高潔さを持ち合わせた人間はほとんどいなかったよ」
「……俺は「赤竜の息吹」リーダー、エルネット・ファイアーハウスだ……それ以上でもそれ以下でもない……」
「そうだな、素晴らしいが……非常に愚かだ」
闇征く者がほんの一瞬動いたと思った次の瞬間、エルネットの胸に熱いものが差し込まれたような気がした。
まるで反応すらできない速度で、訓戒者の拳が彼の胸を刺し貫いているのが見える……眼前には鳥の仮面とその奥に光る赤い瞳がじっと彼のことを見ている気がした。
ゴボッ……と喉の奥から熱いものが込み上がるのと同時に、引き抜かれた拳の勢いでエルネットは腰から崩れ落ちるとその場で大量の血液を吐き出した。
それまでの冒険者生活で決して負うことのなかった深刻な負傷……確実な死をもたらす致命傷を受けたと頭では理解をしたが、体がまるで言うことを聞かず一歩も動くことができない。
だが、痛みがない……呆然とした表情で目の前に立つ闇征く者を見上げると、彼は赤い瞳にそれまでとは違う光を湛えてじっとエルネットを見つめている。
「……惜しいな、私の手を取れば君は生き残り眷属として永遠の命を手に入れることができただろう」
「そ、それで……なんになると……がはっ……」
「だが私は君の名前と高潔さを記憶しよう、エルネット・ファイアーハウスはこの世界における最も気高き英雄の一人であると、私が後世に伝えよう」
訓戒者の瞳には憐れみや悲嘆といった感情が浮かんでいる……本気で惜しい人物を自らの手で殺すということに悲しみを覚えているのだ。
血液が外に流れ出る度に一歩一歩死の恐怖が近づいてくるのがわかる……体が寒いと感じて彼は手を動かそうとするが、まるで別人の手だったかのようにぴくりとも動かないのだ。
死にたくない、と思う気持ちと共に自分はきちんと誘惑を振り払えたのだと言う誇らしさのようなものを感じて、彼は血だらけの口元を歪めて微笑を浮かべる。
次第に遠くに、遠くに昔の風景が蘇っていく……冒険者になろうと決めた時のことを、リリーナのことを本気で愛したいと思ったその瞬間も、彼女の微笑みを思い浮かべる彼の意識が黒く塗りつぶされていく。
「……ああ、リリーナ……俺は精一杯やれたかな……幸せに……」
「……死んだか……惜しいな、惜しいぞエルネット・ファイアーハウス……」
闇征く者は命の灯火を失い、微笑んだまま動かなくなったエルネットの体を見下ろしながらそっと呟く。
彼の誘惑を断りさえしなければ、あの時伸ばした手を振り払わなければ彼は死ぬことはなかっただろう、また自らが手を下すことなどありはしなかった。
エルネットでは自分を殺すことなどできるはずはない、それは圧倒的な実力差が彼との間には存在しているからだ。
それを理解している男でありながら最後まで抗って見せた……本物の英雄だと闇征く者は彼のことを称賛している。
「……だが死んだら何にもなるまいよ……」
「エ……エルネット……さん?」
不意に声が通路に響くと共に美しい少女がカーテンの影から姿を見せた……銀色の美しい髪、エメラルドグリーンの瞳、そして女神と見まごうばかりの美貌。
だが混沌の眷属である闇征く者にはその圧倒的な魔力と、恐るべき圧力がその場に渦巻いているのが見える。
辺境の翡翠姫シャルロッタ・インテリペリ……彼女の瞳は、足元で息絶え優しく微笑んでいるエルネットの遺体へと向けられている。
何が起きているのかわかっていないのか、彼女は呆然とした表情で遺体を見つめ……そして何かを言葉にしようとして唇を震わせている。
「う、嘘でしょ……なんで……」
「それはこちらの台詞だ、どうやってここに入ってきた……」
いつ入ってきたのか、闇征く者はその出現に驚いていた……いきなり高密度の魔力がその場に出現したようなものだからだ。
だがその質問に答えることはなく、彼女は状況をゆっくりとだが理解し始めていた……闇征く者の拳にはエルネットの血液が付着し、そして遺体の胸元にはぽっかりとした空洞が今もなお空いているのだから。
シャルロッタは涙を堪えるように顔を下げると肩を震わせ始める……怒り、後悔、悲しみ、絶望……心地良いまでの感情の奔流が魔力に乗って伝わってくる。
「……お前か? お前が彼をやったのか? 答えろ……」
「その質問に対してはこう応えよう……気高き英雄高潔なるエルネット・ファイアーハウスは俺が殺した」
次の瞬間、シャルロッタの身体をそれまで見たこともなかったかのような魔力が噴出する……それはオーヴァチュア城を揺るがし、膨大なる大渦となって周囲に撒き散らされあまりの圧力と威圧感に闇征く者は思わず身構えた。
先の戦いで出会った時には感じなかったほど恐るべき魔力……彼女の銀色の髪は風に靡くように揺れ動き、エメラルドグリーンの瞳は煌々と輝いて見える。
シャルロッタ・インテリペリが顔をあげると、美しい顔には怒りの表情が浮かび上がったまま彼女は言葉を紡ぐ。
「そうか……ならお前は絶対に殺す、俺の前に立ったことを死んでも後悔するように……原子の塵も残さねえように殺してやる」
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