2・美女と野獣と老婆
幸いなことに、私は人見知りをしない性格だ。
村から出ることもなく、見知った顔といつもの会話をする毎日に、飽きてもいた。
ヒュー様は外見からして珍しく、何を聞いても新鮮で。あまりにじっくりと眺めまわすのはさすがに失礼だと思うので、なるべく視線は合わせないよう心がけた。
それでもつい、こっそり見てしまうけど。
ヒュー様が、上品な仕草でグラスをテーブルから取り上げる。あのモコモコとした手でどうやって持っているのかが不思議で、これまたじっと見てしまった。
「そなたを招いた理由だったか? 長く考察を深めていた事柄があるのだが、近年手詰まりの感が否めない。他者の意見も取り入れようと考えていたところに、ちょうど迷子が現れた」
なるほど。ヒュー様はご長寿でいらっしゃるようだから経験豊富で博識。小娘の意見など何の意味もないと思うけれど、世代が違えば、または性別が異なれば、切り口がかわる。
少なくともヒュー様はそうお考えになったのだろう。顔を上げると、私からの質問をお待ちの様子だった。
急かさないところも、紳士的。もしくはお年寄りで気が長いのかもしれない。
毛深いお顔は、表情も年齢も予測がつきにくい。あくまでも私の勝手な推測である。
「何について、長く思索を続けていらっしゃるのかをお聞きしても、失礼ではありませんか」
ヒュー様はゆったりと食後酒を口に運び、告げた。
「私の永年のテーマは『真実の愛』だ」
「真実の、愛」
失礼ながら復唱した。「それはまた壮大な」と返すべきか。獣人生が長く万能ともなれば、思索の行き着く先はそれなのか。
「成人男性より、恋に恋する乙女か、そうでなければ聖職者に似合う言葉だと感じますが。失礼ながらヒュー様、元のお仕事は」
「領地経営だ。そなたは、なかなか失礼なことをはっきりと言うな」
感心される。
「お誉めいただく程のことでは」と恐縮しておく。
「誉めたつもりはないのだが」
――そうですか。黙ってお茶を飲む。
「獣の身から、元の姿に戻るには『真実の愛』を知ることが条件なのだ」
恋やら乙女やらとは違う、切実で真摯なものだ。
ヒュー様は、ため息混じりにそう言った。
「えっと――」
私は何か聞き違いをしたかもしれない。
そうでなければ、前提が違っている? ひとつずつ確かめることにした。
「元の姿とおっしゃいましたか」
「いかにも」
「元があると言われる。つまりヒュー様は、生まれながらの獣人ではない、と?」
丸い目が半眼になったことで、呆れ果てたのだと知れた。それでも聞かなければ分からないのだから仕方がない。
「そなたは、獣人などという存在が現実にあるなどと、本気で思っているのか? あれは童話の中の存在だろう」
いくつになるんだ。と聞かれて「十七にございます」と真面目に答えたら、「そうじゃない」という目をされた。
「それは、八つ当たりというものでは……?」
ヒュー様の語りが一段落ついたところで感想を述べる。
「さあ、どうか。食べ物の恨みは恐ろしいと言うが、幼少時より空腹を知らぬ私には計り知れないものだ」
ヒュー様は領主様の跡取り息子で、万事に満ち足りた生活を送っていたらしい。
お話を要約すれば、ある日お館の前にみすぼらしい身なりの杖をついた老婆がひとり現れた。一夜の宿と食べ物を要求されたが、正体不明の人物を館に入れたくはない。
そもそも村から遠いこの場所に、老婆がひとり来るのもおかしな話だ。夜更けに強盗団を手引きをするつもりではないか。そう危ぶんだ若き日のヒュー様は使用人にきっぱりと断らせた。
すると老婆は、いきなり激怒し呪詛を投げつけたという。
それが「その心にふさわしい醜い獣の姿で、我が身を呪いながら生き続けるがいい。その呪いを解くのは『真実の愛』だけだ。あはははははは」だ。
ヒュー様が声色まで変えて臨場感をもたせてくださった。実に分かりやすい。
なんだか、最後の笑いは少し盛っている感じがするけれど、父が話せばこの三倍は盛るはずで、話し半分に聞く癖のついている私には、何の問題もない。
「八つ当たりでは?」と笑いもせずに返した私に、ヒュー様が少しばかり残念そうにしているのは、気のせいだろう。
「それに、怪しげな人を泊めるのは誰だって嫌ですし、ちょっと優しくしたからと居つかれても困ります。私でもお断りすると思います」
子供用絵本を読んだ私は知っている。
例えば、ボロボロの格好で「お嬢さん、その柄杓でこの婆に水を飲ませてくれんかね」と言われたら、「喜んで」飲ませなければならないと。
美しく優しい娘はそうやって幸福を掴むのだ。
――が、村で七人しかいない娘 (しかもそのうちの三人が私と姉たち) のうちでも、中の中と思われる私の元に「よい魔女」がわざわざ性格を試しに来るとも思えない。
見慣れない不審者には気をつけるのが基本だろう。用心はするに越したことはないのだ。
だからヒュー様の判断を全面的に支持する所存。
「それくらいで獣姿にするのは、やり過ぎだと思います」
「苛烈な性格の持ち主だったか、あるいは非道な領主にこの地を任せてはおけないと義憤にかられたか。その後、彼女とは会っていないので本当のところは知りようがない」
他人事のようにおっしゃる。その点を指摘すると「嘆きや怒りを持続するのは、ひとりきりではなかなかに難しい」とのことだった。
「まさか、その老婆の後にお館を訪ねたのがウチの父だった。などと言うことは……?」
ふと嫌な予感がして聞いてみると、ヒュー様は事も無げに肯定した。
「その通りだ。魔女の教訓をいかして、客人を迎え入れた」
それが無断で飲食し、盗みを働こうとした。
やはりみすぼらしい身なりの人物は招き入れるものじゃない。
ヒュー様は何一つ悪くない。悪いのはおかしな老婆とウチの父だ。ヒュー様が人間不信になったらどうしてくれるんだ。
私はあらんかぎりの力で父を呪ってやった。