1 さぶろう、ネコを拾う
夜中2時。
雨上がりの、水蒸気がけぶるような静まりかえった住宅街を、コンビニで手に入れたタバコをふかしながら歩く。街灯の明かりが反射する水たまりを避けながら、ふと、それが目に留まった。中身のないぬいぐるみのような、ペタっとしたものが水たまりにヘドロのように張り付いている。
近づくと、それは猫だった。
泥にまみれて目も開けられず、つまみあげると、にゃ……ぁんと小さく、心細く鳴いた。自分以外の面倒をみてやれるほど、大した暮らしをしているわけではなかったが、もう一度、にゃ…と鳴きかけてとまってしまった小さい命を掬い上げてしまったからには、もう地面には降ろせなかった。これぞ生殺与奪の権だよ…。自虐に笑い、泥水を吸って重たくなった雑巾のようなものを、片手にスライムを持つみたいにして連れ帰った。
実家にはそれなりの資産があった筈だったが、両親が死んで遺産相続する際に、兄2人にほとんどを持っていかれてしまった。一郎、二郎ときて、俺の名前は三郎だ。
定職に就き損なった、しがないイラストレーターで、結婚とも縁の無い三十路の俺には、数多ある不動産の中から何故これをという、それでも駅近のマンションを一室、充てがわれた。管理能力云々と言われると、兄たちには不平不満どころか何もいえやしなかったのだ。持ち家で、追い出される心配がなかったがためにズルズルと怠惰な生活に拍車がかかり、完全に昼夜逆転の生活になってもう何年だろう。
その、ゴミ屋敷一歩手前の部屋に戻り、今や物置きと化した風呂場は諦めて、洗面台にお湯を溜めて猫を入れた。顔にも優しくお湯をかけてやる。鼠色の毛並みが白色に変わり、何度目かでほとんど泥水がなくなるとやっと眼も開いた。
透き通る美しい翠色。ビー玉のようにまんまるの瞳。
「おお…なんちゅう可愛い… …」
思わず感嘆が漏れた。
ドライヤーが見つからず、その辺にあったタオルで水気を拭き続けてやっと毛並みがふんわりした頃には、ペットショップで売られていてもおかしくないノーブルな雰囲気をまとった猫になっていた。
「お前、ひょっとして高貴な血筋なの?」
ブルっと身震いして俺を見る。んにゃーぁん…と満足そうに鳴きながら、立て膝をついた俺の股をくぐりながら擦り寄った。
「はわ…っ」
思わず変な声が出た。愛くるしさに心臓を鷲掴みにされる。
「ち、ちょっと待てよ…」
家を出ることとなった俺に、兄からぞんざいに渡されたあの箱の中に、昔飼っていた猫の首輪が入っていたのを急に思い出したのだ。2度と使うことは無いと思っていたけれど…。スワロフスキーの石で彩られたパヴェデザインのキラキラ光る首輪。あれなら、この猫に相応しいだろう…
小一時間、初秋というのにジンワリ汗をかきながら、それでもなんとか見つけ出した。猫は大人しく、俺の晩飯のシーチキン缶を平らげたあと、尻尾をくねくねさせながら俺の後ろをついて回っていた。
「ほぉら!綺麗だろ?」
まだ俺が裕福だった頃の象徴と言っても良い。目の前でシャラシャラ振ると翠色の目をキョロキョロさせて前脚で捕まえようとする。
「コレはオモチャじゃなくて首輪だぞぉ?」
自分で目尻が下がっているのが分かった。ちょっと気持ち悪い。この猫が可愛すぎるのがいかんのだ。
完全に乾いてふわっふわになった脇に手を入れて膝に乗せる。石の付いた皮部分を首にあてて背中側でリボンを結んだ。顔に手を当てて悶絶する。
「ひぃ〜 似合い過ぎる…!!」
まるでアイドルを前にしたガチオタクである。とりあえず写メを撮ろうとスマホを探し出して振り向くとそこには小さな子供がいた。
え?
ええ?
えええ???
誰?
てか猫は???
完全に頭が真っ白になり固まって数十秒。はっと我に返る。よく見れば子供はすっ裸で、キラキラの首輪をつけている…そして、その瞳は日本人には有り得ない美しい翠色だった。そう、あり得ないが、そうなのかもと思ってしまう。
「猫……お前は…猫、なのか…?!」
こっくん、と小首を傾げて上目遣いで俺をみてくる。自分のことが可愛いと思っている動物がよくするポーズ…!そんな力は無いと思いつつも、首輪を着けた途端に変化したのなら、一度外してしまえとリボン部分に手をかけた。
「!!」
瞳が溢れて落ちてしまいそうなくらいにいっぱいの涙を溜めて全身を突っ張らせて無言で激しく抵抗されると、裸の子供というのもあって、犯罪めいた気持ちになり諦めざるを得なかった…。とりあえず、その辺に放ってあった俺の汗臭いTシャツを首からスポッと被せて着せた。まるでワンピースだが仕方ない。
「それ取るの、嫌なのか」
と優しく問いかけるとコクリと頷いた。どうしたものかとため息をついたとき、白んできた窓から朝日が差し込んできた。いつもならネットサーフィン中で、そろそろ寝るかな…くらいの時間である。
もう一度目の前の子どもと目を合わす。
フワフワのプラチナブロンドの髪。子ども特有の、桃のような、おモチのような柔肌。透き通る美しいエメラルドのようなまん丸の目はさっきの猫のときと変わらない。美人なネコだと思ったが、朝日があたって輝く姿はまるで天使だった。神々しさに思わず手を合わせたくなる…。ゴミ溜めに舞い降りた天使…
ゴミ溜め…そう、俺の部屋なんだが。
今まで俺にしっくり馴染んでいた部屋が、急に違和感を強調してくる。俺、こんな汚い部屋に住んでたの…?
たぶん部屋にはGのつく生き物がどっかに生息しているし、埃やなんかがアレルギーというやつを誘発するかもしれない。洗面台で猫は洗えても子供は無理だ。だがしかし、あんな風呂場の惨状では風呂にも入れてあげられない…
猫ならば気にならなかった(いや、それでも気にしろ)のに…。
「えーと、えーと…どうしよう」
混乱状態の俺に、猫は、いや、猫だったその子どもは満面の笑みでにゃーんと言った。
この後、俺の人生は、この猫に翻弄されることになるのだが、そんなこと、この時点で俺に分かるはずがなかった…。