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七夜月物語  作者: しろくまニア
3/3

第一夜「待宵月の鹿」(三)

「それで? 鹿はどうなったのですか?」


月面に着陸するアナウンスが船内に流れる。

シートベルトを締めるハクレンに、アンドロイドは首を伸ばして話の続きを促す。


「お前さんはどう思う?」

「全てを思い出せたのなら妻だという女性に会えたのでしょう。再会し呪いは解け、月に二人は幸せに暮らしているから、あなたは今、月を訪れているのではないですか?」

「なるほど」


よく見れば、アンドロイドはピカピカでまだ若いように見える。

地球から月へ向かうのは、主人に変わって用事を済ませた帰りなのだろう。

前向きで幸福な結末を描くのは、このアンドロイド自身がそのような生活を送っているからなのかもしれない。


「それじゃ、さっき私らが聞いた鹿の鳴き声はどうなるのさ?」

「…確かに。あれは幸せとはほど遠い、寂しげで物悲しい信号でした」

「そう。鹿が全てを思い出したことで呪いは完成してしまった」


ハクレンは窓の向こうへと視線を向けた。

終わりの見えない暗闇に浮かぶ地球は、あの時もこれほど輝きを放っていただろうか。

確かに、あの時も月面は夜の姿をしていて自分たちは暗がりに立っていた。

頭上で輝く女のホログラムが優しい笑みを讃え、自分たちを見下ろしていた。


「え! それでは、鹿は本物の獣になってしまったのですか?」


船が下降を始め、座席がガタガタと揺れる。

この揺れを感じるたび、ハクレンは安堵感と不安感を同時に覚え、そして自分はまた一人で船に乗っているのだという孤独を思い出すのだ。


「ホログラムの女の笑顔を見た鹿は大きく目を見開いた。幸福と悲しみ、羨望と憎悪。あらゆる色が混ざり合って、最後にはただ真っ黒な瞳になってしまった。私が呼び止めるのもむなしく、鹿は蹄で月面を蹴ると宙高く飛翔した。体は光へ変わっていき、そして、キーン、キーンという鳴き声だけ残して消えてしまった」

「私たちが聞いたような?」

「そう、まさにあの信号さ。妻を求めるその声に、私は泣くこともできぬままに呆然と宙を見上げ、そして発狂するように叫ぶことしかできなかった。死んだ私の妻の名をいくら叫んでも、どれほど宙を見上げても、そこには共に旅をした友の姿も、私の死んだ妻も、鹿が探した彼の妻の姿もなかった。ただ、ホログラムだけが優しく笑っていたのさ」


その後、着陸が完了したアナウンスが流れるまで、アンドロイドもハクレンも口を閉じ、ただじっと窓の向こうを見つめていた。

やがて完全に船が静止し、扉が開かれると乗客たちは荷物をもって出て行く。


待ち人のいないハクレンがようやく腰を上げると、まだそこには若いアンドロイドの姿があった。


「おや、まだいたのかい」

「ええ。わかったこともわからないこともありますから」

「そうかい」


のんびりとした歩調のハクレンの後ろを、アンドロイドは一つの小さな箱を握ってついていく。

透明の箱の中には、一房の赤紫色をした地球の花が入っていた。


「おや、それは『萩の花』じゃないか」

「はい。主人は髪飾りの細工師で、女王陛下に捧げる髪飾りをつくるため、これが必要だったのです」


すでにドライフラワーにされたそれは、生きているようにも死んだようにも見える。

萩と鹿。

ハクレンは、地球に残っていた詩を思わず口ずさんでいた。


「秋萩の咲くにしもなど鹿の鳴くうつろふ花はおのが妻かも」

「それはなんですか?」

「詩さ。鹿という生き物は秋に生殖活動をとる。だから求愛の声をあげながら山野を歩き回る。秋の山にはこの花が咲いているってんで、萩と鹿はよく寄り添いあっているようにも見えたんだ。萩を倒す鹿の姿は、女を抱く男の姿にも見えた」

「獣である鹿の妻が花である萩だというのですか?」

「そうさ」


アンドロイドは少し考え込む様子で、胸元の光をチカチカと点滅させる。

自分の持っているデータを参照し、ハクレンの詩を検証しているようだ。


「その花が綺麗に咲いているのに、鹿は悲しく鳴いている。色が移り変わる花が自分の妻なのかもしれない。心変わりしてしまった妻に悲しむ男の物語…」


なぜハクレンがこの詩を歌ったのか、納得したようにアンドロイドは頷き、そしてハクレンに続いてステップを降りる。


「その昔、月の女王たちは『女神』と呼ばれていたそうですね。若返り、死ぬことのない方だから」


ポートの中央では大きなホログラムが浮かんでいる。

柔らかな心をもって降り立った旅人たちを歓迎するという挨拶を口にしながら、にこりと微笑む女王は、まだ桃の頬をして内気な少女の面影を残している。


「まだ女神と呼ばれていた頃、女神は他の星の男を夫にしていたという。強く逞しく立派な男を夫に迎え、子を生み、国を繁栄させる。そして年老いたら泉で水浴びし、過ぎ去った時間を洗い流してしまう。老いも思い出も。そして、雄々しい若い男と結婚する」

「夫のほうはどうなるのです?」

「…お前さんならもう答えは知っているだろう?」


王は呪いをかけられ、孤独な獣になって狩人たちに追われるのだ。

キーンキーンと清らかな愛を待ち人に届けようと叫びながら。


「それで。お前さんは鹿の物語を聞いて何を感じたんだい?」

「……それは難しい質問ですね」


雑多な人混みをかき分けながら二人が歩みを進めると、前方に主人の姿を発見したアンドロイドはハクレンより先に進む。

杖をついた老人の目にはまだアンドロイドの姿は映っていないが、じっと佇む様子からはこの若いアンドロイドを揺るぎなく信頼していることが見てとれた。


「アンドロイドの私から見てもヒューマノイドの多くは短命。私たちが瞬きをしている間に背が伸びたかと思えば縮み、皮膚も声もしわがれていきます。私たちも劣化はしますが、ヒューマノイドの『老い』は、それとは少し違うように私は感じるのです」


主人から視線を外さず、すいすいとアンドロイドは人並みを泳ぐように進んでいく。


「主人の顔に刻まれた皺の多くは、弟子である私を褒めて笑ってくれたことでできたものです。背中が曲がっているのは仕事熱心のあまりに。白髪は一人息子を亡くした悲しみでそうなったと聞いています。あれらは皆、主人の生き様です。皺も曲がった背も白髪もその全てが美しいと私は考えています」


ですから、と続け、アンドロイドはハクレンへと顔を向けると、物語の感想を告げた。


「憶測でしかありませんが。鹿は、長年連れ添った妻の『老い』も愛していたからこそ、全てを思い出した後に鳴いたのかもしれません。もし、私の主人がその生き様を捨て、新たな人生をやり直すと決心するならば、私は応援したいと思います。ですが、それはもう、私の知る『主人』ではなくなってしまうのでしょう。そしてきっと、新しい主人の人生に私の居場所はないはず。そう考えれば、鹿が、妻の元に戻るでもなく、けれど信号を発してしまうという矛盾は理解できます」


ハクレンは顎を摩って、無機質なつくりのアンドロイドを見返した。

目らしいものは見当たらないが、そう答えるアンドロイドにはもう、そのアンドロイドだけの「目」があるのだろう。


鹿が光の獣となった時、ハクレンは思った。

あの男の思い出は何もかも消えてしまったのだと。

思い出した全ても、ハクレンという友がいたことも。

全てを忘れ、獣は何もない宇宙へと飛んでいってしまった。


忘れてしまったほうが苦しみも消えるはずだ。

好奇心のために友を獣にしてしまった罪悪感と後悔をかき消すようにそう考えてきた。

けれど、もしもこのアンドロイドが言うように、あの鹿は思い出とともにこの宇宙を駆けているのだとすれば…?


残酷にも思える。

けれど、何百年と時が過ぎても死んだ妻の面影はハクレンの心を離れない。

それは痛みでもありながら、励ましでもある。

星々の砂漠に残してきたひとりぼっちの足跡にも、きっと見えないだけで妻の足跡はあったのかもしれない。

どうして自分の魂の欠片を失えるというのだろう。


「主人!」

「おお、クローバー。無事に戻ったのだね、本当によかった。怪我はないかい?」

「はい、ちっとも。楽しい旅でした」


駆け寄ったアンドロイドに老人は両腕を開き、金属の塊を抱きしめた。

アンドロイドは手にした箱を老人に渡して、あれこれと説明をしているが、老人は自分のアンドロイドについた汚れを払ってやりながら損傷がないか確かめている。


「それで、クローバー、そちらの方は?」

「船で隣に座っていた方です。不思議な物語を聞かせてもらったのです」

「宇宙をさすらう、しがない吟遊詩人です」


ハクレンは頭を下げて挨拶を口にした。


「それでは、あなたが…」


老人は、驚いたようにハクレンの姿をあらためて見上げた。

煤けた外套を身にまとう男は、若いようにも老いているようにも見える。

噂とは随分と異なる容姿に驚きながらも、あまりに見つめては失礼になるかと考え、老人は視線と共に頭を下げた。


「またどこかでお会いすることもあるでしょう。その時にはこの私にも、あなたの知る物語をお聞かせください」


ハクレンは老人に頷いてみせ、その隣に立つ若いアンドロイドに軽く手をあげて別れの挨拶をした。

擦り切れた外套の裾が翻ったかと思えば、すでにその姿は人混みに飲まれ、消えている。


アンドロイドは、その男の名を聞き忘れていたことを思い出した。

知っているそぶりを見せていた主人に尋ねようかと思いながらも、きっとあの男とならばまたどこかで出会えるだろうと考え直し、主人に彼の呼吸の話をすることにした。




(第一夜「待宵月の鹿」【終】 第二夜へ続く)

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