第一夜「待宵月の鹿」(二)
その頃、私は今よりも若く、傷つきやすくて脆い、感傷的な男だった。
妻を亡くしたばかりで、ほうぼうの星々をめぐりながら故郷と呼べる居場所を探し歩いていた。
鹿と出会ったのは、ちょうどその頃のことだ。
そういう不安定な心にあった私だからこそ、鹿に強く心惹かれたのかもしれない。
鹿は、体の大きなヒューマノイドだった。
無数の古傷をもった強靭な肉体を持ち、首から先は大きな角の生えた獣の頭をしていた。
そのような生き物を見たことなどなかったし、私たちが出会った星の住人たちはヒューマノイドではなかったから余計に目立った。
鹿は警戒心の強い男だったが、人を見る目も先を読む力も持っていた。
そのためか、私への警戒心はすぐに解け、共に旅をすることを許してくれた。
というのも、鹿もまた妻と呼べる存在を失った傷心を抱えた男だったからだ。
だが、鹿は私とずいぶんと違っていた。
その容姿はもちろんのこと、己の名も出自も、全ての記憶を失っていたからだ。
妻と呼べる存在があったことを本能的に知っており、その者を探し歩いていた。
だが同時に、思い出してはならないことも直感的に知っており、その存在のために自分が追われる身であることも知っていた。
体にある無数の傷は、追手につけられたものらしかった。
その頭の獣は、地球に生息していた鹿という獣によく似ていたからその男を私は『鹿』と呼ぶことにした。
鹿は無口な男だった。
だが、穏やかで低い声で覚えていることを私に話してくれた。
私と違い、鹿の妻はおそらく生きているようであったから、私はこの男を手助けしてなんとか妻に引き合わせてやりたいと思っていたからだ。
自分の心を重ねていたのだろう。
私は二度と妻には会えない。
だからこの男とその妻の再会が叶えば、もしかすると自分の傷心も少しは癒えるのではないか… 新たな故郷を見いだすこともかなうのではないか… そう思っていた。
鹿が言うには、鹿の頭には角がなかったという。
だが妻だった者の肌やその温もりを思い出した時、角が生えた。
笑い声を思い出した時、その角が伸びた。
その笑みの面影を、揺れる金色の髪を、舞う水飛沫を思い出した時、背中と胸に獣の毛が生えた。
『おそらく妻を思い出すと獣の姿に変化する呪いをかけられているようなのだ』
鹿はそう言っていた。
そんな厄介な呪いも私は聞いたこともなかった。
だからこそ、どうも鹿--この男は只者ではないらしいことも察した。
もちろん、その妻も。
男は自分のことは思い出せないらしかったが、博識だった。
一緒にめぐった星々の歴史や政治を私に教え、未来の予言も聞かせてくれた。
鹿と別れて数十年後にその予言は現実となった。
力もあり、荒くれ者を片腕でねじ伏せてしまうほど、鹿は強い男だった。
雄々しい体に老成した魂を宿す男は、私に様々なことを教えてくれた。
知識や教養だけでなく、武術や軍事といった私の人生に関わりのなさそうなものまでも鹿は知っていた。
--この師であり友である男は、どこぞの星の王だったのではないか?
私は、好奇心を抑えることができなくなった。
妻との思い出の欠片を鹿が手に入れる度に、その姿はより獣に近づいていった。
水浴びをする女の様を語るうちに鹿の首は毛が生え、伸びていった。
もう私の知る鹿とも異なる牛という動物にも似た獣の容姿になっていた。
そして、泉の水を浴びるほどに艶やかになっていく様に見惚れた当時の思いを語った後には、あれほど聡明だった男の言葉は文法を失っていった。
それでも、鹿は妻を思い出すのをやめなかった。
私もまた、それを止めることをしなかった。
止めていれば、鹿はまだその姿と心を留められたかもしれないのに、私は真相を知りたいという欲求を抑えられなかったのだ。
私が鹿の妻の正体に一歩近づくほどに、鹿は妻への愛を多く語った。
美しい少女だった姿に見惚れながらも、鹿は妻の全てを、その一生を愛していたのだ。
子を抱く姿も、皺を刻んで笑む優しさも、年月を重ねて寄り添った夫婦の愛を、たとえ文を綴れずとも鹿は言葉にし続けた。
そして、私たちに別れが訪れた。
月にたどり着くと、私は宙に浮かぶホログラムに向かって指差して彼に言った。
『お前さんの待ち人はこの方だろう?』
私の考えは正しかったのだ。
鹿は彼女を見て全てを思い出した。




