懐かしい薬室
シャーリーがホルック領で北の薬草畑で使う肥料の手配をして、王宮に戻るとアンヌがマースと話し込んでいた。
「シャーリー様、昨夜、幽霊が出たそうです」
アンヌがシャーリーに気づき話しかけてきた。
「昨夜?」
シャーリーとアンヌは幽霊の正体はルーカスだと思っていた。
数日前、やっとサイモン医師から許可が出てカルロと一緒に大学での準備を始めていた。ただ、久しぶりの薬室で薬つくりの不安があると言っていたので、夜の薬室で薬つくりをしているのだと思っていた。
そのルーカスは今日までカルロとともに大学の宿舎に泊まり込んで薬草畑の準備をしているので昨夜は出ないと思っていたのだ。
「ルーカス様ではないのですね」
アンヌはそれなら誰だろうと考え込んでいる。
「ルーカスは幽霊じゃないよ。薬つくりは早朝にやっているから」
マースが言うには、現在薬室の薬つくりはアランとマースが担当している。しかし、ルーカスが感覚を取り戻したいと言って、早朝にやってきて薬室の補充分の薬を作ってくれていたらしい。
「深夜に薬草畑や調薬室に入り込む人の心当たりはありますか?」
シャーリーは北の地に言っていたので最近の王宮のことをあまり知らない。その為ここ最近の情報を聞き出す。
「それが分からないんだ。薬剤師たちはほとんど出払っていていないから。いつもいるのはアランと僕だけで、たまにカルロ様とルーカスが帰ってくるけど、二人も最近は大学の宿舎に泊まり込んでいるから帰ってきていない。薬室長やローレンス様はもう二か月ほど帰ってきていないよ」
「フォアボルド領とリンゲル領に行っている薬剤師たちは帰ってきていないのですか?」
シャーリーはあの領地担当者たちは今どうしているのか気になった。
「あそこの担当は今、大学の薬草畑に駆り出されているよ」
マースが書類を見せてきた。カルロの計画書だ。それによると半年後に迫った大学の開設と同時にケンテル領の薬草を使っての薬つくりの練習をすることになっている。その為の薬草畑の準備をするためにフォアボルド領とリンゲル領担当の薬剤師たちも宿舎に泊まり込んでいて、ここには帰ってきていないと言った。
「この日程では帰れませんね」
シャーリーとアンヌは計画書を見て途方に暮れた。
陛下から頼まれたことは結構、厄介なものになりそうだった。
「シャーリー様、今夜から見張りましょう」
「そうですね」
シャーリーは何かが引っかかっていた。昨日見た薬草畑の足跡は決して薬草を踏み荒らす類ではなかった。その為、幽霊の正体はルーカスだと思っていた。
幽霊の正体は薬剤師たちでもないということだろう。誰かが勝手に薬草をとっているのだとしても調薬室まで忍び込んでいるのは少し心配だ。
「マース様、夜は薬室の施錠はしっかりされているのですよね」
「しているよ。アランと二人で何度も確認をしてから帰るから。薬室長とローレンス様からもしっかりするようにと言われているから」
シャーリーとアンヌは顔を見合わせた。アンヌの考えていることはシャーリーにも分かった。
施錠している薬室に入り込むには鍵を持っていないと駄目だ。それならやはり薬室関係者しかいない。
「夜まで待ちましょう」
その後、薬草園から帰ってきたアランとマースから幽霊を見た時の状況を詳しく聞いてシャーリーとアンヌは夜に備えた。
〇〇〇
「シャーリー様、本当に出るのでしょうか」
薬室の裏手の薬草畑が見える場所でシャーリーとアンヌは声を潜めて幽霊が出るのを待っていた。
「出ると思います。今夜出なければ、明日でしょうか……」
シャーリーは昼間見たカルロの計画書で今夜この薬草畑に来る気がしていた。暗闇でははっきりと見えないので耳を澄まして人の気配を探す。
シャーリーはアンヌの腕を掴んで動きを制した。それでアンヌも気づいたようで必死に音を拾っている。その時、アンヌのすぐそばを白い服を着た人物が通り過ぎていくのが見えた。
あまりにも突然の出来事にシャーリーは驚く。アンヌは声が出そうになり自分の手で口元を抑えていた。
フラフラと歩き薬草畑の中に入るとそこにしゃがみ込んだ。月明かりに照らし出されて露わになった人影はカタリーナだった。その時、後ろの薬室の明かりがついて薬草畑を照らし出す。
シャーリーとアンヌは振り返り薬室を見ると調薬室に入っていくカルロの姿が見えた。調薬室に明かりがつくと裏の薬草畑にも灯りが届きカタリーナの姿をはっきりを照らす。
カルロが薬つくりを始めるのが見える。その様子をカタリーナは静かに見続けていた。その表情は憂いを帯びてとても美しいとシャーリーは思ってしまった。その表情からも分かるようにカタリーナもカルロのことが好きなのだと確信した。だが、二人は結ばれることはない。カタリーナもそれが分かっているから深夜にこっそりとカルロを見に来ているのだろう。アンヌもそのことを理解しているので静かにカタリーナの様子を窺っている。
カルロが深夜に来ることをカタリーナは知っていたのだろうか。ふとそんな疑問が浮かんできた。
カルロは一時間ほど薬つくりをして、薬室を後にする。薬室の灯りが消えてカルロが薬室を出ていくのを見届けるとカタリーナも立ち上がり来た道を引き返していった。
カルロとカタリーナがいなくなった薬草畑を見てシャーリーはため息をついた。
「陛下にはなんと報告したらいいのでしょうか」
アンヌはシャーリーに聞いてくるが、シャーリーもどうしていいのか分からない。
「こんな時、グラベル様がいてくれたら」
「俺に何か用か?」
突然目の前に現れた人物にアンヌは腰を抜かし、シャーリーはあまりにも驚きすぎて胸に手を当て声も出なかった。
現れたのは黒い服を身に着けたグラベルだった。
〇〇〇
二日後、カルロがケンテル領から戻ってきたので聞くとケンテル領で病にかかった者の為に薬室に薬を作りに戻っていたらしい。
陛下にはカルロがケンテル領の仕事が終わった後、薬室で薬つくりをしていたと報告した。
あの後、グラベルと部屋に戻ったシャーリーとアンヌはさっき見たことを話した。グラベルからは幽霊はカルロだけにしたほうがいいと言われた。令嬢が深夜、薬草畑にいるのは外聞が悪いのと誤解を与えかねないからという理由だった。
シャーリーとアンヌが陛下に幽霊の報告をすると、陛下からは「そうか」とだけ言われてそれ以上の追及もなかった。
シャーリーとアンヌは下手なことを口走らないうちに陛下の執務室を退出することができて緊張の糸がほぐれた。
「何か聞かれないかと心配していましたが、取り越し苦労だったみたいですね」
アンヌの表情も先程とは変わって落ち着いていた。たぶん、シャーリーも同じような強張った表情をしていたのだと思う。
それにしても、陛下はなぜシャーリーとアンヌに幽霊の正体を探せと言ったのか気になっていた。通常なら近衛か騎士団が動き出すはずなのに、シャーリーは立ち止まった。
「シャーリー様、どうされたのですか?」
アンヌは突然歩みを止めたシャーリーに気づき声を変えてきた。
「おかしいと思いませんか?」
「何が?」
「今回の場合、通常なら近衛騎士団や衛兵もしくは近隣の騎士団が捜査に当たると思うのですが、どうして私たちに依頼されたのか気になっていて」
「それもそうですね」
「昨日思ったのですが、カルロ様が深夜の薬室に来ることをあの方は知っていらしたのでしょうか」
シャーリーは近くに人がいるのを警戒して名前を出すのを避けた。
「そうですよね。確か、調薬室から薬草畑は見えますよね。」
アンヌの言葉にシャーリーはある予感がよぎった。
「確認してみましょう」
二人は急いで薬室に戻り昨夜カルロがいた場所に立って裏手の薬草畑を見た。
「シャーリー様、カルロ様はこのことをご存じだったのでしょうか」
窓際に佇み薬草畑を見るアンヌ。
カルロがいた場所からはカタリーナのいた場所は、はっきりと見えた。
「多分、知っていたのだと思います」
「これは逢引きにはなりませんよね」
アンヌは心配する。貴族の令嬢が深夜に男と会っていたというのは醜聞でしかない。カタリーナもだが、カルロもこれからの人生に少なからず影響を与える。
「グラベル様が幽霊の正体はカルロ様だけにするように言われたのは、カルロ様には調薬室に来る理由があったからだと思います」
「カタリーナ様はここにはいなかったということですよね」
「昨日見たことは秘密にしましょう。誰にも言わないこと」
カルロだけなら疑われることもない。シャーリーはアンヌの目を見て言うとアンヌも力強く頷き返した。
その後、幽霊の正体がカルロだとアランとマースに告げた。幽霊の正体が分かった二人は少し落ち着いたようで王族の薬つくりも怯えることはなくなっていった。
グラベルが説得にあたっていたマーシア諸侯は交換条件で軍事費の増額を要求してきたが、以前からリズバルク伯爵は辺境地域の軍事費の増額を考えていたため、比較的簡単にその法案は通り、マーシア諸侯は王妃候補の話を取り下げた。
北の領地に戻ると思われたグラベルはケンテル領の大学経営をするために、また王宮で暮らすことになった。
「大学の準備をしながらまた、王宮の薬室で仕事をすることになった」
グラベルの言葉に一番安堵したのはアランとマースだった。どうやら薬室の仕事は二人にはまだ荷が重かったようだ。
「やっと帰ってこれたよ」
ローレンスの疲れた声が薬室に響く。
薬草畑を希望していた領地へ行っていた薬室長とローレンスが大きな荷物と共に帰ってくるとアランとマースに笑顔が戻ってきた。
しばらくしてカタリーナが修道院へ行くらしいと噂がでた。どうやらカタリーナの父、ラウエン伯爵がカタリーナの行動を知って修道院へ入れることを決めたらしい。カタリーナは少し前に王宮を出て屋敷に戻ったらしい。
「カタリーナ様は今後、どうされるのでしょうか」
アンヌが寂しそうに呟いている。シャーリーにもどうすることも出来ない内容に胸が痛い。
カルロはいつもと変わらない様子だが、時々カタリーナがいた薬草畑を懐かしそうに眺めていた。




