いってきます
…これは夢だ。
最近、毎日同じ夢を見る。
暖かい日差しを柔らかく反射する桜。
そのきれいな色をいつまでも見て居たくて、初めて握った筆と古い絵具。
一定のリズムで聞こえる丸い木の音を遠くに聞きながら白いシャツと靴下を絵具で染めたあの日の夢。
広い縁側で噛り付くようにうずくまりながら大きな白の上でぎこちなく桜の輪郭をなぞっていると紙に落ちる影が大きくなった。
その影の持ち主は濡らした白い紙に薄く色を乗せたような切ない表情で「彩十、楽しいか」と骨ばったシワだらけの手が不器用に僕の頭を撫でた、そのときには木の音は聞こえなくなっていた。
少し後でじいちゃんの膝の上で絵を描いている僕を見つけた母さんが涙ぐんでいたのを覚えている。
台所から聞こえる朝の音で意識が起きる。
…今日もあの夢だったな。
まだ閉じていたい瞼をゆっくり動かしオレンジ色に光るカーテン越しの太陽に目を慣らしていく。
さあ、ここからが今日という一日を左右する勝負だ。
ベットに沈み込んで重くなった身体がもう一度眠りに落ちると再び目が覚めるときには一日のほとんどが終わってしまう。
そうなってしまっては今日出会うはずだった『好きの瞬間』を描き残せなくなってしまう。
意を決して両足をゆっくり天井に伸ばしそれを振り下ろす反動で体を起こす。
本日も無事、睡魔に勝つことができた。
えらいぞ、僕。
まだ開ききっていない目を擦りながら立ち上がり、机に置かれたお守りに手を伸ばす。
「じいちゃん、ばあちゃん、おはよ。」
光を反射する懐中時計型のロケットの中では、今日も僕とばあちゃんが二人して絵具まみれになって笑っている。
その端に写りこんでる指はじいちゃんのだと母さんに聞いた。
死ぬ間際にじいちゃんから渡されてからいつも持ち歩いているこのロケットは、たまに時計のような機械音がする時がある…気がする。
身支度を済ませると玄関先から慌ただしく家を出る母さんの「いってきまーす。」が聞こえた。
ベランダに出て「いってらっしゃーい」と母さんを見送った後、水やり途中で放置されていたジョーロに足を引っかけた。
「あちゃー…、やっちゃった。」
思いっきり水をかぶった靴下がべっとりくっついて気持ち悪い。
「七分丈のズボンでよかったぁ」なんてぼやきながら靴下を脱いでいた時、そのポケットから何か聞こえた気がして動きを止めた。
…チッ、…チッ、…チッ、……。
急いでロケットを耳に当てるが何も聞こえなかった。
新しい靴下に履き替え、段ボールだらけの家をゆっくり見渡す。
消しきれなかったクレヨンの跡、身長を刻んだ木の扉、雷様が怖くて隠れた押し入れ、……この空間に溢れる思い出を白いキャンパスに写しこむ。
作業を終えて必要最低限のものだけ詰めた大きめのショルダーバックを持ち、この家に深く一礼する。
「ありがとう、いってきます。」
この家に放つ最後の「いってきます」、「ただいま」はない。
午後休をとっている母さんに「おかえり」を伝えるため、外に出た。
次回の更新予定日は11月1日です。
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