1‐6 託された言葉
一応、挨拶しに来ただけという名目なので、朝になったら早々に邸宅を出ることになった。これ以上睨まれ続けるのは御免だし、藍も十分に調べたと言っている。……わたしが十分だよねと尋ねたら頷いただけだが。
恵実のご厚意で朝食は頂いたけれど、昨日の夕食と同じく、冷たく重苦しい雰囲気の中だったので、ほとんど味がしなかった。こんなに自分の家の安っぽいご飯が恋しいと思えたのは初めてだ。邸宅を出れば、あからさまにホッとする始末である。
さて、出雲邸から最寄りの駅まで、広岡の車で移動することになった。行きは事務所から同じように車で屋敷に来たが。
「これからどう行動します?」運転席の広岡が尋ねる。「行きたいところがあれば、お送りしますけど」
「いえ、広岡さんも忙しいでしょうし……愛人候補の女性に見当がつけられたわけですし、これから捜索に専念することになるんで、付き合わせるわけにはいきませんよ」
「あはは、遠慮なさることもないのに……」
遠慮ではない。万一のトラブルを避けるため、調査はできるだけわたしと藍の二人だけでやるよう、晃との間で決めてあるのだ。探偵の仕事というのは、ただでさえトラブルの温床になりやすいから。
駅に到着すると、わたしと藍は車を降りた。広岡は自分の事務所に戻るため、ここで一度お別れとなる。わたし達は電車で探偵事務所に戻り、今後の行動について相談……ではなかった。
駅の建物に入った後、藍はなぜか改札を無視して、反対側の出口に向かった。
「ちょっと、どこ行くの?」
慌てて彼女の後を追う。
藍が来たのはバスプールだった。短い行列のできているバス停の前に、藍はスタスタと歩み寄り、最後尾の位置についた。よく分からないが、わたしも彼女の後ろに立つ。
雨避けの屋根からぶら下がっている案内板には、『裏台方面』とあった。隣町にある地区だ。そんな所に行って何をするつもりだろう。それに、裏台にも電車は通っているはずだが……。
バスが到着し、わたし達は並んでシートに腰かけた。発車してしばらく経ってから、わたしは藍に尋ねた。
「えっと……何を考えているのかなぁ?」
藍は答えない。口を開かないのはいつもの事だけど、タブレット端末など何らかの手段を使っても答えないということは、本人にまだその意思がないのだ。こうなると、ただついていく以外にやることはない。
やがてバスは裏台地区に入り、最初のバス停を目前にして藍は降車ボタンを押した。
バスを降り、藍はやはり迷いなく歩き出した。最初から目的地の場所は把握しているらしい。わたしは何も言わず、彼女の後をついていく。
それから五分もかからないうちに、目的地に到着した。立ち止まった藍が見上げた先には、二十階もありそうな高層ビルが建っていた。入り口には『筑摩プラザビルディング』という名前が英語表記で掲げられている。
「どういうビルなんだろう……って、ちょっと!」
わたしに構うことなく、藍は悠然と建物の中へ入っていく。
瀟洒なロビーを素通りして、藍はエレベーターの扉の前に立ち、上に行くボタンを押した。そして到着をじっと待つ。……その間も、全くわたしと目を合わせてくれない。
到着したエレベーターに乗り込むと、藍は七階のボタンを押した。壁の案内板に、七階には大広間があると書かれている。
七階に到着すると、立派な身なりの紳士淑女が大勢集まっていた。まだ朝の早い時間帯だというのに……休日のパーティーでもやるのだろうか。だとしたら、招かれていない上に私服で来ているわたし達は、完全に場違いな存在ではないか。
まだ準備段階なのか、大広間の扉は開放され、ホテルのスタッフらしき人たちが何人も出入りしている。藍は、行き交うスタッフたちを目で追うように、きょろきょろと辺りを見回している。誰を探しているのか……と思う間もなく、藍はまたスタスタと歩きだした。ロビーの隅っこでスーツの男性二人と話している、一人の女性スタッフに向かって。
……女性の方に近づいたと分かったのは、その人に、わたしも見覚えがあったからだ。というより、これから探そうとしていた、出雲哲邦の愛人候補、例の写真に写っていた、まさにその人物だったのだ。
スーツの男性たちが離れたタイミングを狙って、藍はその女性の元へ早足で接近した。同じくらいの背丈なので、相手の視界にもすぐに入っただろう。
藍はやはり何も言わず、ただその女性をじっと見つめている。
「あの、何か……?」
自分と会話する意思が相手にあると確認したのか、藍はタブレット端末を取り出し、あらかじめ文章を表示しておいた画面を、女性に見せた。
『フジワラさんですか』
「……え?」
いきなり筆談で話しかけられたら、誰でもこんなふうに困惑するよなぁ。
「すみません、突然に」わたしはフォローに入る。「普通に口頭で答えて結構ですよ」
「は、はあ……えっと、確かに私は藤原ですけど、どんなご用で?」
すると、藍は画面をスクロールして、下に書いてあった文章を見せた。
『出雲哲邦氏のことでお話があります』
直球かよ。確かにそれ以外に尋ねたいことはないけれど……。
藤原という女性は、これを見て明らかに顔色を変えた。明らかにわたし達を警戒しているが、会話を拒否することまではしなかった。
他人に聞かれていい話でもないという理由で、藤原は談話コーナーに行こうと提案してきた。談話コーナーには三つのテーブルがあり、それぞれ衝立で仕切られている。一番奥のテーブルを選ぶと、藤原と正対するようにソファーに腰かける。もちろん、わたしと藍で並んで座る。
「まず先に確認したいのですが、藤原さんは出雲哲邦氏のことをよくご存じですね?」
いつものように、わたしから質問を始めた。すでにお互いの身分は伝えている。わたし達は探偵、相手の名前は藤原紗耶である。
「ええ、まあ……」
「どのようなきっかけで知り合いましたか?」
「以前、出雲さんが会社の周年記念祝賀会を、ここで催したときに知り合って……」
やっぱりここはパーティーをやる所なのか。
「まあ、それ以降もスタッフとお客様という間柄でしたけど、二度ほどうちのビルで催し物をしてらっしゃいまして、出雲さんや役員の方々と話す機会も多々ありましたね」
「話しただけですか?」
「いえ、私が七年ほど海外留学をした経験があると話したら、出雲さんが、在日外国人支援NPOを紹介してくれて、それに今でも参加しています。なんでも、出雲さんも多額の出資をしてらっしゃるとか」
NPOを紹介してもらった、というのはあまりに繋がりとして薄い。はぐらかしている様子もなさそうだし、いきなり外れクジを引いたかな……。
「それ以降もまあ、交流は少なからずありますけど」
「あの、二人きりでお話しされたことは?」
「えーと……うん、一度しかないですね。二か月前、ちょうどこの談話コーナーで」
二か月前といえば、哲邦氏が入院したあたりだ。
「もしかして、出雲氏が入院される直前に、何か大事な話をされましたか」
「ええ、重い病気が判明して、自分が亡くなった後のことを考えていると……それを打ち明けられたところで、私にできることはないと思ったのですが……」
「が?」
「出雲さんは、残せるものは残したい、だからそのために協力してほしいと言って、ある物を預けてきたんです」
おや、外れクジではなかったか。わたしは身を乗り出して尋ねる。
「もしかして、四文字の英数字が書かれた何かですか?」
「四文字? いえ、預かったのは鍵です。アタッシェケースの鍵だと思いますが」
あれぇ……わたしは勢いを削がれた気がした。
「あの、何かご期待に沿えないことが……?」
落胆する素振りを見て取ったのか、気を遣うように藤原が尋ねてきた。
「いや、なんでも……それで、その鍵はどちらに?」
「出雲さんが亡くなった後、別の人に渡すよう指示されていたので、その通りに。あ、渡した相手のことについては、何があっても他言無用といわれているので……」
誰に渡したかは話せない、か。藍が表情を変えないから、今この場で無理に聞き出す必要はないだろう。
「でも、口外しないよう言われていないこともありますよね。出雲氏と知り合ったきっかけも伏せませんでしたし」
「ええ、鍵のこと以外で特には……ただ、もし出雲さんのことを尋ねてくる人が現れたら、『ハートを探すべし』と伝えるように仰せつかっています」
「ハートを探す?」
「ええ。『ハートの中にもハートが入る。いずれ必ず目にするだろう』とも。なんでも、書斎にある金庫と繋がりがあるとか……」
あの遺言書と同様、意味深長な言葉をここにも残していたか。これが最後の四文字のありかを示しているようだが。
すると、ようやく藍が質問してきた。……筆談で。
『藤原さんのお住まいは?』
「私の住所? ここから一キロほど離れた所にあるアパートです。四国の実家を離れて、ずっと一人暮らしですね」
藍はそこまで尋ねていないような気が……まあいいか。明らかに本筋からずれた質問だけど、藤原は素直に答えてくれた。おかげでさらに謎が増えた。
あの写真に写っていたマンションは何だったのだろう……晃が調べているはずだが、無駄骨に終わるかもしれない。いっそ、写真のことを藤原に訊いてみようか。
わたしは小声で藍にそう言ったが、藍はゆらゆらとかぶりを振った。今はその時じゃないか……では、遠回しに質問して反応を見よう。
「あの、わたし達は、出雲氏に愛人がいたかどうかを探っているんです」
「愛人?」
藤原は眉をひそめた。少なくとも、身に覚えがある人の反応ではない。
「そういう人に心当たりはありませんか?」
「いえ、まったく……」首を横に振る藤原。「そもそも、出雲さんは亡くなる直前までご家族のことを案じてらっしゃいました。そんな方が愛人を作るとは思えませんが」
家族を案じていた……その家族からの評価とはまるで反対だ。ひょっとして、家族も知らない一面が哲邦氏にはあったのだろうか。
そんなことを考えていると、わたしのスマホに着信が入った。失礼、といって席を立ち、談話コーナーから離れた所にある自販機のそばに移動する。スマホの画面には、事務所の番号が表示されていた。晃からだ。
「晃さん、何か分かりましたか」
「桜ぁ、電話に出るときは『もしもし』から始めないと」
子供じゃあるまいし……でも晃が機嫌を損ねると色々と面倒くさいので、素直に従う。
「もしもし。というか、いま言っても遅い気がしますけど」
「ゆうべ藍から調べるよう頼まれたこと、ひと通りやっておいたわよ」
自分から言い出したのにスルーかよ。たぶんからかって遊びたいだけだな。暇なのか。
「例の、出雲氏とその愛人らしき女性が写っている写真……背景のマンションが割り出せたわよ。あれ、かなり鮮明に撮れていたから、簡単な画像解析で電柱の住所表示を読み取れたわ。しらみ潰しに当たってみたら、一等地に建つ高級マンションだったわよ」
「出入り口の雰囲気からして、そんな感じでしたからね……」
「でもね、管理人に問い合わせてみたけど、『出雲』という名義で借りられている部屋はなかったわよ。単に無関係なのか、それとも別の名義で借りていたのか……電話じゃ突っ込んで聞けないし、探るなら直接会って話を聞かないとね。まあ、愛人を見つければ、その必要はなくなるだろうけど」
「ああいえ、もう見つけてます」
「なんだと」晃はおどけて言った。
「名前は藤原紗耶、裏台にある筑摩プラザビルディングというビルのスタッフです。こう言ったらあれですけど、とても高級マンションに住んでいそうな方には見えません。ご本人もアパート暮らしと証言していますし」
「ふうん……出雲氏が代わりに家賃等を払っている可能性も考えたけど、四十代の、それも決して高給取りでない独身女性が住んでいたら、それだけで怪しまれそうね。少なくとも、問題のマンションにその女性を囲っているということはないかな」
オブラートに包まない物言いはお互い様か……。
「必要が生じたら、あなた達も現地で直接聞いてみればいいわ。ああそれと、出雲哲邦の娘の恵実……彼女の婚約者についても調べてほしいって頼まれていたわね」
「えっ、黒宮誠司のことですか?」
「やっぱり桜は何も知らされていなかったか」
たぶん、知らせておく必要がないと判断したのだろう。晃が何か調べて報告するときは、まずわたしに知らせて、わたしの口から藍に話す。だから事前に言わなくても、いずれ確実に知ることとなるのだ。本当に必要な事しか伝えないからなぁ、あの子は。
「黒宮誠司、いくつもの大企業を有する黒宮グループ総帥、黒宮栄一郎の孫で、二年前、出雲恵実が通っている大学を卒業している。公認会計士の資格を持っていて、現在は父親が取締役をしている某企業の子会社で、会計参与の職にいるわね。まあ、恐らく父親のコネだと思うけど、悪い噂は聞かないわね」
資産家とは聞いていたけど、想像以上に凄い家柄の人だった……確かにそんな家に嫁入りするなら、遺産にそれほどこだわらないだろうな。
「土日は大学近くの喫茶店でコーヒーブレイクが日課らしいから、会おうと思えば会えるはずよ」
「わたし自身は会う予定なかったんですけど、藍は何か聞き出したいんでしょうね」
「そのためにわざわざ素性を調べさせたわけだしね。でも、接触するなら慎重にね。黒宮誠司はグループの若手ホープで、マスコミからも注目されているけど、出雲恵実との結婚はまだ表沙汰になっていないみたいだから」
大騒ぎになるのは、両家とも望むところではないわけか。喫茶店だと人目もあるし、周囲に気を配りながら話をしなければならない。
「それともうひとつ」
「まだあるんですか」
「怪しげな二人組があなた達を尾行してくるかもしれないけど、気にしないでね」
気になるわい。
なぜわたし達が尾行されなければならないのか、訊き返そうと思った時にはもう遅く、「じゃね」と言って晃は電話を切った。仕方ない、談話コーナーに戻るか……そう思って振り返ると、藍がとことこと駆け寄ってきた。
「あれ、藤原さんは?」
藍はタブレットの画面を見せた。
『同僚に呼ばれて仕事に戻った』画面をスクロール。『全く会話が弾まなかった』
……そもそも弾むほどの会話をしないでしょうに。
晃からの報告を話すと、藍が『黒宮セイジに会いに行く』と返したので、わたし達はビルを出て喫茶店に向かった。
そのさなか、確かに晃の言っていたとおり、怪しげな二人組の尾行があった。……何だろう、晃は予言者なのだろうか。