1‐4 写真とトランプとレコード
手掛かりが山ほどあります。ここは注意深くお読みください。
玄関やリビング、仏壇のある和室と比べて、哲邦氏の部屋はやや狭いように思える。壁のいたる所に棚が置かれているからかもしれない。広岡の言っていたとおり、棚の中には将棋やチェスなどのゲーム盤にレコード、蓄音機にアンプ、壁には西洋風の風景画が五枚飾ってある。
「遺言に書かれていたとおり、室内の物には一切触れていないので、哲邦氏が入院した二か月前のままのはずです」
「遺産の配分が完了するまで、この部屋のコレクションは放置ですか」
「持ち出せない以上、売りに出すこともできませんからね……」
ふむ……わたしと藍は部屋の中を見回した。
この部屋の窓は、幅五十センチほどの小さなものしかない。位置的にこの窓は南向きだろうが、昼間でもほとんど日光は差し込まないだろう。もう少し放置していても、コレクションの劣化は防げそうだ。まあいつかはきちんと保存すべきだろうが。
藍は、その窓の近くに置かれている、大きな机に歩み寄った。広岡いわく、あれはマホガニー製の高級品らしい。机の上には今なにも置かれていないが、藍は木目をなぞるように甲板に指先をすべらせた。
遺言書の制約がどこまで及ぶか分からないが、藍は気にせず棚やサイドテーブル、窓のサッシ、果ては壁の絵画の額縁まで指先で触れていく。好奇心から未知のものに触れたくなるとは赤子のようだが……絵画そのものに触れないなら、まだ自制できている。
まあ、放っておいても大丈夫だろう。わたしは問題の金庫に目をつけた。金庫とはいっても、壁に鉄製の扉が填めこまれているようにしか見えないが。金庫の両脇にもまた棚が置かれている。
「これは相当に頑丈な造りですね……わずかも隙間がない」
「キーロックの基盤も、カバーをネジで固定して溶接されています」と、広岡。
「本当に暗証番号を入れる以外、開ける方法はないみたいですね……」
これも哲邦氏の凝り性による代物だろうか。自宅に備えつける金庫としてはセキュリティレベルが高すぎる。
キーは五行八列の長方形に並んでいて、最下段の右半分はエンターキーになっていた。残る三十六個のキーには大文字のアルファベットとアラビア数字が書かれている。すべて白抜きで書かれていて、色の区別はなかった。家族に与えられたという文字列を繋げたとして、本当にそのまま打ち込むのが正解なのか、甚だ怪しい。
「この金庫って、普段は何を仕舞っているんです?」
「仕事の重要書類など、ですかね……私も覗いたことはないので。でも、入院を前に自らの手ですべて引っぱり出したみたいですよ」
そして、土地と財産に関する一切を、代わりに入れたわけか……もしかしたら、その時点で死期を悟っていたのかもしれない。
なんてことを考えていると、藍がわたしの手を取って、金庫の前から引き離してきた。突然だから足がもつれそうになる。
「とっとっ……おいおい、なんだ」
答えるわけがないと分かっていても、思わず訊いてしまう。
机の近くで手を離すと、藍は壁と机の隙間を指差した。ここを見てほしい、と言いたいのだろう。わたしは促されるまま、その場所を覗き込んだ。
……壁に何か、紙のようなものが貼られている。狭くて暗いから判別できない。
「藍、机動かす?」
元からそのつもりだったらしく、藍は迷わず頷いた。もう今さら何に触っても構うものか、という感じでわたしは諦めている。
わたしと藍で、机の両端をそれぞれ持って、重い机を浮かせる。相当に密度の高いマホガニー材を使っているのか、それとも引き出しの中が書類でいっぱいなのか、少し浮かせるだけでもかなりきつかった。それでも、壁に貼られている紙が露わになるくらいの位置まで、机を移動させることはできた。
テープで貼られていたのは紙ではなく写真だった。白髪の男性と、四十代くらいの女性が並んで写っている。どこかのマンションの前で話しているところのようだ。白髪の男性の方は、ほぼ同じ風貌の人を、さっき和室で見ていた。
「広岡さん、この男性、出雲哲邦氏ですよね?」
「え、ええ……ということは、この女性が……」
広岡の話を聞いただけでは信憑性が低かったが、こんな写真を隠すように貼っていたなら、この女性が愛人である可能性は高い。本当に藍は引きの強いやつだ。
「あまり部屋に入っていないから、気づかなかった……何者なんでしょう」
そう言って広岡は写真に手を伸ばしたが、先にわたしが壁から剥がし、懐に入れた。
「一応、調査のための証拠品になるので、わたしが預かっておきます」
「あ、はい……」
広岡は手を引っ込めた。さっきから女子高生に対して及び腰だなあ。
写真にはマンションが写っていた。恐らく女性の方が住居にしている所だろう。電柱も写っているから住所も分かるし、探すのは難しくないはず。もっともその辺りの調査は晃に任せたほうがよさそうだが。
ところで、藍はもう写真に興味をなくしていた。なぜか床をじっと見ている。
彼女の視線の先には、小さな星形のラメが落ちていた。さっきまでこんな物あっただろうか……ああ、机の脚の下にあったのか。藍はラメを拾うと、常備しているビニールの小袋に入れた。藍はそっちを証拠品と考えたようだ。
また二人で机を持ち上げ、元の位置に戻すと、藍はドアのすぐ左隣の棚へまっすぐ向かっていった。その棚の上から三段目に、トランプのケースが置かれていた。
「そのトランプが気になるの?」
藍はこちらを見ずに頷いた。ためらいなくケースを手にとる。
「あの、あまり部屋の物をいじられても困るのですが……」
広岡が困惑気味に言うが、藍は聞く耳を持たず、ケースの蓋を開けた。覗き込むと、当然トランプが入っていたが、明らかに枚数が少なかった。ケースの内壁が見える。いちばん上のカードもスペードの3だった。
「なんかやけに少ないね……広岡さん、このトランプも哲邦氏のコレクションですか」
「たぶんそうだと思いますが……私もそこまで把握していませんから」
そういえば哲邦氏の趣味には関心がなさそうな口ぶりだったな。顧問弁護士が個人の趣味まで把握しておく必要はないんだけど。
藍はトランプを一枚ずつ取り出し、七並べの配置になるよう、机の上に並べ始めた。ハートの8、スペードのキング、ハートの9、スペードの5、スペードの6、ハートの10……という具合に。本当に何の規則性もなく、バラバラに入れられている。
ところが、正しい配置で並べてみると、上半分、つまりスペードとハートだけすべて揃っていて、クラブとダイヤは一枚もなかった。スペードのAに羊の顔が描かれているという以外、何の変哲もないトランプだが、綺麗に半分だけ欠けているとなると、何か意図があってのことと考えたくなる。
「これ、もしかしたら例の暗号と関係があるのかも……」
「トランプが?」と、広岡。「確かにあれも黒と赤で分けられていましたが、トランプと関係ないアルファベットもありましたよ」
そうなのだ。すべて揃ってはいないが、見つかっている暗号にはC、D、T、Sという、トランプにない文字がいくつもある。しかし、それで無関係と断定するのも、まだ早いような気はするのだが……。
すると、並べられたトランプをじっと見ていた藍が、ハートの5から順にケースに戻し始めた。確か、最後に取りだされたのもハートの5だったはずだ。藍は少しも迷うことなく、カードを手に取ってはケースに収めていく。
その様子を、広岡は頬筋を引きつらせながら見ていた。
「えっと……まさか、ケースに入っていた順番を正確に記憶しているのですか?」
「藍の記憶力はコンピュータにも匹敵すると思います」
もう何度、これで驚かされたか知れない。わたしはさすがに慣れた。
そうしてすべてのカードをケースに仕舞うと、棚に戻し、今度はレコードが詰まっている棚に向かった。……ええい、まだ続くのか。
藍は左端のレコードを手に取った。アフロヘアの黒人男性がサックスを吹いているジャケット……ジャズの曲が入っているのかな。藍はしばらくジャケット全体をくまなく観察していたが、やがて顔を上げ、そのレコードをわたしに差し出した。
「何かあったの?」
そう尋ねると、藍はジャケットの右下の隅を指差した。その先には、ジャケットに直接ボールペンで書き込まれた、小さな文字があった。黒でK、赤でSと。作品名やアーティスト名は左上に表記されていたため、一見しただけでは気づかなかった。
「赤と黒のアルファベット……これって、まさか」
ある可能性に行き着き、ふと、藍と顔を合わせた。彼女はこくりと頷き、タブレットを渡してきた。記録せよ、という意味だろう。わたしはタッチペンと一緒に受け取る。
藍が棚のレコードを左から順に取り出し、わたしがジャケットの文字を見つけて、順にタブレットに書き連ねていく。二十枚のレコードの文字を並べると、こうなった。
KS QC TN 3A D3 53 ET QD NQ CT J5 J5 CA SJ A7 ED ST QQ K3 E3
全部で四十の英数字。そのうち赤い文字は十三か所。一枚目のS、二枚目のC、六枚目の5、七枚目のE、九枚目のN、十枚目のT、十二枚目のJ、十三枚目のA、十四枚目のS、十五枚目のA、十六枚目のD、十八枚目の最初のQ、十九枚目のKだ。
使われている文字に偏りはあるが、ただの羅列にしか見えない。やはり遺言の暗号と無関係ではなさそうだ。
「ふぅむ……」じっと見て考える。「赤い文字が十三個で、金庫の暗証番号と同じ桁数。これを打ち込んだら何か分かるかしら」
「でも遺言書には、家族に与えた文字列を繋ぎあわせたものだと……」
「ためしにやってみるだけですよ。あれって、打ち込む回数に制限とかあります?」
「いえ、そういうのは特に……あれは桁数も、二十桁までなら自由に設定できるので。亡くなる直前に設定したのは十三桁だと聞いていますが」
桁数不明で一桁ごとの選択肢は三十六通り、手当たり次第に打ち込んで開けられる確率は、宝くじで高額当選を連発する確率より低いだろう。回数制限を設ける必要はないな。
そして、ためしに打ち込んでみた結果、予想していたけど開かなかった。やはりそんな単純じゃないか……。
「うーん……」もう一度タブレットの画面を見る。「数字は3と5と7だけ。七五三絡みかしら」
「さっきはトランプが関係あるとか言ってませんでした?」
広岡の指摘に、わたしは少し苛立った。
「そうですけど、何が関係するか分からないんですから」
「でも結局、わけのわからない暗号が増えただけじゃないですか。あくまで目的は、哲邦氏の愛人を探すことのはずですよ」
そうだった……藍のペースに振り回されて忘れていた。しかし、レコードの暗号だって何かの手掛かりになるかもしれないし、藍もただ奔放に動いているわけじゃなく、何か意図があるのだろうから、決して無駄ではないはずだ。……たぶん。
藍は、わたしが机の上に積み重ねたレコードを、また元通りに戻し始めた。すべて仕舞い終えると、タブレットの画面をオフにしてカバンに入れた。
その直後、閉じていたドアが開かれ、三十歳くらいの男性が入ってきた。
「うわ、やっぱりここにいやがった」
男性は顔をしかめながら言った。広岡が不愉快そうに目を細める。
「正尚さん、いきなり滅多な言い草ですな」
「別に弁護士先生が父さんの書斎にいても構わないけど、ここに用があるなら誰かに断ってからにしてくれよ」
正尚と呼ばれた男性はそういいながら歩み寄り、いま気づいたと言わんばかりに、わたしと藍に視線を向けて眉をひそめた。
「先生、この二人ってもしかして……さっき母さんが言ってた、父さんの隠し子?」
自分の口がへの字になるのを感じた。言い方を考えろ、長男坊。
「ええ、まあ……桜さんと、友人の藍さんです」
言い忘れていたが、偽名を考えるのは面倒だったので、本名を使っている。どうせ彼らはわたし達の素性を自分で調べたりしないし、後で本当の事情を話す予定でもある。
「どうも……」
挨拶もしないのはどうかと思い、軽く頭を下げたが、正尚のほうに、歓迎する素振りは微塵もなかった。
「母さんからさっき色々聞いたけど、本当に持ってないんだろうな」
「何を、ですか?」
「とぼけるな。あの金庫を開けるのに必要な、残りの四文字だよ」
……分かっていた。ここでちょっと白を切れば、正尚が本音を見せてくれると思っただけだ。予想通り、この長男坊も遺産に固執していて、こちらの主張にはまだ疑いを持っているらしい。
すると、話題を逸らそうとしたのか、広岡が間に入って正尚に言った。
「そういえば、妹さんはいらっしゃらないんですか?」
「恵実なら大学の友達と遊びに出ているよ。六時には帰ってくるって言ってたし、そろそろ戻ってくるんじゃないか?」
そう言ってきょろきょろと部屋の中を見回す正尚だったが、やがて諦めたように鼻で息を吐き、自分の左手の袖をまくって腕時計を見た。時計を探したらしい。
「いや、もうちょっとかかるかな……」
「では私たちはリビングで待機していますので、妹さんが帰ってきたら知らせていただけませんか。一応、妹さんにも挨拶する必要があると思いますので」
おいおい広岡よ、リビングに移ったら調査が進まないじゃないか。……いや、これ以上この部屋を調べても手掛かりは出てこないかもしれないが。
袖がくいくいと引っ張られる。藍が何か伝えたがっているが、その目は出入り口をじっと見つめて捉えている。
「そんな必要があるかよ。恵実がわざわざ会おうとするとも思えんし……」
「私がどうしたって?」
「うおっ?」
正尚は驚いて入り口を振り向いた。二十歳くらいの女の子が立っていた。セミショートの茶髪にアクセサリをたくさん絡め、耳にはピアスをつけている、どことなくギャルっぽい派手な女性だ。
「びっくりした……いつの間に帰ってたんだ」
「ついさっき。ママからメールもらって」
宏子からのメールで、予定より早く切り上げたようだ。ちなみに、恵実が姿を現すより前に、藍は先に気配で気づいていた。
「母さん、お前にもさっそく知らせたのか……」
「というか、兄さんも広岡先生も、パパの書斎で何やってんの?」
「父さんの隠し子が来てるんだよ。弁護士先生が見つけたらしい」
だからその言い方はどうにかならないのか……。恵実は興味がなさそうな半眼をこちらに向けて、「ふーん」とだけ呟いた。
「私とそれほど歳が違わなそうね」
「まあ、実際まだ高校生ですので……」と、広岡。
「そうなの……ま、ゆっくりしていけば」
突き放すような物言い。でも邪険に扱わないだけまだ優しい……というか珍しい。宏子や正尚とは明らかに態度が違っていた。
「いいのかよ、こんな奴らをいつまでもここにおいといて」
こんな奴とは何だ、知りもしないくせに。正尚の発言にはさっきから神経を逆撫でされてばかりだ。初対面でよくここまで毛嫌いできるものだ。
「いいじゃない、お客さんとして扱うくらいなら。遺言に書いてない以上、愛人の子どもでも遺産目当ての可能性はなさそうだし」
遊んでばかりいそうな外見とは裏腹に、割と冷静に物事を考えられるようだ。もしかしたら、最年少の恵実がいちばんしっかりしているかもしれない。
「それに」恵実は嘲るように口角をあげた。「仮に遺産をふんだくられたところで、私は大金持ちの家に転がり込む予定だから」
「そりゃお前は構わないだろうけど……」
正尚はげんなりとした様子で言った。どうも妹の方が一枚上手らしい。
「娘さん、結婚の予定でもあるのですか?」わたしは広岡に尋ねた。
「ええ……資産家のご子息である、黒宮誠司様と。来年、恵実さんが大学を卒業した後に、入籍されるそうです」
「そうなんですか。おめでとうございます」
わたしは素直に恵実を祝福した。藍も無言ながら、微笑を浮かべて頷いた。
すると、恵実は満更でもなさそうに頬をかすかに赤らめ、視線を逸らした。
「まあ……祝福の気持ちは、ありがたく受けとっておく。疲れたから部屋で休むね。夕飯の時間になったら呼んで」
「呼んで、って……いつも同じ時間に始めてるだろ」と、正尚。
「ベッドで眠っちゃうかもしれないし。ああそれと広岡先生、スーツ洗いました? 煙草のにおい嫌いなんですけど」
「え? ああ、すみません……」
広岡の返事を聞くこともなく、恵実は廊下へ消えていった。煙草のにおいならわたしも気づいていたけど、気にするほどのにおいでもないような。
「ったく、こんな状況でもいつもの調子かよ」
「まあまあ……彼女たちのことについては、私も目を光らせておきますから」
正尚の機嫌を取るためだろうが、弁護士にそう言われると、まるで保護観察処分を科せられた気分だ。その気はないと言っているのに……。
「弁護士先生で頼りになるんだか……」
正尚はそういって部屋を出ていく。その前に、ドア近くの壁の絵を左手で少しだけ持ち上げた。わずかだが左に傾いていたらしい。
それにしても……本人を前にして平然と猜疑心を剥き出しにできるものなのか。ありもしない事で波風を立てたところで、無関係のわたし達は傷ひとつ付かないのに。
「と、とりあえず、私どもも退室しましょう。これ以上ここにいては、何を言われるか分かりませんし」
「ですね。もう調べる所はなさそうですし……」
そう言いながらわたしは藍に視線を向けた。藍はこくりと頷いた。これは「調べなくていいね?」という確認では、ない。
わたしも、恐らく藍も気づいていた。先に出ていった恵実の手、指先の爪には、星形のラメがいくつもデコレーションされていたのだ。