1‐2 遺言の謎
つい二週間ほど前、広岡義男が顧問弁護士を担当していた、実業家の出雲哲邦という人物が亡くなった。鉄鋼にレアメタル、および関連の貿易業で成功し、巨万の富を得ていたらしく、政財界にも顔の利く存在だったという。そんな大物が亡くなったことで、莫大な額の資産、そして家族も把握しきれないほど広大な土地が残された。
ところが、生前に哲邦は、流動資産をひとまとめにしてどこかの銀行に預けてしまい、通帳と登録印鑑を、土地の権利書と一緒に金庫に入れたのだ。哲邦以外に開け方を知る人間のいない、セキュリティの堅い金庫の中に……。
「資産を管理していたのは、哲邦氏だけなのですか?」わたしは尋ねた。
「ええ。以前は私も管理に関わっていたのですが、半年くらい前から、すべて自分で管理されるようになって……」
「つまり全資産を把握している人は、いま一人もいないんですね。把握できなければ、遺産の分配もできない」
「ですから、相当困ったことになっていまして……」
伏し目で俯く広岡。本当にかなり困っているような顔をするなぁ……隠すつもりがまるでない。
「ちなみにどんな金庫なんですか?」
「哲邦氏の自宅の仕事部屋にあるんですが、壁の中に設えられているんです。分厚い超硬合金で作られた特注品で、暗証番号を入力する以外、本当に開錠手段はないんです」
「つまり、業者でさえ開けられないと?」
「一応頼んではみたのですが、設計書がすべて焼却処分されていて、現在の技術ではとても不可能だと匙を投げられました。これも哲邦氏の指示でしょう。慎重な方でしたから」
慎重が過ぎるだろ。わたしは心の中で突っ込んだ。
「実際に作った人なら、暗証番号もご存じなのでは?」
「それが……暗証番号は自由に設定が変えられる仕組みなんです。それも防犯上、開錠した後でなければ設定できません。念のため、初期設定番号を入力してみましたが、やはり駄目でした」
開錠した後でないと変更できない、ということは、後から変更して開けることもできないわけだ。さもなければ泥棒も簡単に開けられるからなぁ。
「それで? 暗証番号について、哲邦氏から何か聞いていないのですか」
「英数字で、十三文字としか」
つまり候補は三十六の十三乗。関数電卓で計算したら、十の二十乗、およそ一垓七千京と出た。内部の機構にアクセスできないなら、コンピュータにやらせるのも不可能。うん、お手上げだな。
「もう爆弾でふっ飛ばすしかないんじゃありません?」
思考停止に陥ったわたしは、爆風並みにぶっ飛んだ事を口にしてしまう。
「いえ、金庫の開け方については、ヒントらしき文言が遺言書の中にあるんです。自分の家族が持っている番号を年齢順に繋げば、遺産のありかに辿り着けると」
「番号?」
「ええ。遺言書を開封してから、哲邦氏の奥さんと、息子さんと、娘さんの部屋をそれぞれ調べたら、アルファベットと数字の書かれた紙が、目立たない所に貼ってありました」
「いつの間にそんな事を……」
「まあ、会長職に収まってからは自宅で仕事をする事が増えましたから、その機会は十分にあったと思いますね。ただ、紙に書かれていた文字は全員、三文字だけでした」
「残された家族が三人だから、四文字足りませんね。哲邦氏の部屋は?」
「いえ、自分を除く家族と明言しているので、その可能性はないかと」
「他に親戚は?」
「いません。哲邦氏も奥さんも一人っ子でしたので」
ああ……ようやく本題が見えてきた。探偵の手伝いを始めてから、もう何度、この手の依頼を受けたことか知れない。
「つまり、哲邦氏に愛人がいると?」
「少なくとも、ご遺族の三人はそう考えているようです」
何というか……金満家の死、隠された遺産、そしてそこから生じた愛人疑惑。ありがちな要素ばかりだが、ここまで完璧に揃った事例もそうはあるまい。あたかもフィクションのような依頼に、わたしは頭を抱えたくなった。
「でも、愛人というだけなら当然、籍に入れているわけじゃないんでしょう? そんな人を家族と扱いますか?」
「いいや、分からないわよ?」
晃が口を挟んできた。心なしか楽しそうだ。
「家族の定義なんて人それぞれよ。自分の配偶者と子供以外を家族と扱わない人もいれば、同じ空間で暮らしているだけで家族に入れる人だっている。中にはそうね……直系の血縁者さえ家族と認めない人もいるでしょう。ねえ、藍?」
晃に名前を呼ばれたとき、藍はバラの花弁を愛おしそうに触れて眺めていた。呼びかけられて一度だけ振り向いたが、目を細めただけで、何も言わず視線をバラに戻した。
……まあ彼女の場合、何も言わないのがむしろ自然なのだが。
「えっと、話を戻しますが……」わたしは広岡に向き直る。「実際のところ、愛人がいるという確証はあるんですか?」
「確証があるか問われると弱いのですが……ただ、奥さんや子供にあてがわれたのが三文字で、残り一人がそれより多い四文字ですから、哲邦氏にとってよほど思い入れの強い人なのだろうと」
「で、愛人ですか。理屈と膏薬を変なところにつけましたね」
「私も勘繰りすぎとは思うのですが……もしそんな人が存在するなら、素性を突きとめない限り、遺産相続を始めとする問題は解決しませんから」
「といいますと?」
わたしの問いかけに広岡が答える前に、肩が指でつつかれた。振り向くと、藍がタブレット端末を持って立っていて、画面には『愛人の年齢』と書かれていた。
「そうやって意思疎通をしているのですか……」呆れ気味の広岡。
「ボディランゲージで伝えきれない情報に限られますけどね。でも、そうか……」
わたしは藍が伝えた言葉の意味を考えてみた。
「年齢が分からないと、集めたすべての文字を正しく並べられない。確か、年齢順に繋げることでメッセージが現れるんですよね」
「そうです。だから、残る一人が誰であれ、探し出さなければ金庫を開けることも、まして財産を整理して分配することもできないわけです」
つまるところ、広岡が依頼したいのは、哲邦から文字を受け取った残る一人を探すことだけだ。その残る一人が愛人である可能性は、ひとまず保留しておいた方がいいか。
「私も他方で手を尽くしたんですが、それらしい人物は見つからなくて……一縷の望みをかけてここに来たわけです」
そう言って、広岡は伏し目のまま眉根を寄せる。一縷の望みをかけて訪れた場所で、一抹の不安を抱いているような顔をされても。
「ここに一縷の望みをかけなくても、他に評判の探偵は余るほどいますけど」
「もちろん他に何社か相談しに行きましたが、そもそもいるかどうか分からない愛人を探すなど無茶だと跳ね返されまして……それにほとんどの興信所は、企業の信頼調査など大口の依頼を優先しますから」
確かに、弁護士が手を尽くしても見つけられなかった人を、確証もないのに探すのは無茶な話だ。しかも目的が、これも本当にあるかどうか分からない、暗証番号の一部を特定するためとなれば、どこだって優先的に引き受けたりしないだろう。興信所にとって信頼は最大の武器、成功の見込みのない珍奇な依頼は断るのが常道だ。
「無茶と言われるのを承知の上で、どんな所か知りもしないうちにここに来たと?」
「……技能的に優秀、報酬等も良心的とあれば、飛びつかない理由がありません」
相当に切羽詰まっているな、この人……。とはいえ、こちらにとっても無茶な話であることに変わりはない。実際に調べるのは藍だし、わたしの独断で決めるのもよくない。
「晃さん、どうします?」
一応所長である晃に尋ねてみた。まあ、答えは見えているが。
「いいんじゃない。せっかく来てくれたお客さんを無下に帰すのも悪いし。私、基本来る者は拒まないから。それに、大物実業家の顧問弁護士の依頼なら、懐が温まるだろうし」
イヒヒと笑う晃。言うと思ったよ……相変わらずがめつい性格だ。
未成年ゆえに金銭の取引が自由にできないわたしと藍は、晃を介して依頼料を受け取ることになっている。つまり、探偵をやってわたし達が対価を得るには、晃の判断が何よりも重要になるのだ。そのせいもあって、基本的にわたし達は晃に逆らえない。
もっとも晃だって、妹に無茶をさせるのは本意じゃないだろう。結局、藍がOKと言うかどうかですべて決まるのだが……いや、口には出さないけど。
『遺言書の実物が見たい』
藍はタブレットにそう書いて見せた。……やる気満々ですな。
「……だそうです。持ってきてますか?」
「ええ、本物は私の事務所に保管しているので、持ってきたのはコピーですが」
すでにいくつか探偵社を回っていたなら、そのくらいは用意しているだろう。
「使用を終えましたら、すぐシュレッダーにかけて破棄してくださいね。個人情報保護の観点から……」
「大丈夫ですよ、そこは探偵ですから情報の取り扱いは心得ています。でも……あれ? うちにシュレッダーってあったっけ」
ガクッと頭を落とす広岡。
「さてね……どうだったかな。普段あんまり使う用事がないから、記憶にないわね」
なんと、所長である晃も把握していなかった。無理もない。どんな書類も一見して完璧に記憶できる超人がいるから、大抵は一回見せてもらってすぐ返している。晃の言うように、書類を細断して処分するということが滅多にないのだ。
とはいえ、そろそろ買っておかないといけないか……と思ったら、
『買ってあるよ』
藍がタブレットにそう書いて見せた。
「おお、ナイスよ、藍」
晃は親指を立てて褒めた。藍もそれに応えて親指を立てる。……買ってあるならすぐにでも出してほしかったのだが、そこまで気を遣わせると、探偵事務所の主役が本当に小間使いに成り下がりそうだ。
「えっと……こちらが遺言書のコピーです」
わたし達のやり取りに呆れながらも、広岡は藍の希望通りに書類を見せてくれた。
わたしが受け取って、背後から藍が覗き込む。その内容は……。
遺言 出雲哲邦
いずれ来たる私の辞世に際し、財産の配分に関する希望を記す。
私の所有している財産は、民法の規定に基づき、妻と子供二人に配分する。
財産と土地所有の現況に関する一切は、壁の金庫の中にあり、暗証番号を入力すれば開錠できる。なお、誰が先に開錠したとしても、財産の配分に優劣を与えてはならない。
事前に私以外の家族に与えた、英数字の番号を、年齢の高い順にすべて繋げば、遺産の所在を確認できる。
また、仕事部屋への入室は認めるが、金庫以外に触れることは禁じる。
あとは風に任せればよし。
最後は遺言書が書かれた日付と押印で結ばれていた。
「なんというか……前半はまじめな内容ですけど、後半は絶妙に意図が見えませんね。最後の一行とか、まるで意味が分からないですし」
「私もこれを開封した時は戸惑いましたよ。一応、有効な遺言書となる要件は揃っていますし、遺産配分に関してもちゃんと明記されているので、遺言書としての効力はあります。もっとも、民法の規定に基づいた配分なんて、わざわざ遺言書に明記するほどのこととは思えませんが」
「余計なトラブルを防ぐためじゃないですか? それより藍、中身覚えた?」
背後の藍に尋ねると、彼女は頷きながらタブレットを見せた。
『でも何の証拠になるか分からないから預かりたい』
どこまでも慎重な人だ。実物じゃないからどれほどの証拠能力があるか分からないが、ここは藍の考えを尊重して、わたしは遺言書のコピーを藍に渡した。
さて、もう少し遺言の中身を吟味しよう。
「えっと、遺言書にある相続対象に愛人は含まれていませんでしたね。愛人を特定したとしても、配分そのものに影響はなさそうですけど」
「いえ、それも厄介な状況にあって……」広岡は項垂れて告げた。「亡くなる寸前に、哲邦氏の意思で財産の大部分を受け取っている可能性もある、と奥さんが言い出しまして……実をいいますと、奥さんから命令、もとい依頼される形で、私が愛人探しに奔走しているわけでして。事実がどうであろうと、あまり悠長に構えていられないんです」
「そんなことを言ってたらキリがないじゃないですか……」
わたしは頭を抱えた。なるほど、だから広岡も切羽詰まっていたのか……しかし、仮に奥さんの疑念が事実だとしても、哲邦の意思で資産を受け取っているなら、見つけたところでどうしようもないと思うが。
「ああ、そうだ。ご家族の部屋から見つかったという三文字の英数字、どんなものだったか教えてくれますか」
「あ、はい。写真に撮ってあるので」
そう言って広岡はカバンからクリアファイルを取り出し、中に挟まっていた三枚の写真をテーブルの上に並べた。
「左から、奥様、長男、そして長女の部屋で見つかったものです。どれも、広告チラシの裏に書いて破ったもののようです」
手掛かりの残し方は雑だな……。
わたしと藍は写真を覗き込む。藍がわたしの背中に寄りかかっているせいで、ちょっと重いんだけど。
哲邦の妻の部屋にあった三文字は『C7D』で、すべて黒のペンで書かれている。
長男の部屋にあった三文字は『5T3』で、Tだけが赤いペンで書かれている。
長女の部屋にあった三文字は『KDS』で、DとSが赤いペンで書かれている。
「赤と黒で色分けされているんですか……まるで暗号みたいですね」
「ここより前に向かった探偵社でも見せたのですが、暗号解読は専門外だと言われましたよ。まあ、そもそも専門家が存在しないとは思いますけど」
「哲邦氏って、こういう暗号を作って楽しむような人物なのですか?」
「暗号が好きということは聞きませんが、多趣味な人でしたからね。絵画や音楽、古典的ゲームに凝っている所がありましたよ。凝り性というんですかね……興味のある物や質のいい物には、お金に糸目をつけない人でしたね」
「面白半分で暗号を作った可能性はあるという事ですか」
「ありえますね」広岡は頷いた。「正直、私はとてもついていけませんよ」
閉口するまでもなく、哲邦はそうした趣味に、理解を示さないような人を付き合わせないだろう。誰にとっても趣味はデリケートなものだ。
「それで……依頼は引き受けてもらえるのでしょうか? 所長さんは受ける気でいるみたいですけど」
「こればかりは藍の判断次第ですからね」
わたしはソファーの横に立っている藍を見る。藍は遺言書のコピーをじっと見ている。
やがて遺言書を元通りに畳んでわたしに手渡すと、またタブレットにさらさらと何かを書き始めた。そして全員に画面が見えるように掲げた。
『家の人に話を聞きたい。』
……このとおりに書かれていた。
「ご安心ください」わたしは広岡に告げた。「藍は引き受けるつもりみたいです」
視界の端で、藍がこくりと頷いた。
「あ、そういう合図なんですか……いえ、ありがとうございます」
「さて、そうと決まれば」
晃が椅子から立ち上がり、デスクの引き出しから一枚の書類を取り出した。そして広岡のそばに来ると、書類をテーブルの上に置いた。
「探偵依頼締結書です。内容を確認して、同意の上でサインをしてください」
そう言って晃は胸ポケットからボールペンを取り、書類の上に置いた。
「えっと……そこまでする必要が?」
「弁護士さんならお分かりでしょう。口約束はいけません」
晃はにっこりと微笑む。この笑顔でどれほどの取引を成功させてきた事か……。
「まあ、そうですね……では」
広岡はまず書類を手にとって内容を確認した。
「刑事犯罪が発生する危険が生じた場合には、いかなる状況でも調査を中断する……さっきの話のとおりですね。報酬は、締結時に依頼人が、五千円を下限として自由に設定し、成功時に依頼人の判断で支払うこと。噂にたがわぬ良心的契約ですな」
「ろくな調査力を持たない探偵事務所は、ぼったくりのような契約を無理に結ぶものですが、うちではそんな必要ありませんからね」
と、ろくにこの事務所から動かない女所長が、胸を張って断言した。
書面の内容に納得し、広岡はボールペンで自分の名前をサイン欄に書き込む。その一挙一動を、なぜか藍は無表情でじっと見つめていた。
今後も、藍の行動に注目してご覧ください。
では次週もお楽しみに。