1‐1 探偵事務所
よく晴れた日に、人は「何かいいことが起きそう」と予感するけれど、その予感が当たったという事例は聞かない。大抵は何事もなく一日が終わる。何も起きていないのだから予感は当たっていない。もし晴れた日に暗い表情を浮かべている人がいたら、いくら好天でもその人に「いいことが起きそう」とは予感しないだろう。むしろ悪い結果を引き寄せそうにも思える。
個人経営の探偵事務所、その名も『やえの探偵事務所』にやって来たその人物も、明らかにすぐれない表情をしていた。面倒な案件を抱えて訪問してきた依頼者は、大体いつもそんな表情である。
「ここ……探偵事務所で合ってますよね?」
白髪の交じった薄い頭髪、五十代後半くらいと思われる男性、職業は弁護士だという広岡義男は、立ち尽くしたまま困惑気味に言った。
「そうですよ? 表の看板にも書いていますよね」
「はあ……」広岡はため息を漏らした。「いやもう、こちらは藁にもすがる思いで、こちらのドアを叩いたのですけど」
『やえの探偵事務所』の評判は総じて、「変わっているけど頼りになる」というものだ。特に大々的な宣伝もしていないし、小ぢんまりとした事務所だが、口コミでじわじわと評判が広がっているらしく、コンスタントに依頼は来ている。どうやら広岡も、その評判を聞いてここに来たらしい。
「もしかして皮肉ですか?」相手はニヤリと笑う。「うちの探偵には通用しませんよ」
「ああいえ、腕のいい探偵が在籍していると聞いていたもので……失礼ながら、ここは女性がひとりで経営している事務所なのですか?」
薄暗い事務所の中で、広岡の話し相手をしていたのは、事務所の所長である八重野晃。名前だけだと分かりにくいが、れっきとした女性である。しかも、スレンダーな体型の若い女性である。
「あら、女性がひとりで探偵をしていたら何か問題が?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
「ご安心を。私は所長。経営とマネジメントと取引を一手に引き受けていますが、探偵は別にいます」
「そ、そうですか……」
広岡はあからさまに安堵していた。
「まあ、ひとりしかいない探偵も、私より年下の女の子ですけどね」
「え?」
「とりあえず、お掛けになってお待ちください。所員はもう二人いるんですが、ちょうど買い物に出ていましてね」
そう言って晃はソファーを勧めた。渋々といった具合に、広岡は腰かける。
……何も起こらない。晃は所長のテーブルに寄り掛かって立ったまま、腕組みをして広岡をじっと見ている。その場からわずかも動こうとしない。
「…………あの」
「何か?」晃は表情を変えずに言った。
「催促するわけではありませんが、お茶を出すとかは……」
「あー」晃は手を小さく振った。「すみません、私のお茶の好みは一般人とかけ離れているんで、出さない方がいいと釘を刺されていまして」
「……ものすごく苦いのが好みとか?」
「いや、むしろ角砂糖を四個は入れますね」
「……紅茶に?」
「いえ、お茶全般に」
「…………」
「冗談ですよ。いい暇つぶしになりましたか」
そう言ってケラケラと笑う晃。どこからが冗談なのか知れないが、広岡はようやく、自分がからかわれていると気づいた。
関わらない方がいい……この事務所を出る口実を練り、それと並行して退出のタイミングをうかがい始めた、その矢先。事務所の扉が盛大に開いた。
「ただいま帰りましたぁ」
楽しそうな挨拶とともに入ってきたのは、高校生くらいの年頃の女の子二人。……つまり、わたしと、その相棒である。
「おかえり」と、晃。「お客さん来てるよ」
「うお、ホントだ。さっさと冷蔵庫に仕舞わないと」
ここまでのことは、後から晃に聞いたことである。
二人で分担して持ってきた買い物袋の中身を、手分けして冷蔵庫や戸棚に放り込み、ついでに軽く身だしなみを整えた後、わたしはお客さん、つまり広岡の前に出た。
「初めまして、山辺桜です。本日はご来訪いただきまして、誠にありがとうございます」
わたしは胸に手を当てながら頭を下げた。すると、さっそく晃からダメ出しを食らった。
「ごめん、どこから突っ込んでいいのか分かんないけど、とりあえず頭を下げるのはやめてほしい。高級なホテルやレストランじゃないんだから」
「すみません、またやりすぎました」
「キミね、お客さんの前でへらへらしないでよ」
広岡は晃を見て「えー……」とでも言いたそうな不満げな表情を浮かべた。どうやら例によって、晃の不得手な接客に振り回されたらしい。大方、下手くそなジョークで混乱させたうえ、空気も読まず自分だけ笑ったのだろう。これは聞く前から予想がついていた。
ただ、煙に巻くような物言いで混乱させた動機が、初対面で「秘書の方ですか?」と言われたせいだとは、さすがに予想しなかったけど。なんて幼稚な意趣返しだ。
「あの……」広岡が晃に尋ねた。「こちらのお二人、どちらも高校生くらいに見えますが」
「高校生ですよ?」
あっさりと答えられ、広岡は目を丸くした。
「……またご冗談ですか」
「ほらぁ、晃さんが冗談ばかり言うから、信用なくなったじゃないですか」
「えー、軽い雑談のつもりだったのに」
彼女の感覚は根本的におかしいのだ。今に始まったことじゃないし、なんとかするのは諦めているけど。
わたしは広岡に向き直って告げた。
「冗談ではなくて、本当に高校生です。現役の女子高生。探偵業に法律の制約はありますけど、探偵自体は誰でもなれますからね」
「はあ……」
うん、広岡が困惑するのも分かるよ。そんな事を言われて納得するわけがないよね。
「そういうわけだから桜、こちらの広岡さんから話を聞いてやってくれる?」
「了解。それがわたしの役目ですからね」
わたしは広岡の向かいのソファーに、晃は所長デスクの椅子に腰かけた。
「本当に高校生の女の子が、探偵を……? 漫画の世界だけかと思っていました」
「ははは、よく言われます」
「心配しなくても、探偵としての腕は保証しますよ」晃が新聞に目を落としながら言った。「うちの探偵は、そんじょそこらの探偵よりずっと優秀ですから」
容赦なくプレッシャーをかけてくる所長である……。
「しかし、にわかには信じがたいですね……高校生である事には目をつぶるとしても、こんな華奢な女の子が、探偵などという危険を伴う仕事をするとは」
広岡はわたしをまじまじと見ながら言った。心配してくれている事は分かるので、セクハラに当たるとは考えていない。
「もちろん、刑事事件まで発展しそうになったら、即座に手を引くように言われていますから、それほど危険な目には遭っていませんよ。暴力沙汰になっても、十分に対処できるくらいの体術は備えているつもりですし」
「はあ……それは頼もしいですが」
「ただ」
これまでの依頼人もそうだったが、広岡も同様に大きな勘違いをしている。早いうちに誤解を解いておかないと、後々面倒な事になりかねない。
「わたしも探偵じゃないんです」
「……は?」
「私も桜が探偵だとはひとことも言ってませんよ」と、晃。「女子高生が探偵をやっても法律上問題ない、桜が言ったのはそれだけです」
「えっ……じゃあ、この子は助手?」わたしを指差して広岡は尋ねた。
「うーん」晃は少し考えた。「助手というより、『代理人』かな」
わたしは口を尖らせる。別に助手ということで構わないし、それに……。
「その扱いはやめてほしいって何度も言ってますよね」
「事実でしょ」
わたしがどれほど不服を申し立てても、晃は聞く耳を持ってくれない。
「では、探偵はどちらに……」
「先ほどからあなたの目の前にいますよ。正確に言うと、わたしの背後に」
ちょうど背後に回ったタイミングを狙って、わたしはその子に親指を向けた。
「えっ、あの子が……? さっきから無言でバラの花を活けたりしている……?」
「私の妹の、藍です」
晃が告げた。姉と同じくスレンダーな体型で、目鼻立ちも整った、美少女といっても差し支えない女の子、それが八重野藍だ。見た目に似合わずタフで体力もあり、シークレットサービスよろしくの制圧技術も兼ね備えていたりする。そんな彼女はいま、ハタキで埃を落としている。
「……この事務所は、探偵が雑事を担当するのですか」
「たまにわたしもやりますよ。でもさっきお茶を出したのは藍ですけどね」
「はっ、いつの間に!」
広岡は今になって、テーブルの上の湯呑み茶碗に気づいた。あの子、何でも気配を消してやるからな。忍者かよ。
とはいえ、簡単に気配を消せる理由が、彼女にはあるのだが。
「しかし、普通は探偵が依頼人の話を聞くのでは?」
「それが……藍は探偵としては優秀なんですが、とにかく会話に難がありまして。わたし達が相手でもまったく言葉を発してくれないんです」
「うそだろ……」
広岡は愕然としていた。無理もない。ひとことも喋らない探偵なんて、古今東西探してもそうはいない。もはやこの事務所は、『変わっている』の域を超えている。
「とにかく、話はわたしが代わりに聞きます。あの子、耳はいいので話は聞こえますし、気になることがあればわたしに教えてくれるので」
「うーん……」
腕組みをして考え込む広岡。腑に落ちない所はいくつもあるだろうと思うが、しばらく考えた後、広岡は腹を決めて話し始めた。
ある資産家が生前に残した、遺産に関わる謎について……。
次週をお楽しみに。
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