2‐2 不幸ある一家
依頼人の名前は渕上里枝という。家政婦派遣会社に勤務していて、現在の派遣先の家でトラブルが起きたらしい。
「私は昨年から、国枝さんの家に家政婦として雇われていたのですが、先月、雇い主である旦那様が亡くなられて……」
「亡くなられたというのは、ご病気で?」
「いえ、自宅の階段から転落して、頭を打ったことによる脳挫傷で……私が発見してすぐに病院に搬送されたのですが、処置の甲斐なく……」
「そうでしたか、お悔やみ申し上げます」
わたしは軽く頭を下げて言った。仕事なんてろくにしたことがないけど、最低限の礼節は弁えているつもりだ。
「それで、トラブルというのは? 雇い主が亡くなったことで、渕上さんの派遣契約が反故にされたとか?」
「いえ、私のことで問題があったわけでは……雇用主も旦那様個人ではなく、国枝の家ということになっていますし、奥様とお嬢様もご健在ですから。ただ、そのお嬢様に、最近不審な出来事が相次いでいるのです」
国枝家の当主だった国枝政司は、大手電機メーカーの役員で、五年前まではメーカーの所有する最大規模の工場で工場長も務めていたという。それだけに給料もよく、娘の彩音も幼少期から不自由の少ない暮らしを送っていた。しかし、政司が役員に引き抜かれたのと同じ頃に実の母親を亡くし、三年前に藤子という女性と再婚してから、家の状況が徐々に変わりだしたという。
「奥様は派手好きな人でして、旦那様が稼いだ貯金を、ほぼ毎日、それこそ湯水のように使っているのです。お嬢様はまだ中学生で、これからお金が入り用だというのに、そのことを考えもせずに浪費するのです。毎日のように旦那様との喧嘩が絶えなくて……」
「それは……大変な人と再婚したものですね」
「奥様の派手好きは、家の外にも悪い影響をもたらしています。それまでは、不自由こそなくてもごく普通の生活をしていたのですが、新しい母親が派手な装いで浪費する姿が目撃されるようになって、あの家は豪勢な暮らしをしているに違いないという噂が立つようになりました。それでお嬢様は、学校でも肩身の狭い思いをされているそうで……」
うぅむ……想像以上にヘビーな家庭の事情を聞いてしまった。わたしの場合、不自由がないとはいかなくても、両親はいつも子どものことを考えていた。色々あって離婚してしまったけど、交流は途絶えていないし、子どもにも迷惑の及ばない、円満な別れ方をしたと思う。まあ、あくまで子どもの視点から見たら、の話だが。
「子どものことをろくに考えない人を親に持つと大変ですね。やっぱ、継母だと実の母親以上には愛情を注げないんでしょうか」
「子どもへの愛情に、血のつながりなんて関係ないよ」
ずっと所長のデスクにいる晃が、雑誌に目を落としながら口を挟んだ。
「実の親でも、子どもに愛情を注げない人は山ほどいる。あるいは、本人は子どものためを思っていても、やる事が実際には子どものためになっていない場合もある。どちらにしても、子どもの気持ちに向き合う努力をしない人間には、愛情なんて注げない」
晃のその口調には、聞いているこっちがぞっとするほど、感情がこもっていない。まるで実体験から得た真理みたいだ。
妹である藍は、どんな気持ちで聞いただろう。わたしは藍のいる場所を目で追った。
藍は本棚にもたれかかり、何かのファイルを熟読していた。……さては聞いていないな。
「えっと……」一度咳払い。「話を戻しますが、娘さんに不審な出来事が起きているんですよね」
「ええ……以前から学校での立場が悪くなりつつあって、当人は強気なんですが、よくない噂を立てられることもたまにあるみたいなんです。それでも旦那様がご健在だったときは、大手企業の役員ということもあって、目立った嫌がらせをされることはなかったんです」
「下手にいじめでもしたら、父親が黙ってないだろうと思われたわけですか」
「まあ、所詮は中学生のガキだし、あからさまな力の差を見せられたら、手を引っ込めるしかないんでしょ」
晃は嘲るような口調で、身も蓋もないことを言う。あなたの妹もわたしも、去年まで中学生のガキだったんですけど……。
「つまり、父親が亡くなったことで、その状況が変わってしまったと?」
「今の奥様が、お嬢様のことを顧みていないのは、ご近所の人たちもよく知っていますから、今はお嬢様に対して、強く出られると考える人がいてもおかしくありません。実際、不審な出来事は、旦那様が亡くなられてから起きていますから」
「どんなことが起きたんです?」
「最初は、登下校中などに誰かが後をつけている気がする、というものでした。そのくらいでしたら、お嬢様も特に気にしなかったのですが、だんだんエスカレートして……カメラのシャッター音がしたり、自転車のタイヤに画鋲が刺さっていたり、果ては、頭上から五寸釘が落ちてきたこともありました。幸い、ぶつかりはしませんでしたが……」
ぞっとする。五寸釘なら相当な重さがあるし、もし刺さらなくても、頭に当たるだけで十分なダメージを負わせるだろう。
「さすがのお嬢様も、だいぶまいっているようで……」
「そりゃそうですよ。すぐ警察に相談した方がいいんじゃ……」
「もちろん近くの交番に、私とお嬢様とで相談に行きました。ですが、この程度だと警察を動かすには不十分で、見回りを強化することくらいしかできないと言われて……」
「そんな! 怪我人が出てからじゃ遅いのに!」
「遅いも何も、怪我人が出なければ警察は動かないわよ」
晃は平然と非情なことを言う。相変わらずこちらを見ようともしないが。
「確かにその話だけじゃ、気のせいとか不運な事故とみることもできるし、警察にできるのはせいぜい、ストーカー規制法に基づいて禁止命令を出すことくらいだけど、犯人の素性も目的も分からなければ、手の出しようがない」
「でも、娘さんは精神的に追い詰められているんですよ? 放置していいはずがないです」
「だからと言って、警察が公権力を振りかざして規制に及ぶのは、人権を憲法で保障している国家では必ず問題になる。警察を動かしたければ、犯人を特定するしかない。ストーカー規制法の対象は、恋愛感情によるストーキング行為だけだけど……」
晃は雑誌を閉じて、ようやくこちらを見た。
「意図的に五寸釘を落としたと分かれば、規制法違反の前に暴行罪が適用される。目的が何であろうと、警察を動かす名分にはなる」
ずいぶん法律に詳しいな……探偵事務所を始めるにあたって、色々勉強したのだろうか。こういう人と法律や警察のことで喧嘩しても、勝ち目はない。
「……では、わたし達への依頼というのは」
「犯人が見つかるまで、お嬢様の警護をお願いしたいのです。当初はボディーガードを雇うことも考えたのですが、奥様が大ごとにしたくないとおっしゃるもので……年頃の変わらない女性が警護すれば、悪い噂もさほど立たないだろうということで、奥様から了承をいただいてここに来た次第です」
どこまでも母親が障壁になっているな……その結果としてここに依頼が来たのだから、歓迎すべきではあるだろうが、どうも素直に喜べない。
とはいえ、この状況を放置すれば、いずれ娘の彩音の身に危険が及ぶのは間違いない。警察が動けないのなら、探偵であるわたし達がやるしかない。少女の身を守り、ひいては卑劣な暴力に走る輩を捕らえるのだ。義憤に駆られたわたしは、ポンと自分の胸を叩いた。
「分かりました。彩音さんのことはわたし達が、全力でお守りします!」
「待て待て桜」
わたしの勢いを削ぐように、晃は強い口調で止めた。
「キミの独断で引き受けるな。キミはあくまで助手で、実際に仕事するのは藍なんだから、それを忘れるんじゃないよ」
あ、そうだった……いっぱしの探偵みたいに依頼人の話を聞いていたから、つい調子に乗ってしまった。だって肝心の藍が何も言ってこないんだもの。
いやまあ、藍が何も言わないのは、分かっていたけど。
「え、あの……この子は探偵じゃないんですか?」
渕上が困惑した様子で、わたしを指差しながら晃に尋ねた。そういえば、大事なことをまだ話していなかった。ずっとわたしばかり話を聞いていたせいで、誤解を招いていたようだ。
晃はデスクに頬杖をついて、顎を向けながら答える。……接客態度悪いな。
「ええ、うちの探偵は、わたしの妹だけ。その子は調査以外のことを代行する、まあ言ってみれば代理人ですね」
その肩書きに、わたしはぴくりと反応した。嫌悪感とか反発心が生じる。
「なんか……そう呼ばれるのは嫌ですね。普通に助手って言ってくれませんか」
「ふうん? 気に入らなかった?」
「そうですね」
「じゃあ、これからもちょくちょく使っていこうかしら」
こいつ……。ニヤリと笑って、平然と人の神経を逆撫でする晃に、むかっ腹が立った。恐れを知らないのか、単なるサディストなのか……とりあえずまともな神経は持ち合わせてなさそうだ。
「あの……では、探偵はどちらに?」
置いてきぼりにされていた渕上が尋ねる。
「さっきから棚の前で黙々と、新聞のスクラップを読み耽っていますよ」
「えっ、あの子? お茶を入れたりしていましたけど……」
「直前に桜がお茶を用意するよう言っちゃったから」
わたしのせいみたいに言うな。藍が自分からやりだしたことじゃないか。
ひとまず依頼人の誤解を解いておこうと、わたしは渕上に説明した。
「すみません、藍はああ見えて優秀な探偵なんですが、会話に難があるというか、極端なくらい何も喋ろうとしないんです。わたし達が相手でも同様でして」
「えぇ……それで探偵が務まるのですか?」
探偵どころか、あらゆる仕事が務まらないだろう。訝るのも無理ならぬことだ。
「だから、藍ができないことを、代わりにわたしがやる事になっていて……長い付き合いなので、あの子の考えてることは何となく分かります」
「は、はあ……」
「それで、藍?」
わたしが名前を呼ぶと、棚の前にいた藍は顔を上げた。
「話は聞いていたと思うけど、藍はこの依頼、引き受ける? わたしとしては、何とかして力になりたいと思うんだけど……」
わたしはそこで口を閉ざした。藍の表情の変化に、気づいたからだ。
藍はじっとわたしを見つめ返している。少し目を細め、よからぬものを睨むように。何か気に入らないことがあるのだろうか……いかん、藍の考えなら何となく分かると言った端から、さっそく分からなくなってしまった。
すると、藍はくるりと体の向きを変え、棚に置かれた収納ボックスの引き出しを開け、書類を一枚取り出した。さらに別の引き出しからボールペンを一本取り出し、書類と一緒に渕上の前に並べて置いた。
「えっと、これは……」
「探偵以来締結書」晃が答える。「その書面の内容に同意してサインすれば、依頼は引き受けるということになります。一つでも同意できないことがあれば、突き返して結構ですよ」
「ひ、引き受けてくださるんですか?」
渕上は晃を、次に藍を見て、驚いたように言った。どことなく引き受けたくないという空気があったからな、不安になるのも無理はない。実際わたしも、何か理由があって引き受けたくないのではないかと思っていた。
渕上は書類を手に取って、その文面に目を通す。
「……依頼料は、最低でも五千円で、こちらが自由に設定してよろしいのですね」
「そんじょそこらのぼったくり業者と違って、こっちは優秀な探偵を一人抱えている程度ですから、そのくらいで十分ですよ」
一応、今日からは助手が一人加わるんだけど……わたしの存在、忘れられてない?
「ありがとうございます。では、さっそく……」
渕上がボールペンを手に取ったとき、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
「あ、すみません……」
渕上がカバンからスマホを取り出して、ソファーから立ち上がった。出入り口の近くまで移動してから、電話に出る。口に手を当てながらひそひそと話していて、会話の内容は聞き取れない。
通話を終わらせると、渕上はうろたえながら晃に告げた。
「申し訳ありません、すぐに戻らないと……!」
「国枝さんの家に? まあいいですけどその前に、契約書へのサインと、国枝家の住所と娘さんの学校の名前を」
「あ、はい!」
相当慌てているのか、渕上はソファーに腰かけることなく、かがんだ姿勢のまま締結書に名前を記入した。ボールペンをテーブルに置くと、自分のカバンを掴み取る。
「それでは、よろしくお願いします!」
そうして渕上は慌ただしく事務所を出ていった。しんと静まる室内。
「……何があったんでしょう」
「さあね。連絡先は交換しているし、落ち着いたらまた連絡してくるんじゃない」
連絡先は名刺を交換するときに済ませている。もっともこっちの名刺は晃のもので、必要最低限の情報を書いているだけの、味もそっけもない名刺だけど。
「じゃあ、二人はさっそく、娘さんの所に行ってきな。この時間の中学校なら、そろそろ放課後になる頃だろうし、今から行けば合流できるんじゃない」
「顔合わせもしてないのに、いきなり会いに行けというんですか」
「母親の了承を取っているなら、当然娘にも話しているでしょ。大丈夫よ、キミたちの風貌で怪しまれることなんてないから」
晃は追い払うように手を揺らしながら言った。……別に顔や能力が特別優れているとは思ってないけど、他人から言われると腹が立つな。
ところで、調査の主役はもちろん藍なのだが、彼女は何をしているかと言えば……帽子をかぶり、よそ行きの恰好に変わっていた。完全にスイッチが入っている。彼女は何も言わずに行動するから、ぼうっとしていると放置されることもある。
わたしも出かける準備をするか……そう思っていたところに、晃が声をかけた。
「あ、そうそう、桜。さっきの接客だけど」
「はい?」
「一応、必要なことは聞き出せていたと思うけど、最後のアレはいただけない。お任せくださいと言わんばかりの態度で、依頼を引き受けるのはよくないわ。あれじゃ、依頼人の味方だって言ってるようなものじゃない」
そう言ってかぶりを振る晃に、わたしは少し苛立った。
「……その前にも聞きましたけど、依頼人の味方をして何が悪いんですか。依頼人のために仕事をするんだから、当たり前のことじゃないですか」
「弁護士とか他の仕事ならそうよ。でも探偵は違う。依頼人の利益を優先することは、探偵として大きな過ちに繋がりやすい。いい? 誰かのために調査をしようなんて、くれぐれも思わないこと。でないと、きっと後悔することになるわよ」
具体的にどんな過ちに繋がるというのか、肝心なことを晃は言おうとしない。忠告しておきながら、どこか無責任なその態度が、さらにわたしを苛立たせる。
「お言葉ですが、晃さんは探偵事務所で働いた経験があるんですか?」
「いや、ないよ。探偵という仕事に関わるのはこれが初めて」
「だったらどうして、そんなことをさも経験則のように言えるんですか。人から依頼を受けて初めて成立する仕事なのに、その依頼人を蔑ろにするなんておかしいですよ。そんな人に探偵なんて務まらないと思います!」
「私は探偵じゃないからね。これはあくまでキミたちの話だから」
「だったら口を挟まないでもらえますか。晃さんは大人だし所長だから、言うことには従うべきなんでしょうけど、そこまで言われたらさすがに、異議を唱えたくなります!」
「そうはいかない」
晃は短い言葉で、わたしの主張を厳しく跳ね返した。
「別にキミたちを、何が何でもわたしに従わせようとは思わない。異議があるなら無視しても構わない。でもね……私は藍の姉だから、あの子のやる事には責任を負わなくちゃいけない。そういう立場だから、あえて言ってるのよ」
「……藍のためだっていうんですか」
「あの子には、真実を見極める力がある。それはある意味、とても不幸な力よ。その力に潰されないように、あの子を守る責任が私にはある。別に、すぐに理解してほしいとは言わないわ。これから嫌でも知っていくことになるでしょう。でも……」
晃は、座っていた椅子をくるっと回転させ、わたしから目をそらした。
「……藍は、すぐに理解してくれたわ」
遠回しに、わたしと藍の能力には、天と地ほどの開きがあると言っているように聞こえた。あるいは試しているのだろう。わたしに藍の助手が、彼女の支えが務まるかどうかを。
上等だ。わたしだって、生半可な気持ちでここに来たわけじゃない。助手として、探偵の藍を支えていく覚悟なんて、初めから持っている。見ていろよ。
「藍、行くよ!」
晃への対抗心に燃えていたわたしは、振り向いて藍に呼びかける。藍の行く先にどこまでもついていく、そのつもりだったのだが。
……振り向いた先には、誰もいなかった。
「もういないし!」
出鼻をくじかれたわたしは、思わず絶叫したのであった。
……何かおかしいと思いませんでしたか?
次回からさっそく調査が始まります。




