16 「それは 何もない日々のように」
一晩中覆っていた雲は夜明けと共に流れ去る。太陽が姿を現すころには、空はこの季節に相応しい高さを取り戻していた。
通りを抜ける人々の話し声と共に、姦しい小鳥の鳴き声が届く。
(これはまた、絶好の旅立ち日和ってところだな)
宿の入り口から見える景色を眺めながら、カガミは少しだけ嬉しくなった。
例え雨が振っていようと、今日の出発に変更は無かったろうが、それでも出来るなら日の光を浴びながらの穏やかな旅路と行きたいものだ。
つまり、今のような天気こそが望ましい。
(その為にも、面倒な役はさっさと終わらせますかね……)
目の前の女性には気取られぬよう、一つだけため息を洩らした神官乙女は、先ほどから思いつめた顔で書類にペンを走らせるマチネに向き直った。
二人に挟まれたテーブルの上にある一枚の書類。手順どおりに手続きを行っていたマチネは、やがて、くるりと紙を廻してカガミに差し出す。
「……では、こちらを」
そこに記されたいくつかの項目を確認し、カガミは貨幣を差し出す。二日分の宿泊費と、四人分の食事代。それらを合計した金額を差し出し、カガミはニッコリと微笑んだ。
「お受け取りください。とても良い時間を過ごさせて頂きましたわ」
「そう言ってもらえると……」
奥歯に葉野菜の筋が挟まったような物言いを返すマチネ。不安と猜疑に囚われた彼女の心中では、カガミの口にした世辞文句が、とてつもない皮肉に聞こえてしまっている。
まぁ、あながち間違いではないのだが。
「それでは、またご縁がありましたら……」
支払いの確認も終わり、そのまま一つ、頭を下げて立ち去ろうとするカガミを、
「待って! ……待って、ください」
何かに追い詰められた面持ちのマチネが呼び止める。今日この場に現れたときからずっと変わらない、深い影に縁取られた瞳を向けて、カガミを呼び止めた。
「なんでしょう? お支払いに、何か不備でもありました?」
「いえ、そうじゃないわ。……でも、その。私、あなた達に――」
覚悟を決めて口にしようとしたところで、スッと伸ばされた少女の手がそれを止める。
自分に向かって開かれた手のひら。その指の間から見える神の巫女の瞳は、これまでと変わらず優しい光を灯しつつ、それでいてどこか見下されているようにマチネは感じた。
「この街。たった二日足らずの滞在でしたけど、とても良いところだと思いました。道も建物も綺麗だし、活気にも満ちていて。けれどこれだけ素敵な街でも、どうしてもああいう人達は居るものなんですわね」
突然始まった、まるで遠くの世界の出来事を語るような神官乙女の口ぶりに、マチネは黙って耳を傾ける。そしてカガミも、顔色一つ変える事無く話を続ける。
「昨夜、私達を襲ってきた人達。街でたまたま見かけた私達が、ちょっと目を引く女ばかりだったからという、ただそれだけの理由で襲ってきたあの男の人達。どうしようもない事とは言え、ああいう人が居てしまうのは少し寂しい話ですわね」
「えっ? でも、昨日のアイツ等は――」
「それだけの人達でしたでしょう? あの男たちは、特に理由も無く私達を狙った。あの人たちが私達を襲う理由など、何一つありませんもの。……ねぇ? そうではありませんか、マチネさん」
マチネは、答えられない。
「理由なんて何も無いのです。私の仲間にこてんぱんにされて、自主的に衛兵の下に出頭したあの人達は、きっと今頃も同じような事を自供していると思いますわ。そんな下らない理由で街を騒がせたことを悔いて、これからは真面目に生きようと悔い改めておられるかと」
「あなた達は……それで、良いの?」
「良いも何も……。私たちには関係ありませんもの。あの男達がこれまで何をしていたのかも、誰の指示で動いていたのかも。そして、この街の領主様のご子息が昨夜から行方が知れないという事も……私たちには何一つ、関係の無いことですわ」
「そう。……そう、なのね。あなた達はただ通りがかっただけの旅人で、この街でのんびり過ごして、また出て行くだけ。そういうことなのね……」
よくできました。目線が言葉を持つのなら、きっとそんな台詞をマチネは受け取っていただろう。そしてカガミは、慈愛に満ちた微笑でマチネに笑いかける。
例え最初に襲って来たのがあちらの方だといえ、それでも貴族の家に連なる者に関与するというのは、一介の冒険者にとって災難以外の何物でもない。だからこそ、ツルギはあの男達を殺す事無く撃退したのだし、ギョクはあんな回りくどい対処をした。今さらカガミが、リエイたちとの一件を表沙汰にするはずが無いのだ。
ゆっくりと首を傾け、まるで出来の悪い生徒がやっとこさ正解を導き出した様を見守るような視線で、今だ震える手をテーブルの下に隠したままのマチネを見つめるのだった。
――そして、
「その通りですわ、マチネさん。私達には何も関係のないことなのです。どうしてあの男達が、迷い無く私たちの借りていた小屋を襲撃できたのか。どこの小屋にどの客が泊まっているのかなど、決して外には漏れぬはずのこの宿で、それでも何故か、真っ直ぐに私達を目指してこれた理由も、私達には関係ない」
どこからか、小さな悲鳴が聞こえた気がした。
「関係ないのです。その情報をリエイに洩らした貴女が、交換条件として自分達から手を引くようにと交渉したであろうことも。ヤツラを手引きして、宿の敷地に招きいれたことも。そして、私達を売り払う見返りとして約束させた内容を記した契約書か何かが、今もこの宿のどこかに確かにあるであろうということも。……私たちには、何一つ関係が無い」
独白のようなカガミの台詞を聞き終えたマチネ。隠し切れない手の震えは今や体中に広がり、涼しいはずの秋の早朝にもかかわらず、額にはびっしりと汗をかいている。
だが、その汗の一滴が頬を伝い、宿泊証明の用紙に黒い染みを浮かばせた今に至っても、それでもカガミの表情は変わらなかった。先ほどまでと何一つ変わらぬ、慈愛と容認と、ほんの少しの侮蔑を込めた顔でマチネを見続けていた。
やがてマチネは、恐怖に震える体から、やっとの思いで言葉を搾り出す。
「見逃して……くれるの?」
「関係ない、と言ったではありませんか。私たちはこの宿にも、貴女にも。何一つ思うところはありません。これから別の何かが起こりでもしない限り、私達は恣意的な行動を取りはしないでしょう」
「そう、なのね。……わかったわ。いえ、わかりました。私も、あなた達に一時の宿を提供しただけ。そう思わせていただきます」
「そうしてくださいな。……では、失礼させていただきますわね」
「えぇ。……お客様方。良い旅を」
決まり文句を口にして、マチネは深く頭を下げる。地面に向けた視界の隅で、神官服の裾が僅かに目に入り、翻っては消えていく。
カツカツ地面を蹴る音と共に、少女の気配が遠ざかる。マチネは、けれど小さくなっていくであろう神官乙女の後姿を見ることができず、ずっと頭を下げていた。
いくばくかの時間が経ち、重い鎖で雁字搦めにされていたような体から力が抜け、大きく息を吐く。
そしてようやく、伏せていた体を上げようとしたマチネの耳元に、
「最後に一つだけ。冒険者としての私たちは、確かに貴女を見逃した。けれど個人としての私は、貴女が私達を陥れようとしたことを忘れない。……絶対に、忘れない」
何処からか声が届く。
再度、金縛りにでもあったかのように動けないマチネは、これからの自分が、この言葉に囚われ続けると確信した。
耳の奥に残り続けるこの言葉を、ずっと忘れることは出来ないのだと、魂の深いところで理解するのだった。
§§§§§
§§§
§
遠くの空に、キィーキキキと甲高い声がする。
「ありゃあ……百舌か?」
「ん? ……多分、そうじゃ無いッスか。こっちじゃなんていうのか知らないッスけどね」
空に戯れる小鳥達を仰ぎながら、御者席のギョクが呟いた一言に、何をするでもなく馬車に揺られていたカガミが答える。
姦しい乙女モドキを乗せた馬車は、緩やかに旅路を進んでいた。
「そういや、ちょい気になってたんスけど……。オレが宿のチェックアウトしてた時、ツルギ先輩は何処行ってたんスか? 出発準備オレ達に任せて、一人でどっか行ってたでしょ?」
「おう。あの時は、だな――」
「聞かねぇ方が良いと思うぞ。すっげぇくだらねぇから」
「何を言うか、ギョクよ。アレ以上に重要なことなど他にあるか? ……実はだな。オレ様はあの時、ハクトーの住民どもに、一刻も早く風俗店を設置すべきだと喧伝しとったのよ」
「……は? 風俗? 風俗って、あの風俗ッスか?」
「応ともよ。そもそも、あのリエイとかいう小物が好き勝手できたのも、ヤツの言葉に従った多くの手下がいたからだ。そして若者達が、何故リエイのような男に従ったかの理由は、日頃から鬱屈したものを溜め込んでおったからに違いないのだ」
「えと……。はぁ……」
「若さゆえの衝動は、キッチリどこかで発散せねばならん。ああいう男達が一番に発奮できる場所といえば、それは一発ヌいてくれるおネェちゃんたちの居る店をおいて他にない。故に、今後の健全な発展の為にも、すぐにでも風俗店を開始すべきと助言してきたわけだ」
「なるほど。確かに効果的のような……でもって、どうでも良いことのような……」
「な? 下らなかったろ?」
「何処が下らんのだ! ギョク。お前はどうも、こういった話を軽く見すぎだ。男女の営みこそ深遠にして神秘の極み。単なる下世話な問題と片付けるべきではない」
「おぉ……流石ツルギ先輩、良い事言うッスねぇ。確かにおにゃの娘とちょめちょめしてる間は、なんか全部悟ったような気分になるッス」
「であろう? 人は時として、己の欲求に正直に生きるべきなのだ!」
「万年発情猿共が、ナニ言ってやがる……。ってかだ、ここにゃあスズもいるんだぞ! もちょっと発言に気を使えッ」
「いやいやギョク先輩。スズちゃんの年を考えれば、そろそろマトモな教育をしとくってのも、アリじゃ無いッスか?」
「待てぃ! それはちと早計だ。変に興味を持ちでもしたら、その辺のクソガキに余計な手出しをされんとも限らんではないか。時機を見て、それなりの準備と共に、だな?」
「準備って言ったって、今のオレ達じゃ男の生態についてマトモな教材を用意してあげることも……って、そうだ! だからやっぱり、今のオレ達にもチ○コが必要なんッスよ、ツルギ先輩。やっぱり一刻も早く、オレ達の心のチ○コを具現化する必要があるんス!!」
「なるほど……な。確かにその言には一理ある。大事な被保護者の為にも、オレ様自慢のご立派様を取り戻す必要があったか」
「てめぇら……良いからもう黙れ。これ以上スズに妙な知識吹き込もうとすんなら、いつか取り戻すかもしれねぇお前等の爪楊枝、もっぺん存在抹消してやんぞ?」
御者席から漏れ出す殺意に、思わず股ぐらの辺りがヒュン、となる二人であった。女にもこの感覚があるということを、コイツ等はこの身になってはじめて知った。
なおも馬鹿な話を続ける三人は、だからこそ、なんとも困った顔を浮かべるスズが洩らした一言を、耳に入れることは出来なかった。
「えと……。みんなの心のナントカとかは、イマイチ何言ってるのかわかんないんだけど。でも私、男の人と女の人のイロイロなら、それなりには知ってるんだよね……」
浮浪孤児上がりであるが故、知識としては知っている。そんな少女の呟きが、向こうから流れ来る風に乗って何処かへと消えていった。
このままもう何日か進めば、王都イズクモの城門が見えてくることだろう。四人の新しい生活が、そこに両手を広げて待っているのだ。
轍に群れた小鳥たちが、パタパタと羽音を立てては、高い空へと駆け上がってゆく。
秋は、まだ始まったばかりだった。
お読み頂きありがとうございました。
次話で本章は完結いたします。
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