(6)
フーッと吹き出された煙が温い風に乗り窓の外へ消えていく。
満月の夜、玉闇は暗い部屋で就寝前の煙管を吸っていた。他に何をするでもなく、ただ吸っては吐いてを繰り返す。
彼女の視線の先は己の吐き出した煙。意味のない紋様を描くそれは静かな情緒を生み出すものだ。
二度と同じ形は現れない、たった一度きりの儚い出会い。玉闇はそれを気に入っていた。
最後の一息を吐くと卓上に煙管を置いて、窓を閉めるために立ち上がる。
ところが手を伸ばそうとしたその時、内庭からこちらの部屋を見ている人物に気がついて動きを止めた。
窓へと伸ばした腕を桟に乗せ、ゆったりと身を乗り出す玉闇。肘をつき手に顎を乗せ、かの人を品定めするかのように無言で見つめる。
月明りの中で煌々と光る青い瞳は、燃え盛る炎のような熱が籠っていた。
彼は直立不動で、その場から一歩も動かない。
内庭と玉闇の部屋を隔てるのは手すりと溝で渡るのは困難。そしてそれらが後宮と本宮を隔てている仕切り。
それを超えてしまえば、国王以外の男が立ち入ってはならない聖域になる。
男はその直前である手すりの手前に立ち、それ以上は近づこうとしない。これ以上進んではならないと彼は熟知しているから。
そして彼は自分に言い聞かせているのだ。この距離が踏み越えてはならない最後の境界線なのだ、と。
しかしどんなに理解していても、黒曜石のような瞳を見ていると決心が鈍る。玉闇そのものが毒のように浸食して理性を脅かす。
ただ1人の女を渇望して止まないその心は、分かりやすいほど視線に込められていた。
――――赤い唇が弧を描く。
ドクリと大きな音を立てる心臓。怒りで我を忘れた時のように、熱く煮えたぎる血が全身を巡る。
胸が高鳴ると同時に罪悪感に苛まれた男は唇を噛みしめた。尚泉への恩を忘れるなと、裏切るなと心の中で叫ぶ。
一方で玉闇は男の姿をじっと見つめながら嗤い続ける。まるで幼気な少女を嘲笑うかのように、あらゆる感情を見透かし支配しているかのように。
実際に、彼の心の全ては彼女が握っていると言っても過言ではない。少なくとも、見つめ合っているこの瞬間は。
静寂の中で両者が動かないままゆっくりと時間が過ぎる。
先に視線を反らしたのは男の方。
まるで何事もなかったかのように身体を翻して早足で去って行く彼を見送ると、玉闇は窓へと白く細い腕を伸ばした。
ぱたんと小さな音を立てて、彼女は部屋の奥へと消える。
こうして、2人の逢瀬は静かに始まった。
咲が仕事に復帰すると、そこは当然のように悲惨な状態になっていた。
いくら人手が足りないからといって、異世界の小娘1人いないだけで仕事が回らないのはどうなんだ、と咲は大きなため息を吐く。
しかし急に休んだ責任を感じていた彼女は、時間を取り戻すかのようにめきめき働いた。それはもう、皆が目を丸くするほどに。
「お疲れ、葵杏」
「あ、うん、琥轍もお疲れ」
後ろから声をかけられて咲は振り返る。
琥轍は彼女の手にある箒を見てまだ仕事をしてるのかと呆れ顔だ。
「変わりないか?」
「ないない、唯一あるとすれば仕事が溜まってたくらいだし」
「まさかまた残業する気じゃ・・・」
「さすがにそれはもう懲り懲りだよ」
夜まで残って死体を見つけるような目には遭いたくない。咲ははははと自虐的に笑って否定する。
だよなあ、と琥轍は続けた。
「ほら、日が暮れる前にさっさと帰るぞ」
うん、と返事をして掃除道具の片づけを始める咲。
事件以来、瀧蓮から護衛を任されている琥轍は彼女の送り迎えをしている。それだけでは飽き足らず、休憩中やちょっとした移動の時も彼はついて来た。
さすがにやりすぎではないかと咲が思うほど、琥轍は四六時中一緒に居る。
1人でない、ということに関しては嬉しい咲。
異世界へ来て友達もいないまま仕事が始まった彼女にとって、仲の良い同僚とは貴重な人との繋がりである。玉闇との約束で正体までは明かせないものの、いろんな相談やくだらない会話ができる人物はまだまだ少ない。
だから琥轍は大切な存在だ。
しかし、ずっと一緒に居ることで咲は不安を覚えていた。
あまり仲良すぎては、離れる時が辛くなってしまう。咲はこの世界の人間ではなく、いつかは帰らなくてはならないのだから。
咲が突然消えたことで警察沙汰になっているのは間違いない。
日本では家族も友達も帰りを待っている。愛されている自信なんて今まではなかったけれど、無事を祈ってくれているという確信があった。
今ならまだきっと間に合うだろう。
取り返しのつかなくなる前に、蓋をして閉じ込めてしまいたい。想いも記憶も、全部。
咲は隣を歩く琥轍を見上げた。
しかし彼の顔を見た瞬間、声に出そうと思った言葉がばらばらになって崩れていく。
「あ・・・っ」
「葵杏?」
擦れた声しか出てこない。
何かを言いかけて口を開いたまま困惑している彼女を、琥轍は眉を寄せ心配そうに見下ろす。
「まさかまた熱がぶり返したんじゃねえの?」
「・・・ううん、大丈夫。
今日だって、あれだけ働いて平気だったんだから」
精いっぱいに口角を上げる咲。しかしその表情はどことなく固く、いつものような晴れ晴れとした笑顔ではない。
琥轍は彼女の異変に気付いたものの、彼女の不調を悟られまいとするいじらしい様に反論できず、微笑んで自分から話題を変える。
「そっか、あんま無理すんなよ。
・・・そう言えばもうすぐ宴会だよな」
「え、なにそれ」
「お前本気で言ってんのか?」
訝しげな目で見られ、咲は何かまずいことを言っただろうかと焦った。思考を巡らせてみても、今ある知識の中で宴会に相当するものはない。
「もうすぐ祝日じゃねえか。
まさか日にち忘れてるなんて言わないよな?」
「う・・・うん!もちろん!」
祝日祝日と口の中で何度か繰り返す。
確かではないが歴を勉強した記憶が薄らと残っているような気がした。必死で玉闇の言葉を思い出そうと彼女の声を記憶の中に辿らせる。
一年で月は6つ。春月・春長月・夏月・秋月・秋長月・冬月。
ひと月は10週、一週間は10日。つまりひと月は100日、一年は600日。
そこまでは思い出せるのだが、その後が思い出せない。
「・・・ごめん、今何月だっけ」
「春月の28日だろ」
「あー・・・・―――――そう、来月の1日だよね!祝日!」
笑顔で言い切った咲。しかし確信は全くない。なんとなく書類の中に1日に関するものが多いな、と思っていたので山を賭けたのだ。
彼女の心臓がはち切れんばかりに鳴り響く。
琥轍はどこかほっとしたような表情を浮かべた。
「焦った。よかった、知ってるならさっさと言えよ」
「ごめんごめん、仕事のことで頭いっぱいで忘れてたのよ」
猛烈な安堵が咲を襲う。
彼にはばれないようにこっそりとため息を吐いた。
「お前、もうすっかり仕事中毒だな」
「あはは・・・・そうかも」
休んでいた時も仕事が気になって気になって仕方なかった。思い当たる節がいくつもあり、咲は本気で心配になってくる。
せっかくの青春を仕事に捧げてしまっていいのだろうか、と。
せめて仕事だけじゃなくて青春を謳歌したい。友達とのお茶会に、オシャレに、恋に。
そう、恋・・・・・。
結局思考が冒頭に戻ってしまい、咲はがっくりと項垂れた。何を考えようとその壁にぶち当たるのは避けられないらしい。
「おーい、葵杏?」
目の前にさらりと銀色の髪が揺れ、咲が頭を上げると琥轍が顔を覗き込んでいた。
顔が近くて叫びそうになるのを堪え、彼女は平然として歩き出す。
「なんでもない!」
知らないふりをしなきゃならない。それは重々承知している。
咲はやるせなさに歯を食いしばって目を固く閉ざした。
咲、咲、と何度も名を呼ばれて、彼女ははっと覚醒した。気づけば目の前に玉闇の美麗な顔が。
咲は目を何度も瞬く。
「え?・・・あ・・・・」
「今日はずいぶんぼーっとしているねえ。
休暇明けの仕事は疲れただろう?」
「はい、とても・・・」
咲は頭をがしがしと掻きながら反省する。まさか玉闇へ報告をしている最中に夢うつつになるとは情けない。
自分は思ったよりも重症化かもしれないと、彼女は大きく肩を落として困り果てた。
そんな咲の様子をじっと見つめる玉闇は、全てを見透かしたかのようにクスリと微笑む。
「約束は守っているようだね」
「それはもちろん」
ちゃんと玉闇にから訳を聞いた。異世界人というも事を誰かに話せば、事件に巻き込まれかねないということを。
もちろん玉闇自身のことも他言しておらず、約束は守っている。
煙管を吸ってふっと短い息を吐き出す玉闇
それを見た咲は、彼女の煙管を持つ手を惚れ惚れと見てから羨ましそうに言った。
「いいなあ、大人の女性って感じがしますよね、煙管。吸ってみようかな・・・」
「吸わないに越したことはないよ」
「でも指先まで所作が綺麗になりそうじゃないですか。
私も冥昌さんみたいな色気の塊になりたい」
ほうと息を吐く咲を玉闇は肩眉を上げて見遣る。
「お止め。
色気が欲しいならば花街で働けばいい。所作も否応が無しに身につく」
「いえ、水商売はちょっと・・・」
いくら色気が欲しいからと言って、春を売って強制的に得ようとは思わない。咲はただ単に化粧や異性に興味を持つ年頃で、自然にその魅力を身につけたいだけなのだ。
ずるい、と咲は頬を膨らませる。
「いいですよね、冥昌さんは。
生まれつき美人で、色気があって」
「・・・・」
煙と共に深く長い息を吐き出す玉闇。
そして咲の顔をじっと観察すると、控えめに小さく笑った。
「お前も整っているさ。年齢を積めば多少は大人っぽくなる。
後は化粧次第でどうにでも」
「どうにでも、って怖い響き・・・」
「事実さ」
昔から化粧は詐欺だ、などと言われることはよくある話だ。咲自身に化粧する前後で驚くような体験をしたことはないが、その凄さは分かっているつもりだった。
しかし、綺麗になるにはその下にある容姿がある程度整っていなければならないのも事実。昔から両親に「可愛い可愛い」と散々可愛がられて育ってきたが、特に自分の容姿に対して自信を持っているわけではない。
だから彼女には冥昌のような美しさが遠い存在に感じられる。
「・・・やっぱり生まれ持った物は覆せません」
未だにぐずる咲に玉闇は仕方ないねえとため息を吐き、言い聞かせるように話し始めた。
「咲、完璧な人間など存在しないよ。
どんなに形の良い人間でも、心の中まで美しいわけではない」
「冥昌さんは?」
「私は諸悪の根源のように腹黒くて脆い女だ。
煙管ひとつなきゃ、夜もまともに寝れやしないほどにね」
既に玉闇にとって煙管は精神の安定には欠かせないものだった。それだけ彼女はギリギリの精神状態の中で、その裏の顔を表に出さずに生きている。
咲はぽかんと口を開けて玉闇を見た。
「・・・・意外」
「そうかい?見た目に騙されてるだけさ。人は心の中にいろんな物抱えてる。
・・・でもねえ、稀にいるんだよ」
―――――心の中まで一点の曇りもなく、人生の最期まで美しい心を持ち続ける人間が。
彼女はどこか遠い目をして口を開く。
「だから忘れるんじゃないよ、咲。
どんなに美しい容姿をしていようと、どんなに美しく着飾っていようと、真に美しい心を持つ者には敵わない」
「はい。外見よりも内面を磨けってことですね」
「外見を磨く努力も怠ってはいけないよ。
ただ、心の美しさが容姿の美しさに勝ることもある。そういう話だ」
最後の一文がいまいち理解できない咲は小首を傾げた。
真に心が美しい者は何者より強くて、容姿の美しさに勝ることがあるとはどういうことだろうか。話がちんぷんかんぷんだ。
咲の様子を見た玉闇は立ち上がり、棚から長細い木箱を取り出す。
蓋を開ければ、中から出てきたのは布に包まれた綺麗な木目のついた横笛。
咲はうわあと感嘆の声を上げた。
「すごい、高そう」
「これを使うと良い」
突然笛を渡されて目を丸くした咲はえ?え?と笛と玉闇を交互に見る。
クスリ、と赤い唇の口角が上がった。
「指先の所作を身につけるんだよ」
「笛で、ですか?」
「そう。私もこれで教わったんだ、花街でね」
玉闇が花街の出身者だと知らなかった咲。
今までかなり失礼なことを言っていたのではと、みるみるうちに真っ青になる。
玉闇と狼狽する咲の視線が合い、玉闇はいつもの余裕の笑みを浮かべた。
「私のお下がりだが、これをあげよう」
「あ、ありがとうございます」
「吹いてごらん」
なんと言って謝ればいいのか分からず、そもそも謝ってよいのかさえ分からず、思考をぐるぐるさせる咲は言われるがままに横笛を口に当てる。
そしてブピーーーー!!と今までに聞いたことがないほど間抜けな音が、夜の王宮に響き渡ったのだった。