(5)
瀧蓮は一目見ただけで全てを悟った。
黒い髪を風に靡かせ尚泉の隣を歩く女は、絶対に手を伸ばしてはならないものなのだ、と。
陽が昇る前の、静まり返った時間。ふと目に留まったのは、風変わりな着物と化粧をした妖艶で神秘的な女性。
黒曜石のように深い闇色の瞳がこちらを見た瞬間、全身を廻る血がざわざわと騒ぎ出す。視線が交わったのはたった数秒なのに、まるで永遠と続いていたかのように感じた。
馬鹿か、俺は。
瀧蓮は心の中で自分を戒める言葉を吐き捨てる。
よりにもよって尊敬してやまない尚泉のものに懸想するなど、なんと愚かしいことをしてしまったのだろう。
自分を拾い育ててくれた恩人に恩を仇で返すような真似はできない。
何も見なかったことにしよう、感じなかったことにしよう。瀧蓮はそう思い、脳裏に浮かぶ女性の姿をかき消した。
しかし忘れようとすればするほどに、あの時の感情が浮上してくる。
馬鹿馬鹿しいと思うのに、愚かしいと思うのに、止まらない身体の熱。理性が止めろと叫んでいるのに、ちっとも言うことを聞こうとしない。
瀧蓮はため息を吐き、思考を正常に戻すためにかぶりを振った。
ところが仕事のために訪れた医務室に、また彼女の姿はあった。今度は薄暗い場所ではなく光の差し込む部屋で、鮮明に見える容姿と表情。
赤い唇を貪り尽くしたい、白い四肢を蹂躙したい、髪の毛一本も逃さず捕えたい。
邪念が過り身体に熱が灯ると同時に、自分の愚かさに対する激しい苛立ちが募る。女性を見る視線に2つの激情が灯った。
一方で彼女の視線には、いくばくかの余裕。
そして闇色の瞳が瀧蓮を捉え、嗤う――――――。
「長官?どうしたんですか?」
3人が取り残された医務室で、琥轍の不思議そうな問いに瀧蓮の俯いていた視線が上がる。
彼は答えもせずに咲の方を向き、急に睨まれたような鋭い視線を向けられた彼女はビクリと震えた。
御史大夫の瀧蓮。天上ではその名前を知らぬ者はいない。
光の加減では黒く見える藍色がかった髪、何者をも恐れない強い光を灯す青の瞳。国王の義息という肩書を抜いても、有り余るほどの功績の数々。
清廉潔白とした雰囲気を持つ、凛とした男性だ。
凡庸で庶民に紛れこめるような尚泉よりも、ずっと整った容姿をしている。
「お前が葵杏か」
「・・・はい」
瀧蓮の雰囲気に飲まれ萎縮して頷く咲。
彼女は昨晩から本当に大変な思いをした。熱は高く十分な睡眠も取れておらず、これ以上客人の相手をさせるのは可哀そうだろう。
そう思い気をきかせた琥轍が代わりに立ちあがって瀧蓮と対峙する。
「長官、申し訳ありませんが彼女は疲れています。
聴取はもう十分に受けたはずです」
「様子を見に来ただけだ。すぐに出ていく」
これ以上咲に負担をかけないと聞いて安心する琥轍。
瀧蓮は2人を交互に見て口を開いた。
「お前たちは礼部で働いていたのだったな」
「はい。
私は三足で、彼女は祝相です」
「ならば琥轍、お前が彼女の護衛をしろ。
事件に関してはこちらで調べる」
「畏まりました」
踵を返して颯爽と去って行った瀧蓮。
咲は琥轍を見て、一体何だったのかと小首を傾げる。
「琥轍?どういうことなの?」
「いいから、お前は寝ろ」
琥轍は温くなった手ぬぐいを洗い直して咲の額の上に乗せた。
しかし彼女の瞼は一向に下りず、物問いたげに見つめてくる目に彼は咲を小突く。
「犯人に目をつけられたかもしれないから、俺に護衛しろって言われたんだ。それだけ」
「・・・でも琥轍って文官じゃない」
前僕や軍人ならまだしも、琥轍は諸侯との連絡係である三足だ。彼はむしろ護衛される側じゃないかと咲は疑問に思った。
彼は少し困ったような顔をして咲を見下ろす。
「俺は剣の腕が立つからいいの。
それに俺たちが犯人の姿を見たわけでもないし、わざわざ衛部から人を引っ張って来るほどでもないさ。
要は念のため用心しろってことだよ」
「わかった」
「ならとっとと寝ろ。
お前が居なくて祝相はきっと今頃てんてこ舞いだ。早く治して仕事に戻らないとな」
「・・・琥轍は?」
熱を出した咲ばかり心配するが、昨夜から寝る暇もなかったのは琥轍も同じ。
しかし彼は全く平気そうに笑う。
「俺は体力あるし慣れてるから平気だっての。
咲が寝たら俺も休むよ」
「うん・・・、ありがとう」
咲はゆっくりと目を閉じて、大きく息を吐いた。
やがて彼女の意識は沈み、規則正しい呼吸音が聞こえ始める。
琥轍は寝台に突っ伏し目を閉じると、彼女の手を握って「ごめんな」と独りごとのように呟いた。
咲は痛む頭を抱えながら身体を起こすと見慣れない白い天井が視界に入り、眠りにつく前のことを朧げに思い出した。
空はもう茜色。
節々に鈍い痛みを覚えて、咲は背伸びしようと身体を動かす。
しかし腕が思うように上がらず視線を向ければ、大きな男性の手に包まれている自分の手。横から寝台に顔を埋める形で寝入っている琥轍のものだ。
咲は恥ずかしさのあまり叫びそうになる自分を宥め、彼を起こさないようにそっと手を引き剥がした。
少しだけ離れた人肌の温もりを寂しいと思ったが、ずっと握られたままでは心臓に悪い。
規則正しく上下する琥轍の肩。
いつもは勝気な瞳も今は閉じられていて、年齢よりもずっと幼く見える可愛い寝顔に咲は笑みを漏らす。可愛いなどと本人に言ったら、絶対に怒られるであろうが。
「んー・・・」
咲の気配で琥轍は僅かに身じろぎをした。
彼女は慌てて動かないように努めたが、琥轍は目を擦りながらムクリと上半身を起こす。
「あー・・・・・ん・・・・?」
寝ぼけているのかむにゃむにゃと口を動かす琥轍に、彼女は可笑しそうに笑っておはようと話しかけた。
「そんな体勢で寝て・・・・身体痛いでしょうに。
隣のベット使えばよかったじゃない」
「んー・・・・」
まだ彼の意識の半分は夢の中。
どうやら朝に弱いらしいと知った咲は、琥轍の肩を掴んで揺さ振った。しかし彼はされるがままでがっくんがっくんと前後に揺れる。
「おーきーてー!琥轍!もう夕方だよ!」
「んー?・・・ああ、なんだ葵杏か・・・」
どことなく残念そうに聞こえて、イラっとした咲は顔を引きつらせた。
もう看病してもらったからという遠慮はない。まだぼーっとしている彼に鉄拳をお見舞いする。
ガポンと小気味良い音を立てる琥轍の頭。
「いてえ!!」
「おはよう、琥轍」
「・・・・・・・おはよう」
満面の笑みの咲に、琥轍は何か言いたそうに口をへの字にして挨拶した。大きな欠伸の後に窓の方を見れば、もう陽が沈みかけていて「げっ」と漏らす。
「もう夕方じゃん」
「それさっき言った」
「良く寝たあ」
彼は伸びをしながら立ち上がり、入口にある松明の火を壁の蝋燭へ移し始めた。完全に暗闇になる前に、明かりを確保するためだ。
「具合はどうだ?」
「大丈夫。いつまでも休んでらんないわよ」
火を灯して戻って来た琥轍は咲の額に手を当てる。
咲は一瞬ぴくりと動いたが、ただ熱を測っているだけだと自分に言い聞かせて動かないよう努めた。
「んー、まだちょっと熱いなあ」
蝋燭の明かりを受けてきらきらと輝く銀色の髪。
咲はそれを羨ましいそうに見る。
「いいなあ、銀色」
「はあ?」
突然何を言い出すんだと目を見開く琥轍に、咲は自分の髪を弄りながら続けた。
「だって琥轍の髪すごく綺麗。しかも真っ直ぐで羨ましい。
私なんて地味な黒だよ?
せめて冥昌さんみたいな綺麗な黒だったらいいのに、なんか私のは中途半端な茶色混じっててさあ。雨の日は癖っ毛で悩まされるし、櫛で梳くのも一苦労」
典型的な日本人の髪色だが本人が言うほど髪質は悪くない。しかしシャンプーやリンスの無いこの世界では、整えるだけでも以前の倍の時間を要した。
咲にとっては深刻な話だが琥轍は呑気に笑う。
「なーに言ってんだよ。
ま、それだけ口が回るならだいぶ元気になった証拠だな」
ぽんぽん、と咲の頭の上に乗る琥轍の手。
なんだか子供扱いされているようだと、咲の頬がぷくりと膨らんだ。
「元気よ、そりゃもう全快」
「全快じゃないだろ。微熱あんだから」
「明日の朝には下がってるよ」
「ダメダメ。諦めて明日まで休むんだな」
「あのー・・・・」
2人の会話に割って入る、どこかおどろおどろしい声。
咲は裏返った声を上げて目の前にあった琥轍の逞しい腕に抱きつく。
琥轍も腰の剣に手を伸ばしかけたが、現れた人物の姿を見て固まる。
「悪かったね・・・お邪魔だったかな」
「三足長!?
どうしてここに!?」
声の主は礼部の三足長。いつも体調を崩している病弱な男性である。
彼はこけた頬で笑いながらも申し訳なさそうに言う。
「いや、実は昼間倒れてここに運ばれたんだ・・・。
そろそろ帰ろうと思ったんだけど・・・その・・・、あまりにも仲が良さそうだったので出る機会を失ってね・・・」
三足長の話によると彼はずっとこの医務室に居たらしい。つまりは、2人の会話を全部聞かれていたということ。
やましいことは何もないはずなのに、何故か恥ずかしくなって気まずそうに俯く咲と琥轍。
「お、お見苦しい会話をお聞かせしました」
「いやいや、・・・ごほっ、若く歳近い2人の仲が良いのはいいことだよ。
それより、昨日は大変な目に遭ったそうだね」
「はい、ご心配をおかけしました。
仕事の方もお休みをいただいてしまって・・・」
頭を下げる琥轍に三足長は笑顔のまま首を振る。
「陛下の計らいなんだ、文句を言う者などいないよ。むしろ今まであまり休みをあげられなくて申し訳ないくらいだ。
仕事のことは忘れて・・・・こういう時くらいはゆっくり休みなさい」
「ありがとうございます」
安堵の笑みを浮かべる2人に満足気な三足長。
彼は「そろそろ失礼するよ」と一言残すと、覚束ない足取りでふらふらと医務室を出て行った。
咲と琥轍は無言で顔を見合わせる。
そして次の瞬間、咲は思いっきり飛び上がった。
「ぎゃっ!!」
「・・・ぎゃ・・・ってなあ・・・。
もう少し可愛らしい声出せよ・・・」
三足長が現れた時、驚きのあまり彼の腕に飛びついた咲は、ずっと抱きついたままであったことに今更気がついた。
顔を赤くする咲と、視線を泳がせている琥轍。
恥ずかしさと居た堪れなさに、気まずい空気が漂う。
「ご・・・ごめん・・・」
「いや、別に・・・。
それよりお前、部屋戻る?」
「・・・うん。水浴びたいし、着替えたいから」
じゃあ送っていく、と琥轍は立ち上がって蝋燭の火を吹き消した。
咲は少し寝乱れていた服を整え、寝台から出て布団を畳む。
準備が終わり月明りのみの暗い部屋で2人、変な沈黙が続いてお互いがお互いの言葉を待った。
「・・・行くぞ」
耐えきれず先に口火を切ったのは琥轍。
咲は頷いてぱたぱたと彼の後を追う。
昨日までは並んで歩いていたが、帰りの2人の間には少しだけ距離が開いていた。