(4)
しゃらん、と髪飾りの揺れる音を立て、玉闇はゆっくりと立ち上がった。
部屋にはもう一人、黒づくめの男の姿。
「死んだ、か」
「はい。昨夜・・・」
石板を盗んだ実行犯として睨んでいた、警備兵である前僕の男。彼は昨夜未明、死体となって発見された。
しかも最初に見つけたのは咲。
玉闇はゆっくりと瞼を下ろす。
「・・・・石板は」
「どこにもありませんでした」
つまりは共犯者がいるということ。
張りつめた空気の中で、彼女は深いため息を吐いた。
「もう下がってよい。
―――――尚泉、無言で女性の部屋に入るでないよ」
影と入れ替わりに現れた尚泉へ、玉闇は呆れたような視線を寄こす。しかし彼は全く反省の無い様子で、締まりのないへらっとした笑顔を浮かべた。
「おはよう、冥昌」
「朝っぱらからお前の顔を見るとは」
「いいじゃないか。まだ女官も来ていないようだしね」
玉闇の恰好はまだ寝間着のまま。
身の回りの世話をする女官がまだ来ていない証拠だが、それもそのはず。朝とは言ってもまだ陽が昇っていない時間なのだから。
逆に尚泉はこの時間からきっちりと身なりを整えている。言うまでもなく死体が発見された事件が原因で、今の今まで働いていたのだろう。
「昨夜から御苦労だったね」
「やっぱりもう知ってるんだ。早いなあ。
じゃあ君が可愛がってた異世界の娘さんのことも聞いたかな?」
「咲のことだろう?」
彼女は尚泉以上に大変だったに違いない。
深夜から朝方にかけてずっと事情聴取をされていた上に、死体を見つける直前まで働き詰めだったのだ。
影の報告によると、咲は過労で熱を出し寝込んでしまったとのこと。
尚泉は真剣な顔になってうん、と頷く。
「連日の疲れと精神的疲労が重なって熱が出たらしい」
「今はどこに?」
「医務室で休んでいるそうだよ」
見舞いにでもいくかねえ、と独りごとのように呟く玉闇。
「冥昌」
尚泉は玉闇の名を呼び、本題を切り出した。
「昨夜の死体の件なんだけど、君に心当たりがあるんじゃないかと思って――――」
「――――わざわざ私に会いに来たわけ、か」
途中で遮って代わりに玉闇が言葉を紡ぐ。
ここへ来た本当の理由は玉闇に事件を知らせるためではなく、事件についての情報を知りたかったから。
もちろん、そんな尚泉の心積もりなどとっくに玉闇はお見通しだ。
「今の時点であまり多くは言えぬ。
・・・が、石板の事件を関係がある、とだけ言っておこうか」
尚泉は一息ついて首を縦に振った。
直接解決に繋がる答えではないが、石板の件と関係あると分かっただけでも尚泉には有難い。
「そうか。
ありがとう、冥昌」
玉闇は僅かに口角を上げると、衣装棚から取り出した服を纏い帯を締める。そして女官を待つまでもなく、自分で身支度を始めた。
括っていた簪を外すと、艶やかな黒髪がさらりと流れる。
準備を始めたのは無論、これから咲に会いに行くため。
「尚泉も来るかい?」
「うん、そのつもりだよ」
髪を整え薄くなっていた紅を足すと、2人は揃って玉闇の部屋を出た。
暗く静かな廊下にコツリコツリと足音が響く。
徐々に薄くなる窓の外の月。東の空には一筋の明かり。
少し歩くと内庭が見えてきた。
よく散歩道や休憩場所として使用される内庭は、後宮のすぐ傍まで繋がっている。玉闇の部屋の窓からも覗けば見えるほど近い。
尚泉は内庭のさらに向こう側、本宮の方に向かって指を差した。
「死体が見つかったのはあっち」
「では少し寄ろうか。どうせ通り道だ」
玉闇の提案で外に出ると、冷たい風を受けながら内庭を歩く。
死体が見つかった場所までは少し距離があったが、一本道なので迷うまでもなく到着した。
他に人の姿はなく、ただ赤い血の跡だけが残っている。
鼻を掠める鉄の錆びたような臭いと死の香り。
「夜なら人通りは無いだろうね」
尚泉の言葉に返事はない。
玉闇は少しの無言を貫いた後、先を行く尚泉の後を追った。
しかし、人の気配を感じて建物の方を向く。青い瞳の、燃えるように熱い男の視線。玉闇のものと交わった時、それはさらに熱を増した。
建物の中から窓越しに玉闇の方を見ているのは、褐色の髪の男性。彼は動くこともなく、口を開くこともなく、ただただ玉闇を見つめているだけ。
遠くて彼の顔ははっきり見えなかったけれども、彼女はその視線の意味を知り尽くしている。身が焼けるように熱い、その視線の意味を。
玉闇の足は止まらない。
2人がすれ違ったのは僅かな間。しかし目が合うその時間は時が止まったかのような錯覚を覚えさせ、記憶に深く深く刻まれた。
姿がほとんど見えなくなっても、燃え上がるような感覚を身体が覚えている。ただ一度会っただけの通りすがりの男の瞳は、確かに玉闇の脳裏に焼きついた。
花街で嫌というほど見てきた、その名前は“恋情”。時には理性を壊すほどの厄介な、激情を伴う感情の名前。
玉闇も幾度となく懸想されることはあったし、とうに慣れていた。
せめて微笑んでやればよかった、とも彼女は思う。
いい男ではあったが気持ちに答えるつもりはない。そう伝えるために男の視線の意味を解して笑ってしまえば、こちらの余裕を示すことができた。お前の相手をするつもりなどないと、笑みひとつで教えることができたはずだった。
それが、せめてもの情け。余計ないざこざを起こさない為の、“あしらう”という術。
しかし、玉闇にはできなかった。姿が見えなくなった今ならばできるが、あの出会った瞬間は何故かできなかった。
「冥昌?」
尚泉の問いかけに我に返る玉闇。2人は既に内庭を通り過ぎ、医務室の前まで到着していた。
辺りはとっくに明るくなっており、眩しいほどの朝日が差し込んでいる。
玉闇はなんでもないように振る舞い、扉に手をかけた。
「入ろうか」
ガチャリと軽い音を立てて開く扉の向こうには、沢山の仕切りに囲われたベットの数々。そのうちの一つに咲が横たわっていた。
そして彼女の傍にはもう一人、見慣れない人物が居る。
彼は医務室を入って来た尚泉を見て慌てて叩頭した。
銀色の髪の、筋肉質な青年だ。
尚泉は笑って手を横に振り、いつもより小さな声で話しかける。
「いやいや、頭を上げていいんだよ。
ちょっと様子を見に来ただけだからね」
「はい、陛下」
「葵杏は寝ているようだね」
続けて前へ出た玉闇。彼女の珍しい風采に、青年は目を丸くして困惑した表情を尚泉に向けた。
彼はからからと笑って玉闇の肩を抱く。
「彼女は冥昌。私の妾だよ」
「あの・・・何故ここにいるのかお聞きしても・・・」
「たまたま彼女と一緒に居たから、連れて来たんだ」
夜を共にしていたという意味に捉えた彼は納得し、玉闇に向かっても軽く会釈をする。
一方玉闇は咲の顔を覗き込みながら口を開いた。
「お前がこの子と一緒に居たという男か?」
「はい。琥轍と申します」
「そう、災難だったね」
咲の顔色は熱で赤く染まっているのにどこか青白く、浅い呼吸を早いリズムで繰り返している。
琥轍が看病していたのか、濡れた布で額の汗は綺麗に拭われていた。
小声で話を続ける尚泉。
「では、琥轍。
彼女が寝ているようなので、君に代わりに答えてもらおうか」
「はい、なんなりと」
「何故昨夜、内庭に居たんだい?」
「葵杏は掃除が終わっていないと仕事を、私は忘れものを取りに行きました。
偶然彼女と会って、休憩に内庭へ・・・」
「そうか。その時、他に人を見かけてはいないんだね?」
「はい」
ふむ、とそれぞれが考え込んで静かになったその時、睫毛を震わせながらゆっくりと開かれる咲の瞼。彼女の虚ろな瞳はまず真横に居た琥轍へ向かった。
「琥轍・・・・、え・・・冥昌さん・・・・と?」
そして徐々に玉闇から尚泉へ移り、誰だろうと小首を傾げる咲。
玉闇はクスリと艶っぽく笑い、顔を近づけて囁くように答える。
「国王だ。この国の、王様」
「え!?」
目を丸くして叩頭しようとする咲に、尚泉は焦った様子で手を前に出した。
「やめなさい、どうかそのままで。
病人に頭を下げさせている所を誰かに見られたら鬼畜な王だと噂されてしまう」
「それはそれは面白そうだ。
私が噂を流してやろうか?」
「冥昌・・・」
弱った声を出す尚泉。
2人の仲睦まじい様子に、咲は頬を赤く染める。
ぽりぽりと人差し指で頬を掻く尚泉は苦笑しながら咲に言った。
「とにかく、私のことは気にしなくていい。
それよりも今は元気になることを考えて」
「は、はいっ、ありがとうございます」
「きっと疲れが溜まっていたんだろう。
いろいろ・・・あったようだしね。慣れない生活で苦労しただろう」
異世界へ来て苦労は多かったはずだ。生活習慣も違えば、着物の着方から食べ物まで全て違う。
琥轍がこの場に居ることを考慮して皆は言わないが、咲の事情を知っている尚泉は労わりの言葉をかけた。
自分が異世界人であることを何故国王が知っているのかと驚く咲に、玉闇は遠まわしに答える。
「私は陛下の妾だよ」
つまり、全ての情報が玉闇から尚泉へ筒抜けであったということ。
納得した咲はこくりと頷き、眩暈を起こして再び身体を寝台へ沈めた。
「完全に熱が下がるまでは休みなさい。
琥轍、君も今日は休暇にしよう」
いいね?と念を押す尚泉に頷く2人。
元々休みの日程は決まっておらず、休めるときに休むというのが慣習だ。事件に巻き込まれた翌日まで出勤しなくても、責める人はいないだろう。
そろそろ戻ろうかと尚泉と玉闇の視線が合った時、「失礼する」と別の人物がやって来た。
褐色の髪と研ぎ澄まされ清廉とした雰囲気を持つ、青い瞳の男。
彼は玉闇に気付くと一瞬だけ動きを止めたが、すぐに尚泉の存在に気付いて膝を折り地面に頭をつける。
「やあ、君も来たんだね」
「はい、所用がございまして」
親しげに声をかける尚泉は笑顔で玉闇の方を向いた。
「彼は瀧蓮、私の義理の息子なんだ。彼は凄く優秀でね、御史大夫をしている。
瀧蓮、彼女は新しく後宮に妾として迎えた冥昌。仲良くね」
御史大夫とは国王を間近で支える3人の権力者の内の1人。官吏の不正を暴く御史台の長官だ。ここへ来たのは事件の調査のためだろう。
顔を上げた瀧蓮の眉間には深く皺が刻み込まていた。内庭の時に感じたような好意の欠片もない、嫌悪感を剥き出しにした険しい視線が玉闇に送られる。それは恋をしている相手に対する態度とはとても思えなかった。
ただし、その瞳の奥底にある熱は変わらない。
チリチリと肌が焼けるような感覚を覚えるほどの熱い視線に、玉闇は扇で口元を隠し目を細めて瀧蓮を睨みつける。
「じゃあ私たちはそろそろお暇しようか、冥昌」
新しい客人が来たようだしね、と尚泉は玉闇の腰に手を回し、最後に瀧蓮の方を向いた。
「瀧蓮、後を頼んだよ」
「はい、陛下」
満足気な笑みを浮かべると、2人は医務室から静かに去っていく。
残された3人は、尚泉が居なくなったことで空気が重苦しくなり、それぞれが微妙そうな表情で口を閉ざしていたのだった。