(2)
咲は箒を持ったまま呆然と立ち尽くしていた。
崖から落ちたと思えば見知らぬ場所へ迷い込んでしまい、倉庫の中に隠れていたら黒づくめの男が突然現れた。無言でついて来るように促され連れて行かれた先は、まるで絵本に出てくる悪いお妃さまのような女性の目の前。
艶やかに微笑む彼女は混乱している咲に「働け」と命令を下し、男たちがあくせく働く仕事場へ強制的に送り込んだのである。
彼女との約束事は3つ。
自分が異世界人だと他言しないこと。
咲に仕事場を紹介した女性について他言しないこと。
仕事場で得た情報は逐一報告すること。
端的に事情を聞かされただけで今一自分の置かれている状況が把握できていない咲。しかしそんな彼女を置きざりにして、周りはどんどん動いて行く。
「今日から雑用をする葵杏だ。陛下の知り合いのお嬢さんで地上から召し上げられることになった。
あまり学はないそうだが、雑用として今日から礼部で働く」
冷や汗をかきながら咲は心の中で「葵杏ってなんすか。まさか私の名前ですか冥昌さん」と突っ込みを入れる。彼女は自分に葵杏という名前を付けられたことも知らないし、これから働く場所についても知らされていないのだ。
ぶっつけ本番はあまりにも心臓に悪い。
咲に与えられた職場は書類が煩雑している大部屋だった。壁に沿ってずらっと長机が並んでおり、中央の大きな空間には書類を仕舞う大棚がある。
女性は咲1人しか見当たらず完全な男社会。新入りを快く思っていない彼らの視線は厳しく、咲は心の中で乾いた笑いを零した。
「ここは礼部、客人を持て成したり式典や祭祀の準備をする場所だ」
説明を始めるのは、先ほど咲を紹介した灰色の髪の強面の男。
「れーぶ?」
「礼、部。
俺はここの長官。礼部の長のことを礼司という」
顔といい雰囲気といい、威圧感が強い。
普段ならば隣に居るだけで縮み上がってしまうだろうが、今は覚えるのに必死で逆に肝が据わっていた。半ばヤケクソ状態だ。
「礼司さんと呼べばいいですか?」
「敬称は必要ない。名前じゃなくて役職名だ」
課長とか係長のようなものか、と咲は納得する。
2人は廊下に出て歩きながら礼部の職場を見て回った。大きな廊下に先ほどの大部屋と同じ広さの部屋がずらりと並び、中の様子も似たり寄ったり。
「この辺りは全て礼部に当たる。
礼部の中の部署は諸侯との連絡を担当する“三足”、式典の準備進行を担当する“祝相”、祭祀の準備進行を担当する“神官”に分けられている」
「それは役職名ですか?部署名?」
「部署の名に当たる。
各部署の長の名前は部署名の後に“長”がつく。つまり各部署の長官は、三足長、祝相長、神官長だ」
「はあ」
説明された部分は理解できても分からないことが多すぎて上手く整理できない。
男はちらりと咲を横目で見て、小さくため息を吐いた。
「本来ならば召し上げられる前に学ぶのだがな」
「突然だったものですから」
何せ異世界トリップしてすぐの就職。世界そのものを知らないので学ぶどころの話ではない。
2人が最後に辿りついたのは、甲冑を着た男性らが警備している大きな扉の前。中へ入れば飾り物や布が詰め込んであり、倉庫だとすぐに見当がついた。
少し埃っぽくて咲たちは歩みを止める。
「ここは式典や祭祀に使う道具の倉庫。今日はここの掃除をしてもらう。
後は仕事をしながら少しづつ学びなさい」
「・・・はい」
物がぎゅうぎゅうに押し込められていて奥の壁まで見えない。
これは大変な仕事になりそうだと、咲は大きく息を吐いて箒を握っている手に力を込めた。
夜が深まる時刻。
咲は玉闇の部屋で完全に伸びていた。だらーっと手足を投げ出し、椅子の上で器用に寝転がっている。
「情けないね、たった半日働いただけで」
クスリと笑みを浮かべて寝台に腰かけるのは、昼間よりも簡素な服に着替えた玉闇。生地もより薄く身体の曲線を惜しみなく披露していた。
手にはいつもの煙管、そしてもう片方の手には巻物を持ち、紐をくるくると解きながら膝の上に広げる。
咲は首だけを動かして恨めしく玉闇を見た。
「肉体労働だったんですよ。埃だらけの倉庫の掃除、ほんと大変で・・・・。
しかもいきなり異世界でスパイまがいのことをさせられるなんて」
はあ、とこれ以上の恨み事を言う代わりにため息を吐く咲。
玉闇は面白そうに喉を鳴らすばかり。
「人手が足りなかったのでねえ。ちょうどよかったよ。
お前は賢そうだし、使えるものは使う主義なんだ」
「貴女は一体何者ですか、冥昌さん」
玉闇は巻物から視線を外し、煙を吐いて首を僅かに傾げながら答える。
「企業秘密さ。
心配しなくても最初に約束した通り、お前の友人は私が保護するし日本に帰る方法も私が探してやる」
それは働く対価として十分な報酬。ただ何も知らず言われるがままに働けば目的は達成できる。
しかし逆に、無知の自分に圧倒的有利な話を持ちかけた玉闇が信用ならないのも事実。おいしい話しには裏があるのが常だ。
咲は頬を小さく膨らませ、訝しげな視線で玉闇を見遣った。
「イマイチ信用できないんですよねえ。
冥昌さん、見た目が悪役キャラですもん。なんか利用されてそう」
「賢い娘よ」
「やっぱり私を騙してるんだっ・・・!」
文句を垂らしながらも先に逆らう気はさらさらない。異世界で自分を拾い、助けてくれたのもまた玉闇なのだから。
働かざる者食うべからず。日々の糧を得、知識を得るのに働かなければならないのは当然なのだ。
どのような形で利用されようとも、少しづつ学びその後で自分で判断すればいい。咲はそう考えていた。
「そんなに嘘はついていない」
「ちょっとはついてるってことですね」
「私はひねくれ者だからね」
そう簡単に教えてはやらないよ、と玉闇は続ける。
「咲、こちらへ来なさい」
咲は疲れて重たい身体を起こし、手招きされるままに玉闇の隣に座った。
少し動けばお互いの衣服が擦れるほど近い。
「なんですか?」
「これを御覧」
玉闇の視線の先にあるのは、先ほどから眺めていた巻物。書かれている字は咲にとって読めないものだったが、樹形図のラインで組織表だと理解できた。
「一番上にあるのが国王」
白く細い指がすっと頂点にある文字を指差す。
「国王が全ての頂点に立つ。そしてその下に三公と呼ばれる3人の部下」
王の下に伸びた線が3つの名前と繋がっていた。
「王の補佐の丞相、軍の頂点に立つ太尉、そして御史台の長官である御史大夫。この三者が国王の次に権力を持つ者たちだ」
「あの・・・書くものを持ってきていいですか」
「お持ちなさい」
咲は自分のリュックからメモ帳とペンを取り出して言われたことを書き出す。漢字はわからないので主に使用するのは平仮名。
「咲、その奇妙な持ち物、他の者に見られてはならぬよ」
「わかりました。確かに見られたら異世界人だってバレますよね」
ボールペンなんて筆と墨を使っているこちらの世界の人から見たらびっくり魔法道具だ。玉闇の指摘通り、間違いなく大騒ぎになる。
「荷物は私の部屋に置くといい」
「はい。ぎょしだいふ・・・っと」
習ったことを書き終えたところで、再び玉闇は樹形図の説明に戻った。
次に指差したのは、丞相から下に伸びる6本の線。
「丞相の下は六部という機関が設置されている。
咲が働いている礼部、警備や土木建築を管轄する衛部、書記や資料の管理は典部、財政を担うのが財部、法の制定や審判を行うのが法部、税金の徴収・管理と農業に関する仕事をするのは税部」
普通ならばこの辺りで根を上げる者が多いが、咲は何度も口にしながら字を辿って必死に頭に入れていく。
「礼、衛、典、財、法、税・・・・ですね」
「そうだ。
六部の長はそれぞれ名がある。礼部の長は礼司と言う」
「あ、それご本人から直接聞きました」
「おっかない男だっただろう?」
「ああ・・・まあ、ははは」
混乱していたのに加えて必死だったのであまり記憶にないが、彼の怖い雰囲気を思い出して苦笑いを零す咲。
礼司の話題で思いだした咲は「あ!」と大きな声を出して玉闇に詰め寄った。
「そうだ、冥昌さん!
葵杏ってなんですか!」
「何って、お前につけた名に決まっているだろう」
玉闇は何でもないように言うが、咲は自分の偽名を知った時の衝撃を一生懸命に訴える。
「そういうことは先に言ってくださいよ。本当バレないかヒヤヒヤしました。
異世界でに来ていきなり潜入捜査だなんて無茶ぶりです。冷や汗ハンパなかったですもん」
「雑用くらいでバレやしないさ」
悪びれる様子のない玉闇。
咲はこれからもこの女性に振り回されるかと思うとぐったりした。
「そもそも私何を調べればいいかも聞いてないんですけど」
玉闇は無言で咲の顔を覗き込み、肩を掴んで押し倒す。
覆いかぶさってきた玉闇に咲の表情が固まる。一体これは何事か、と。
少し動けば唇が触れそうなほどの距離。目と目が合えば気まずさに咲は視線を泳がせた。
「あの・・・顔近いです、冥昌さん」
「夜の経験はあるかい?」
「はい!?」
とんでもない質問に軽くパニックになる咲。
何度頭の中で反芻しても、玉闇の言葉は紛れもなく処女かどうかを問う質問。押し倒されている状況も相まって、素直に答えるのが怖い。
「そ、それって言わなきゃいけないんですか?」
「もうよい。反応を見ればわかったさ」
玉闇は上半身を起こし、まるで何事もなかったかのように煙管を吸い始めた。
咲はまだベットに寝転がったまま目をパチクリさせている。
「た、食べられるかと思った」
「女と寝る趣味はない」
「私だってありません!」
咲は勢いよく立ちあがって拳を握りながら、玉闇の意味不明な行動を抗議した。
「もう何するんですか!吃驚しました!」
「ちょっと確かめただけじゃないか。大きな声を出すでないよ」
捜査の一環として男女の仲を利用することもある。ただ玉闇は咲にそれができるかどうか確かめたかっただけであった。
咲を送り込んだのは礼部。地上でそれぞれの州を管轄している諸侯との連絡を取っている場所。つまり、唯一の地上との行き来が盛んな部署だ。もし石板を盗んだ犯人の中に地の民がいるならば、礼部の人間が関わっている可能性が高い。
しかし事件が起こる際に必ずと言っていいほど金の動きに変化があるため財部に、そして官吏の不正を調査している御史台にも人手が欲しい。
使える人間は、重要な所へ。咲の能力次第では別の場所へ送り込むこともできるだろうと、玉闇は頭の中で目論んでいた。
残念なことに、咲は男女の仲を利用できるほどの経験はないようだが。
「咲、心配など必要ないよ。私は約束は守る。
万が一日本に帰る術が無くなっても、私が生活の面倒くらい見てやるさ」
温かい言葉に咲は胸の奥がじーんとなった。いきなりの労働に気を張って強がっていたものの、本当はずっと不安だったのだ。
突飛なことを言い出す女性だが、咲にとっては命の恩人。感謝してもしきれない。
咲は瞳をうるうると揺らしながら深い闇色の瞳を見つめる。
「冥昌さん、ありがとうございます。
私仕事がんばります」
「ああ。ただしくれぐれも異世界人だとバレるでないよ。
万が一、命が狙われるやもしれん」
「・・・は・・・・はい」
真っ青になった咲の顔を見て妖しくクスリと笑う玉闇。
「勉強の続きは明日にして、今日はもうおやすみ。天上の朝は早いよ」
月が一番高くなる頃、玉闇の部屋の明かりは静かに消えた。