(2)
咲はいつも通りに仕事をしているつもりだったが、何度も同僚に心配されるほど酷い顔をしている。それだけ、玉闇に言われたことはあまりにも心に突き刺さった。
見知らぬ世界で独りだった自分に居場所と安心を与えてくれた玉闇。女性としても尊敬していた彼女が、わざと自分を傷つけるなんて今でも信じられない。
笛や高級な衣を与えてくれた優しい玉闇は幻想だったのだろうか。
感謝してもしきれないほどの恩と、傷つけられたことへの怒り。尊敬と疑念。咲の心は混沌としている。
「上手くいかなかったのか?」
「琥轍・・・」
書類整理をしている後ろから声をかけてきたのは琥轍だ。彼とまともに言葉を交わすのは本当に久しく、咲はなんでもないように振る舞ったが少し声色が緊張している。
「なんのこと?」
「難しい顔してるから接待でしくじったのかと」
「まさか。峯州大守はいい方だし・・・それに・・・」
ずっと会いたかった幸子と歩乃花に出会えた。咲は友人2人の顔を思い浮かべ、続きの言葉を飲み込む。
琥轍はボリボリと控えめに頭を掻きながら眉尻を少し下げた。
「そっか。いや、楽士がサボったって聞いたから、やっぱりお前に仕事押し付けたのはまずかったのかなーと思ってたんだ。すげー顔色悪いし」
「楽士は運よく代理が見つかったわ。別に何も問題ないわよ」
何故代理の楽士が幸子らだったのかは未だに謎だが、四帝が王宮に居ることもバレてはいないし、今のところは何も問題ない。
くるりと再び背を向けて歩き出そうとした咲の肩を、がっちりとした男性の大きな手が掴む。
「何よ」
「葵杏、お前やっぱ顔色悪い。もともと俺の仕事だから手伝うよ」
「私は元気だし、手伝っていただかなくて結構です」
丁重にお断りしたつもりだったが少し嫌味っぽく聞こえたかもしれない。賓客がワケ有りなので接待に関しては本当に誰の手も借りるわけにはいかないのだ。もし幸子や炎岳の存在が知られたら大変なことになる。
ここは穏便に済ませようと咲は口を開きかけたが、琥轍の方が僅かに早かった。
「そんなに俺と仕事するのが嫌だってか?ん?」
ずいっと身を乗り出した彼に、咲はぐっと奥歯を食いしばる。あれだけ大きな声であり得ないだの嫌だの騒ぎまくった手前では、上手くはぐらかすのも難しい。
「あれは・・・言葉の文っていうか。いろいろ精神的に追い詰められてたから、ついカッとなって・・・。
その件については謝るわ。本当にごめんなさい」
「じゃなくて」
ドンッと控えめに壁に抑えつけられた咲は困惑した瞳で琥轍を見上げる。彼の表情を見た限りでは怒っているわけではなさそうだが、納得するまではそう簡単に解放してくれないようだ。
「葵杏、氏州から帰って来た辺りからずっと俺のこと避けてるだろ」
「えっ・・・」
「最初は怪我の所為かと思ったが、治ってもずっと顔色良くねえし。前よりずっと笑わなくなったて思いつめた顔してるし。
絶対何かあったんだろ、答えろ」
まさに有無を言わさぬ口調で問われた咲は困り果てた。まさか貴方に恋しました、だなんて口が裂けても言えない。
日本に帰ると決めたからには、特に。
「お、女には色々超えなきゃいけないものがあんのよ」
「真面目に答えろ」
「真面目よ、大真面目よ」
「どこがだ!」
触れてほしくない話題もある、そう遠まわしに言ってみたものの琥轍は納得してくれない。咲は他の言い訳を考えているうちにだんだん苛々してきた。
どうしていちいち仕事の同僚に自分の心情を告白しなければならないのか。そもそも教える義務などないし、プライバシーの侵害甚だしい。
そうだ、間違っているのは明らかに琥轍の方だ。いくら先輩だからといっても全て相談しなければならないなんて可笑しい。何で悩み、何で苦しもうが自分の勝手じゃないか。
突然目が据わった咲の口に遠慮という文字はなかった。
「言いたくないっていってんの!少しは女心ってもんを理解しなさいよ、デカブツ!」
「で、でかぶ・・・」
うら若い乙女にあるまじき言葉が咲の口から飛び出して、彼は片頬を引きつらせる。
「私だって悩みの一つや二つくらいあるわよ!察しなさいよ!」
「俺はただ心配して・・・!」
「琥轍には関係ないでしょ!ほっといて!」
「関係ないって言い方はないだろ!」
気の強い琥轍も負けじと言い返す。どちらも譲らない雰囲気に、2人の言い合いはどんどんエスカレートしていった。
「だって関係ないじゃない!私がどこで何しようが何を思おうが勝手でしょ!」
「じゃあなんで俺を避けるんだよ!明らかに関係あるじゃねえか!」
「・・・っ!!ないったらない!!」
「あるったらある!」
「ない!!」
「ある!!」
両者とも目を吊り上げたまま肩で息をする。
終わりの見えない言い合いに決定打を放ったのは咲の一言だった。
「本当に関係ないの!もう私に関わらないで!」
「・・・んだと?」
ゆらり、と揺れる琥轍の瞳に、咲は思わず背筋を強張らせる。さすがに言いすぎだっただろうかと反省するも時は既に遅し。
彼は咲の肩を掴んでいた手にさらに力を込めると、今まで聞いたこともないほどの低い声を出す。
「関わるな?」
「う・・・いや・・その・・・」
「悪いがそれは却下だ!
お前、なんなんだよ一体!すぐ事件に巻き込まれるほど無防備なのに、不審な態度ばかりで全然正体が掴めねえ!幽霊か!?ああ!?」
まるでカツアゲするチンピラの如く怒鳴る琥轍にひーっと悲鳴を上げる咲。今第三者が見たら迷わず琥轍を悪者だと思うだろう。
「答えろよ、お前の名前を!!」
「え?名前って・・・葵杏に決まってるじゃない・・・」
「嘘をつくな!本当の名前を答えろって言ってるんだ!!」
咲の青白い顔から更に血の気が引いた。何故琥轍は葵杏の名が偽名であることを知っているのだろうか。
彼女なりにこの世界に馴染んで、この世界の一員として働いてきたつもりだ。無知であったため怪しまれることはあっても、偽名がバレるような覚えはない。
「うそっ・・・なんで知ってるの・・・?」
「俺が御史台の人間だからだ」
「御史台って・・・琥轍は三足でしょ?今まで一緒に礼部で働いてたじゃない」
御史台は官吏の不正を監視する機関。三足に在籍している琥轍が御史台に居るはずがないと咲は首を何度も横に振る。
「官吏の不正を調べる人間は間近に居るもんなんだよ。三足はただの隠れ蓑だ。地上と行き来する機会が多い分、不正も働きやすいからな。
俺は長官の命令でずっとお前のことを監視してた。戸籍もない、地上で生きた形跡も全くない。なのに、なぜか陛下がお前の存在を黙認している」
咲は上手く言葉が出てこなかった。代わりに頭の中に響くのは、“監視”という言葉。
「事件に巻き込まれるわ、怪我するわ、怪しすぎるんだよ。なのに警戒心は全くないし、何かの不正を働いている様子もない」
「じゃあ、琥轍が一緒に居てくれたのは私を監視するためだったんだ」
「いや、全部が全部そうってわけでもないけど・・・、目を離すなって長官の命令だったからな」
「私・・・馬鹿みたい」
咲は唐突に理解した。今まで琥轍が優しくしてくれた意味とその動機、それは正体不明だった自分を探るためであったことを。
勝手に優しさを勘違いして、好きになって、悩みに悩んで。いちいち彼の言動に惑わされた自分が馬鹿みたいだ。
「ほんと・・・馬鹿みたいっ!」
大きな声に驚いた琥轍は目を丸くして口を閉ざす。彼は怒っているわけではなく、ただ真実を知りたくて、咲に秘密を話しただけなのだ。
しかし咲は琥轍が御史台であった事実に傷つき、瞳を涙でいっぱいにしている。その理由を琥轍は理解できない。
彼は小さくため息を吐いて、今にも涙がこぼれ落ちそうな咲の目から視線を反らした。
「言っておくけど、泣き落としは効かないからな」
「あんたどんだけ無神経なのよ!!」
「え・・・」
「琥轍の馬鹿!!」
「えっ・・・!?ちょっと、葵杏!?」
だーっと外に向かって一目散に走り出した咲に慌てて後を追う琥轍。同僚たちの好奇の目に晒されながらも咲の足が止まる様子はない。
「待てコラ、葵杏!」
ぼろぼろと涙を流しながら走っている彼女は、後ろを振り返って怒鳴る。
「追ってこないでよ!!」
「だったら止まれ!!」
「絶対嫌!!」
咲が向かっている方角には後宮がある。内庭はその手前で行き止まりになっているため、琥轍はこのままならば追い込めると思っていた矢先。
何の前触れもなく急に咲の足が止まり、琥轍は勢い余って彼女の背中に軽くぶつかった。しかし尚も完全に固まったままの咲に不信感を覚え、彼女の視線の先を見遣れば―――――
「・・・・っ」
思わず出かかった声を押し留めて目を見開く。
2人が目撃したのは、まるで喰らい尽くすかのように激しい官能的な口づけ。
ただし普通の恋人の逢瀬ではない。その人物に大きな問題があるのだ。
女に覆いかぶさるようにして積極的に口付けているのは、自分の直属の上司である御史大夫だ。そして彼の情熱的な行為を受け止めているのは、国王の妾である女。
御史大夫である瀧蓮は、誰よりも清廉潔白な男であった。しかし自らが官吏の不正を暴く立場でありながら、この世で最も手を出してはならない人物に手を出している。
驚愕のあまり全身が震えるほどに、琥轍はこの状況を飲み込むことができない。それほどにこの光景はあり得ないものだった。
玉闇の素性を探るため―――――。琥轍はそんな言い訳を心の中に思い浮かべたが、すぐに自分自身で首を横に振る。
いくら調査のためといえど、国王の所有物に手を出すなど御法度だ。瀧蓮は仕事に関して一切の妥協を許さないが、規則を破るような真似は決してしなかった。
「長官・・・」
咲と琥轍の存在に気がついた瀧蓮は、すぐに玉闇から離れて2人から視線を反らし、無言で背を向ける。
玉闇はおやおやとおっとりした口調で余裕そうに呟き、頭が真っ白になっている咲を見て微笑んだ。
「長官、何故・・・っ!」
一歩前へ出て問い詰める琥轍だが、瀧蓮からの返事はない。代わりに玉闇が琥轍に視線を移して口を開く。
「何か用かい?」
「貴女は!どうしてそう平然としていられるんだ!自分が何をしたかわかっているのか!?」
自分に口付けて、国王の息子にまで手を出し、他人に見られようと訴えられようと焦っている様子は皆無。
その手癖の悪さが許されているのは、尚泉も瀧蓮も女に入れ込んでしまっているから。
「なんでこんな女を・・・!陛下も、長官も、目を覚ましてください!」
尊敬する2人にはとても相応しくない。
怒りを覚えた琥轍はそう叫んだが、まるで何事もなかったかのように瀧蓮は踵を返して歩き出す。
彼が初めて声を放ったのは、咲や琥轍とのすれ違いざまだった。
「今見たものは忘れろ」
言い残したのは、たったそれだけ。
言い訳するでもなく、同情を引くでもなく、ただ忘れろ、と。
その潔い態度と言葉に、本気なのだと悟る。
本人が認めてしまった以上琥轍は他にかける言葉を失って黙り込んだ。
ただ、未だに放心状態でいる咲の肩にそっと手を置き、強く歯を食いしばった。




