(6)
那刹が宿を訪れた翌日、重体で意識不明だった伽季が目を覚ました。彼の友人である浪槙も安堵のあまり涙笑いをし、歩乃花も今までの苦労を全部忘れるほどに喜ぶ。
伽季はすぐに回復して自宅へ帰って行った。
そして今、何故か歩乃花は那刹の牛車の中に居る。しかも那刹の膝の間に座らされる格好で。
背中に感じる逞しい男性の身体に、歩乃花の心臓はうるさい。
「あ、あの・・・」
「はい」
にっこりと笑う那刹の顔は見えない。しかしその声色から微笑んでいるんだろうなと歩乃花は思った。
「何の御用ですか?
私買い物の途中だったんですけど」
八百屋で野菜を吟味してた歩乃花を手際良く浚った那刹。目撃した浪槙は唖然としてあんぐりと口を開けていた。
耳元にクスリと笑い声が聞こえて、歩乃花は身体を小さくする。
「もちろんこの間の件で貴女に会いに来たのですよ」
「李賛さんと話さなくていいんですか?」
「そんなこと、後で構いません」
国の存亡に関わるかもしれない大事な話をそんなこと呼ばわりされ、彼女は頬の筋肉を引きつらせた。
後ろから腰に回された腕に若干貞操の危機を覚えながらも、うるさい心臓を落ちつかせて那刹の話を聞こうとする歩乃花。
「玉闇さんには会えましたか?」
「ええ、直接ではありませんが粗方の情報はいただきましたよ。
それで蘭花さんにこれをお持ちしたのです」
スッと袖から取り出された長方形の封筒。この世界では見慣れない形に首を捻りながらも、歩乃花はそれを受け取って慎重に中を開く。
「あ・・・・」
ひと目見た瞬間に思わず声が漏れた。懐かしい見慣れた文字がそこにあったからだ。
“歩乃花へ 元気ですか?”
そんなありきたりな出出しで始まる手紙の最後には、この世界へ来る前に一緒に居た友の名前がある。
彼女は天上にある王宮に落っこちて、今は政務の雑用をしていると書いてあった。
「よかった・・・無事だったんだ」
文面から元気でやっているのが良く分かり、歩乃花は笑顔でほっと息をつく。
「ほう、読めませんね」
「あっ」
しまった、と急いで手紙を隠したがもう遅い。異世界の文字を後ろから覗き込んでいた那刹に見られてしまった。
歩乃花はなんと説明したらよいか分からず困惑したが、那刹が「大丈夫ですよ」と柔らかい口調で話し始める。
「情報屋から聞きました、心配要りません。
私は貴女の味方ですよ、蘭花さん」
「・・・ありがとうございます」
安心した歩乃花はもう一度手紙を読んで感傷に浸った。日本の文字を読むと向こうの世界が恋しくなってくる。
きっと急に居なくなって家族も友達も心配してるだろう。警察沙汰になって、神隠しだなんだと騒がれているかもしれない。
ニュースにでもなっていたら、帰った途端にマスコミに囲まれる生活が始まる。
歩乃花には日本の人達に異世界に行った出来事を正確に伝え、信じてもらう自信がなかった。嘘つき呼ばわりされて後ろ指を差される可能性だってある。頭がおかしくなったと思われるかもしれない。
それでもやっぱり、帰りたい。信じらもらえなくても、日本が恋しい。
「大丈夫ですよ、泣かないで」
「すみません・・・」
ぽろぽろ零れる歩乃花の涙を拭うのは白く長い指。
その手つきは少々厭らしかったものの、今の彼女に下心など気付く余裕はない。
「蘭花さんのお友達は天上に居るそうですね」
「はい、そうみたいですね」
あんなに高い岩山の上で生活していると思うと不思議な気分になる。
歩乃花は何度も手紙を読み返しながら送り主の今の生活を想った。彼女は今寂しい思いをしていないだろうか、と。
「よろしければ一緒に王宮に上がりませんか?」
「はい・・・・・はい?」
今なんて言った?と歩乃花は目を丸くして後ろを振り向く。さらっと言われたが那刹は今とんでもないことを口走ったような気がした。
那刹は相変わらずの艶めいた笑みを浮かべて彼女に顔を近づける。
「知り合いにちょっとしたアテがあるんです。彼に頼んで一度お友達に会いにいきませんか?」
地の民にとって天上は手の届かない聖域。普通は非現実的な話に思われるが、四帝である那刹にならば不可能ではなさそうだ。
「・・・いいんですか?連れて行っていただいても」
「はい、ただし身分を偽る形になりますが」
「構わないです。会いに行きたいです」
正直な歩乃花に那刹は笑顔で彼女の頭を優しく撫でる。そして髪をひと房手に取ると、水音を立てて口づけをした。
真っ赤になった歩乃花に、那刹は満足げに微笑んで囁く。
「お安い御用ですよ、貴女のためなら・・・ね」
コポコポと音を立てながら満たされる杯。
ゆらゆらと松明の明かりが揺れる中、那刹は杯に映った自分の顔を見て目を細めた。
しわくちゃな老人の手がもう一つの杯を持ち上げる。
夜の静寂に包まれた部屋に2人きり。彼らは向かい合って座りながら酒を楽しんだ。
深刻な話をするために設けられた席だったが、酒盛りの延長線で緊張感なく話は進む。
「・・・やはり情報屋が動いておったか」
「そのようですね」
クスリと那刹の笑う声。
彼は一気に杯を煽ると空になったそれに新たな酒を継ぎ足す。
「いずれにせよ、事は天上で起こっているようです。
彼女にとって管轄外でしょう。もちろん、我々も」
闇の四帝とはあくまで裏社会で権力を持つ者達。それは天上の官吏たちのような公の権力ではない。
闇はあくまで闇として生きるべきだということは四帝とも同じ考えである。
しかし国の有事に黙って見ているだけは性に合わない。
そして那刹は裏商売人。自分に黙って品を手にした者は全て消すのが那刹の流儀だ。異世界から武器を持ち込んだ犯人を始末するために、おのずと自ら事件に関わらなければならなかった。
「私は一度天上に行って何が起こっているのか調べてきます。
もしかしたら情報屋も既に手を出しているかもしれませんね。・・・いや、事件が起こる以前から彼女の手が伸びていたかもしれません。
情報屋は賢くて引き際を心得ている分、性質が悪い」
「ああ、・・・そうかもしれん」
李賛は軽い口調で言いながら手元の酒を飲み干して卓上に置いた。
「蘭花さんも一緒に連れていくつもりです。彼女の友人が天上に居るらしいのでね」
「いいでしょう、ただし無体は働かぬよう」
「過保護ですねえ」
クスクスと楽しげに笑う那刹だが、彼の目は笑っていなかった。
「そんなに心配ならば、貴方も一緒にいかがですか?李賛」
「いやいや、老いぼれは地上で大人しくしていよう」
「しかし噂では貴方の教え子が関わっているとか・・・」
その瞬間李賛の目が細まり、目付きが急に厳しくなる。
大人の夜の晩餐はピリッとした雰囲気に変わったが、那刹は余裕そうな表情を変えずに両肘をついて顔を乗せた。
李賛は首を小さく横に振る。
「教師は教え子を信じるものだ」
「しかし若者に喝を入れるのは年長者の役目でしょう」
「ふむ、物は言い様というわけか」
「ええ。
教え子を信じる信じないは貴方の自由です。ただ貴方が天上へ行く理由があると言っているのですよ」
どうです?、と尚も誘ってくる那刹。
しばらく無言で考え込んでいた李賛だが、やがて顔を上げるとゆっくり首を横に振る。
「まだ年寄りの出る幕だと決まったわけではない。
もう少し様子を見させてもらおう」
「いいでしょう」
那刹はクスリと笑うと空になっていた李賛の杯を満たした。
闇が深まり静まり返った住宅街。
荷物を牛車に運び終えた歩乃花は、最後に後ろを振り返って李賛に頭を下げる。
「では、行ってきます」
「ああ、気をつけていっておいで。
蘭花さんの御友人によろしく伝えてほしい」
「はい」
名残惜しげに何度も振り返る歩乃花。先に乗り込んだ那刹に手を取られ、牛車に入っても視線は李賛に向けられたまま。
最期のお別れでもないのに後ろ髪を引かれる感覚に陥る。
「妬けますね、そんなに李賛を気にするなど」
「へ?」
動き出した牛車の中、突然妙なことを言い出した那刹に歩乃花は間抜けな声を出した。彼はいつものようにクスリと笑い、そっと歩乃花の手を取る。
「天上へ行く上で我々は格下の人間です。上ではあまり良い暮らしをさせて差し上げられませんが、どうぞお許しください」
「いいえそんな・・・!連れて行っていただくのに良い暮らしだなんて!」
贅沢は望んでいないと何度も首を横に振る歩乃花だが、那刹は一歩も譲らない。
「若いお嬢さんを預かるのですから、できる限りの贅沢を用意するのは当然です」
「そ、そうですか・・・」
そこで歩乃花は那刹が富豪であることを思い出し、お金持ちの感覚は良く分からないなあと思いながら頷く。
那刹は握っている手を撫でながら顔を近づけた。
「それからもう一つお詫びしなければならないことが」
「はい、なんですか?」
「私たちは大守の付き人として天上へ行きます。嫌かもしれませんが、大守の部下として振る舞っていただかなければならない」
「それくらい平気です。でも・・・大丈夫なんですか?」
もちろん那刹も歩乃花も大守の付き人などではない。身分を偽ることに若干の罪悪感を覚える彼女は不安げに那刹を見上げた。
那刹は笑みを深くして頷く。
「大丈夫ですよ。
官吏は賢いが頭の固い方が多い。バレなければ問題ありません。
例えバレてしまったとしても陛下は情に厚い方、異世界の人間である貴女を罰したりはしないでしょう」
「私は大丈夫でも・・・那刹さんは?」
「私を罰する勇気のある官吏が居るならばお目にかかりたいものですね」
それはそれは綺麗な笑みだったが、何やら背後に黒いものが漂っている。
結局のところ、バレても何ら問題ないと踏んでの作戦らしい。
実際に今まで聞いた話で四帝が凄い人達だと歩乃花は知っていたので、例えバレても那刹が罰せられる確率は低いだろうなと思った。
「いっそのことバラしてしまえば皆さん驚くでしょうね。
まさか四帝が天上に居るなどと誰が想像できましょう」
官吏の間抜け面を見るのも悪くありませんね、と恐ろしいことをのたまう那刹に彼を慌てて宥める歩乃花。
「止めましょう、できるだけ穏便に・・・。平和が一番です」
「実に貴女らしい考えですね。
そんなところが私は好きですよ」
「ありがとうございます」
普通の女性なら顔を真っ赤にするだろうが、歩乃花は気にも留めずあっさりとお礼を言う。
彼女の手強さを前にした那刹は、眉を一瞬上に上げて彼女の顔を見つめた。
「私は手に入らないものが余計欲しくなる性質でしてね」
「はあ」
急に全く違う話を始めた彼に歩乃花は首を傾げながら耳を傾ける。
「そろそろ伴侶が欲しいと思っていたところなんですよ」
「お嫁さんを捜すんですか?」
「いいえ、後は口説き落とすだけでして。
しかしその女性は少々鈍くて私の気持ちに気付いてくださらないのです」
「そうなんですか。大変ですね。
でもきっと大丈夫ですよ、那刹さん素敵ですから」
にこにこと人畜無害な笑みを浮かべる歩乃花。
ここまで鈍い女性は珍しいなと那刹は思いながら、歩乃花と同じ良い笑顔を彼女に向けた。




