(1)
歩乃花は玉闇に貰った地図を見ながら、氏州の塞笙という土地にある宿屋を探していた。
しかし大きな大門をくぐって氏州へ入った途端に広まる静寂。花街の賑わいが嘘だったかのように人通りも少なく、店や建物も小さい。
その代わりに整然と並んでいるのは民家で、どうやらこの辺りは住宅街であるようだ。
「ドーナツ化現象的な?」
ここは都会の周りにできるベットタウンに当たるんだろうと納得する歩乃花。
ご飯を固めて作った煎餅のような食べ物を齧りつつ、目的地である宿屋を探す。こちらの世界の字は読めないので、塞笙に着いてからは人に訊ねて教えてもらうしかない。
「すみません、李賛という方がいる宿屋を探してるんですけど」
「ん?李賛じい?」
話しかけた若い男はずいぶん親しげに李賛の名前を呼んだ。歩乃花は期待を込めてうんうんと何度も頷く。
「ここもう少し先行ったところにあるよ。
連れてってやるからついてきな」
「ありがとうございます!」
親切な人でよかった、と心の中で歓喜する歩乃花。
早足で歩きはじめる男性の後を一生懸命追いながら、彼女は物珍しさに辺りをきょろきょろと見回した。
最初にこの世界に来て思ったのは、まず日本じゃないだろうということ。
一瞬平安時代にでもタイムストリップしたのかと考えたが、少し服のテイストが違う。袖を通して左右から閉じる部分は同じだが、襟や袖の部分の紋様が中国寄りだったからだ。
“日本”は知らないのに言葉は通じるものだから初めはかなり混乱した。異世界だとぼんやり気がついたのは、牢屋の中に入った後。
「お嬢ちゃん、どこから来たんだい?」
愛想良く尋ねられて、歩乃花は一生懸命に頭を働かせながら答える。
「えっとですね、隣の功州です」
「へえ。こっちは静かだろ?」
「はい、とっても。
人が少ないのでちょっと不安になりました。功州は賑やかでしたから」
上手く答えられるか不安だったが、思った以上に言葉がすらすらと勝手に出て来た。まともに会話をするのは玉闇以来でほっとする。
「なんでまた李賛じいの所に?」
「仕事を探していて紹介していただいたんですよ。
塞笙の宿で下働きとして働けるって聞いて」
はあ?と男は目を丸くした。
「下働きなんて募集してなかったと思うぞ?
人雇うような大きさの宿屋じゃないし、宿屋と言ってもほとんど客来ないような所なのに」
「ええ!?」
今度目を丸くするのは歩乃花の方だった。
彼女は一から十まで玉闇のことを信用していたが、だんだん不安になってくる。
「一体誰から聞いたんだ、そんな話」
「功州の・・・玉闇さんって方・・・から・・・」
玉闇の名前を聞いた途端に目を鋭くさせる男。歩乃花は怖くなって語尾を小さくしながら一歩後ろに後ずさった。
言ってはいけない言葉だっただろうかと、視線を彷徨わせながら男の言葉を待つ。
「お前、あの女の回し者か」
「回し?」
「ちょっと来いっ!」
明らかに穏やかな雰囲気じゃない。
後の襟を掴まれて路地裏に連れて行かれそうになった彼女は、足に力を入れて必死にその場で踏み留まろうとした。しかし力の差は歴然であり、ずるずると引きずられる。
歩乃花の脳裏では走馬灯の如く嫌な想像が次々と過っていた。
「嫌っ・・!」
見ている人もいるはずなのに誰も助けてはくれない。
もう駄目だと思った瞬間、男の手がぴたりと止まる。
「何をしているのかな、浪槙。
お嬢さんが嫌がっているではないか」
浪槙と呼ばれた男は歩乃花を掴んでいた手を離し、驚いた顔で突如現れた老人を見た。
「李賛じい!」
「え?李賛さん?」
歩乃花は目を見開いてまじまじと見つめる。
たっぷりと白髭を蓄えたお爺さん。その風貌はアニメや絵画に出てくる仙人のようだ。
李賛は細い目で歩乃花を見ると、優しそうな顔つきで小さく頭を下げる。髭の所為で口元は見えないけれども、その口角は上を向いていたに違いないと彼女は思った。
「この者が手荒な真似をした。
代わりに謝らせていただこう、申し訳ない」
「い、いいえ・・・」
「李賛じい!こいつ情報屋の回し者なんだよ!」
男の訴えに李賛はふむ、と髭を触りながら歩乃花を観察する。
これ以上変な誤解をされたくない彼女は、慌てて間に入って説明を始めた。
「回し者じゃありません!本当に仕事を紹介してもらったんです!
氏州塞笙の李賛という方の宿屋で下働きできるって!」
しかし口頭だけでは信じてもらえないことを浪槙という男の件で分かっていた歩乃花は、懐から取り出した巻物を李賛の方に差し出した。
彼は皺だらけの手でそっと受け取り、ひとつ大きく頷く。
「訳有りのようだ」
なんとか分かってもらえたようだと、ほっと一息吐いて苦笑する歩乃花。
「はい、大訳有りなんです」
「李賛じい、信じるのかよ!」
男は納得行かず大きな声を出して食い下がる。
「あの娘がわざわざ人を寄こしてきたのだから、どちらにしろ無碍にはできまい」
さあ、ついておいで。
そう優しく促されて、歩乃花は歩調がゆっくりな李賛の後を追う。しかしどうしても男の方が気になって、後ろを振り返ってはちらちらと視線を遣りながら李賛に伺った。
「あの・・・大丈夫なんでしょうか」
「ああ、気にしなくて良い。
彼はちょっとばかり頭の固い人でね」
まるで孫の事を話すように愛おしげに言う李賛。言葉使いも表情も柔らかく温かで、一緒に居るだけで安心できるような老人だ。
少し道を歩くと、右に入って小さめの路地に出る。
「ここだよ」
「お邪魔します」
古い造りで普通の民家となんら変わりない建物。ただ正面の上に大きな文字の看板らしきものがあった。
浪槙という男が言っていた通り、条件の悪い立地からもあまり客は来ないだろう。
歩乃花は緊張しながらゆっくりと中へ入る。
一番最初に目についたのは、ちょっとした食卓に使うような台と大きな掛け軸。他に目ぼしい物はなく、奥に扉と階段があるのが見えた。
「さあ、座りなさい」
働くに当たって必要なのは面接だ。その前に色々と説明しなければならない事が山積みだが。
歩乃花は促された椅子に座り、こぽこぽとお湯を入れる音を聞きながら部屋の奥へ行った李賛を待つ。どこか懐かしい雰囲気の宿屋は、つんと鼻にくる薬草の匂いがした。
「大した物もないでしょう」
「あ、いえ・・・」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
出された湯気の立つ湯呑を両手で包みこめば、その温かさがじんわりと肌に染み入る。
李賛は袖に仕舞っていた巻物を取り出し、紐解いてゆっくりと開いた。カサカサと紙の音だけが妙に響く中、心配そうに李賛の表情を伺う歩乃花。
彼が視線を上げたところで、歩乃花はすぐに背筋を正す。
「よかろう、歩乃花さん。貴女はこちらで預かる」
「本当ですか!?」
ぱっと花を咲かせて笑う彼女に、李賛も目を細めて頷いた。
「情報屋の娘によると随分面妖な事件に巻き込まれているとか」
「事件?・・・・かどうかは分かりませんが、突然この世界に飛ばされて知り合いはいないし、違う世界から来たと言っても信じてもらえないし。
玉闇さんが初めて私のことを信じてくれたんです。それから帰る方法を探してくれるって」
「異世界から来たということは人に話さないほうがいい。
それから、情報屋の娘さんの名前も人前で出さないほうがよかろう。彼女はちと癖があってね、恨みを持つ人間も少なくない」
先ほど玉闇の名前を出してまさに嫌な目に合った後だ。学習した歩乃花は無闇に言うまいと頷く。
「宿屋と言ってもね、稀に昔の生徒が遊びに来るくらいで、ほとんど営業していないようなものなんだ」
「李賛さん、先生だったんですか?」
「ああ、もうこの年で辞めてしまったがね」
ほう、と歩乃花は笑顔で嬉しそうに李賛の話を聞く。彼の優しく温かい雰囲気から、きっと素晴らしい先生だったに違いないと思った。
「ところで歩乃花さん、この世界のことはどこまで御存知かな?」
「えーっと・・・、螺旋階段のある大きな岩山の上に王宮がある、くらいしか。
後は天上人と地の民がどうのこうのって玉闇さんが言ってたような・・・」
「その通り、天上に住まう天上人によって治められている。龍神の国と言うんだ」
龍?と呟く歩乃花。
もちろん向こうの世界でももちろん聞いたことはある。ただし、架空の存在として。
頭の中に浮かぶのは西洋風の翼を持つドラゴンと東洋風の細長い竜。
「国の東には海、西側一帯には深い森。
国の外には妖魔が居るから他国との交流は一切ないんだよ」
「妖魔・・・・って人が襲われたりするんですか?」
真っ青な顔をして身を乗り出す彼女に、李賛は笑って首を横に振った。
「襲うけれども心配はない。
先ほど言った通り、国は龍神によって守られている。よって妖魔は滅多に入ってこない」
「なるほど、それで神様・・・」
要するに国の守り神なのだと歩乃花は感心して首を縦に振る。
天上にある王宮を見て普通の世界ではないと感じていたため、彼女にとってはリアリティのない話でもすんなりと受け入れられた。その分、王宮を見た時はひっくり返りそうだったが。
「貴女の国とどの程度文化が違うか分からないが、少しづつ学ぶとよかろう。
帰る方法については情報屋の娘さん頼りに調べてもらうしかなさそうだからね。しばらくの間寂しいと思うが、ここでゆっくりと待っていなさい」
「李賛さん・・・」
「大変だっただろう?
だが、もう何も心配することはない」
その言葉のあまりの優しさに、歩乃花は泣きそうになりながら膝の上で拳を握った。
異世界に飛ばされるという不運に見舞われたが、玉闇や李賛と出会えたのは不幸中の幸いだ。
一番不安だった当面の生活にも見通しがついて、歩乃花は感謝してもしきれない。
「・・・ありがとうございます。
私、精一杯働きます。できることは少ないかもしれませんが、がんばります」
「うむ。若い娘さんには何の面白味もない場所だが・・・―――――ああそうだ。あれがあるんだった」
思い出したように言うと彼はゆっくり立ち上がり、戸棚の中から大きな木箱を取り出した。卓上に置くとさっそく蓋を取る李賛に、歩乃花も立ち上がって中を覗き込む。
中に入っているのは衣類。しかも、女物だ。
「今朝急に送られてきてね、差出人が不明だった上に若い女物の衣で何の為かと思ったが」
「もしかしてこれ・・・全部私のですか?」
「そのようだ」
「ええっ!?」
仰天する歩乃花。
女性用の衣だけでなく櫛や髪留めなど、生活に必要な最低限の物が入っていた。つまり正体不明の差出人は、ここに歩乃花が来ることを予測していた人物ということになる。
歩乃花に思い当たる人物は1人しかいない。
「もしかして、玉闇さん?」
「いや、あの娘はこういうことをするような人ではなかろう。
服の趣味も・・・ちと、違うようだ」
李賛の手によって持ち上げられた衣は、薄いピンクの可愛らしいもの。
歩乃花も玉闇の姿を思い出してみたが、確かに彼女が来ていた服の雰囲気とはかけ離れていた。
この世界で知り合いと呼べる人は玉闇意外いないので、これは赤の他人からの贈り物だということになる。
確かに生活に必要な物が揃ったこと自体は嬉しいのだが、送り主が分からない物を使うのは抵抗があった。
「これ・・・もらっていいんでしょうか・・・?」
「ああ、もちろん。他に使い道がないのだから、遠慮せずに使いなさい。
もし後で返せと言われても、知らぬ顔をすればよい」
ほっほっほと愛想の良い笑いをする李賛に、笑って頷く歩乃花。
「さあ、今日は歩き疲れただろう。
部屋に案内するから、ついてきなさい」
「はいっ」
歩乃花は木箱に蓋をして持ち上げると、二階に上って行く李賛の後を追った。