(5)
本宮から聞こえてくる喧騒が徐々に静まり始める時刻。空に浮かぶ太陽はその光を弱めて赤く輝き始める。
玉闇は扇で日差しを遮りながら内庭から見える景色を眺めていた。
飽きもせずに空を眺めて風情を感じられるのは日本人の性だろうか。だとしたらすいぶんと前世の自分に蝕ばまれているらしいと、彼女は薄く自嘲の笑みを漏らす。
さっと軽い足音が背後から聞こえてきて、ゆっくりと後ろを振り返る玉闇。
「・・・なんの御用ですか」
そこには何とも言えない表情で彼女を見る琥轍の姿が。玉闇の唇が妖しく弧を描き、その美麗さと底知れない色気に琥轍の背が粟立つ。
彼は心の中で、陛下が寵愛しているだけはあるなと思った。
「三足の仕事は終わったようだね」
「仕事が終わってから来いって呼び出したのは貴女でしょう」
扇を素早く閉じて歩み寄る玉闇に、琥轍は一瞬たじろいだが後退するのは失礼だと思ったのでその場に踏み留まる。
彼は無言の接近に戸惑い、自分から訊ねた。
「・・・何か?」
「天上に来て退屈していたところだ。ちょっと遊んでやろうかと思ってね」
「え?」
驚き瞬きしている間に玉闇の顔が間近に迫って、軽く唇を掠めた柔らかな“何か”。それが彼女の唇だと気付いた時、琥轍は顔を赤くして怒った。
これは完全な陛下への裏切りだ。
「―――――なんてことを!
貴女は不義を働いたのですよ!?」
玉闇は視界の端で咲が背を向けて走り去るのを見て嗤う。これから起こす咲の行動はきっと自分を楽しませてくれるだろう、と。
「不義だなんて、大げさだね。ちょっと唇が触れただけだよ」
落ちついている余裕そうな彼女に、琥轍も一息ついて声を静めた。
「他の男に手をつけておいて、ただで済むとお思いか。
この件は陛下に報告させていただく。お前は後宮を追いやられることになるだろう」
「あーっははははは!この私に喧嘩売ってるのかい!?」
真面目に怒っているというのに、彼女は焦るどころか面白可笑しそうにお腹を抱えて笑い出した。まさか笑われると思っていなかった琥轍は唖然として玉闇を睨む。
「何が可笑しいっ」
「全てさ、全てが可笑しくて仕方ないよ。私の掌の上で踊る人間の、滑稽な姿がね。
無様な姿を楽しむのはこの上ない暇つぶしになるだろう?」
掌の上で踊る人を眺めるのは玉闇の趣味。苦しみに歪むあの瞬間の表情が堪らない。
「・・・・貴女は最低な人間だ」
「どうとでもお言い。大した力もないくせに粋がるんじゃないよ。
私には負け犬の遠吠えにしか聞こえないね」
「――――っ」
彼女には何を言っても無駄だと悟り、琥轍は唇を噛んで踵を返した。
1人になった玉闇はふうっと息を吐くと、手すりに肘を預けて自分の部屋の方を向く。
彼女が今立っているのは、いつも瀧蓮が玉闇に会うためにやってくる場所。ここから眺める景色は少し物悲しい気がした。
「なんのつもりだ」
空気を震わせるような低く冷たい声が聞こえ、後ろに居る人物に気付いた玉闇は目を少し大きくして振り返る。
彼女を見つめているのは、燃え盛る炎のように熱を持った青い瞳。
「おやおや、見てたのか」
これは予定になかったね、と玉闇は呑気に言った。瀧蓮の眉間には、普段より何割増しも深い皺ができている。
「なんのつもりだと聞いている。あんな真似を、――――――」
琥轍に口づけなどして・・・。
そう言うつもりだったが瀧蓮の口からは続きの言葉が出てこない。目撃したその場面があまりにも衝撃的で、信じたくないものだったから。
玉闇はただ面白そうに嗤う。その表情からは、他の感情は見当たらない。
「ちょっと若者をからかっただけだろう。
どう?私のことが嫌いになれたかい?」
「・・・・わざとやったのか。俺に嫌われる為に」
「いいや」
この場に瀧蓮が居たのは玉闇にとって予想外。彼女が言う通りに琥轍と咲をからかっただけなのだ。
瀧蓮は拳を強く握りしめて彼女を睨んだ。
目の前に玉闇がいる。いつものように遠く離れてではなく目の前に。手を伸ばせばすぐにでも触れられるその距離は、小さな息遣いも分かるほどに近い。
手を伸ばして触れたい、抱きしめたいと、本能が訴えた。
「嫌いになれたら、どんなによかったか・・・」
普通ならば玉闇の狂った遊びに怒り、幻滅するだろう。
しかし、瀧蓮は既に底なし沼に足を踏み入れた後。何があろうと這い上がることはできない。
顔を反らす彼に、玉闇は肩を揺らして嗤う。
「追い詰められている人間は突飛な行動をするから面白いね。
お前は、一体私に何を見せてくれる?瀧蓮」
―――――さあ、私を楽しませて。
玉闇の言葉が瀧蓮の中へ深く深く入り込んでいく。
瀧蓮は反らしていた視線をゆっくりと戻し、闇色に輝く瞳を見つめた。ゆっくりと手を伸ばし、指先が彼女の頬に触れる。
その吸いつくような肌触りは、まるで甘美な毒の如く身体中の血を沸騰させた。
くすぐったいのか僅かに細められる玉闇の目。
瀧蓮の瞳に、もう迷いはない。己に対する失望感も尚泉に対する罪悪感も、彼女への愛の前では全てが消え去る。
それこそ盲目的に、ただ目の前にいる女を愛した。
指先はゆっくりと頬を撫でると、次は輪郭をなぞるように滑べる。それは官能的な熱を孕んだ仕草。
頬に触れること自体に性的な意味合いはないのに、触れ合った肌が大きな欲望を掻き立てた。
いつの間にか空は藍色に変わり、岩山の上を吹き抜ける風は冷たくなる。
未だに触れているのは指先だけで、2人の間にはまだ人1人分の距離。
そのじれったさに痺れを切らしたのは、玉闇の方が早かった。
「早くおしよ。
最後の一線を越えるのはそんなに難しいことじゃない。ただお前が罪に塗れるだけなのだから」
瀧蓮がどのような罪を被るのか分かっていて、玉闇はけしかける。
尚泉を裏切って苦しむ彼は、どのような最期を迎えるのだろうか。周囲に関係が知られて極刑か、罪の意識に耐えられなくなって自害するか、それとも・・・・・・。
ああ、楽しい。
玉闇は心の中で感嘆する。こんなに心が高揚するのは久しぶりだ。
「・・・いいのか」
本当に、それでよいのかと瀧蓮は問う。
罪に塗れるのは玉闇も同じ。国王以外の男に抱かれた時点で、彼女も瀧蓮と同じ罪を背負うことになる。
玉闇はクスリと笑った。
「そんなこと、今はどうでもいいだろう?」
ただの男と女として、すべきことはただ一つ。その後に付随する問題など関係ない。
一歩、距離が縮まる。
耳のすぐ下を撫でていた指が、今度は彼女の顎にかけられた。救うように持ち上げられて押し当てられる唇。
しかしそれは重なるだけの生易しいものではなく、貪り尽くす程の獰猛な口づけだった。噛みつくように覆い被さって、捻じ込まれた少し冷たい舌が好き勝手に口内を蹂躙する。
技術も何もないそれは、まるで瀧蓮の玉闇に対する想いを表したかのよう。狂おしい愛とその苦しみは真っ直ぐで邪念がなく、純粋である。
玉闇は耳まで届く卑猥な水音を聞きながら、瀧蓮の自分に対する底知れない情熱が少し怖いと思った。
この男は想像を遥かに超えて、自分を欲している。何をしでかすか分からない面白さに勝る、波に呑まれて流される恐ろしさ。
玉闇が瀧蓮を弄んだのは正解か、不正解か。それはまだ定かではない。
背中に回っていた大きな男の手が太腿を撫で始めると、水音に混じって衣擦れの音が響いた。徐々に乱される衣服にさすがの玉闇も危機感を覚える。
「っまさか・・・・こんなところで・・・」
抱くつもりじゃないだろうね。
彼は彼女の言葉ではっと我に返り、唇を解放して玉闇を見下ろす。夢中になりすぎて考えが至らなかったらしい。
「・・・すぐに連れていく」
―――――一緒に越えよう。最後の境界線を。
一緒に在れるならば、そこが例え地獄であろうと構わない。
瀧蓮は玉闇の膝の裏に腕を回し、持ち上げるときつく抱きしめた。
咲は震える両手を胸の前で握りしめ、肩を上下させながら浅い呼吸を繰り返した。
未だに信じられない。琥轍とあの玉闇が口付けていたなど。
「冥昌さん・・・」
どうして、と涙声で問う咲。
まさか2人は付き合っているのか、それとも玉闇が琥轍のことが好きなのか。
混乱しながらも咲の頭の中で様々な憶測が飛び交う。
好きな異性と慕っている女性。どちらも大好きで大切な人。
喉まで込み上げてくる嗚咽を抑えて、咲は何度も首を振る。もしも2人が愛し合っているならば、自分はその邪魔をしてはならない。
しかし元々は叶わない恋なのだからといくら自分に言い聞かせても、溢れだす悲しみは止まらなかった。
初恋ではない。
年上の先輩に憧れて失恋を経験したこともあった。
けれども、こんな胸の痛みは初めて。
「葵杏、ごめん待たせた」
琥轍の声に小さく震えた咲は、ゆっくり振り返って彼を見る。
いつもと全く変わりない様子で彼は咲に近づいた。
「どうしたんだよ、顔色悪いぞ?
傷が痛むのか?」
「ねえ琥轍、どこに行ってたの・・・?」
聞くつもりはなかったのに、口が勝手に開く。一度口にしてしまえば発言を撤回することもできず、咲はじっと琥轍の返事を待った。
「別に」
誤魔化すような返答。言いたくないのだと、遠回しに言われる。
いっそのことはっきりと言われてしまえば簡単に諦めがついたのに。
混乱と悲しみのあまり、咲は自分を押し殺すことができず琥轍に迫った。
「さっき冥昌さんと一緒に居たでしょ?」
しまった、という表情をする琥轍。
その瞬間咲は分かってしまった。知られたらまずいことだったのだ、と。
「・・・そう、お幸せに」
「待てよ!なんでそうなるんだ!あれは―――――」
伸びてきた手を振り払い、まともに顔を見ることすらできない咲は背を向ける。今また琥轍を見たら、今度こそ泣いてしまいそうだった。
「大丈夫、私口堅いから絶対誰にも言わないし。
好きならしょうがないよね」
「だから違うっつってんだろ!?
待てよ、葵杏!」
走り出す咲の背中まで届いた琥轍の声。しかし彼女は頭の中が一杯で、その声に耳を傾けることはできない。
人通りのない物影で座り込み、咲は膝を抱えて泣き笑いをする。
「はは・・・都合いいなあ、私」
叶わないと分かっていたのに、帰ると決意したのに、いざ失恋してみると悲しくて堪らなかった。もう二度と琥轍に迷惑をかけないと誓ったのに、傍に居ることのできない苦しみに襲われる。
「忘れ・・・られるかな・・・」
この痛みは時間と共に風化してくれるだろうか。
今の咲には、それすらも分からなかった。