(2)
玉闇の部屋の前までやって来て、何も言わずに去った瀧蓮。
彼が暗闇に消えるまで見届けた後、尚泉は困ったように眉尻を下げる。
「優秀でいい子なんだけど、生真面目と言うか・・・。
容姿と才能に恵まれた分、ちょっとだけ無愛想なんだ」
1人息子である瀧蓮を思い切り可愛がっている尚泉だが、その愛は彼に届いているのか疑わしい。無愛想なのも手伝って、あまり昔から人に懐かない子だった。
その反面自立心も向上心も高く、幼少の頃より周りからの注目を集めている。
「いい男だねえ。食っていいかい?」
玉闇がケロッと冗談めかして言うと、尚泉は細い目を丸くして彼女を見た。そして腕を組んで深く考え込んでしまう。
「うーん、大事な1人息子が君の毒牙にかかるのは気苦労が多そうだし心配だなあ・・・」
真面目ゆえにあまり女性関係に慣れていない息子を、経験豊富で遊び好きな女に預けるのは不安になるのが親心。
でも待てよ、と尚泉は続ける。
「もし瀧蓮と結婚したら冥昌は私の娘・・・・・・。
―――――よし冥昌、息子の嫁に来なさい」
これ以上にない名案が浮かんだ、というような満面の笑みで人差し指を立てる尚泉。玉闇は冷たい視線を寄こす。
「阿呆、話が飛びすぎだ。
裏稼業の人間を表に引きずり出そうとするんじゃないよ」
「でも冥昌を娘にしたいんだ。依頼が終わってもこんな面白い女性を手元から離したくないからね。
悪い話じゃないだろう?自分で言うのもなんだけど、うちの息子はかなりの優良物件で引く手数多だよ。あまり女性に興味を示さない所は私に似てしまって・・・、まあそんなところも可愛いんだけどね」
頭の中では既に妄想が出来上がっているらしく嬉しそうに話す尚泉に、玉闇は呆れ返って盛大なため息を吐いた。
「お前も大概親馬鹿らしい」
「そりゃあんな出来のいい息子がいたら誰でもそうなるんじゃないかなあ」
「養子だろうに」
ふっと吐き出した煙が尚泉の頬を撫でる。
彼は煙を気にする様子もなくへらっと笑って自慢げに話しだした。
「養子って言っても瀧蓮がまだ幼い頃のことだよ。
彼は自分で努力して自分で今の地位を築き上げたんだ」
王の息子が血の繋がらない義理という事実で、周囲の雑音も多かったはず。
しかし瀧蓮はそれを完全に払拭してしまうほどに、実力だけで御史大夫という地位までのし上がった。今では文句を言う者などいない。
もちろんそれは玉闇も知っているところ。
「まあ、優秀だというのは認めよう」
「ありがとう。
だから、ね?嫁においで?」
「性質の悪いことを言うでないよ」
まだ尚泉の妾だったなら彼の提案は現実的な話だろう。
しかし玉闇は、冥昌という名の妾ではなく闇の四帝の情報屋。話はもっとややこしく、やっかいなのだ。
彼女には守るべきものが多くある。
その全てを捨ててまで、彼の情熱的な想いに報いるわけにはいかない。
急に煙管を吸う手を止めた玉闇に、尚泉は小首を傾げて彼女を見た。
「冥昌、気を悪くしたかい?
もちろん娘になって欲しいとは思うけど、恋愛ごとに無理やり首を突っ込む気はないんだよ。これはただの私の願望なんだから」
「・・・別に、そうじゃないよ。そういうことじゃない」
中途半端に遊んで最後に傷つけるのは可哀そうだ。そう思う自分に気がついて、玉闇は頭を抱える。
今までならもっと上手く立ち回って手のひらの上で転がし、弄んで傷心する男を嘲笑っていたというのに。
はあ、と再び盛大なため息を漏らす玉闇。
「珍しいね、君が困っているなんて」
「私だって人間だ」
尚泉や咲や瀧蓮となんら変わりない、ただの人間。あまり人間らしさを表に出さないだけ。
「悪いけど、気分が悪いから今日は帰っておくれ」
尚泉は目を細めて心配そうに口を開いた。
よく見れば彼女の顔はいつもより青白く、覇気がない。手に持っていたはずの煙管も、いつの間にか卓上で放置されている。
「大丈夫かい?よかったら薬を・・・」
「いらないよ。
寝たら治るさ」
お帰りよ、と玉闇に促され尚泉はしぶしぶ背を向けて扉の方へ向かう。
「じゃあおやすみ。
何かあったら無理しないで誰かに言うんだよ。夜は冷えるから、ちゃんと温かくしてね」
最後の最後までちらちらと視線を向けてくる尚泉に玉闇は肩をすくめて苦笑した。
パタン、と扉が閉まる音が響く。
「全く、子供じゃないんだよ私は・・・」
心配などされなくても、玉闇は幼いころから1人で生きてきたのだ。ちょっと具合が悪い程度で他人から干渉されるのは、彼女にとっては逆に煩わしいだけでしかない。
玉闇は鏡台の前に立ち、複雑に編み込まれた髪をひとつづつ解いていく。
無言で見つめ返してくる鏡の中のもう一人の自分。
彼女はその視線を煩わしく感じて、髪を梳き終わるとすぐに顔を反らした。
「ほら、じっとなさい」
「で、でも・・・冥昌さん、くすぐったいっ・・・」
薄い色の紅を咲に塗ってやっている玉闇は、慣れない化粧に身を捩る彼女に苦闘していた。あまり動かれると手元が狂う。
咲も分かってはいるのだが、筆先が唇に触れるくすぐったさを我慢できない。善意でやってもらっていることなのだがついつい恨み言が出てしまう。
「・・・本当に化粧なんてしなきゃいけないんですか?
なんだか落ち着かないし、顔がべたべたするし」
「そりゃあ、大切な日だからねえ。
まさかいつもと同じ格好で行く気はないだろう?」
「まあ・・・・そうですけど」
この国の祝日とは大切な日。公式に宴会が催され、普段働いている官吏たちを労わる。その官吏の中には、雑用としてこき使われている咲も当然入っているのだ。
言わば、宴会の主役の1人。
咲も女性として着飾ること自体は嬉しいものの、普段はすっぴんを晒している人達に化粧姿を見せるのは抵抗があった。
からかわれそうな気がする。特に琥轍。
「咲もそろそろ化粧を覚える年頃だろうに。――――ほら、上を向いて」
「んー・・・」
咲は視線だけを上に向けながら肯定とも否定ともつかない微妙な返事を返した。
彼女の目の上にスッと細いラインが出来上がる。
鏡に映る少し大人びた自分を見て瞠目する咲。
「すごーい、やっぱり違う」
「だろう?」
「さすがに冥昌さんみたいにはなれないけど」
「やろうと思えばできるさ。ただし誰だかわからなくなるよ」
「ちょっと気になるけど遠慮します・・・」
玉闇ほどの化粧となれば原形を留めないほど濃くしなければならない。紅はこれ以上にないほど濃い赤、アイラインも元の形が分からないほど太く目尻のアイシャドーは紅に負けないほどの濃い赤を乗せていた。
憧れを抱いてはいるものの、さすがに躊躇してしまう。
化粧を終えると次は衣装に移り、咲が悩む前に玉闇が勝手に決めた。
「ほら、これに着替えなさい」
「ええ・・・!?」
生地に触れただけで価値が分かるほどの高級品を前に戸惑う咲。ところがあれよあれよという間に脱がされ着せられる。
春を感じさせる薄いピンクと黄緑の配色で帯紐には小さな真珠があしらわれ、咲の愛嬌のある顔立ちによく似合っていた。
玉闇も満足げに微笑む。
「やはり薄い色の方が似合う」
「あの、これ・・・」
「余計な心配するんじゃないよ。
お前の物だから好きに使っていい」
「私の!?」
目玉が飛び出そうなほど驚く咲に、玉闇はなんでもないように頷く。
一般人にとっては手が出せないほどの高級品でも玉闇にとっては大したものではない。しかも自分で着るにはデザインが若すぎる。これは正真正銘咲のために用意したものなのだ。
最後にきゅっと腰紐を締め、咲は感動して鏡を見つめる。
「うわー・・・」
「終わりじゃないよ」
「まだ!?」
爪、と一言言われて彼女は自分の手の指先を見た。働き詰めで構う暇がなかった爪は、適当に切っただけでまったく手入れをしていない。
玉闇に腕を掴まれて、やすりのようなもので爪が磨かれていく。
「これ以上綺麗にしてどうするんですか」
「男を垂らしこんでおいで。ついでに酔った連中から情報を聞き出すといい」
「冥昌さんの目的は後者ですよね、完全に」
確かに酒の席ではつい言ってはならないことをぽろっと零すこともある。特に宴会のような祭り事ではなおさら。
ぴかぴかになっていく爪を見ていた咲は、ふと玉闇のことが気になって顔を上げた。
「冥昌さんは宴会に参加するんですか?」
「しないつもりだよ。
貴妃たちもいるしねえ」
後宮から百葉も参加する宴会では下手したら王の寵愛を巡って一色即発の雰囲気になりかねない。よって身分の低い妾が参加を辞退するのが妥当である。
玉闇も尚泉も祝日まで面倒なことには巻き込まれたくなかった。
つまらなさそうに唇を尖らせる咲。
「なあんだ。冥昌さんも着飾ってたからてっきり参加するかと・・・。
一緒にお酒飲みたかったです」
「私は常に気を抜かない。
後宮の女たちは皆そうさ、いつ陛下が渡るか分からないんだから」
着飾り国王から寵愛を得るのが仕事。彼女たちは自分の美に一切妥協を許さない。
男に媚びるという面から言えば、後宮の女も娼婦も変わりないだろう。
咲は話を聞きながら自分には無理だな、と思った。なんだかんだ言っても、着飾って男性にすり寄るより汗をかきながら動き回る方が性に合っている。
「できたよ」
「ありがとうございます!」
咲は最後に髪が崩れていないか鏡を見て確かめると、何度もお礼を言いながら元気よく出て行った。
急に静かになった部屋で玉闇は煙管に手を伸ばす。しかし上手く火が移らず、ため息を吐いた後に煙管を諦めて寝台に腰かけた。
「いるかい」
現れる3人の黒い影。
腕を組んだ玉闇は頭を下げる彼らを見下ろしながら命令を下す。
「宴会の機に乗じて調べるよ。
お前たちは官吏たちの部屋と本宮を・・・、行きなさい」
「はっ」と短い返事の後に影が消えると、玉闇は腰紐と解いた。パサリと衣擦れの音を立てて床へ落ちる衣。簪を抜くと、結い上げていた髪も重力に従って落ちる。
新しい服を手に取ったが、そこで窓の外に人の気配を感じて玉闇は動きを止めた。それが誰なのかは、姿を見なくとも分かる。
もう一度衣を纏って窓の外を覗けば、視界に飛び込んできたのは濃い青の瞳。
陽が沈む前に彼がここへ来るのは初めてだった。
やはり夜よりもお互いの姿がよく見え、少し離れている距離でも表情の機微が分かる。一瞬の瞬きも、肌の美しさも、息遣いも。手を伸ばせば触れられそうなほど繊細に、相手の様子がよく見えていた。
しかし今までと変わりなく瀧蓮は最後の一線を越えない。
彼は昨晩と全く変わらぬ視線で玉闇を見つめ続ける。お互いに微動だにしないその時間は、永遠に続くようにも感じられ、あっという間に過ぎ去ってしまうようにも感じられた。
玉闇は嗤う。恋と忠誠心の間で揺れ、身動きのとれない男を。
自分を想って苦しんでいる瀧蓮は、彼女にとって暇つぶしの玩具のようなもの。わざわざ部屋の前までやってきて見つめ続ける彼のいじらしさ面白くて仕方ない。
恋で身を滅ぼす者は多く居る。彼は今、破滅への直前で踏みとどまっている状態だ。よほど理性が強いのだろう、その一線を中々超えようとしない瀧蓮。
少し揺さぶってみようかと、玉闇は目を細めて笑みを深くした。
「こっちに来るかい?」
初めて自分に掛けられた言葉に、瀧蓮の眉間が僅かに狭まる。玉闇は上がった口角を維持しつつ彼の行動を待った。
すぐに手すりを跨ぐだろうと思っていたが、予想に反して瀧蓮の足は止まったまま。青い瞳は動揺に揺れていたが、尚泉を裏切らないという決意は玉闇の想像よりもずっと固かったらしい。
破滅へ向かうほうがずっと楽なのにねえ、と彼女は心の中で小さく嗤い、彼が視線を反らすその前にピシャリと窓を閉め切ってしまったのだった。