哲学的ゾンビになる方法
篠宮うるはは死んでしまった。
高校三年の末、順風満帆だったはずの彼女は前触れなく姿を消した。
その事件を、まだ忘れることができないでいる。
*
「みんなの心に一番星! 双星大学新入生、篠宮うるはです!」
演劇サークルの新入生から飛び出したその挨拶に、その場の上級生は反応を躊躇した。彼女の挨拶はやけにアイドルらしいというか、サブカル然としたもので、新歓コンパでの第一声としてはあまりに現実味がなかったからだ。
その場で質問攻めに遭わなかったのは、大学という特殊な環境ゆえだろうか。演技を活動の旨とする演劇サークルでは、酔狂人などありふれている。彼女の発言が取り沙汰されたのは、自己紹介がひと段落して乾杯を済ませた後だった。
「篠宮さんは前から演劇とかやってたの?」
個性的な自己紹介を念頭に置いたのだろう、『とか』の部分を強調した質問だった。彼女の振る舞いは演劇というより、なにかもっと根本的な欺瞞を感じさせた。演劇をする役者は普通、舞台の上と他での振る舞いを分けるものだ。彼女にはそれがなかった。
「高校の文化祭で、ちょっとだけやってましたよ。……木の役とか」
「木の役」
「それより先輩、『篠宮さん』じゃなくて、うるはって呼んでくださいよ」
「うるは……さん」
「うるはって呼んでください」
「わかった、わかりました。うるは」
「それでよろしい」
篠宮に気圧された先輩の名前を、浩平といった。劇団サークルの代表を務めている──とはいっても、彼は二年生で経験も浅い。上級生は就活や引退で手伝いをしてくれないのだとぼやく、弱小サークルだった。
今年から新人として入団したのも、篠宮の他には蓮という男だけだった。彼の自己紹介は篠宮とは対極の温度感で、こちらも浩平を戸惑わせた。
「……高橋蓮。篠宮とは高校が同じだったから。一応」
「よろしく、蓮」
「いきなり呼び捨て?」
「ごめん、気が回らなかった。……高橋、くん」
「冗談。よろしく、浩平さん」
人とコミュニケーションをとる気があるのか。浩平は鼻白みつつも、自己紹介を締めくくった。
「──ようこそ、劇団『天の川』へ!」
演劇サークル『天の川』の活動には、いくつかの特徴がある。その中でも最たるものが、学園祭で行われる新人試演会。そこで披露される戯曲の制作は、新人団員たち自身が力を合わせて担当する。脚本と演技、その両方を新人が担い、上級生の補助のもとゼロから作り上げていく。脚本に関して上級生が決定するのはテーマのみ。
その、今年度のテーマとは──
「ありのままの、自分」
浩平の言葉を、篠宮が反芻する。公演のテーマはありのままの自分。役者自身の偽らない本性をさらけ出し、その経験を今後の演技の礎とする。
他者への配慮、猫かぶり、人は誰しも無意識のうちに演技をする。それらを取り払った素の自分とはどんなものか。それを追求する純粋さを、葛藤を、ひとつの戯曲に表現する。
蓮が難しい顔をした。不明瞭なテーマだ。制作の難易度は高い。なにより──。蓮は篠宮の表情を盗み見る。
浩平が席を外してから、彼女は虚ろな表情を隠そうともしなかった。
「ありのままの自分なんて、何が良いんだろうね」
虚ろな目に、彼女自身への嫌悪感がありありと映し出されていた。
──飾らぬ自分自身が何の役に立つ。友達ひとり救えなかった自分を、晒したところで誰が喜ぶ。
自傷的な呟きに、蓮が返せる言葉は無かった。
大学一年生の春。彼女は自分を偽ることで自分を支えていた。『うるは』という偽名を名乗るのは、死んだ彼女を取り戻さんと願うため。
高校三年生の末、篠宮うるはは死んでしまった。
その事件を、まだ忘れることができないでいる。
* * *
──「大学生になったらやりたい十のこと」
その一。受験が終わったら演劇サークルに入って、思いっきり演技をしてみたい。
その二。友達と寄り道して、ちょっと遅い時間までおしゃべりしてみたり。
その三。寝落ち通話にも憧れる。夜にうるさくしたら怒られちゃうから、少し怖いけど。
その四。ベタな青春も悪くない。恋愛も、ちょっと憧れはあったかな。
その五。やっぱり一人暮らしをしてみたい。親元から離れないと、きっと青春はできないから。
その六、その七、八と続いて、九の行に目が止まる。
──その九。卒業式には出席したかった。私の親友──蓮と沙耶ちゃんとの高校生活を、最後まできれいに過ごせたらよかった。
『その十』の行はノートから破り取られていて、探しても見つからない。表紙の文字には後から線が引かれて、書き換えられていた。
──『死ぬまでにやりたかった十のこと』
* * *
部屋は暗く、閉ざされている。前方の壁には吸音材が貼られ、マイクとモニターが机の上で光っている。煌々と光る画面に映るのは、アニメのような絵のアバター。カメラに映る人物の動きに合わせて口や体を動かしていた。
人物は深く息を吸う。モニターの画面を確認して、配信開始のボタンを押す。
「こんうるう~! みんなの心に一番星! VTuberの篠宮うるはだよ〜!」
ネットの海に動画を配信する、顔出し無用の匿名ライバー『VTuber』。画面の中で動くアバターの上を、いくつかのコメントが流れていく。決して数は多くないものの、常連リスナーと呼ばれる数人の固定メンバーが話題を提供し、積極的に会話を回していく。
「そんなこんなで演劇を始めてみたよ、って報告なんだけど」
これがね、ひとつ致命的な問題があって──。意味もなく、オーバーな抑揚でタメを作る。その間に次の言葉を組み立てて、声のボリュームも調節する。
「ズバリ、私は演技ができない!」
まあ入団したばっかりだし、演技ができないのは仕方がないと思うんだけど──。言うと、常連リスナーから期待通りのコメントが返ってくる。『何か演技やってみてよ』と、なかなかの無茶ぶり。躊躇うふりをして、仕方ないなぁと咳払いをする。
「スコー、 コホー、 スコー、 コホー」
演技の代わりの、掠れた呼吸音。コメント欄が困惑する。「ダースベイダーの物まね」『なぜそれを選んだ!?』『下手でかわいいってレベルじゃない』
「私だって昔は演技上手かったんだよ? いやぁ最近はスランプでさ……って、幼稚園の話じゃないよ!? ほら高校の文化祭だって去年、役者として出たし! ……木の役で」
『不憫』『かわいそう』『涙拭けよ』「だーかーらー!」『頑張ってね』『これから上手になるんだもんね』「そうだよほら、もうこの話はおしまい! 寝落ちもちもちしようよー……」夜更かし決定。飲み物追加。閑話休題。
* * *
昔は、篠宮と蓮の関係性はこんなにも拗れてはいなかった。篠宮と蓮、そこに名倉沙耶という女の子を加えた三人で、いつも一緒に行動していた。三人の中心にはいつも篠宮がいて、他の二人は活動的な彼女に振り回されるのが常だった。
文化祭の時だってそうだった。クラスで披露する演劇で、沙耶と蓮はうるはと一緒に、強引にメインキャストを演じることになっていた。三人で一緒に衣装の買い出しに行ったのを覚えている。ちょうど夏休みが終わり、文化祭まで間もない時期で──
「役者二名、確保ーーっ!」
背後から抱き着いてきたうるはに、沙耶は小さな悲鳴を上げた。演劇に必要な衣装が見つからず、手分けして店をめぐっていた時だ。蓮が成果を訊いて、うるはは無しと答える。衣装が見つからないのは沙耶も同様で、申し訳なさに首を縮めていた。
「ごめんね、二人とも練習しないといけないのに。買い出しに付き合ってもらって」
「練習が必要なのは沙耶ちゃんも同じでしょ。たしかに私は勇者で─」
「──俺は魔王だけど、セリフ量でいったら俺より名倉の方が多いだろ」
「そうはいっても、私なんて木の役だよ……」
「木の役て」
沙耶の言いように、うるはが吹き出した。沙耶も気分が上がって、昨日練習したセリフを暗唱する。演じるのは木の役──もとい、森の精霊。
「やあ、ボクは森の精霊! 御神木の大精霊からキミたちに伝言があるんだ!」
すう、と息を吸って、声の出し方を変える。あえて素っ頓狂な声音を選んで、
「『ワレワレハ、ダイセイレイデアル──』」
「大精霊ってそんな喋り方だったの!?」
うるはがツッコみ、遂には蓮まで笑い出す。控えめに、沙耶も破顔して笑い声を上げる──
* * *
高校生の頃の記憶を思い出して、篠宮はくすと笑う。見とがめた浩平が疑問符を浮かべるが、小さく笑って誤魔化した。今、篠宮は浩平に連れられて演劇に必要なものを買い出しに来ている。
「今日は楽しかったです、先輩。学園祭の脚本も煮詰まっていましたから、いい気分転換になりました」
「楽しんでくれたなら良かった。蓮も来れたら良かったんだけど」
状況は文化祭のときに似ているけれど、隣に蓮はいなかった。用事があるから、とはいうものの、きっと自分といるのが気まずかったのだろうと篠宮は思う。
浩平といくつかの言葉を交わして、解散の流れになる。帰りの駅が同じだったから、篠宮は駅に向かって歩き出そうとして、その時。首筋がちくりと痛むような違和感を感じて立ち止まる。視線を彷徨わせると、篠宮を凝視して立ち止まる人影があった。歳の頃は篠宮と同じ。女性で、まるで幽霊でも見たかのように目を見開いている。か細く、その口が『うるは……?』と呟いたのを見て、ようやく篠宮の記憶と顔が一致した。
「──コノちゃん? コノちゃんだよね。元気だった?」
なんてことはない。彼女は高校の同級生だった。朝倉此香。一年生の頃はうるはと仲良くしていた記憶がある。二年生からはクラスが離れていたが、それでも時々会っていた。
「久しぶり! どうしたの一人で? コノちゃん大学この辺だったっけ?」
篠宮は此香に近づいて、腕を広げる。感動の勢いで抱きしめた。再会に嬉しくなってしまって、LINEくれたら良かったのに、とまくしたてる。
此香は、しばらくの間言葉を発さなかった。抱き寄せた位置からは表情が伺えないけれど、そのうち体に入った力が抜けて、此香の緊張が解けていくのが感じられた。
此香はさぞ驚いただろうと思う。もう会えないと思っていたはずのうるはと、こうして突然再会したのだから。最初は混乱するかもしれない。すぐには信じられなくても仕方がないから、ちゃんと話をしてわかってもらおうと篠宮は──
「名倉さん、だよね」
──。なぜ。なぜその名前が出る。此香の前にいるのは篠宮うるはであって、名倉沙耶ではない。沙耶と此香に大した面識はなかったはずで、少なくとも久しぶりの再会で真っ先に話題に上がるような関係性では決して──
「あの後さ、名倉さんのアカウントが消えたの、気づいてたよ」
あの後──高校三年生の末、うるはがいなくなった事件の後。名倉沙耶のアカウントはクラスのLINEグループから消えた。
「名倉さん、それから学校来てくれなくなったし、心配してたんだよ、私たち」
クラスで話をして、そっとしておこうということになったらしい。名倉沙耶は篠宮うるはと仲が良かったから、ふさぎ込むのも無理はない。自分たちが押しかければうるはのことを思い出させてしまうから、今は独りの時間が必要だ、と。
「だけど、その後話題になったんだ。『篠宮うるは』って名前で動画を配信してる人がいるって」
すぐさま、犯人探しが始まった。それがうるは本人だと信じる人はいなかった。
当然だ。だって、
「だって、うるははもう死んだんだよ、名倉さん」
現実を受け入れられなかったのは、沙耶だけだ。他のみんなはちゃんと受け入れた。うるはの死を悲しんで、弔った。うるはの親にだって会いに行った。酷かった。親も取り乱してた。そいつらをぶん殴った子もいた。けど最後にはうるはの死を受け入れた。辛かったけど。苦しかったけど。
──ねえ、どうしてそんな恰好をしているの。うるはと同じ髪型で、同じメイクで、同じ服を着て。
此香は歯を食いしばって、友人の亡骸を穢した女を睨みつける。
──楽しかった? うるはの真似をしたらうるはみたいに人気者になれると思った? 入学して早々、男連れてショッピングだなんて、うるはの顔を安売りできてラッキーってか。
浩平が見かねて、割って入った。
──なにか勘違いしているんじゃないかな。うるはが死んだなんて。
──あんたには関係ない。
──俺の後輩をこれだけ傷つけておいて、関係ないも何もないだろ。現に目の前にうるはがいるのに、どういうことだよ。
──だから、そいつが偽物だって言ってんの。
「うるはは、半年前に校舎から飛び降りた」
その場の空気が、一瞬で冷え込んだ。
──自殺だった。遺書もあって、身の回りの片付けも済んでいた。前々から計画された最期で、ずっと切り離せない悩みを抱えていたのだと遺書は語っていた。事件の第一発見者は名倉沙耶だったが、だから彼女を疑っているわけではない。けれど、
「一番ショックを受けてるのは、名倉さんだと思ってた」
篠宮うるはの一番近くにいた存在が名倉沙耶だった。
同性で、いつも一緒にいて。だから悩みの相談だって聞いていたんじゃないか。予兆くらいは感じていたんじゃないか。ひとつの隙も見せないで、いなくなる前日まで完璧に幸せみたいな顔をして笑っていたうるはを、唯一救えたかもしれないのが名倉沙耶だった。
そこまで言って、けれどそれが八つ当たりだとも自覚しているのだろう、此香は口をつぐんだ。篠宮うるはは、完璧な人間だった。その第一の友人でさえ、彼女の考えを本当に理解することはできなかった。彼女が自らの死を今と決定してしまったのなら、それを覆すことのできる人間など、どこにも。
篠宮は──否、篠宮うるはを演じ続けた彼女の友人は。名倉沙耶は、今や虚ろな目で地面を見つめていた。
──死んでない。ぽろ、と、言葉が零れた。
「うるはは死んでなんかいない」
その瞬間、此香の感情が醒めていくのが感じられた。失望の目線が、沙耶の上を滑っていった。
──名倉さんにとっては、そうなんだね。
縋りついた沙耶の手を払う。
あんたはうるはじゃないし、うるはにはなれないよ。
* * *
沙耶はうるはの友達だった。
高校時代の知り合いの誰に尋ねても同じ答えが返ってくる程度には、沙耶とうるはの友人関係はオープンなものだった。もっとも、それがわざわざ知れ渡っていたのは、単にうるはが面倒な誘いを断ったりするための言い訳としてだったけれど。
篠宮うるはと高橋蓮、それとA組の名倉沙耶。これがいつもの三人組。もっとも、うるはは似たようなグループをいくつか持っていたようだった。だから沙耶がうるはとの関係を表現するとき、『うるはは私の友達だ』と言うのはどこか躊躇われて、いつも同じ言い方をしていた。
──私はうるはの友達だよ。
うるははみんなの共有財産みたいな顔をして、高校に通っていた。
* * *
一回だけ、うるはに似ていると言われたことがある。
それを言ったのはたしか、此香だったと思う。一時期、蓮と此香が付き合っていた時期があった。異性の友人の彼女に対してどんな態度をとったらいいのかわからなくて、沙耶は此香を避けていたのだけれど、それでも交流はあって、あの時期だけは時たま喋ることがあった。
「うるはと名倉さん呼びに来たんだけど、居る?」
「いっ、るっ、よ~。もうお腹すいた! 早くご飯食べようよ」
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら答えたうるはを、此香と蓮は教室の入り口で待っていた。そのとき沙耶はうとうと眠りかけていたから、寝ぼけたまま彼女に付いていった。口調も間延びして、
「ねぇむいんだよね~。暑いと逆に」
なんて言うと、此香が反応して、
「いまの言い方、うるはっぽい」
──前髪ずらして、目もパッチリして……髪もうちょっと長かったらなぁ。
──確かに。化粧もしたらパッと見判断つかないかも。
──私すっぴんだけど。
──顔のいい女ムカつくわぁ。
結局、うるはがどんな人間だったのか、沙耶にはほとんど理解できていなかったのだと思う。社交的で楽観的な表の顔があまりにも完璧すぎて、彼女の裏の顔だとか、内心の悩みだとか、そんな人間らしいものを想定できなかったんじゃないかと今になって思う。
他人の内心など完璧には理解できなくて当然なのだけれど、彼女はそれを想像することさえ拒むような、ある種の神秘性をまとっていた。
ただ、彼女が一度だけ、偽らない弱みを曝したことがあったと思うのだ。受験ムードが過熱して、高校の卒業も間近に迫ってきた頃。うるはは推薦で進学先を決めていたようだけれど、沙耶は前期の受験に向けて必死で過去問集を解いていた。
「ね、沙耶ちゃん」
「……どうしたの?」
聞き返す声が少し、硬くなった。問題を解く時間をタイマーで測っていたから、中断したくなかったのだ。
「私、旅に出たいなぁ」
「……旅?」
「そう、自分探しの旅。どこか遠くに行ってさ。日本一周とか目指してみたりして」
「ポエミーだね。旅先で友達作ったり?」
「そう。一泊泊めてもらったりしてね。一宿一飯の恩って言って再会を誓うの」
「いいね。泊まりなら卒業式の後かな」
この時の沙耶は、早い時期に指定校推薦の枠を勝ち取ったうるはが羨ましかった。だから勉強の最中に話しかけてきた彼女を少しだけ疎ましく思ってしまって、口先だけで話を合わせていた。具体的にならずに自然消滅するタイプの『予定』。
うるははその機微を感じ取っていただろうけれど、沙耶に話しかけることをやめなかった。
「今から、どこか行かない? 日本一周じゃなくて、近場でさ」
「今から?」
「うん、公園とか……図書館でもいいからさ。勉強の邪魔はしないから」
思えば、沙耶がうるはの誘いに二つ返事で答えなかったのはこの時が初めてだったかもしれない。明確な先約があるときを除けば、うるはの誘いはいつだって沙耶を乗り気にさせた。けれどこの時のうるはにはどこか余裕がなかった。
この時期は既に授業が終わっていて、三年生は自由登校だった。最終下校時間は早く設定されていて、自習のために学校に来た生徒も空が明るいうちに帰宅する。
この日は結局、沙耶はうるはの誘いを断った。必要な問題集を自宅に取りに帰りたかった。
うるはが死んだのは、その日の夜だった。
* * *
思うのだ。あの時うるはの隣にいたのが、沙耶でなく此香だったら。別の誰かだったら。あの状態のうるはを、放っておくなんてことはしなかっただろう。
今になって思えば、明らかにうるはは弱っていたのだ。なにかに耐えかねて限界を迎えて、初めて沙耶に助けを求めていた。それを、沙耶は放置した。
うるはを死に追いやったのは沙耶ではない。けれど思うのだ。
──うるはが死んだのに、どうして自分なんかが生きている?
* * *
「それでさ、大学でやりたいことを十個書き出してみたんだ。でも最後の十個目が思いつかなくて。まだ空欄になってる」
スマホのマイクから、声を電波に乗せて配信する。話せない部分を脚色しながら、『篠宮うるは』の思い出話を語っていく。
「どんなことをしたらいいかな? みんなで考えようよ。十個目に何が入るのか」
『徹夜でカラオケ行くとか楽しいよ』『免許取ってドライブとか』『短期留学とか』『フォロワー数五桁突破を目指すとか』『友達百人つくるとか』
予想する声がコメント欄にどんどん流れていくけれど、どれもなんだかしっくりこない。うるはがわざわざ隠したくらいだから、なにかもっと大切なことが書かれていたんじゃないかなんて、現実に夢を見過ぎだろうか。けれど、十個目の内容を、沙耶はどうにかして見つけなくてはならないのだ。
うるはに似たこの顔で、うるはに似たこの声で、うるはと同じことをしたら。誰もが沙耶のことを〝うるは〟だと、思ってくれたなら。沙耶はうるはの代替品になれるのだ。
* * *
学園祭は既に始まっている。大学の構内で、沙耶は誰も寄り付かない教室を見つけてそこに籠っていた。通る者のいないはずの廊下から、誰かが走る足音が聞こえてくる。沙耶が配信を落として立ち上がると、勢いよくドアが開いた。ドアの向こうには浩平が肩で息をして立っている。
「──浩平先輩。思ったより早く見つかっちゃいました」
あの買い出し以来、沙耶は劇団の稽古に顔を出していなかった。浩平の責めるような視線を、沙耶は笑って受け流す。
「本番までには、自分から顔を見せるつもりでいたんですよ? 先に見つかっちゃいましたけど」
「……そう」
浩平は、沙耶に対する態度を決めかねているようだった。目線を泳がせながら、事務的なことだけを訊いていく。
──脚本は覚えてる?
──はい、自主練しましたから。
──蓮とは?
──ちゃんと合わせてます。
──演じられる?
──もちろんです。
「……大丈夫? 授業にも出てないって聞いたけど」
「優しいんですね。別に心配はいりませんよ。もともと私はマイペースなんです」
──必修同じ子と遊びに行ったりはしてますよ。空きコマに落ち合ってスタバ行ったり、寝落ちするまで電話で恋バナしたり。
「みんな面白いんですよ。私授業休んでるのに、誰も理由とか聞いてこないんです」
「〝うるは〟が信用されてるんだね」
「そう、私が信用されてるから」
蓮や浩平にはバレてしまったけれど、他の知り合いは皆、沙耶のことを〝うるは〟だと思っている。本物のうるはを知らないのだから、それは当然だ。けれど、
「ちょっと前、高校の頃の先輩と会ったんです」
ちょうど此香と出くわしたあの日の帰り道。落ち込んで歩いていたら、不意に声をかけられたのだ。──篠宮だよね。
「私とも結構仲良くしてくれてた先輩なんですけど、名倉なんて名前全然出ないんですよ。違和感も無いみたいで、ちゃんと私のことを〝うるは〟だって認識してた」
浩平が、大きく顔を歪ませた。沙耶が〝うるは〟を演じる理由を、今になって理解してしまったからだ。それは明らかに間違っていて、致命的に壊れた論理に基づいた動機。
──篠宮うるはと、よく似た姿の女の子がここにいる。彼女がうるはと同じ名前を名乗って、みんなが彼女を『うるはだ』と思い込むことができたなら。
「これって、うるはが生き返ったのと同じじゃないですか」
「もちろん、私だって死んだ人間が蘇らないのはわかっているんです。うるははもう死んでしまった」
だから、せめてうるは以外のみんなには、うるはを返してあげないと。
今はまだ会えないけれど、いつかはうるはのクラスメイトだったみんなにもまた会いたい。
蓮はうるはの幼馴染だったから、もちろん自分がうるはの分を補ってあげなきゃいけない。
この大学の皆だって、本当ならうるはと出会えるはずだった。
「だから私は、それを欠けさせるわけにはいかない」
その論理には何の正当性も無くて、明確に無意味だった。だからこそ反論も意味を成さないように感じられて、浩平には何を言うこともできなかった。
口に出す言葉を探すうちに、沙耶の纏う空気がはっきりと切り替わる。──沙耶を押し殺した〝うるは〟の演技が、彼女を覆った。
明らかに、隔絶を宣言するかのように〝うるは〟は笑顔を作った。
「浩平先輩はさ、大学デビューの人ですよね」
──だってすごく面倒くさい。距離感がわかってないんですよ。『ありのままの自分』を劇にしようだなんて、ダサいにも程がある。大学生に夢見すぎっていうか、対人不慣れなのが見え見えって感じ。
罵倒じみた言葉に、浩平は困惑を顔に出す。
「それって悪いことかな。誰に迷惑かけてるわけでもない」
「いいや。先輩は何も悪くないんです。むしろ凄いことでしょう? なりたい自分になるために努力してるんですから」
──私だって、同じなんですよ。なりたい自分を演じて、周りを騙している。私にとってそれが、うるはだっただけ。今は嘘でも、それがいつかは本物になるんだって信じている。それはなにも、悪いことじゃない。
「だから、ね、助けてほしいんです」
──私の嘘を、本当にしてください。私は、うるはです。蓮やコノちゃんにはまだ納得してもらえないけれど、先輩にとっては正真正銘私がうるはでしょう?
「これが私の『本当の自分』なんです。『ありのまま』ではなくてもいいじゃないですか」
先輩、信じてください。私は先輩を騙したりしません。私は一生〝うるは〟として生きますから。
だから、私のことは沙耶じゃなくて、うるはって呼んでください。
浩平は困ったように笑って言った。
──まあ、本人がそう言うなら。いいよ、うるは。
* * *
「沙耶ちゃん、だよね」
初対面のとき、うるはは沙耶をそう呼んだ。普段は名倉と苗字で呼ばれているから、一瞬反応が遅れたことを覚えている。
「あ……うん、名倉沙耶。えっと、」
「うるはだよ」
「や、それは知ってるよ。……有名だから。その、上の名前が思い出せなくて」
「んー、教えない。沙耶ちゃん、絶対苗字呼びするでしょ。私苗字で呼ばれるの好きじゃないんだよね」
──だから、
「私のことは、うるはって呼んでよ」
* * *
薄暗い舞台裏。沙耶は息をひそめて開演までの時間を待っていた。
開演までの時間はあとわずか。スマートフォンの電源を落とそうと手に取って──明るく表示された画面に、目が奪われる。画面上部に添えられた、橙色の点。──マイクが使用中であることを示す表示。
は、と息が詰まる。慌ててロックを解除して、開いているアプリを確認する。VTuberとしてのライブ配信に使用したアプリは──開いたままだった。
画面の上では、表情トラッキングを見失った〝篠宮うるは〟のアバターが死んだように固まっていた。その手前に、いくつものコメントが表示されている。
──『事故ってる事故ってる』『やばいって配信止めて』『篠宮うるはって本名なの?』『わざとだろこれさすがに』『自殺した友達の名前で配信やってるってこと?』『炎上必至乙』
アプリを閉じて、強制的に配信を切断する。切りそびれた配信は、何分続いていたのだろう。既にほとんどの視聴者は配信を抜けてしまって、コメント欄は飽きたかのように静かになっていた。
沙耶はしゃがみこんで膝に顔をうずめた。画面の中でこちらを見つめる〝篠宮うるは〟のアバターが、脳裏に焼き付いている。目蓋をきゅっと閉じると、視界は真っ暗。小刻みに震える自分の肩を、抑え込むように抱きしめた。
──近くに気配を感じて顔を上げると、蓮が沙耶を見下ろしていた。何があった、と目線で問う。何でもない、と首を振ると、それ以上は聞かず脚本に目を落とした。
ふと、沙耶はずっと訊けなかったことを口にする。
「……蓮くんってさ、うるはのことが好きだったよね」
蓮は一瞬沙耶の方を向いて、すぐに視線を戻す。その反応だけで、答えは聞かなくても分かった。
「じゃあ、頑張らないとね」
蓮は悲痛な顔をして、視線を逸らした。その表情を、沙耶は見つめていた。
客席の照明が消えた。舞台上が真っ暗になる。開演の時間が近かった。声を抑えて会話していた観客がぴたと静まり、息をひそめる気配がする。沙耶は立ち上がって踵を返した。
その間際に、消え入りそうな声で蓮が言った。
「……もう、やめろよ」
既に音楽のフェードアウトが始まっている。音が止まったら舞台に出て、演技を始めなくてはいけない。問答の時間はなかったから、沙耶は足を止めずに持ち場へ向かおうとした。舞台で演じることは、『死ぬまでにやりたかった十のこと』の最初に書かれた内容で、うるはが一番に願っていたことだ。失敗するわけにはいかなかった。
けれど、蓮は無遠慮にまだ言葉を続ける。
「まだ、あのノートを気にしてるのか」
「……蓮、声が大きい」
沙耶は声から表情を消して批難する。蓮の声はコントロールを失って、客席まで届いてしまいそうだった。
「もう十分だろ。名倉は自分の人生を生きていい」
「蓮」
「うるはの代わりなんて誰も求めてない。あいつはもういないんだよ」
「ねえ、蓮」
それは、蓮が何回も沙耶に対して言ってきたことだった。うるはの代役を演じる沙耶に大学で再会したときから、会うたびに彼は沙耶の演技を止めようとした。けれどその度に沙耶は彼を拒んできた。今回も沙耶は、困った顔をして笑う。
「だから、何の話? うるははここにいるよ」
「──っ」
沙耶は腹を立てていた。一丁前に傷ついた顔をしている蓮が羨ましかった。だって明らかに蓮が正しい。沙耶が〝うるは〟を演じ続けたところでうるはは戻ってこないし、それで誰かが救われるわけでもない。
かつてのうるはを知る誰もがあの先輩のように沙耶をうるはとして扱ってはくれないだろう。せいぜい浩平のような関係の浅い人間が、腫物を扱うように尊重してくれるだけ。命を絶ったうるはやその遺族の気持ちを、沙耶は裏切っている。
正しくない。正しくないけれど沙耶には他が思いつかなかったのだ。うるはを救えなかった自分が、他に償える方法など思いつかなかったのだ。
「ねえ、蓮。お願いだよ。私をうるはの代わりにしてよ」
まだうるはの十個目の願いがなんだったのか分かっていない。きっとそれが一番大切な願いで、それが見つかればうるはが死んだ理由だってきっと分かる。そうすれば、私はうるはを演じられる。うるはの代わりになれるはずだから。
「蓮にはそれが必要だよ。蓮の隣にはうるはがいなくちゃダメなんだよ」
うるはがいなくなって一番悲しんだのは蓮だった。なのにどうしてそんな顔をするの。
「蓮はさ、うるはのことが好きだったんだよね」
うるはならきっと君を受け入れた。だから私も君のことを受け入れるよ。うるはの代わりに。私のことはどう扱ったっていい。うるはにしたかったことを、全部私にぶつけてよ。だから、だから──
「お願いだから、まだうるはを死なせないでよ……」
いつの間にか、劇場は沈黙に包まれていた。音楽は消えて、手順通りに操作された照明が誰もいない舞台を照らしている。狭い劇場、裏手からの声は容易に客席まで届く。
──どういうこと? もう始まってる? 困惑する声が客席で呟かれた。
そのとき、上手のハケ口から沙耶が現れる。観客たちの視線は自然、彼女に集中した。沙耶の動きが止まって、前を向く。腕を広げて、笑顔を作った。ここから演劇が始まる。演技が始まるのだと、宣言するように口を開いて──。
──。観客たちは首を傾げた。舞台上の沙耶が、固まったまま喋らない。
十秒、二十秒。一分。舞台上の演出とするには長すぎる時間が過ぎて、観衆は再びざわめき始める。やがて、沙耶は踵を返して、舞台から逃げ出した。
* * *
逃げた。逃げ出した。
劇場の外に出るとそこは大学の学園祭に訪れた人混みでいっぱいで、すぐに沙耶は走れなくなってしまった。それでも周囲にはたくさんの人がいて、この中に隠れていれば誰にも見つからないような気がした。
立ち止まって、息を整える。膝に手をつくと、視界には周囲の人の足だけが映る。どの足も同じような靴を履いて、同じように沙耶の横をすり抜けていった。その中でしばらく立ち止まっていると、舞台を逃げ出してきた後悔が湧いてくる。
あの劇で、沙耶はうるはを演じるつもりだった。そうして自分の中でも区切りをつければ、もっと上手にうるはを演じられると思っていた。けれど──舞台に上がると、どうしても声が出せなかった。
前を見ると小さな特設ステージがあって、その上では学園祭に浮かれた学生たちが笑顔で肩を並べている。三人組の音楽バンド。一曲が終わったところなのだろう、お互いに親指を立てて称え合っていた。高校の文化祭演劇で、うるはも同じようにして出番後の沙耶を迎えてくれたことを思い出す。
思い返すと、涙があふれてきた。高校で、文化祭に向けて努力したあの時間。三人でふざけ合ったあの夏休み。うるはと過ごした日々。それを、沙耶はどうしても失いたくなかったのだ。
はじめは、インターネットの中だけだった。
VTuberには「中の人」がいて、「ありのままの自分」とは違うキャラクターを演じてもいいんだと思った。最初の頃は、うるはが帰ってきたみたいで楽しかった。自分の中に、うるはは生きているんだと感じられた。
けれど、だんだんと周りが見えるようになってきて、怖くなった。
周りはみんなうるはがいなくなって悲しんでいるのに、自分だけこんなふうに楽しんで、何をやっているんだろう。
うるはがいなくなったら、自分なんか誰にも好いてもらえるはずがない、何の価値もないと、思うようになった。
沙耶は、自分を殺したかった。現実でもうるはを演じて、自分をだんだんとうるはに寄せていった。見た目も、心もうるはに染めていって、自分なんて消えてなくなればいいと思った。
「名倉さん」
不機嫌そうな声。振り返れば、此香が沙耶を睨みつけていた。顎で背後をしゃくって、公演どうすんの、と訊いてくる。……どうしよう、と、弱弱しく沙耶は答えた。
「来てくれたんだね、コノちゃん」
「やめて、その呼び方」
「……ごめん、此香ちゃん」
「蓮に呼ばれたから来ただけ」
「そうなんだ。……また付き合って──?」
「ないよ、気まずい」
「……そっか」
「うん」
沙耶の足元を、乾燥した風が通り過ぎていった。秋の気配が近づいてくる。うるはの命日から、もう七か月近くが過ぎている。
「私はさ、うるはのこと嫌いなんだよね」
「……え」
「いつも嘘っぽい顔してたじゃん。楽しそうな顔して。私あの子が他の表情してるの見たことないよ」
「……そうだったのかな」
「あんまり真に受けないでよ。元カレの近くにいた女だから、私が勝手に嫌ってんの」
でもさ、と此香は言う。──完璧な人なんていないよ。誰からも嫌われない人なんていない。それを沙耶は受け入れなくてはいけない。
「人は死ぬんだよ」
沙耶は歯を食いしばって、小さく頷いた。
遠くから、蓮が手を振っている。沙耶が目を合わせると、すぐに引き返して劇場へ向かった。SNSのアカウントに通知が来る。『先輩が代役やってる。早く来い』
「行きなよ」
「でも──」
「いいんじゃない、舞台の上では演じても」
ほら、と此香に背中を押されて、走り出す。進みづらい人混みを、かき分けながら舞台へ向かう。
涙がこぼれそうになって上を向くと、秋晴れの空が目に染みる。ふと振り返って、人混みの中に知っている顔を探した。
知らない、知らない、沙耶の知り合いはどこにもいない。こんなとき、うるはならどうしただろうか。少し考えると、笑顔が漏れた。
右の腕を、高々と空に掲げる。人混みの真ん中で少しの注目を集めて、ささやかに声を上げる。
「みんなの心に一番星! 」
少し、息を吸って。
「……はじめまして。私は──名倉沙耶です」




