やおよろずの神々の風呂番になりました〜閉店後の高時給バイトに飛びついたらとんでもない世界でした〜
終末世界×ほのぼの
というお題の元書いてみたものですm(*_ _)m
「来週、世界が滅びるらしいよ」
ネットの噂だけに留まらずテレビニュースにもなっていた。だからそれを真に受けた私は、どうせ終わるならと定期預金を解約し、連日回らない寿司を食い、欲しかったブランドバッグを買い漁った。
しかし、予定の火曜日を過ぎても、空から隕石は降ってこなかったし、海が割れることもなかった。海面はどんどん高くなっているみたいだけれど。
ただ一つ確かなのは、私の銀行口座が完全なる『終末』を迎えたということだけだ。
財布の中身は、全財産で34円。
明日のパスタを茹でるガス代すらない私の目の前に、一枚の怪しい求人チラシがヒラヒラと舞い落ちてきた。
『急募!深夜の銭湯清掃&番台業務。時給5000円(住込み・まかない・タダ風呂つき)』
怪しい。怪しすぎる。だが、腹の虫が限界を告げていた私は、気づけばその『八尾萬湯』の暖簾をくぐっていた。
「ご、ごめんください……」
カラカラと音の鳴る古い引き戸を開けると、そこはまる昭和で時間が止まったかのような空間だった。使い込まれた木札の下駄箱、磨き上げられた板間、そして少し湿気を帯びた石鹸とお湯の匂い。海水が増え一部の都市が沈み、文明が傾きかけている外の世界とは無縁の、あまりにも平和な空気が漂っていた。
「はいはい。お湯かい? それとも……」
番台からひょっこりと顔を出したのは、腰をトントンと叩く小柄なしわくちゃのお婆ちゃんだった。
「あ、あの、ここの求人を見て来ました!」
震える手でチラシを指差すと、お婆ちゃんは細い目をさらに細めて、ニヤリと笑った。
「へえ、物好きもいるもんだねぇ。こんな夜更けの怪しい募集に飛びついてくるなんて」
「あの、本当に時給5000円なんですか? 私、恥を忍んで言いますが、今全財産が34円で……その……」
背に腹は代えられない。世界が終わらなかったせいで私の人生が終わりそうなんです、と必死に訴える私の顔を見て、お婆ちゃんは「ぷっ」と吹き出した。
「アハハ! あんた、顔に『限界』って書いてあるよ。いいよ、採用。私はもう年でね、夜は腰が痛くて起きてられないんだよ。だから夜中の店番は、あんたに任せるよ」
「えっ、でも……」
私はずっと不思議に思っていたことを口にした。
「この銭湯って、いつも夜の十時にはシャッターが閉まってますよね? なのにどうして十一時からの店番なんて……それに、履歴書とか面接は……」
私が言い終わるより早く、静かな脱衣所に『ぐきゅるるるるっ……!』という、とてつもなく情けない音が響き渡った。
「あ……」
「アハハハハ! 疑問を口にする前に、まずは腹ごしらえが先だね。ほら、ちょっと待ってな」
そう言うと、お婆ちゃんは「よいしょ」と立ち上がり、番台の奥の居住スペースへと引っ込んでいった。
数分後。
「ほれ、これでも食べな。腹が減っちゃ戦はできないからね」
戻ってきたお婆ちゃんの手から、ポン、と番台の上に置かれたのは、ほんのり温かいラップに包まれた不格好な大きなおにぎりと、湯気の立つほうじ茶だった。
「あ、ありがとうございます……っ!」
遠慮もなくかぶりついた瞬間、ボロボロと涙がこぼれた。具は塩鮭。ただの塩っぱいはずの鮭が、空きっ腹の胃袋と、ヤケクソで散財した後悔でズタボロになった心に、優しく染み渡っていく。
「美味しい……。おにぎりって、こんなに美味しかったんですね……生きててよかった……」
「大げさだねぇ。まあ、しっかり腹ごしらえしときな。……夜の11時からの常連さんたちは、ちょっとばかし『クセ』が強いからね」
お婆ちゃんは煙管のようなものをポンポンと叩きながら、ニヤニヤと私を見下ろした。
「何を見ても、悲鳴を上げないこと。それが時給5000円の条件だよ」
いったい何が待ち受けているというのだろう。
おにぎりを頬張りながら、背筋がぞくりとした。
ボーン、ボーンと、壁掛けの古時計が重々しい音で午後11時を知らせた。
「じゃ、あとは頼んだよ。戸締まりだけはしっかりねぇ」
お婆ちゃん店主は欠伸をしながら、奥の居住スペースへと引っ込んでしまった。
一人残された私は、番台に座りながらポツンと息を吐く。外から聞こえるのは、風の音と時折鳴く謎の虫の声だけ。世界が半分終わっているようなこのご時世、深夜の銭湯に客なんて来るのだろうか。
ガララッ!!
唐突に引き戸が勢いよく開き、ビクッと肩が跳ねた。
「おや! 今日から番台が若い娘っ子に代わってるじゃないか!」
元気すぎる大声と共に現れたのは、ド派手な花柄のモンペを履いたお婆ちゃんだった。いや、普通の「元気なお年寄り」というレベルではない。肌はツヤツヤで、何より彼女が床を踏みしめるたびに、古びた板の間からポンッ、ポンッと小さなフキノトウのような新芽が一瞬だけ顔を出しては消えている気がする。
……気のせいだ。きっと私が疲れているだけだ。時給5000円。私は何も見ていない。
「あ、いらっしゃいませ。大人、ええと……」
「アハハハ! あんた、随分とシワシワの顔してるじゃないかい! せっかくの若い身体がもったいないよ! ほれ、もっと胸張って、ピチピチのいいケツと〇〇(自主規制)を見せつけてやんな!!」
「ぶっ!? ちょっ、お婆ちゃん! 声デカい! 声デカいし言うことがハレンチすぎますって!!」
初対面の若者に向かって放たれた、あまりにもどぎつい下ネタ。私は慌てて周囲を見回したが、幸い脱衣所には誰もいない。
「なんだい、景気が悪いねぇ。若いんだから少しくらいハメ外したっていいじゃないか」
「ハメ外して全財産34円になったばっかりなんですよ……世界が終わると思って……」
「アッハッハッハ!!」
私の悲惨なカミングアウトを聞いて、モンペ婆ちゃんは腹を抱えて大爆笑した。番台がグラグラ揺れるほどの豪快な笑い声だ。
「最高だね、あんた! いやあ、最近の人間はどうも生きる元気が足りなくてつまらなかったんだが、バカなことやってスッカラカンになるまで命燃やしてるじゃないか! いいよ、あんたすごくいいよ!!」
「……褒められてるんですか、これ」
「大絶賛さ! いいかい、金がなくなったって、あんたのその命の瑞々しさまでなくなったわけじゃない。シワシワの顔して下向いてたら、いい男も、いい運気も、全部あんたの〇〇(自主規制)から逃げていくよ!」
「だからその単語は声に出さないでくださいってば!!」
顔を真っ赤にしてツッコむ私を見て、モンペ婆ちゃんは満足そうに「ガハハ!」と笑い、バスタオルを肩にかけて女湯の暖簾をくぐっていった。
「あー、今日のお湯は一段と気持ちよさそうだねぇ!」
嵐のようなお婆ちゃんが去った後、脱衣所には謎のフローラルな香りと、妙な活気だけが残されていた。
呆然としながらも、私は先ほどまでのどん底の気持ちが、いつの間にかどこかへ吹き飛んでいることに気がついた。
……まあ、そうだ。世界は終わってないし、私はまだ生きてる。あの下ネタ婆ちゃんに比べたら、私の悩みなんてちっぽけなものかもしれない。
嵐のようなお婆ちゃんが女湯へ消えていき、私がホッと息をついたのも束の間だった。
ガララッ!
「いやー、今日は外の空気が澱んでるねぇ。一番風呂空いてるかい?」
ガララッ! ガララッ!
「おや、新しい番台の姉ちゃんかい。よろしく頼むよ」
「ちょっと前つかえてるよ! 早く入りなさいな!」
引き戸が次々と開き、深夜11時過ぎだというのに、怒涛の勢いで「客」が暖簾をくぐってきたのだ。
(えっ、何!? 深夜の老人会の慰安旅行!?)
パニックになる私をよそに、ゾロゾロと押し寄せる客たちは、とにかく全員「クセ」が強すぎた。
雨も降っていないのに、なぜか足元にポタポタと水溜まりを作りながら歩くお爺さん。
ヤクザの組長みたいなコワモテなのに、動くたびにマイナスイオンのような澄んだ空気とヒノキの濃厚な香りを撒き散らすおじさん。
そして、マイタオルを首に巻きつけ「今日のサウナのコンディションはどうだ!?」と鼻息を荒くして入ってくるスキンヘッドのおじさん。
「ほら、貸しタオル一つ!」「私はリンスインシャンプーね!」
次々に番台に押し付けられる入浴料。
「はいはい! ええと、大人490円だからお釣りは10円……」
パニックになりながらも現金を捌いていると、ヒノキの香りを漂わせたおじさんが、500円玉と一緒にドサッと何かを机に置いた。
「姉ちゃん、釣りはいらねぇよ。それと、夜勤の差し入れだ。食いな!」
「あ、ありがとうございます……って、栗!? しかもこれ、茹でてない生栗じゃないですか!」
すると、おじさんは待ってましたとばかりにニヤリと笑った。
「そう、硬いこと言うなよ! ……生の栗だけに、硬いってな! ガハハハ!」
「…………」
ドヤ顔で言い放ったおじさんに、私は一瞬ポカンとしてしまった。
わざとだ。このおじさん、絶対にこのダジャレを言いたいがために、わざわざ生の栗を持ってきたんだ。
「……ふふっ、なにそれ。深夜に生栗でダジャレって……あははっ、くだらない!」
「おう! よく笑う姉ちゃんでいいな! じゃ、ゆっくり浸かってくるぜ!」
嵐のように笑い去っていくおじさんの背中を見送りながら、私は手の中の生栗を見つめてケラケラと笑い続けた。
なんだこれ。深夜の番台で、見知らぬおじさんのダジャレに笑ってる私。全財産34円なのに、なんだかすごく楽しいかもしれない。
ツッコむ暇もなく、次は水溜まりを作りながら歩くお爺さんが申し訳なさそうにやってきた。
「すまんねぇ、うっかり『今の金』を切らしちまっててね。お釣りはいいから、これで頼むよ」
「えっ? は、はい……って、こ、小判!? 本物の小判!?」
「アハハ、婆さんに渡しとけばいいんだよ!」
◇
「……ハァ、ハァ……ッ」
嵐のような来店ラッシュが落ち着いた頃には、時計の針は11時半を回っていた。
「……時給5000円、全然割に合わないじゃん……」
私は机に突っ伏した。しかし、不思議と嫌な疲れではない。むしろ、彼らの圧倒的な活気にあてられて、さっきまで悩んでいた事が、どうでもよくなっていた。
「……とりあえず、見回りに行ってこよう。男湯の様子でも見るように言われてるんだった……」
気まずいが私は重い腰を上げ、男湯の暖簾をくぐった。
湯気で霞む浴室には、常連客たちが気持ちよさそうにお湯に浸かっている。問題はなさそうだ。
そう思って、奥にあるサウナ室の前に差し掛かった、その時だった。
「シュゥゥゥゥーーーッ!!」
サウナ室の扉の向こうから、熱した石に大量の水をぶちまけたような激しい音が響いた。
(えっ、なに!? 火事!?)
慌ててサウナ室の分厚い扉を開けた瞬間、暴力的なまでの熱風が顔面を殴りつけた。
「アッッツ!!! なにこれ!!?」
「おや? 若者よ。自ら試練を求めに来るとは感心だな」
もうもうと立ち込める蒸気の中、最上段のベンチに仁王立ちしているスキンヘッドのおじさんがいた。先ほど「今日のサウナのコンディションはどうだ!?」と鼻息を荒くしていたマイタオルのおじさんだ。
おじさんは、巨大なバスタオルを両手に構え、目をギラギラと輝かせていた。
「あ、いや、私見回りに来ただけで……」
「甘い!! 今日のロウリュは白樺だ。さあ、目を閉じて大いなる風を受け入れなさい!!」
「ちょっと待って、私服! 私、服着てま――」
バサァッ!!!
私の悲鳴を掻き消すように、おじさんがタオルを振り下ろした。
狭いサウナ室に、熱風が吹き荒れる。
「熱っ! 痛い痛い痛い!! 熱い!!」
「ハッハッハ! まだまだ! この程度でへこたれていては、明日の世界は生きられんぞ!」
逃げようにも、おじさんが放つ凄まじい風圧で扉にへばりついてしまい、動けない。全身の毛穴という毛穴から、数秒で滴る汗が噴き出す。
(死ぬ!! 蒸し焼きにされる!!)
「よし、これで百八十の煩悩は吹き飛んだな!! 行け、若者よ! 水風呂が君を待っている!!」
「お、おぼえとけぇぇぇ……ッ!!」
私は這うようにしてサウナ室を脱出し、そのままの勢いで掛け湯をかぶり、服を着たまま水風呂へとダイブした。
ザパーーーーッ!!
「……あ、あぁぁぁ…………」
冷たい水が、火照り切った身体を急激に冷やしていく。
頭の奥がジンジンと痺れ、視界がぐわんと揺れた。そのままプカプカと水風呂に浮いていると、不思議なことに、全身の重さがスーッと消えていく感覚に陥った。
いわゆる「ととのう」というやつだ。
(……あ、なんにも、考えられない……)
全財産が34円なことも、世界が終わるかもしれないことも。
ただ、今の私には「水風呂が気持ちいい」という真実しかない。服のまま水風呂に入っているという異常事態すら、もうどうでもよかった。
「……風呂って、最高だな……」
私は、謎の人たちがもたらした理不尽な試練の末に、謎の幸福感を感じてしまっていたのだった。
翌日の夜十一時前。出勤した私は、番台でお婆ちゃん店主と一緒に、昨日の『生栗』をホクホクに茹でたものをモシャモシャと食べていた。
「美味しい……! 栗って茹でるとこんなに甘いんですね」
「だろ? 山の恵みだからねぇ。ほれ、もう一個食べな」
「ありがとうございます。……あ、そういえばお婆ちゃん」
私は口の周りについた栗の欠片を拭いながら、ずっと気になっていたことを切り出した。
「昨日の夜に来たお客さんたち、一体何者なんですか? 小判で支払いするし、サウナで竜巻みたいな風を起こすし……」
お婆ちゃんは熱いほうじ茶をズズッとすすると、何でもないことのようにポツリと言った。
「ああ、言ってなかったかね? あの方たちは、八百万の神さまたちだよ」
「へえ、神さま。……えっ、神さま!? ただのクセの強いヤバい老人会じゃなくて!?」
「神さまだって歳は取るし、肩も凝るんだよ。外の世界はもうすぐ終わっちまうだろ? だからその前に、うちの風呂で羽を伸ばしてるのさ」
「世界の終わり……神さま……」
あまりにも壮大なスケールの話に、私は手の中の茹で栗を見つめた。
普通ならパニックになるところだが、昨日すでに強烈な熱波で強制的に「ととのって」しまった私の脳は、驚くほど冷静だった。
それに、この茹で栗はびっくりするほど美味しい。
「……まあ、いいか。神さまだろうと何だろうと、時給五千円とこのまかないがもらえるなら、私にとっては最高のお客さんです」
「アハハ! あんた、本当に肝が据わってるねぇ!ほら、昨日の分の給料渡しとくよ。日給一万円。ちゃんと稼いだね」
渡された一万円札を握りしめ、私は心の中でガッツポーズをした。
やった! これで全財産三十四円から脱却できる! 明日の出勤前は、豪華なコンビニ弁当と新作スイーツを買ってやる……!
◇
しかし、そのささやかな野望は、三日目の出勤前に脆くも崩れ去った。
「……お婆ちゃん。私、元の全財産三十四円と合わせて、今の全財産が1,359円になりました……」
出勤するなり番台で膝から崩れ落ちた私を見て、お婆ちゃんは不思議そうな顔をした。
「なんだい? 早速寿司でも食ってきたのかい?」
「違いますよ……。今日コンビニで弁当買おうと意気揚々とスマホを出したら、『口座残高不足につきスマホ代8,675円が引き落とせませんでした。至急お支払いください』って無慈悲な通知が出て……泣きながらレジで払ってきたんです」
私は絶望に満ちた目で、天を見上げた。
「ていうか私、今さらもっとヤバいことに気づいちゃったんですけど……。明日、先月のスーパーの食費とか光熱費を切った『クレジットカードの引き落とし日』が来るんです! 定期預金を解約した現金は、全部ヤケクソの寿司とバッグに消えちゃったのに! 日給一万じゃ絶対足りない……終わった……私の人生、今度こそ完全に終末を迎える……!」
私の嘆きを聞いて、お婆ちゃんは「アハハハ!」と番台を叩いて大爆笑した。
「あんた最高だね! どんなに世界が傾いても、資本主義のシステムと先月の生活費の請求だけは、最後までしぶとく生き残るもんさ!」
「笑い事じゃないですよぉ……1,359円じゃ、今日買おうと思ってたコンビニの新作スイーツも買えないのに……」
私が項垂れていると、ちょうど男湯の暖簾をくぐろうとしていた山の神が、ドサッと昨日よりもさらに大きな麻袋を番台に置いた。
「姉ちゃん、今日の差し入れだ! 食いな!」
「あ、ありがとうございます……って、また栗!? 初日も昨日ももらったのに!? しかも量めちゃくちゃ増えてないですか!?」
ツッコむ私を見て、おじさんはガハハと豪快に笑った。
「おう! 今年は山で栗が採れすぎて困っててな! 毎日持ってくるから遠慮すんな!」
「いや、毎日栗はさすがに飽き……」
「そう、硬いこと言うなよ! ……生の栗だけに、硬いってな! ガハハハ!」
(……まだ言ってるよ、このおじさん)
私はツッコミを放棄し、神様の差し入れという名の『大量の生栗』をまじまじと見つめた。
……よく考えたら、このバイトは「まかない・タダ風呂つき」だ。お婆ちゃんがこの栗を美味しく茹でてくれるし、おにぎりだって出してくれる。
つまり、私は「自分の好きな新作スイーツが買えなくなった」だけで、当面の生存は完全に保証されている。
茹でた栗は美味しいし、何より今の私にとって、この栗たちは確実にクレカ引き落とし日を生き延びるための、頼もしすぎる命綱なのだ。
そこから数日、私の奇妙で賑やかな深夜バイトが続いた。
そして迎えた、バイト四日目の夜。
ついに恐れていた『クレジットカードの引き落とし日』が過ぎ、私の口座残高は正真正銘の「ゼロ(未払い分は自動的にリボ払いへ移行)」となった。
客が引いた後の女湯で、私はデッキブラシを使って床のタイルを磨きながら、この世の終わりのような深いため息をついていた。
「……はぁ。やっぱり私、バカだったなぁ」
いくらこの銭湯のまかないが美味しくても、ふとした瞬間に現実が襲ってくる。どうせ世界が終わるからと、回らない寿司を食べ、ブランドバッグを買い漁ったあの時の自分を全力で殴りたい。
「なんだい、またシワシワの顔をしてるねぇ」
「わっ! 豊穣の女神のお婆ちゃん! もう閉店時間ですよ!?」
振り返ると、モンペ姿の豊穣の女神が、ケロリン桶に座って私を見ていた。
「あんた、ついにクレカの引き落としが来たんだろ。いいじゃないか、パーッと使っちまったんだから」
「よくないですよ。世界が終わるにしても、終わらないにしても、私にはもう借金しか残ってないんですから」
私が自嘲気味に笑うと、お婆ちゃんは立ち上がり、ひび割れた床のタイルをそっと指先で撫でた。
すると、タイルの隙間から淡い光を放つ一輪の小さな白い花が咲き、そして数秒でふっと枯れて土に還っていった。
「……綺麗」
「そうだろう? 花はね、いつか枯れる(終わる)って分かっていても、咲くために全エネルギーを使い切るんだよ。あんたも同じさ」
お婆ちゃんは私の背中をバンッと力強く叩いた。
「あんたは世界が終わる前に、自分の命を全力で燃やして寿司を食い、欲しかったものを買った。その『生きたい』『楽しみたい』っていう凄まじい熱量は、絶対に無駄なんかじゃない。アタシら神さまは、そういう人間のバカみたいな熱気が大好きなんだよ」
「……無駄じゃ、ない?」
「ああ。空っぽになったんなら、またここでお湯に浸かって、新しい熱を溜め込めばいい。あんたのその空っぽの財布は、命を燃やし尽くした立派な勲章さ!」
ガハハと笑うお婆ちゃんの声が、湯気と一緒に浴室の天井へ吸い込まれていく。
私は手元のデッキブラシを握り直し、少しだけ前を向いて笑った。なんだか、ゼロになった自分の口座残高が、少しだけ誇らしく思えた。
――なんて、美しくて感動的な余韻に浸っていたのも束の間だった。
「やぁやぁやぁ! そこのお姉さん、なんか僕とすっごくおんなじ匂いがするねぇ~!」
深夜一時。引き続きデッキブラシで閉店作業の床磨きをしていた私の背後に、不意にチャラい声が響いた。
振り返ると、首元がダルダルに伸びた深めのVネックのTシャツに、毛玉だらけの偽ブランドのジャージを着た若い男が立っていた。金メッキがハゲかかったネックレスをジャラジャラさせ、サンダルの底はすり減ってペラペラだ。
「えっ……ちょ、ちょっと! ここ女湯ですよ!? あの、どちら様ですか!?」
「いやー、店に入った瞬間ビビッときちゃってさ! お姉さん、さては『口座残高ゼロ』どころか『クレカの未払い分を自動リボ払いに移行させた』特有の、最高に香ばしい貧乏オーラ出てるっしょ!」
「なっ……人の話聞いてないし、なんでドンピシャで分かるんですか!?」
男は私の周りをウロウロしながら、犬のようにクンクンと鼻を鳴らした。
「分かる分かる~! 僕、貧乏神の『ぷーたろー』だよーん! 僕も今、所持金マイナスだからさ! 類は友を呼ぶっていうか、運命感じちゃうな~!」
「……ぷーたろー? っていうか、神様なのに無職なんですか!?っていうか靴!ここ土足厳禁ですよ!!」
「そう! 毎日プラプラしてるよーん! ねぇねぇ、クレカの枠、何に使ってパンクさせたの? 暗号資産? それとも回らない寿司?」
「す、寿司とブランドバッグに現金使い過ぎただけで枠はパンクさせてないですっ!」
「サイッコ~! その後先考えないヤケクソ感、マジで推せるわ~!」
ぷーたろーがハイタッチを求めてきたその時、奥の居住スペースのふすまがピシャッと開き、パジャマ姿のお婆ちゃん店主が眠い目をこすりながら顔を出した。
「……こんな夜中に騒がしいねぇ、せっかく寝てたのに。こら、貧乏神。うちの可愛いバイトをからかうんじゃないよ。塩撒く前にさっさと風呂に入りな」
お婆ちゃんに怒鳴られても、チャラい貧乏神は「あちゃー」と笑って全く堪えていない。
「お婆ちゃん厳しいな~! ま、そういうわけで、お姉さんマジで僕とお揃いだから、今日から毎日会いに来ちゃうね!」
「来ないでください! 私はちょっとリボありますけど、ここでちゃんと週五で働いてます!! 一緒にしないでください!!」
私が全力で拒絶するのをスルーして、ぷーたろーはチャラチャラとサンダルを鳴らして番台のほうへ向かった。
「お婆ちゃーん、今日もいつもの『ツケ』でよろぴくー!」
「……あんたのツケ、もう『来世』まで回しても返しきれない額になってるよ。次の世界じゃ、死ぬほど重労働してもらうからね」
「あははー! 来世の僕のポテンシャルに期待しててよーん! じゃ、お先にお湯いただきまーす!」
ぷーたろーはペラペラのサンダルを脱ぎ捨て、一切の悪びれもなく男湯の暖簾をくぐっていった。
「えっ、ちょ……今から入るの!? もう閉店作業してるのに!?」
私が呆然と突っ込むと、お婆ちゃん店主がやれやれと肩をすくめた。
「あいつは金だけじゃなく、時間にもルーズなんだよ。まったく、迷惑かけてるねぇ。……今日の分、ちゃんと残業代は出しとくから、頼んだよ」
「ざ、残業代! ありがとうございます!」
お婆ちゃんに言われ、私は手元のデッキブラシをギュッと握り直した。
お金はヤバいし世界は終わるけど、あの神様とだけは絶対に同じ枠に入りたくない。さっき女神さまにもらった「誇り」はどこへやら、私は『深夜割増の残業代』という甘美な響きに現金なやる気をみなぎらせながら、女湯の床をいつも以上にピカピカに磨き上げたのだった。
バイト五日目。
今日も山の神の差し入れは、大量の『生栗』だった。
前日貰った栗をお婆ちゃん店主がホクホクに茹でてくれている。ここ最近、番台でモシャモシャとお客さんとお裾分けしながら食べている。日に日に剥くのが上手くなってきた。
「……おじさんの山も、いつかなくなっちゃうんですか?」
私がふと尋ねると、おじさんは茹で栗を放り込みながら、あっけらかんと頷いた。
「ああ。外の世界の海面が上がってきてるからな。俺の山も、いずれ水没するだろうよ」
「そんな……悲しくないんですか?」
「うーん、そうだな」
おじさんはゴツゴツした手で、綺麗に剥いた大きな栗を一つ、私に差し出した。
「山が沈むのは寂しいが、こうやって最後に、俺の山で採れた栗を『美味い』って言いながら食ってくれる姉ちゃんがいる。それだけで、俺の山が存在した意味は十分にあったってことさ」
私は、黄金色に輝く茹で栗を見つめた。
「……私には、何もありません。特別に誇れる事もしてこなかったし、家族も遠くにいてもう会えないし。世界が終わる時、私が生きてた意味なんて、何一つ残らない気がして」
するとおじさんは、大きな手で私の頭をガシガシと乱暴に撫でた。
「硬いこと言うなよ! 姉ちゃんは今、俺の栗を食って『美味い』って言った。疲れたら風呂に入って『気持ちいい』って笑う。それが全てだろ」
「えっ?」
「人間が『温かい』とか『美味い』って笑うこと以上に、神さまへの立派なお供え物なんてねぇんだよ。姉ちゃんは毎日、最高の仕事をしてるじゃねぇか」
鼻の奥が、ツンと痛くなった。
私は慌てて栗を口いっぱいに頬張り、ボロボロとこぼれそうになる涙を必死で誤魔化した。
「……っ、本当に、めちゃくちゃ美味しいです、今日の栗も」
「ガハハ! だろ? ほれ、ほうじ茶も飲め!」
私はもう、世界が終わることなんてどうでもよくなっていた。
特別な何かになれなくてもいい。ただ、美味しいものを美味しいと感じて、温かいお湯に浸かって幸せだと笑う。それだけで、私の人生は完璧に肯定されていたのだ。
「あの、テレビでも『火曜日に世界が滅びる』って言ってたのに、なんでまだ終わってないんですか? もしかして、滅亡自体が嘘だったんですか……?」
私がすがるようなジト目を向けると、お婆ちゃんは呆れたように煙管をポンと叩いた。
「あんたねぇ、神様なんてのは、基本『自分勝手で気分屋な奴ら』の集まりなんだよ。人間の都合なんか知ったこっちゃないのさ」
「そうそう。本当は火曜にきっちり終わらせる予定で、担当のやつらも色々と大掛かりな『滅亡の準備』を進めてたんだがな」
山の神のおじさんが、茹で栗を放り込みながらあっけらかんと言い放つ。
「いざ当日になったら、そいつら『あー、なんか準備だけでめちゃくちゃ疲れちゃったわ。今日はもう無理、寝る。続きは来週にしよ、来週~』って、途中で投げ出しちまったんだよ」
「……は?」
「だから完全な滅亡は、そいつらのやる気が戻る1週間後にズレ込んだんだわ」
「……え!? 準備に疲れたから!? 文化祭の前日に燃え尽きちゃった高校生みたいなノリで、世界の滅亡を一旦停止したんですか!?」
ガハハと笑いながらフルーツ牛乳を飲み干す神様たちを見て、私は手元のモップからズルッと力が抜け、ポカーンと呆然とするしかなかった。
怒る気力すら湧いてこない。
さっきまでの私の感動の涙を返してほしい。怒る気力すら湧いてこない。
担当の神様の『準備疲れ』なんていうしょうもなすぎる自分勝手な都合のせいで、私の人生(口座残高)だけが先に終末を迎えてしまったのだ。
バイト六日目。
私は常連の神さまたちとすっかり顔なじみになり、今ではタメ口で冗談を言い合えるほど仲良くなっていた。
最近、神さまたちはお湯から上がってフルーツ牛乳を飲みながら、よくこんな不思議な話をしている。
「山の神のじいさん、その栗の種は『次の世界』にも持っていくのかい?」
「おう! 次の山にも絶対植えるぞ。花の匂いが臭いからちょいといじるがな! あと、ここの『フルーツ牛乳』の味も、向こうでどうにか再現できねぇかな」
「アタシは次の世界じゃ、もう少しあちこちで『温泉』が湧きやすいように大地を整えようかねぇ。どうも最近、肩が凝ってしょうがないからね」
『次の世界』
外の終末が数日後に迫っているからか、彼らはまるで「来週からハワイに引っ越す」か「家の模様替えをする」くらいの軽いテンションで、来世への持ち物や設定の話をしている。
(神さまたちも、終わる世界の名残を惜しんでるのかな……)
そんな会話を聞きながら、私は少しだけしんみりしたりもした。
深夜一時。客が引いた後の脱衣所で鏡を磨きながら、私はふと、心の奥に引っかかっていた『思い残し』を口にしてしまった。
「あーあ。どうせ世界が終わるなら、ヤケクソでブランド品なんて買わずに、せめて恋人くらい欲しかったなー!」
誰もいないと思って吐き出した盛大な独り言だったが、番台の横から「ふぉっふぉっ」と笑う声が聞こえた。
見ると、やたらと派手なアロハシャツを着たあまり見慣れないお爺さんが、フルーツ牛乳を飲んでくつろいでいた。
そういえば昨日、お婆ちゃん店主が「明日は縁結びの神さまが来るよ」と言っていた気がする。
「おや、番台の嬢ちゃん。ご縁がないと嘆いておるのかね?」
「そうですよ。私の人生、結局ロマンスのロの字もないまま終わっちゃうんですから」
私が口を尖らせて鏡をキュッキュと拭いていると、縁結びの神さまはニコニコしながら尋ねてきた。
「嬢ちゃん。今日、お前さんは何人と話したかね?」
「えっ? ええと……」
私は手元のダスターを握り、指を折りながら答えた。
「毎日生栗持ってくるおじさん(山の神)でしょ、下ネタ全開のお婆ちゃん(豊穣の女神)でしょ、店主のお婆ちゃんでしょ……あっ、あと今話してる縁結びの神さまで、四人ですね」
すると、縁結びの神さまは空になった牛乳ビンをポンと置き、アロハシャツの胸ポケットから小さな『赤い糸玉』を取り出した。
「ほれ、見てみい」
神さまが指を弾くと、赤い糸玉がするすると勝手にほどけ、淡く光りながら宙を舞った。
一本は、先程引き戸を抜けて、夜の街へ帰っていった山の神のおじさんの方へと真っ直ぐに伸びていき。
一本は、女湯の暖簾の先、同じく帰り道を歩くであろう豊穣の女神のお婆ちゃんへと繋がり。
一本は、奥の居住スペースで帳簿をつけている店主のお婆ちゃんへ。
そして最後の一本は、私の小指へとふわりと巻きついた。
「えっ……なに、これ」
「人間は恋人同士の糸ばかり見たがる。じゃが、本当に人生を支えておるのは、こういう糸の方じゃよ」
神さまは優しく目を細めた。
「毎日栗をもらって呆れたり、お節介な婆さんたちと笑い合ったり……それらすべてが、嬢ちゃんが結んでみせた大切な『ご縁』じゃ。嬢ちゃんの人生は、ちっとも孤独なんかじゃないさ」
「……っ」
自分の小指に繋がり、それぞれの温かい人たちへと伸びていく赤い糸を見つめていると、不意打ちで投げられた言葉に、思わず言葉を詰まらせた。
縁結びの神さまは「いい湯じゃった!」と上機嫌で手を振り、ガラガラと引き戸を開けて夜の闇へと消えていった。
その瞬間、宙を舞っていた赤い糸も、ふっと湯気に溶けるように見えなくなった。
私はピカピカになった鏡に映る自分を見つめ、思わずふふっと吹き出してしまった。
……なんだこれ。なんで私、深夜の銭湯バイトで、毎日毎日こんなに『良い話』ばっかり聞かされてるんだろう。
彼氏もいないし、全財産は相変わらずだ。
それなのに、不思議と私は少しも寂しくなかった。胸の奥が、お湯に浸かっている時のようにじんわりと温かかった。
バイト七日目。
ついに噂されていた『世界が終わる日』がやってきた。
夜になるとテレビの放送はすべて砂嵐になり、外の街灯も消え、世界は不気味なほどの静寂に包まれていた。
普通ならパニックになるところだが、私はいつも通りエプロンをつけ、銭湯の番台に座っていた。だって、今日は私のシフト日だからだ。
深夜十一時。今日の銭湯は、いつも以上に賑やかだった。
豊穣の女神、山の神、縁結びの神さまをはじめ、常連の神さまたちが勢揃いして、男湯と女湯の仕切り壁越しに大声で何やら話し合っている。
「いいか、次の世界は重力をあと十パーセント軽くするぞ! 最近どうも膝が痛くてかなわん!」
山の神のおじさんが叫ぶ。
「賛成! あと、アタシはもう少しあちこちに温泉を湧かせるよ。今の世界はアスファルトばっかりで冷えすぎたからねぇ」
「ワシは人間たちがもっと気軽に集まれるように、街の設計を少し変えてみようかのう」
神さまたちの会話を聞きながら、私は番台で生栗の皮を剥いていた。
彼らが話している『次の世界』への模様替え。どうやらそれは「終わる世界を惜しむ比喩」なんかではなく、マジでガチの『新世界・新装オープンに向けた企画会議』らしい。
「あの……」
私は剥き終わった栗をタッパーに入れながら、ずっと気になっていたことを口にした。
「おじさんの山が沈むくらい海面が上がってるって言ってましたけど、結局、地球ってどうやって終わるんですか? 隕石とか?」
すると、お婆ちゃん店主が呆れたように笑った。
「隕石なんか落としたら、散らかって片付けが面倒じゃないか。新しい世界を作る前に、一回地球を丸洗いしようと思って、ここ数年ずっと『お湯』を張ってたのさ」
「……はい?」
「だから、海面が上がってたんだよ。そろそろ地球も、肩までしっかりお湯に浸かった頃合いだろ」
地球規模のスケールのデカさと、やってることの生活感のギャップに、私は開いた口が塞がらなかった。
人間たちが「異常気象だ」「氷河が溶けている」と大騒ぎしていた海面上昇の正体は、神様たちの『地球の丸洗い(お湯張り)』だったのだ。
私が絶句していると、不意に、銭湯の古時計が『深夜零時』を知らせる鐘を鳴らした。
ゴーン、ゴーン、と響く音に合わせて、男湯から山の神のおじさんが豪快に叫んだ。
「おお! 沸いた沸いた! よし、地球の栓を抜けーッ!」
ズゴゴゴゴゴ……!!
その瞬間、窓の外の景色が、ものすごい勢いでお湯が抜けていくかのように真っ白な湯気に包まれた。
音もない、痛みもない、ただただ巨大なお風呂の栓を抜いたような、とても穏やかな『世界の終わり』だった。
「おや、終わっちまったねぇ」
店主のお婆ちゃんが、ほうじ茶をすすりながら真っ白になった窓の外を見て呟いた。
浴室からも「よし、それじゃあそろそろ次の世界の立ち上げに行くか!」という神さまたちの明るい声が聞こえてくる。
あぁ、本当に終わっちゃったんだ。
私がぼんやりしていると、お婆ちゃん店主がふり向き、ポンと私の肩を叩いた。
「さて。あんたも支度しな」
「……えっ?」
「えっ、じゃないよ。向こうの世界に行っても、この銭湯は営業するんだ。あんたにも今まで通り、深夜のシフトに入ってもらわないと困るからね」
「わ、私も、次の世界に行っていいんですか!?」
驚いて聞き返すと、男湯の暖簾をバサッとくぐって、山の神のおじさんが濡れた髪を拭きながら出てきた。
「当たり前だ! 姉ちゃんが俺の栗を茹でて『美味い』って笑ってくれねぇと、新しい山を作る張り合いが出ねぇんだよ!」
続いて、豊穣の女神や縁結びの神さまたちも次々と上がってきた。
「そうさ! あんたがピカピカに磨いた鏡じゃないと、どうも調子が出なくてね」
「それに、時給五千円のバイト、まだ辞めたくないじゃろ?」
神さまたちが、みんなして私を見て笑っている。
縁結びの神さまが言っていた通りだ。私には、こんなにも温かくて、頼もしくて、ちょっとお節介な『繋がり(ご縁)』がしっかり結ばれていたのだ。
私は、手元にあった茹で栗を一つ口に放り込み、ゴクンと飲み込んでから、満面の笑みで頷いた。
「はいっ! 行きます! シフト、週五でガッツリ入れます!!」
私の元気な返事を聞いて、神さまたちは「ガハハ! 頼もしいねぇ!」と大爆笑した。
彼氏もいないし、全財産は相変わらずだ。
私の借金が次の世界に持ち越されるのかどうかは、まだ分からない。でも、時給五千円で、まかないとタダ風呂がついてきて、こんなに素敵な常連さんたちがいる職場があるなら、私の人生はきっとこれからも安泰だ。
「よし! それじゃあ、新しい世界へ出発だ!」
お婆ちゃん店主の掛け声と共に、銭湯全体が温かい光と真っ白な湯気に包まれていく。
そしてその眩い光の中で――信じられないことが起きた。
「おおっ! 膝が全然痛くねぇ! やっぱ重力減らすと最高だな!」
振り返った山の神のおじさんは、ゴツゴツした筋肉を持つワイルドな超イケメン青年に若返っていた。
「うむ、肌のツヤもバッチリじゃ」
縁結びの神さまも、派手なアロハシャツをサラリと着こなす爽やかなイケメンに変わっている。
豊穣の女神に至っては、息を呑むほどのグラマーな絶世の美女になっていた。
「えっ……!? ちょ、みなさん!? どうしたんですかその姿!?」
驚いて叫ぶ私に、一番前を歩いていたお婆ちゃん店主が振り返った。
曲がっていた背筋はピンと伸び、シワ一つない透き通るような肌と、太陽のように輝く長い髪を持った、とんでもなく美しい少女がそこで悪戯っぽく微笑んでいた。
「何言ってんだい。新しい世界が始まるんだから、アタシも一番ピチピチの姿にならないとね。これでも一応、神さまをまとめる最高神の『天照』なんだからさ」
「あ、アマテラス!? お婆ちゃんが、太陽の神さまだったの!?」
「アハハハ! さあ、行くよ! アタシたちの新しい職場へ!」
私はあんぐりと口を開けたまま、神々しいほどに美しく若返った神さまたちの背中を見つめた。
(やばい。こんなイケメンと美女だらけの職場なら、私の『ご縁』もこれからめちゃくちゃ期待できるのでは……!?)
出発する直前、私はふと振り返り、入り口の古い暖簾を見つめた。
一週間前。
全財産三十四円で、あの暖簾をくぐった。
あの時は、自分の人生なんて終わったも同然だと思っていた。
だけど今なら分かる。
あの日からが、私の本当の人生の始まりだったのだ。
私は脱衣所のモップをしっかりと握り直し、イケメンに若返った山の神から渡された『栗』をポケットに突っ込んで、真っ白な新しい世界へと勢いよく足を踏み出した。
(完)
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