第四話「白い耳の友人と、伸びる魔力」
あの日以来、リナは時々現れるようになった。
決まって朝早く、塀の上にひょいと座って洋二を待っている。最初に気づいたのはお春で、「若様、塀の上に化け物が」と大騒ぎになったが、洋二が「友人だ」と言い切ったので、それ以来黙認されることになった。
もっとも、お春は今でもリナを見るたびに小さく悲鳴を上げる。
「また驚かせた?」
ある朝、塀から飛び降りてきたリナが涼しい顔で言った。白い髪が朝の光を受けてふわりと揺れる。耳がぴょこぴょこと動いているのは、機嫌がいい証拠だと洋二はもう知っていた。
「お春さんは耳が苦手なんだと思う」
「耳?」洋二は言った。「俺は好きだぞ、その耳」
リナの頬がほんのり赤くなった。耳がぺたんと伏せる。
「……い、いきなり何を言うの」
「事実を言っただけだ」
洋二は本気でそう思っていた。ぴょこぴょこ動く白い耳は、感情が直接出るので情報として読みやすい。――などと分析しているあたり、自分でも大概だと思うが。
リナは咳払いをして話題を変えた。
「今日も魔法の練習?」
「ああ。見てるか?」
「見る見る」
リナは縁側に腰を下ろし、足をぶらぶらさせながら洋二を見た。その視線を背中に感じながら、洋二は庭に出て集中した。
今日の目標は、十五メートルだ。
意識を細く絞り、庭の隅に置いた石へと伸ばす。糸を手繰るような感覚。先週までは十三メートルで制御が乱れていたが、昨日初めて十四メートルを安定させた。今日はその一歩先へ。
石が浮いた。
ゆっくりと、丁寧に。十メートル、十一、十二――糸が細くなる感覚。十三メートル、ここからが壁だ。意識を引き絞る。十四メートル。
そして。
十五メートル。
石は静かに宙に浮いたまま、洋二の意識に従って左へ、右へ、円を描いた。三秒、五秒、十秒。制御が乱れない。
洋二はゆっくりと石を地面に戻した。
「……すごい」
リナが呟いた。縁側から身を乗り出して、大きな紫の瞳を輝かせている。
「前より遠くなった」
「少しずつな」
「妖精でもそんな魔法使える子、うちにはいないよ」
洋二は少し考えてから言った。
「リナは魔法が使えるか」
「使えるよ。妖精は風の魔法が得意なの」リナは手のひらを上に向け、小さく息を吹きかけた。すると掌の上で、小さな風の渦がくるくると回り始めた。「こんな感じ」
「なるほど」洋二は目を細めた。「その風、どのくらいの距離まで飛ばせる」
「うーん、強く出せば三十メートルくらいかな」
三十メートル。自分の倍以上だ。
洋二の頭の中で、何かがかちりと噛み合った。
遠隔操作魔法の弱点は射程距離だ。しかしリナの風魔法のような、遠距離に届く魔法と組み合わせれば――操作した物体を風で加速させることができる。石を操りながら、リナの風で押し出す。威力と射程、両方を補える。
「リナ」
「なに?」
「一緒に訓練しないか」
リナは少し驚いた顔をしたが、すぐに耳をぴんと立てて頷いた。
「いいよ。でも見返りに、洋二が族長に会いに来る約束、忘れてないよね」
「忘れていない」
「じゃあ決まり」
リナは縁側から飛び降り、洋二の隣に並んだ。小柄な体で、肩の高さがほぼ同じだ。白い髪が風に揺れた。
二人の共同訓練が始まった。
それからの数ヶ月は、洋二にとって充実した日々だった。
午前中は父との剣術稽古。午後はリナと魔法の合同訓練。リナの風魔法と洋二の遠隔操作を組み合わせる試みは、最初こそ噛み合わなかったが、繰り返すうちに少しずつ形になってきた。
洋二が石を浮かせ、リナが風を当てて加速させる。石は唸りを上げて飛び、二十メートル先の木の幹に深々と刺さった。
「やった!」リナが飛び跳ねた。耳がぴょんぴょん動く。
「もう少し角度を調整すれば、もっと精度が上がる」洋二は冷静に言いながら、内心ではガッツポーツをしていた。「ありがとうリナ、助かった」
「えへへ」リナは照れたように笑った。「洋二に役に立てて嬉しい」
そんなある日の訓練後、二人が縁側で休んでいるとき、リナが突然神妙な顔をした。
「ねえ洋二」
「なんだ」
「最近、山の空気がおかしい」
洋二は手を止めた。
「おかしいとは」
「人の気配が増えてる。山の北側、鷹羽国との境のあたり。妖精には人間より気配を感じる力があるから、わかるんだけど」リナは眉を寄せた。「普通の旅人じゃない。武器を持った、たくさんの人間」
洋二の頭が瞬時に回転し始めた。
鷹羽国との境に、武装した集団。時期は秋の収穫前。羽鳥国が一年で最も豊かになる時期だ。山を越えて奇襲をかけるなら、今が最適なタイミングだ。
「何人くらいだ」
「正確にはわからないけど……たくさん。百は超えてると思う」
百人以上の武装集団が山を越えようとしている。これは偵察ではない。本格的な侵攻の前触れだ。
「リナ、今すぐ父上に伝えていいか」
「うん、それで来たんだもん」
洋二は立ち上がった。四歳の体でできる限り早く、父の執務室へ向かう。廊下を曲がりながら、頭の中では情報を整理し始めていた。
敵の位置、数、侵攻ルート。こちらの戦力、地形の優位性、取りうる選択肢。
ゲームで言えば、敵の奇襲を事前に察知した状況だ。情報アドバンテージがある。使わない手はない。
父・左近は、息子の報告を静かに聞いた。
途中で遮ることも、疑うこともなく、最後まで聞いてから一言だけ言った。
「情報源は」
「妖精族の子です。信用できます」
左近は少し考え、立ち上がった。
「物見を出す」
「父上」洋二は続けた。「山の北側、二股に分かれる道の手前に、大きな岩場があります。あそこは地形が狭く、大人数が一度に通れない。そこで迎え撃てば数の不利を補えます」
左近は振り返り、息子を見た。四歳の子供が、地形を把握した上で迎撃案を出している。
「……お前は何者だ」
「橋部家の跡取りです」
洋二はまっすぐ父を見た。
左近は長い沈黙の後、小さく笑った。洋二が生まれてから初めて見る、父の笑顔だった。
「物見の結果次第だが……お前の案、考えてみよう」
その夜、洋二は布団の中でリナのことを考えた。
今日、リナが情報を持ってきてくれなければ、橋部家は奇襲に気づかなかったかもしれない。妖精族との繋がりは、想像以上に大きな価値を持つ。
そしてリナ自身も。
風魔法の扱いは洋二より遥かに上手い。戦闘経験はないが、センスがある。何より、洋二の魔法と組み合わせたとき、その相性は抜群だった。
仲間として、これ以上ない存在だ。
――もっとも、あの笑顔を見るたびに心臓が少し跳ねるのは、前世から変わらない女性への弱さのせいだと、洋二は自分に言い聞かせていた。
クールでいろ、橋部洋二。
お前はこの世界のIGLになるんだから。




