第三話「木刀と魔力と、最初の敵」
三歳になった洋二には、日課が三つあった。
一つ、朝に屋敷の中を一周して人の動きを確認すること。二つ、縁側で石や木の葉を使って遠隔操作魔法の訓練をすること。三つ、父・左近の剣の稽古を柱の陰から盗み見ること。
最後のひとつは、左近には内緒だった。
橋部家では、子供への剣術指導は五歳からと決まっている。体の骨格が固まる前に無理をさせると、後々支障が出るという家訓だ。だが洋二には待てない理由があった。
この世界では剣が最強だ。魔法は距離が短く、使える者も限られる。戦場の主役は剣を握る武者であり、いかに優れた指揮官であっても、最低限の武力がなければ舐められる。IGLがゲームの基礎操作を知らないまま指示を出しても、誰もついてこないのと同じだ。
だから学ぶ。今から。こっそりと。
父の素振りを見ながら、洋二は柱の陰で小さな枝を握り、同じ動作を繰り返した。体が小さすぎて様にならないのはわかっている。だがフォームだけは正確に覚えておきたかった。
「……隠れているつもりか」
低い声がした。
洋二は静止した。
柱の陰からそっと顔を出すと、父が素振りを止めてこちらを見ていた。汗ひとつかいていない。涼しい顔で木刀を肩に担いでいる。
「いつから」
「最初から」
洋二は観念して柱の陰から出た。枝を持ったまま父の前に立つ。睨まれると思ったが、左近の表情は怒っているわけでもなく、ただ静かに息子を見下ろしていた。
「見ていて何かわかったか」
「踏み込む前に、必ず右の肩が下がります」
沈黙。
父は少しだけ目を細めた。
「……それが癖だと気づくのに、お前の母は三年かかった」
「母上も剣を?」
「昔はな」左近は木刀を洋二の前に差し出した。「持ってみろ」
重かった。三歳の体では両手で抱えるのがやっとだ。だがなんとか構えの形を作ると、父は小さく頷いた。
「五歳まで待てと言いたいところだが」
「待てません」
「……そうだな」
それから毎朝、洋二の日課の三つ目が変わった。父との二人稽古にだ。本格的な指導ではなく、正しいフォームと体の使い方だけを教える、という条件で左近が折れた。洋二はそれで十分だと思った。型さえ正確に覚えれば、あとは自分で積み上げられる。
魔法の訓練も、着実に進んでいた。
遠隔操作魔法の感覚は、ゲームのコントローラー操作に似ていると洋二は感じていた。意識の一部を「手」として切り出し、対象物に絡みつかせる。最初は石一個を動かすのがやっとだったが、三歳になる頃には五個の石を同時に、別々の方向へ動かせるようになっていた。
問題は距離だ。
この世界の魔法が短距離に限られるという制約は、遠隔操作にも当てはまるらしく、今の洋二が確実に操作できる範囲はせいぜい十メートルほどだった。それ以上離れると、糸が絡まるような感覚になり、制御が乱れる。
十メートル。戦場では一瞬で詰められる距離だ。
範囲を広げなければならない。洋二は毎日少しずつ限界距離を押し広げる訓練を繰り返した。十一メートル、十二メートル。牛歩の進歩だが、確実に伸びていた。
ある日の訓練中、庭に見慣れない影が落ちた。
洋二は操作していた石をそっと地面に戻し、顔を上げた。
塀の上に、何かがいた。
小さい。人間の子供ほどの大きさだが、耳が長く、肌が薄い青みがかった白色をしている。目が合った瞬間、それはぱっと塀の向こうへ飛び降りた。
洋二は三秒考えてから、屋敷の門へ走った。
門の外の路地に、それはいた。
壁に背をつけて膝を抱え、小さく震えている。近くで見ると、耳は頭の上に二本、細長く伸びており、髪は雪のように白い。年齢は洋二と同じくらいに見えるが、実際のところはわからない。
妖精だ、と洋二は直感した。
父の話や使用人たちの噂で聞いたことがある。妖精族は人里に近い山や森に住む非人間種族で、人間とは基本的に不干渉の関係を保っているが、たまに迷子になった幼い妖精が里へ下りてくることがあるという。
「迷子か」
洋二が声をかけると、妖精の子はびくりと体を震わせ、大きな瞳でこちらを見た。瞳の色は薄い紫だった。
「……人間」
「そう。お前は妖精だろ」
「……なんで怖くないの」
「怖い理由がない」
妖精の子はしばらく洋二を見つめ、それからぽつりと言った。
「山道で転んで、帰れなくなった」
「山のどのあたりに住んでる」
「北の、大きな岩が二つ並んでるところの近く」
洋二は頭の中の地図を広げた。父の話から組み立てた周辺地形。北の山道は橋部家の管轄区域だ。二つの大岩は確か、山の中腹あたりにある目印として聞いたことがある。
「案内できる」
「……人間が山に入っていいの?」
「俺の家がこの山の管理をしてる。問題ない」
妖精の子はまだ迷っているようだったが、やがてゆっくりと立ち上がった。膝に泥がついていた。転んだのは本当らしい。
「……リナ」
「え」
「名前。リナ」
洋二は小さく頷いた。
「橋部洋二だ。行こう、日が暮れる前に」
山道は思ったより険しかった。
三歳の体で登るには堪える傾斜だったが、洋二は顔に出さなかった。リナは身軽で、岩や木の根をひょいひょいと飛び越えていく。人間の子供とは明らかに身体能力が違う。
山の中腹まで来たとき、突然リナが足を止めた。
「……誰かいる」
洋二も気配を感じた。
前世のIGLとしての索敵勘が、複数の人間の存在を告げていた。三人、いや四人。木々の間に隠れている。動きが荒い。訓練を受けた兵ではなく、山賊か野盗の類だろう。
「子供が二人か。金目のものは持ってるか」
木の陰から男が出てきた。汚れた着物に、腰に短刀。後ろに三人の仲間がいる。
洋二は状況を瞬時に整理した。
逃げるか。いや、リナは道を知らない。自分も地形を完全には把握していない。逃げて追われたら不利だ。
戦うか。三歳の体では無理だ。
では――
足元の石を見た。大小合わせて十個ほど。手頃な大きさのものが六個ある。
距離はおよそ八メートル。今の自分の操作範囲内だ。
「兄ちゃん」洋二は男を見上げて、静かに言った。「一つだけ忠告する」
「あ?ガキが何を――」
六個の石が、同時に宙に浮いた。
男の顔から表情が消えた。仲間たちがざわめく声が聞こえた。
「逃げろ」
洋二は低く言った。
石が男の顔の横をかすめ、背後の木に当たって乾いた音を立てた。六個、連続して。正確に、一定の間隔で。
男は一声叫んで踵を返した。仲間たちも悲鳴を上げながら山を駆け下りていく。あっという間に気配が遠ざかった。
静寂が戻った。
洋二は息を吐いた。内心では心臓が跳ね上がっていたが、表情は動かさなかった。クールに見せるのは得意だ。前世から変わらない。
隣を見ると、リナが丸い目でこちらを見ていた。
「……すごい」
「大したことじゃない」
「嘘だ。あんな魔法、人間には使えない」
「俺は少し特殊なんだ」
リナはしばらく洋二を見つめ、それからふっと小さく笑った。耳がぴょこんと動いた。
「洋二、強くなったらうちの族長に会わせてあげる」
「妖精族の族長に?」
「うん。洋二みたいな人間なら、うちの族長も悪く思わないと思うから」
洋二は少し考えた。
妖精族とのパイプ。それは橋部家にとって、いや羽鳥国にとっても価値がある。非人間種族との関係を築けるなら、将来の戦略の幅が大きく広がる。
「……約束する」
洋二はリナに手を差し出した。前世の癖で、握手のつもりだった。
リナは不思議そうな顔をしたが、小さな手でその手を握り返した。
山の木々の間から、夕日が差し込んでいた。
その夜、洋二は布団の中で今日の戦闘を振り返った。
石六個の同時操作、八メートルの距離。実戦で使えることは確認できた。だが威力が足りない。石をかすめさせただけで相手が逃げたのは、魔法への恐怖のおかげだ。本物の兵士が相手なら、あれだけでは止められない。
もっと強く。もっと速く。もっと遠く。
そしてもっと多くのものを、同時に動かせるようになれ。
ゲームで言えば、まだチュートリアルだ。
洋二は目を閉じた。
リナとの約束。妖精族との繋がり。父から学ぶ剣術。日々伸びる魔力の射程。
駒が、少しずつ揃い始めている。




