8 邂逅
この部屋に来るのはもう最後にしよう。そう思って志織は、先輩が消えてしまったあの日の翌日以来ずっと訪れることのできなかった扉の向こうに再び足を踏み入れた。あの日以来と言っても実質、十日ほどしか経っていない。でも志織は既にあれから季節が一巡してしまったような心地がした。これほどまでに、彼は自分の内を占めていたのか、と苦笑いにも似た嘲笑が込み上げてくる。先輩のいない世界は、笑ってしまうほど普段通りに過ぎていって、これが今まで自分の享受してきた生活なのだと、これが本当の正しい、己の信じる理に適った世の中なのだと、志織は日常の至る場面で、そう思わずにはいられなかった。
「ここの鍵、持ってる?」
片づける気も起きなかった、一か月ほど前に自分が用意した椅子に腰かけ、ぼうっとしていると、不意に誰かから声をかけられた。はっとして後ろを振り向く。一人の女性が音もなくドアを開けて、微笑んでいた。
「大山先生……」
志織は自分の顔から、さっと血の気が引いていくのを感じた。ここにいる理由を、咄嗟にうまく説明することができない。小刻みに震えだした手で、志織は資料室の鍵を握りしめた。
「この部屋がどうして造られたかまでは、私にもわからないんだけど」
ふくよかな手を自身の頬に添えて、大山先生は少しだけ目を伏せた。その目尻に浮かんだ皴から、志織の母親と同世代なのだろうと何となく感じられる。彼女の薬指には窮屈そうに収まる指輪が鈍く光っていた。
「たぶんこの新館が建てられてから図書委員になった誰かが、もともとは資料室として造られた部屋をどうやってか空けようとしたんじゃないかしら。いま資料室にあるファイルだって、本来だったら二部屋分ぐらいは必要な量だと思うし」
確かにここに来るまでに必ず通らねばならない資料室の床には物が散乱していて、歩くのも一苦労な状態だった。資料室としてきちんと機能はしているのかもしれないが、お世辞にも整理整頓されているとは言いがたい。
では、彼女はこの部屋の存在を知っていたのに、なぜ元の状態に戻そうとはしなかったのか。
「私も、見たんだ」
理由は一つしか考えられなかった。
「二年前の四月に赴任してきて、この部屋に入ったらね。……誰もいないのに、本のページが捲られていったの」
大山先生は志織と目を合わせて、なぜか少し心配そうに眉を寄せて笑った。
「あなたには、見えたのね」
彼女の慈愛に満ちた声を聞いて、渇いたと思っていたものが志織の目の奥で再び熱をもち始めた。とっくに先生は知っていたのだ。志織と茜が彼女にばれないよう鍵を借りて、そそくさと本棚に隠れた扉を開け、その奥で過ごしていたことを。目を瞑って何も見ていないふりをして、黙っていた。彼の存在を、彼がここにいることを、知っていたから。志織たちが気づくよりも、ずっと前に。
「男の子だった? 女の子だった?」
しかし先生の目に、先輩の姿は映らなかったらしい。それでも彼女は、ただ、本がここに運び込まれて、ページが捲られていくという事実だけを信じて、誰かがいることを疑わなかった。もしそれが自分だったら、彼を放っておけただろうか。目に映らぬものを信じ、誰かに共有しようとも思わず、一人その胸にとどめておくことができただろうか。
「男の、先輩、でした」
カラカラに渇いた喉に掠れた声が張りついていく。志織は膝に置いた手に視線を落として、再び鍵を握りしめた。鍵と手のひらはよくわからない汗で湿っている。金属の、つんとしたにおいが志織の鼻に届いたとき、「……そっか」と大山先生が呟いた。
「なんとなく、男の子って感じがしてたんだ。新聞紙の使い方とか、本の積み方とか見てると」
「私がときどき新聞を畳んできたり、新しいのと入れ替えたりしてたこと、あの子は気づいてたかしら」とまるで我が子を気遣う母親のように、ふうと彼女が息をついた。たぶん先輩はちゃんと気づいていたんじゃないかと思う。大山先生のことを、「図書室のおばちゃんが」と気軽に呼んでいたのを志織は憶えている。だから先輩は、突然思い出したかのようにそこらへんに散らばった新聞紙を片づけたりしていた。でも彼は大山先生がこの部屋のことを知っている、と志織に言ったことはなかった。志織と茜が先生に言わず、図書室の奥に忍び込んでいたことを彼は知っていたのだろう。
「おばさんの、ちょっとした楽しみだったのよ」
いたずらが見つかった子どものようにばつが悪そうに、けれど大山先生は朗らかに笑って言った。新聞紙が絶えないように古新聞を用意してくれていたのも彼女だったのだろう。大人だと思った。先生も先輩も。何も知らなかったのは、ともすると自分だけだったのではないか。
「独り占めしようとしたわけじゃ、ないんだけど。……彼、には、落ち着いて本を読める空間が、必要かなって思って」
もし大山先生が、彼のことを気味悪がって、この部屋を早々にただの資料室へと戻してしまっていたら。誰かに吹聴して、面白半分に監視するような真似事をしていたら。いったいどうなっていたのだろう。何かの怪談のように話が茜に伝わることも、志織が彼とともに時間を過ごすこともなかったかもしれない。
「もう彼は、ここには、いないのね」
志織は、「……はい」と小さく頷いた。それだけは、今の志織でも、はっきりと言えることだった。
夢のように楽しかった。
でも実際夢じゃなかったのだ。
彼がいた、という事実を、一番知っているのは志織で、一番思い知らされるのも志織だった。どんなに忘れようとしても、決して忘れることなんてできない。だってまだ、残っているから。授業を受けていても、夜眠ろうとしても、空を見上げていても。瞼の裏にはいつも彼の姿がちらついていて、容易く離れてはくれない。
「――少し、寂しくなるわ。もしかしたら本の神さまなんじゃないかって、ひとりでドキドキしてたから」
大山先生が、年のわりには可愛らしいつぶらな瞳を眼鏡の奥で爛々と輝かせる。教師という職種につく者たちを意味もなく毛嫌いする傾向のある茜が彼女に懐いている理由も今ようやくわかったような気がした。
先生からすればそうだとしても、志織にとってこの気持ちは、寂しい、なんて言葉だけでは収められない。そんな一単語で抑えられる想いじゃなかった。彼のことが恋しくて、恋しくて。また彼に「志織」って呼んでほしくて。笑ってほしくて。
でも先輩はもう、あの空の向こうにいってしまったから。
死んだら、どうなるの? 小学校に上がった頃、志織が両親に尋ねたら、母は「お空の星になるのよ」と言って、父は「炭素になるだけたい」と言った。母は夢のない父の発言に眉を顰め、父は父で、死ぬことに夢もなんもなかろうもん、と新聞を読みながらコーヒーを啜っていたのを何となく憶えている。志織の性格は、どちらかといえば父親似だった。死後の世界など、信じたことはない。天国とか地獄とか、極楽浄土とか。そんなの信じて、いったいなんの意味があるのだろうか。死んだあとのことなんて考えず、今という時間を精いっぱい生きていれば、それでいいじゃないか。そんなふうに、ずっと、ずっと、思っていたのだけれど。
「目に見えるもの、耳で聞こえるもの、科学が証明できるものだけをすべて信じとっても、それはこの世界を形作るほんの一部にしかすぎん」
先輩に出逢って、志織の考えは徐々に変わっていった。今では、死後の世界は別にあってもいいと思っている自分がいる。その存在を確かに信じているわけではないけれど。それが今生きている者たちの救いになるのなら。人生を終えたときに、もう一度逢いたい人がいるならば。彼らの意見をただ頭ごなしに否定するのではなく、自分なりによく考えてみよう、と。
「すみません、大山先生。……鍵を、勝手に持ち出してしまって」
部屋を出る際、ずっと握りしめていたため生温くなってしまった鍵を大山先生に渡す。本当はもっと謝らねばならないことがあるのはわかっているが、彼女は「いいのよ」と言って、志織を見て優しげに目を細めた。
「ここは、あなたたちが卒業したら、片づけることにするわ」
彼女が扉を閉めて鍵をガチャリと掛けたとき、志織はそれが、何かが終わってしまったような音に聞こえた。志織にとっては決別の音でもあった。
「でも、私は……、ここに来ることはもう、ないと思います」
図書室自体には自習に来ることもあるだろう。だが志織は、もう一度あの部屋に入ろうという気になれなかった。今日だって先輩との思い出が詰まりすぎた空間を直視するのに躊躇いながらも、勇気を振り絞ってやっと来たのだ。しかし大山先生は志織の答えに目をぱちくりとさせながら、「そうかしら」と意味深長に笑った。
「立花さん」
図書室を出たところで、ふと名を呼ばれる。振り返ると、一人の男子生徒がスリッパを脱いで自身のスニーカーを履いているところだった。
「長谷川くん」
彼は靴のつま先をトントン、と鳴らし、右手に持っていた筆記具と参考書類を左手に持ち替えながら志織の横に並んだ。
「立花さんって、いっつも図書室の奥ん部屋でなんしようと?」
「ときどき、木下さんも入っていきよったよね」と言われ、志織はそのとき初めて彼に話しかけられた理由がわかった。図書室のある新館と校舎のある本館を結ぶ渡り廊下を歩きながら、志織が「……えっと」と言葉を詰まらせる。
「幽霊と話してたって言ったら、長谷川くん信じる?」
冗談めかすように、だが本当のことを、志織は笑いながら告げた。長谷川と話すのは同じクラスだった一年のとき以来だが、隣の席になって小テストを採点し合った仲でもあるため、彼に笑顔を見せることに躊躇いはなかった。長谷川は、志織の発言に一瞬気をとられたのか、「え?」と歩みを止めたが、そのあとすぐに「幽霊かー」と苦笑した。
「……野球部のやつらが言っても全然説得力ないけど、立花さんが言うと、ホントの話に聞こえてくるわ」
引退試合から一か月経って、だんだん伸び始めた髪を搔きながら長谷川が言った。この時期の男子は日焼け止めを塗る者などまずいないため、みんな真っ黒けになっていく。長谷川もその内の一人で、半袖の開襟シャツから伸びる彼の腕は日に焼けて健康的な、夏の色をしていた。ずっと室内競技に携わってきた自分の白い腕と見比べて、志織が「うん」と頷く。
「ウソじゃ、ないんだよ」
そう。ウソじゃない。決してウソじゃないのだ。だがこれがもし、自分が信じるかどうかを問われる立場だったらどうなっていただろう。「何言ってんの」と嗤って相手にすらしていなかったかもしれない。
長谷川が「……へえ」と静かに相槌を打つ。それだけでは、彼が半信半疑なのかも、冗談と思っているのかも志織にはわからなかった。
「でもね、もう、成仏したみたい」
履き慣れたローファーの黒を見つめる。茜は一年の頃からスニーカー派だったが、志織はローファーを好んで履いていた。でもこの学校では一日の大半を土足で過ごすため、靴の踵がだんだんすり減っていくのは避けられない。ふと隣を歩く長谷川の靴を見て、大きいな、と志織は思った。高校生男子の足のサイズが平均でどれほどになるのかは知らないけれど、もしかしたら彼と同じくらいの大きさかもしれない。幽霊であっても、彼にはきちんと足があったのだ。床をすり抜けていかないよう、インソールまで入れて。
おそらく彼は、歩いて、いたかったのだろう。まだ自分はこの世界に存在している、ということを、人と同じようにこの足で歩けるのだと、何に対してというわけでもなく、ただ証明したかったのではないか。
今となってはもう、彼が本当は何を思っていたかだなんて知りようもないのだけれど。
「……そっか。それは、よかったね。あ、よかったって言っていいんか、俺にはようわからんけど」
この世に浮遊する霊が成仏するのは、一般的によいことなのだろう。長谷川の反応は志織にとって新鮮なものに思えた。
「うん」と再び目を伏せて頷く。
「これで、よかったんだよ」
何を悲しむことがある。わかっていたことじゃないか。あの日々がいつまでも続くとは、思っていなかった。でも、この日々がいつまでも続いてほしいと、心のどこかで願っていた。
そのあと長谷川からは何の追求もなかった。だが教室に戻るまで、彼との会話は途切れなく続いた。
そういえば長谷川くんのクラスと体育祭のグループ一緒だね、とか。団にはなんで入らなかったの、とか。キャラじゃないから、と長谷川に返されて、それもそうだね、と志織は首肯した。団というのはチアとは対に当たる、男ばかりで構成された応援組織のことだ。部活動の応援団とはまた違い、チアと並んで体育祭の時期にだけ組まれる、グループごとの花形みたいなものである。長谷川は野球部内では目立つポジションにいるけれど、大勢の前で彼が笑顔を振りまいてチアと踊る姿は志織にも想像できなかった。
志織の教室に着いたとき「じゃあね」と長谷川が軽く手を上げた。志織も「ばいばい」と手を振ってそれに返す。
「あ、長谷川くん」
志織が教室のドアを開けたところで、不意に動きを止めた。呼び止められた長谷川が「ん?」と首だけを回して志織のほうに顔を向ける。
「茜なら、彼氏いないよ。好きな人までは、わかんないけど」
志織が笑うと長谷川は「えッ」と声を裏返しながら表情を硬くした。彼の態度がわかりやすかったのではない。志織が変に敏いのだ。それに茜は、どうでもいい人にまで、自分の好きな本を紹介するような子じゃない。前に茜と彼の間でどんなやりとりがあったのかまでは知らない。だが、茜が四十代の俳優に熱を上げている姿は、ただのカモフラージュであることを志織は知っている。彼女はある一人の前だけでは借りてきた猫のように大人しくなってしまうのだ。それはもう、おいおいお前どこの誰だよ、と思わずツッコミを入れてしまうほどに。
長谷川は、「応援してるよ」とエールを送る志織に対し、何か言いたげな顔をして、でも何を言えばいいのか結局わからなかったのか、「あ、え、うん」と煮え切らない返事を返した。もう一度、「じゃあね」と彼に向かって手を振る。近いうちに何かが始まりそうな予感に、志織は少しだけ、沈んでいた心が晴れたような気がした。
*
「勝広は今、三年よね」
「はい」
病院内に組み込まれた外資系カフェの中で、藤田と勝広は向かい合わせに座り、軽い食事をとっていた。机上に並ぶサンドイッチの他に、藤田の手にはブラックコーヒー。勝広の手にはキャラメルフラペチーノ。藤田が「ようそんな甘いもん飲めるな」と言うと「好きなんすから放っといてください」と勝広が眉を顰める。藤田は自分が卒業して以来ずっと会っていなかった後輩が、その無愛想な顔に似合わず、実は甘い物好きであることをひとり思い出していた。
「――あんとき、後期も終わって、久しぶりにバイク乗るってなってさ。……浮かれとったんやと思う」
春休みやなかったら留年しとったかもしれん、と藤田はカップを机の上に置きながら呟いた。大学生になって最初の一年が無難に過ぎていき、試験も乗り越え、じゃあ走りに行きますか、とバイク友だちの三人と夜中に遠出した。まだ夜明け前で人もいなければ車もない。思えばあの頃は明らかに無茶な乗り方をしていた。制限速度なんか知ったこっちゃない。軽いノリでレースしようぜとなり、周辺地域をコースに見立て、山道なども組み込み、早速その愚行は始まった。そして何周目かに入って折り返しのカーブを曲がったとき、正面から向かってきた友人をうまく避けきれず、そのまま衝突したのだ。彼のほうもそれなりに大きなケガをして手術を強いられたが、藤田の意識は術後一か月近く戻らなかった。
「俺が目ぇ覚めた日に、宗一が、事故ったんよな」
勝広が何も言わずに頷く。彼にとってはあまり思い出したくない出来事なのかもしれない。宗一が事故に遭うほんの数分前まで、お互いに連絡を取り合っていたことを、勝広は藤田に伝えていた。未だに彼からのメールを削除できずに、保護し続けて、時折見ているのだとも。
「やっぱ、他人事と思えんわ」
藤田は宗一を思い出しているかのように視線を空の一点に留めた。彼とは一緒にいて心地よかったのを憶えている。そして宗一は聞き上手だったのか、こちらが話すのをいつも楽しそうに聞いていた。ときどき彼の行いを注意することはあっても、藤田が彼に対して同じことを二度も言ったことはなかった。
素直で、誰にでも分け隔てなく明るい。彼のような後輩をもてたことを嬉しく思う反面、そんな彼と過ごすことは、もう二度とないのだろうと考えると、どうしようもなく寂しく想う。
「フジ先輩は、いい人っすね」
勝広がキャラメルフラペチーノのストローから口を外し、フッとシニカルに笑う。その笑みと飲み物がミスマッチすぎて、面白おかしさで自然に緩む顔を隠すため、藤田は口を片手で覆った。
「なんか、いい人、にトゲがあるように聞こえるのは俺だけか?」
「違いますって。そのまんまの意味です。……ソウやったら、たぶん、フジ先輩があのままずっと目覚めんでも『先輩まだ寝とるん?』つって、見舞いにも来ませんよ」
「あいつ、けっこう性格ドライやったもんな」
「まあ、見舞いぐらいは来るでしょうけど、先輩みたいには考えないでしょうね。基本、他人のことはどうでもいいですから」
「悪いやつや」
「です」
高校の部活で、一人問題児がいた。問題児とは言っても不良というわけじゃなくて、逆に主張をするのがあまり得意でない、暗い雰囲気の男子だった。しかし気弱なぶん優しくて、体育館の掃除も真面目にこなす彼のことを勝広は一目置いていた。だが二年生になって勝広がキャプテンとして部をまとめる立場になったとき、彼は突然部活に来なくなったのだ。自分が原因なのかと勝広は一瞬思ったが、訊いてみればそうではないらしい。ではなぜか、と詰め寄って練習に誘っても、家に立ち寄っても明確な意思表示を彼から得ることはできなかった。お前、同じクラスなら話しかけて部に戻るよう言ってやれよ、と勝広が宗一に提案したときだった。
なんで? 俺、関係ある? 俺がなんか言ったところで、あいつの意志が変わるわけでもなくね? それに、そんな練習来たくねえなら、さっさ辞めりゃいいやん。そのほうが、かっちゃんの負担も減ると思うけど。
関係あるどころか、お前は部の副キャプテンやろうが、と勝広は宗一を叱咤したが彼は終始その態度を貫いた。仮にも一年ともに練習してきた仲間に言うセリフとも勝広は思えなかった。ほどなくしてその男子部員は部活を辞めた。部活と勉強、両立するのが難しくなったから、というのが専らな理由だった。どこまでが本当なのかわからない。しかし勝広が彼の真意に辿り着くことは最後までできなかった。そして勝広が最も悲しかったのは、そんな親友の冷たい態度ではなく、彼が辞めたことで部が被るはずの損失が何もなかったという事実だ。彼が部の中で、いてもいなくてもいい人間、であったことを自分でも認めてしまったのが悔しくて、悲しかった。だから彼は退部を選んだのだろうか。それを宗一は最初から知っていたのかもしれない。
「でも、憎めんよな」
「……ですね」
他人の心には頑として踏み込もうとしなかった宗一。現実主義で、でも変なところで夢みがちだった。夢想家のようなリアリスト。
飛んでいったらもう戻ってこないのではないか。そんな怖さが、勝広の中にはいつもあった。そしてそれは、現実に起こってしまった。
「ほんと、悪いやつですよ」
人に心配ばっかかけて。おばさん、あれから五キロは痩せとるぞ。と勝広は心の中で呟いた。勝広は宗一の家族を幼い頃から知っていた。彼があの家からいなくなって、いつも灯っていた明かりが消えてしまったと感じるのは勝広だけではなかった。そしてその明かりは自分の家までも照らしていたのだと、彼が気づいたときにはもう遅かった。いなくなって初めてわかるのだ。その者の大きさが。アルバムを捲って写真を見れば、勝広の隣に必ずと言っていいほど写っていた幼馴染み。幼稚園から高校まで、選んだスポーツも同じで、中学までは成績も似たり寄ったりで。勝広にとって宗一は、よきライバルであり、一番の理解者でもあった。
それなのに、どうして。
自分は彼を置き去りにして、ひとり大学生活を送っているのだろう。
記憶の中の彼は、永遠に高校生のままなのに。
「先輩、そういや彼女さんは元気っすか」
場の空気がどんどん暗いほうに流れていくのを止めようと、勝広は藤田に訊いた。勝広から受けた突然の質問に何度か目をしばたかせながら「まあな」と藤田が答える。
「関谷さん……でしたっけ。彼女も今、東京っすよね」
「ああ」
彼女の話をすることに恥ずかしがる素振りを見せることもなく、藤田がコーヒーを淡々と飲み干していく。その様子が癪に障ったのか、「けっ」と勝広が吐き捨てて、「はよ別れませんかね」と毒づいた。
「縁起でもねえこと言うなよ」
「冗談っすよ」
「お前のは冗談に聞こえんったい」
勝広が半分本気だったのは藤田にもお見通しだったらしい。
「彼女って図書委員長でしたよね」
「よう憶えとうな。そういや俺、あいつの影響で本読むようになったんやった」
「へえ。宗一も言ってましたよ。ケガして入院しとったときにフジ先輩が本持ってきてくれて、やっと本読むようになったて」
「たぶんそんとき、俺も一番本読んどった時期やわ」
「三年の夏に本読むって余裕っすね」
「現実逃避たい」
宗一が好きだった四字熟語を使った藤田に、勝広は少し驚いたように眉を上げた。
「先輩ってそんなんするふうには見えませんけどね」
「それ笠木先生にも言われたわ。好青年ぶってバイク乗り回しよるただのアホって」
校内模試で百番内の者だけが載ることの許される掲示板の常連に、ただのアホとは。勝広は「ひでえ言われよう」と言って腹の底から笑った。
「先生には、今でも頭上がらんわ」
この前OB戦のあと、先生と飲んだんやけどな、と藤田が笑いを交えながら語っていく。それに耳を傾けながら、勝広も久しぶりに高校時代の仲間に会いたくなってきた。卒業してから一度も高校に立ち寄ったこともなければ、OB戦や新年会に参加したこともない。行けなかったのだ。彼のことを考えると。年を重ねても、自分は前に進んでいるようで、進めてはいないのかもしれない。
今度は勝広も来いよ。みんな待っとるぞ。と藤田が勝広を見て、心配そうに笑った。
*
今年の二月に受けた人間ドックで子宮に筋腫が見つかったと母から聞かされたのは志織が三年生に上がった頃のことだった。筋腫とはいっても良性のもので、そんなに心配するようなことじゃないとも同時に言われ、志織は、ほっと息をついた。母方の祖母は子宮癌で、志織が生まれる前に亡くなっていたからだ。
内視鏡検査をするため三日間ほど入院することになった彼女を手伝いに、志織は高校近くの大学病院に訪れていた。体育祭の準備のため学校は午前で放課となり、そのまま直接病院に来たので制服姿のままだ。病院の匂いはアルコール消毒の匂いと言っても過言じゃない。独特で、この清潔な空気の中に、いったいどれだけの人の想いが詰まっているのだろう。入院したこともなければ風邪で寝込んだこともない健康優良児の志織は病院にかかったことすらほとんどなかったが、忙しなく入れ替わる人と空気の流れに少しだけ圧倒されていた。
「あら、歯ブラシ忘れてきちゃった」
母が鞄の中を探りながら、ぽつりと呟いた。彼女の忘れ物が多いのは今に始まったことじゃないけれど、「忘れ物ない?」とあれほど訊いて「大丈夫大丈夫」と答えていたのになぜまだ忘れ物があるのか。志織は少々呆れながら息をついた。
「私、買ってこようか? 暇だし。お母さん今からMRIなんでしょ?」
「ほんと? ありがとー! 志織がいてくれて助かるわ~。あ、じゃあ紙パンツと水もお願いしていい? お金余ったら好きなの買っていいから」
母が財布から野口英世を一枚抜き取り、「よろしくね」と言って志織に渡す。紙パンツってなんだ? と一瞬思ったけれど、手術時に必要で、かつ自分で用意せねばならないものらしい。どこに売ってるの? と尋ねると、一階のコンビニに売ってるみたい、と返される。彼女に言われた通り、病院の入口付近に併設されているコンビニで指定された紙パンツと歯ブラシを買い、コンビニを出たあとに、水を買うのをすっかり忘れていた志織は再び中に入ってドリンクの置いてある奥に向かった。
(自分の分も買っていいかな。ちょっと喉も渇いたし)
ジュースにしようか紅茶にしようか。無糖にしようか微糖にしようか。
志織が脳内で最終的にストレートティーとミルクティーのどちらかで決着をつけようとしたときだった。
「すみません、ちょっといいですか」
息が、一瞬止まった。
先輩の声かと、思った。
しかし志織が声かけられたほうへ勢いよく振り返ると、そこにいたのは一人の男性医師だった。いや、志織には彼が医師なのか看護師なのかもわからなかったが、その男性は白衣を着ていた。先輩じゃなかった、という落胆で志織が目を伏せたとき、ドリンクを取ろうとしている彼の前に自分が立ちはだかっていることを思い出し、慌てて「すみません」と言って飲料コーナーから少し躰をずらした。
「あれ、もしかしてその制服、城高生?」
「あ、……はい」
志織の制服を見て、男性が何か懐かしいものを見るように目を細めた。そんな仕草でさえ、志織はどこか先輩に似ていると感じてしまった。顔が似ているわけじゃない。だからといって背格好が似ているというわけでもない。ただ、その声と、雰囲気だけが。
「僕も、城高出身なんです。いま何年生?」
三年生です、と志織は答えようとして、はっと息を呑んだ。そのとき彼の左胸に付けられたネームプレートが志織の視界に入ってきたからだ。
眞鍋光司
まさか、と思った。でも彼の声は先輩にそっくりだ。先輩の声を、もう少し低くしたような、でも声質は彼とほとんど同じ。先輩は確か、兄が一人いると言ってはいなかったか。朧げで、霞がかったようにすべてを思い出すことはできないけれど、父と母、そして兄と自分の四人家族だった、と先輩は確かにそう言っていた。
「三年、です」と志織が震える声で答える。
あなたは、先輩のお兄さんですか。
歯の先まで出かかった言葉を志織はかろうじて呑み込んだ。
「それなら、もう受験ですね。勉強大変でしょうけど、がんばって」
「それじゃあ」と笑って、彼は志織が買おうかどうか悩んでいたミルクティーを、ぱっと冷蔵庫の扉を開けて手にしたあと、志織に背を向け、レジのほうへ歩いていった。
「あ、あのっ」
「? はい」
なんで呼び止めてしまったのか、自分でもわからない。彼は「なんでしょう」と志織を振り向いて、にこっと微笑んだ。どうしてだろう。彼とうまく目を合わせることができない。志織は俯き、コンビニの白い床を見ながら言葉を吐き出した。
「眞鍋、宗一さん、の、お兄さんですか」
志織の問いに、彼の顔から一瞬笑みが消えた。志織が彼を見上げると、はっとしたような表情の彼と視線が交差する。
「そう、やけど」
それまで丁寧だった言葉が少し崩れたことで、志織は一瞬、彼の動揺を垣間見たような気がした。
「宗一の、後輩? ……あれ、でも、いま三年ってことは」
「眞鍋、先輩、とは、入れ違いで入学したんですけど……、でもっ、」
確かに志織は彼が卒業したあとに入学した。本当なら、彼との接点は皆無であったはずだ。だが、志織は彼のことを知っている。妄想の中のデキゴトなんかじゃない。夢をみていたわけでもない。
「私、その、先輩に、とても、お世話になったんです」
言い方が、いやらしく聞こえてないといいと願った。でも他にいい言葉なんて咄嗟に思いつかなかった。ただ、純粋に、自分には彼と共有した時間が在るということを、知ってほしかった。
「――見ていきますか?」
彼は志織の必死な様子に温かい眼差しを向けながら言った。志織の伝えたかったことは、彼にもきちんと伝わったのかもしれない。けれど、当の志織は彼の言葉を理解することができなかった。
「……え?」
「宗一のこと、見てってくれませんか? あ、それとも、もう帰るとこなのかな」
何を、何を、言ってるんだろう、この人は。
帰るところではない、という意味で、首を横に振る。
「じゃあ、行きましょうか」と互いに会計を済ませたあと、彼に促されるままコンビニを出る。階段を上り、迷路のような院内を慣れた足取りで歩いていく彼についていった先で入った病室は、広い個室だった。
力の入らない足をなんとか進ませながら、だんだんと見えてくる人影。
彼の姿を捉えたとき、志織は何も、言えなかった。
息すら、できなかった。
「宗一、可愛い女ん子が来てくれたぞー」
「女子高生やぞ。女子高生」と彼がベッドに横たわる弟に話しかける。弟は固く閉じた瞼を開けないまま、少しだけピクリと躰を動かした。兄が「熱は下がっとるみたいやな」と彼の首筋を触りながら呟く。首元の氷枕がずれていたのかそれを正しい位置に戻して、彼は弟の額に優しく手を置いた。その一連の動作が、彼がここに通った月日と彼と彼の関係を物語っているように見えて、志織は何だかよくわからないまま目を逸らしたくなった。
「……さっきは、かっちゃんも来てくれたっちゃろ? 俺、会えんやったけど」
そこまで言って彼は呆然と立ち竦む志織をベッドの横に手招きした。病室に入ってから一言も声を発しない志織が自身の言動を訝しげに思っているとでも感じたのか、彼が少し恥ずかしそうに笑う。
「応えてくれるわけないってわかっとっても、こうやって話しかけるの、やめれないんです」
「もう、こいつがこうなって、二年以上も過ぎとるんですけどね」と彼が努めて明るく振舞おうとしながら志織に話しかけるも、彼女の脳にその内容が入っていくことはなかった。
これは、誰なんだろう。
喉からチューブが出ている。
お腹からも管が生えてきているのが見える。
髪には生気がなく、健康的に、ぴょこぴょこ跳ねていた彼の髪は、濁り黒ずんでしまっている。
痩せていて、誰かわからないぐらい変わってしまっているけど、これは、先輩だ。
紛れもなく、先輩だった。
(グロい)
無意識に、そう、思ってしまった。そのあとすぐに、どうしようもない後悔と恥ずかしさが志織を襲った。
だって、信じられなかった。
先輩は、死んでるんじゃなかったの?
生きているならどうして、こんなにも志織の知っている先輩と違うのだろう。
あの部屋にいた彼は、いったいなんだったのだろう。
「ときどきは、目を、開けてくれるんです。右目だけ、ですけど。……左半身は、麻痺が残っとうから」
ふと見た彼の腕は、志織より細かった。力を込めれば、すぐに折れてしまいそうなほどに。肉がない、骨と皮だけの腕。
先輩の面影なんてどこにもなくて。でもコレが先輩だと断言できてしまう自分が嫌で。そんな自己保身に走ろうとする自分がもっと憎らしくて。志織は奥歯を噛みしめて、感情が表に出ていこうとするのを堪えていた。
「僕と宗一は、六つ違うんですけどね」
弟に慈愛の目を向けたまま、彼は志織に対してなのか、ただ彼が言いたいだけなのかはわからないが、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「こいつは、こいつなりに、夢を諦めたのが、堪えとったんかもしれん」
彼のほうを見ると、彼が今何を思っているのか志織にはよくわからない表情がそこにあった。相手に自身の心情を容易く気取られないように見せるのは先輩によく似ていると、志織はぼうっとした頭で何となく感じた。
「宗一が高三のとき、一番進路で悩んどったときに、僕は、なーんも相談乗ってやれんで」
やはり、先輩が高校三年生をあの学校で過ごしていた時があったという志織の予測は間違っていなかったらしい。しかし彼にも叶えたい夢があって、希望した進路があったという当然の事実を、志織は頬をぶたれたような衝撃とともに受け止めていた。
先輩は、あのときの自分の愚痴を、いったい、どんな心境で聞いていたのだろう。
「親父が医者ってこともあって、僕も宗一も、ずっと医者になりたいって言いよったんやけど」
なぜ、なぜ、どうして。そのことにまで頭が回らなかったのか。将来の夢、なんて、語れる権利をもっている者しか語ることなんてできないのだ。先輩は、どう思ったのだろう。どう、感じていたのだろう。彼には夢や目標などといった未来を語る資格がない、と無意識のうちに自分は思っていたのかもしれない。志織は彼との終わりを心のどこかでいつも意識していた。彼はこの世から隔絶された存在である、とはっきり認めていた。彼との未来は、彼の未来は、どこにも、ない、と、決めつけていた。そして、それは彼にもしっかり伝わっていたはずなのだ。だから彼は、志織の将来を言及する言葉は発しても、自分の未来を形容する言葉を口に出すことは決してなかった。わかっていたのだ。すべて。
自分には、もう、過去も未来もないのだということを。
「いつからか宗一は『もういいわ。俺にはムリやわ』って、言い始めるようになって……。うちは医者っつっても開業医やないし、私大にやる余裕もなくて。――って俺、なん話しよるんやろ。しかも今日初めて会った子に」
「すみません」と笑いながら、彼は志織の目を見た。そして驚いたようにその目を見開き、彼は志織に対して何か言おうと口を開いたが、結局最後まで何も声に出さなかった。志織の流した涙が、音もなく頬を伝って床に落ちたのはその直後だった。
「――僕、もう行きますね」
腕時計を見たあと、彼は志織の頭に、ぽんと手を置いた。その感触が、あまりにも先輩の温かさと似ていて、でもそれは錯覚なのだという容赦ない事実が志織の中で鬩ぎ合い、心臓をぐしゃりと握り潰していく。どうして、何も訊かないでくれるのだろう。どうして、そんなに優しいのだろう。先輩も、目の前にいるこの人も。
「宗一と会ってくれて、ありがとう」
彼に何か言いたかったけれど、志織は何も言えなかった。何が言える、というのだ。「こちらこそ、どうも」のような使い古された安っぽい定型句しか今の自分からは出てこない。伝えたいことは、そんなことじゃないのに。もっと、もっと、複雑で、そんな一言で片づけられる想いではないのだ。だから何度も頷くしかできなかった。彼は最後に志織の肩に手を置いて、この、きれいで淀んだ空間から静かに去っていった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。涙はとうに乾いていた。志織は自分でも知らない間に座っていた見舞い客用の椅子から、ふらりと立ち上がった。もう一度、先輩の顔を見る。彼がまだ、生きているのだと認識したのは、このときが初めてだったかもしれない。志織は彼の、今にも壊れそうな手に触れようとして、自身の腕を緩慢に動かした。
そのときだ。
「志織には、見せたくなかったなあ」
もう二度と、逢えないと思っていた。
もう二度と、その声を聞けないと思っていた。
「俺の、こんな姿」
声のするほうへ、勢いよく振り返る。
彼が、そこに立っていた。
「先輩!!」
志織はここが病室であることも忘れて、喉が嗄れるほどに叫んだ。初めて見たときのように、病衣ではない、濃い灰色の学ランを着た、高校生の先輩が、確かにそこにいた。ズボンのポケットに手を突っ込んで所在なさげに立つ彼が、ベッドの上の人物から志織に視線を移し、眉を下げて笑う。
「ちょっと、外に出よっか」
志織は彼に対して訊きたいことが山ほどあったのに、何も言えなかった。有無を言わせない雰囲気が、先輩を纏っていたのだ。疑問を抱くのも、許さないような。どうか、尋ねないでくれと。どうか、自分が話すまで、黙っていて、と。拒絶じゃない、懇願のような想いが、彼の背から伝わってきた。
病棟から少し離れて、広場のようなところに出る。車椅子に座った人や、まだ小学生に見える子どもたち、その家族が憩いの場としてこの広場を利用しているのがわかった。芝生を踏む感触がひどく久しぶりで、小さい頃に裸足で公園を駆け回っていた記憶がふと甦ってくる。まだ、何も知らなかった自分。あの子どもたちが、髪を男の子に見えるほど短くして快活に走り回っていた少女に重なって見えた。
「驚いた?」
先輩は人の輪から少し離れた広場の真ん中ほどで立ち止まり、振り返った。
「気持ち、悪かった、よな」
首を横に振ってそれを否定することもできないのは、その気持ちが志織の中で生まれたという事実をなかったことにはできないからだ。
「俺、逃げたんよ」
地面に視線を落とし、一言一言を慎重に選んでいるように、先輩が言葉をこぼしていく。
「目ぇ、覚まそうと思えば、覚ませたのに。……もう、生きるのが、面倒って思って、」
彼が目を閉じ、何かを決意したのか、今度は意志をもった目を志織に向け、空を仰いだ。
「俺は、この世界から、逃げた」
今は、自ら意識を手放した瞬間も、すべて思い出せる。事故に遭ったあとすぐ病院に運ばれ、手術後も確かに意識があった。すべてを憶えていた。けれどもう、何もかも捨てたいと願ったのだ。そのとき、家族の顔は思い出さなかった。友の顔も、世話になった人々の顔も。どうでもよかった。どうなっても。どう思われようとも。この世のしがらみすべてから解放されたいと、切に願った。
そしてその願いは叶えられ、彼はその世界を手に入れることができた。
それまでの自分自身と引き換えに。
「でも、ずっとひとりで過ごしてきて」
朝も、昼も、夜も。誰かと意思を通わせる手段もなく、声を発しない日々。意味をもたない音。伝える者がいて初めて、言葉は意味をもつのだと知った。
「生きとるやつら見て、さ」
否応なく自覚させられた違い。生者と死者は決して相容れるものではないと、そして、その死者からさえも自分は拒まれる存在であると。
「勉強して、部活して、眠って、ばかみたいに笑って」
それが、当たり前のものだと思っていた。明日も同じように目を覚まし、おはようと言い、いってきますと声かけて、ただいまと帰る家のあることが。
「遅刻して怒られて、歩いて、走って、働きよるの見て」
個々に切り取られた日常が、いかに鮮やかな色を孕んでいたか。
どれだけそれが、何にも代えがたい、尊いものだったか。
「志織と、話しよったら、さ」
失って、ヒトは初めてわかるのだ。
「生きとるやつらが、心底、羨ましくなった」
どうして、消えてしまいたいなどと思えたのだろう。どうして、もう死んでいいなどと。どれだけの確率で両親のもとに生を受けたと思っている。無条件に愛されて育ち、言葉を覚え学んでいくのが、どれだけ幸せなことだったか。人として生を受け、その営みを得ていたことが、どれだけ――。
「志織に逢って、自分がだんだん変わっていきようのがわかった」
今も一心に見つめてくる彼女に、何度救われたことか。
その瞳に自分が映り、この声が意味をもって届くことが、どれだけ嬉しかったか。
「俺は、この姿になって、眠ったこととか一回もなかったし」
「夢をみたこともね」と志織の反応を確かめるように彼は笑った。
「だんだん、意識をとどめるのがムズくなって、俺は、やっと成仏していきよるんやなって、なんとなく感じよったんやけど」
眠らずに、眠れずに、昼夜を忘れ、本だけを読み漁っていた。しだいに日を数えることもやめ、隔絶された世界で生きることにも慣れた。だが、その慣れが、とても。
恐ろしかった。
そして、今度はこの世界からも切り離されているのだという感覚に、襲われるようになった。
「いざ成仏するってなると、すっげえ怖くなった」
最期に何を遺せるだろう、と考えた。彼女に、何か。でもそれこそが、ひどく傲慢で独り善がりな行為ではないか。本当は拒絶せねばならないと、わかっていた。早く、早く。その笑顔に温かい、想いが、含まれる前に。
「この世界に、ただ、存在しとるのが、つらいって思いよったはず、やったのに」
永遠を確かにみた。変化のない日々の中に。文字と文字の間に。行と行の間に。ページを捲ることをやめない手に。
「もう、話すことも、笑うことも、本読むことも、できんって思うと」
一度得てしまったものを失う恐怖が。ずっと、ずっと、付き纏って、片時も離れてくれないのだ。
「すっげえ、怖くなった」
そのとき、目の前に広がる世界が、霞んで見えた。
地面に落ちた雫の音を、彼は聞いた気がした。
先輩、やっと、泣けたんですね。
やっと、私の前でも、泣いてくれましたね。
志織は彼の瞳から流れる、色を帯びた透明な感情を初めて目にし、息を呑んだ。
「名前、見たときに、ぜんぶ、思い出した」
涙に濡れた、彼の声。どうしたって触れることのできなかった、彼の心が、次々に溢れていく。
「俺はまだ、生きとるってこと」
実体をもった塊として。
血の通う躰をもって。
動く心臓と。
動かない手足と。
「死んだように、生きとるってこと」
あの、姿を見たとき、同時に襲ってきた、安堵と絶望。
生きていた、自分はまだ生きていた。
だがもう、機械がなければ死んでいるも同然の状態だった。
ただ、生かされている。
気管を切開され、胃に穴をあけられ、自分で起き上がることも、糞尿の処理もできない。
躰を拭かれ、体位を直され、世話されるだけの日々。
自分を見舞う家族と友の姿を見て、
決して応えることのないモノに彼らが話しかけ続ける姿を見て、
もう、いいよって、何度も、何度も、吐き出した。
もういい。もう、いいから。
すべて、忘れて。
苦しみ続けるぐらいなら、忘れてほしかった。
でも誰かの中に自分がまだ生きているという事実が嬉しくて、仕方なかった。
「先輩」
志織は自身の目を隠すように手で顔半分を覆う彼に、自分を見てほしくて、もう一度、「先輩」と言った。腕がゆっくり下ろされていくと同時に晒された彼の瞳は、まだ熱をもった想いの形で濡れていた。
「旅人は、最後、どうなると思いますか」
先輩は何の話を志織がしようとしているのか摑みきれないように、「……旅人?」と小さく掠れた声で呟き、首を少し傾げた。
「彼は最後、目覚めるんです」
しかし、志織の言葉を聞いて彼女の伝えたいことを汲み取ったのか、先輩は目を見開いた。
「彼は、ずっと、ずっと、物語という名の、夢をみてたんです」
今までの旅自体がすべて、彼の夢だったとわかる最終章。読み終えたとき志織は、胸の奥に消化しきれない感情がゆっくりと沈殿していくのを感じた。決して、ハッピーエンドなんかじゃなかった。まだ、彼はせねばならないことを、伝えねばならないことを、その世界に残していたはずだった。
「本から本へ、それぞれの物語の中に生きてきた旅人は、ようやく一段落がついた旅の途中で、少しばかり、と思って眠りにつくんです」
そう、それは、こんなふうに芝草で覆われた野原の上で。午睡を楽しむのにかっこうな木陰もあって。いつものように旅人は荷を枕にして、足を組み、風が流れる音だけを聞いて眠りについた。
「彼が次に目覚めたとき、そこは、龍が出るような峡谷でもなく、財宝の眠る砂漠でも、荒れた大海原の上でもなく、彼の、本来生きていた場所でした」
おそらく、現代の地球に生きる若者を想定しているのだろう。彼はアラーム音が鳴らなかったことに首を捻りながらも、今日するべきことを瞬時に思い出して、ベッドから飛び起きるのだ。
「でも、目覚めたとき、彼は、長い、長い、旅のことを忘れていました」
実際に夢をみたのは、たった数時間のことだったかもしれない。しかし彼の旅は、数年にも及ぶものだった。本当に色んなことがあったのだ。飛び上がるほどに嬉しいことも、生きていくのがつらくなるほど悲しいことも。
「夢をみて、朝ごはんを食べる頃にはそれを思い出せなくなってるみたいに、彼は自身の旅のことを、まったく憶えてなかったんです」
今日どんな夢をみたか問われて、いったいどれだけの人がその詳細を語ることができるだろう。そもそも自分は夢をみなかったと結論づけて、思い出そうともしないかもしれない。旅人は、「今日は夢をみたの」と不意に訊かれ、思い出そうとした。だが、思い出せなかった。
「何かの夢をみた、ということだけが、彼の中に残ってました」
思い出せないことにちょっと心残りはあるけれど、彼はそのこともしだいに忘れていき、他の話題を選んで会話を再開するのだった。
「でも、彼は旅を終えたあとも、変わらず、元の世界で生き続けています」
物語の中で互いに惹かれあった娘のことも忘れて。
いま隣にいる彼女の手をとって、彼は歩いていく。
「だから」
「だから、」と志織は、地面に向かって吐き出した。
「先輩も、ぜったい、目覚められます」
顔を上げて、先輩を見る。
彼は、志織の視線を受け止め、再び手で顔を覆った。
「――まだ、戻れる、かな」
「はい。必ず」
志織が頷くと、彼は、唇を噛みしめて、咳き上がってくる嗚咽を堪えた。
「俺、まだ、」
「生きても、いいかな」
はい、と志織はもう一度頷いた。
生きてもいいんですよ。先輩。
この世に在る生きとし生けるものすべてが、生きるために、生まれついたんです。
でも私は、別にそんな人道的な、博愛精神に富んだことを言いたいわけじゃ、なくて。
あなたは死の恐怖も、生の喜びも、生の恐怖も、死の喜びも、すべて知っているから。
だから。
「志織、ありがとう」
先輩の腕が志織の背に回される。彼から抱きしめられるのは二度目だと思いながらも、今のほうがずっと彼の気持ちを理解できることが、志織にとって至高の幸いになった。
「志織がおらんやったら、俺は、俺を、思い出すことも、できんやった」
ずっと、ずっと、誰かを苦しめ続けて、自分も苦しみ続け、何かを呪うことも、責めることもできず、そんな感情さえ生まれないようになって、永遠に感情を殺したまま、死んでいたかもしれない。
「ありがとう」
彼の「ありがとう」は、志織にとって、ただ、ただ苦しかった。
「先輩」と志織が彼を見上げる。
そのとき彼の顔が降りてくるのがわかった。
瞼を閉じる。
次に志織が目を開けたとき、先輩はもう、いなかった。
私のこと、忘れないでください、とは、最後まで言えなかった。
志織は走った。息が切れるまで走って、背後から「院内で走らないでください!」と誰かに注意されても志織は止まらなかった。階段を駆け上がって、真っ直ぐに彼の眠る病室へと向かう。
「先輩!」
彼の横たわるベッドに志織は駆け寄った。
すると彼の瞼が、ぴくっと動いて、ゆっくりと、ゆっくりと開いていった。
目が合う。
顔を志織のほうに向け、おもむろにその口が、動いた。
だ、れ
そう、彼の口が動いたように見えたのは、気のせいだったろうか。
だが志織は、自分からすぐに目を逸らし宙をさまよい始めた彼の瞳を見て、すべてを悟った。
「ちょっとあなた! 勝手に入ってはダメですよ!」
面会に必要な記名もせず、ナースセンターの前を突っ切って病室に入っていった志織を追いかけて、一人の看護師が非難するような声を上げた。
しかし口をパクパクと開閉させ、何度も咳こみながら声を発そうとしている先輩の姿を見て、看護師が目を瞠る。
「え、ま、眞鍋くん?」
ずっと明確な意思表示がなかった患者の急変に、看護師は動揺を隠しきれない様子だった。院内専用の内線携帯を取り出し、「せ、先生! ×××号室の眞鍋くんが、」と、どもりながら彼の容体を伝え始める。そんな彼女の後ろを通って、志織は音もなく部屋から立ち去った。
もう一度、院内を走り抜け、さっきまで彼と一緒にいた広場の真ん中で立ち止まる。
息を弾ませながら見上げると、空は雲一つなかった。
目が、眩むような青空。
心の色。
記憶の色。
先輩、先輩。
今は、あの青が、私の瞳には、どうしようもなく、悲しく映ります。
本当は、忘れないでほしかった。
忘れないで、って言ってたら、言えていたら、
先輩は私のことを、憶えていてくれたのだろうか。
先輩が忘れるなら、私も忘れてしまいたい。
私だけが憶えてる思い出なんか、いらない。
でも、それでも、
先輩のこと、憶えて、いたいんです。
自惚れなんかじゃ、なかった。
だって、憶えていたら、先輩は私のこと、「だれ」、とかじゃなくて、「志織」って、呼んでくれるでしょう?
あんな、冷たい目では、見ないでしょう?
私を見て、笑って、くれますよね?
今からまた、先輩のところにまで走っていって、思い出して、と、ただその一言だけを伝える勇気もない自分は、彼に逢う資格なんて、どこにもないのだろう。
さよなら、先輩。
お元気で。
どうか、幸せになってください。
今の志織には、そうやって思ってもないことを吐き出して強がるのがやっとだった。
「遅かったね。何かあったの?」
ベッドに腰かけて、今メッセージを送るところだったのか、携帯を扱っていた母が病室に入ってきた志織を見て首を傾げる。
彼女に頼まれた品物が入ったビニール袋を手渡しながら、「何も、なかったよ」と娘は答えた。




