7 記憶
駅で部活帰りの後輩とたまたま鉢合わせし、一緒に電車を待っていると、後ろから誰かにポンと軽く背を叩かれた。藤田が振り返れば、そこには関谷が「お疲れー」と笑って立っていた。
「先輩、俺らあっちの車両に乗るんで」
一緒にいた二人の後輩のうち一人が気を利かせたのか「お疲れっす」と言ってその場から立ち去ろうとする。もう一人が「え、なんで?」と首を傾げるのを無視し、彼の腕を半ば強引に引っ張っていくような形で、二人の後輩は二車両ほど向こうの列に並んだ。彼らに改まって公言した覚えはないのだが、いつの間にか部の中では彼女との関係が知れ渡っているらしい。
関谷と電車に乗る時刻が同じになるのは珍しいことだったが、かといって藤田が彼女を待って一緒に帰る、という選択肢は二人の間ではないに等しかった。一緒に登下校をするのがカップルの醍醐味であるとわかってはいるけれど、彼女は彼女で委員会の仕事があって忙しいし、藤田も部活を引退して予備校に通い始めたため、いま自分のせねばならないことを疎かにしてまで恋愛事に現を抜かす気はさらさらなかった。そしてそれは藤田だけの意見ではなく、彼女もまた「ハゲしく同意」と首肯していた。
「そやった。私、トモくんに言おうって思っとったことがあったんやった」
「なに?」
二人でいるときの呼び方が、藤田くん、から、トモくん、に変わったのは、三年の夏を過ぎた頃のことだった。
「私ね、この前の土日に勉強しようと思って、学校行ったっちゃん。でさ、私ってほら、図書室の鍵持っとうやろ?」
「うん、まあ図書委員長やけんね」
関谷はテニス部に所属しているにもかかわらず図書委員長も務めていた。ふつう生徒会と運動部との兼部は難しいもので、そんな強者はなかなかいないのだが、彼女は器用にどちらの役割もそつなくこなし、部活ではシングルスで九州大会にまで勝ち進み、堂々と高校最後の夏を飾った。しかし学業のほうでは藤田のほうが成績はかなりよく、関谷も決して悪いほうではないのだが、最近彼女が志望校で悩んでいることを彼は知っていた。
「それで、図書室に行っちゃいました」
「あらら。勉強は?」
「してません」
「なんしよったん」
「図書室の改造」
「は?」
彼女から突飛な発言が出ることは別段珍しいことではないが、藤田は思わず、といった様子で「どゆ意味?」と彼女に訊き返した。
「もう少し詳しく言えば、資料室の改造? かな」
「もうちょい詳しく」
「図書室の奥にはね、資料室が二つあるんやけど、このたびその一つをきれいにしてみました」
「なんでまた」
「え? そこでトモくんとイチャつこうと思って」
藤田が隣に立つ関谷を見下ろすと、こちらがどういった反応を示すのか試しているような顔をした彼女とばっちり目が合った。「ムリ」と即答し、藤田がその目を非難的に細め、首を横に振る。
「学校でとか、絶対ムリ」
「トモくんまじめ~」
「やけん、なんで学校で、とか、そんな考えが出てくるん。歩実が卑猥なだけやろ」
まだ周りに同級生や後輩がウロウロしている駅のホームで藤田が関谷の名前を口走ったことは今まで一度もなく、彼女は彼が動揺を隠しきれていないことにすぐ気づき、何ともいい気分になって、フフンと鼻で得意げに笑った。
「……で、ホントの目的はなんなん」
「あ、ばれた?」
笑われたのが少し気に入らなかったのか、藤田が「面白くない」とでも言うような表情で関谷に自身の中で引っかかっていた疑問をぶつけた。ただの冗談だとは何となく感じていたし、やはり彼女が本気でそんなことを軽々しく口にするとはどうしても思えないからだ。
「んとね、自習室? っぽいところを作りたかったんよね。ほら、うちの学校の図書室って、五時で閉まってしまうやろ? 私、家じゃ全然勉強できんけん、こりゃどうにかせないかんと思って発起したわけですよ」
そんな労力を惜しまないのなら、その時間を勉強に費やしてもいいのではないかと藤田は思わずにはいられないが、一度やると決めたら最後まで必ずやり遂げる彼女らしいなとも思った。
「でも図書室って、出たらまた閉めないかんのやないん」
図書室自体は五時に閉まってしまうのだから、図書室内の資料室から出て帰るときには戸締りもきちんとせねば、次の日に司書の先生から怪しまれることこの上ないのではないだろうか。
「それが、私は鍵を持ってるんだな」
「? てかさ、だいたい図書室の鍵って図書委員長が持っていいもんなん。ホントはそのつど返さなっちゃないと?」
「なんと合鍵なんだな」
藤田が、あんぐりと口を開けて静止する。そのときちょうど電車がホームに入ってくる合図である笛の音がどこからか聞こえてきた。はあ、と息をついて藤田が手で自身の目を覆う。
「それは犯罪。犯罪行為です」
「二人でできるやん」
「学校は勉強するところやろ」
「やけん、二人で勉強ができるやろ?」
勉強、という部分をムダに強調して、関谷が藤田を見上げた。してやったり、と満足げな面持ちで彼女が微笑む。
「トモくん何考えてたんですかー」
まったくー、むっつりスケベなんやからー、とケラケラ笑いながら電車に乗り込む関谷の後ろ姿を見て、口の達者な彼女に勝てる日は一生来ないのだろうな、と藤田は何となく思った。
*
職員室という独特な空気に包まれた空間は昔から苦手だった。小学生のときに校長先生から呼び出された記憶が甦るとか、中学生のときに学年主任から呼び出された記憶が甦るとか、別にそういうわけではないけれど。なんだか、とても、息が詰まる。そのため、めったにこの場所へ足を踏み入れない志織とは裏腹に、茜は生徒会に所属していることもあって頻繁に職員室へ足を運ぶそうだ。志織の隣にいる茜は目的の先生が座る席の位置も既に把握しているらしく、足の重たい彼女に代わり大股でずんずんと進んでいった。
「……笠木先生、こんにちは。お久しぶりです」
「お? ……立花と、木下か? 珍しいな」
お前らまだ仲いいんやなあ、と天然パーマの爆発した先生が眼鏡の奥の糸のような細い目をさらに細めて笑った。彼は志織と茜が一年生のときのクラス担任だった。社会科の先生ではあるが専門は世界史であるため、日本史選択の志織と茜は彼の授業を一年時の現代社会しか受けたことがない。この高校に在籍して十年ほど経つという彼は、男子バスケットボール部の顧問でもあった。
「先生。……藤田、友樹さんのこと、ご存知ですか」
茜が直球で、今日彼に尋ねたかったことをぶつけた。志織は自分の心臓がこれ以上ないくらい大きく速く鼓動するのを聴いていた。
笠木は予想もしていなかった彼女の質問に少し驚いたのか、「ああ、うん」と目を見開いて頷いた。
「九十三回生の藤田やったら知っとうぞ」
こんなに、近いところに、答えがあったなんて。
志織の学年が九十七回生であるから、笠木の言う九十三回生の藤田は先輩のことで間違いないだろう。
志織は唾を呑み込んで、視線を落とし、拳をぐっと握りしめた。
しかし彼の次の言葉を聞いた瞬間、志織の思考回路は猛スピードで逆回転し始めた。
「この前OB戦にも来とったけんな。そのあとは飲みに連れてったわ」
笠木が「なんやお前ら、あいつのファンか。バスケ部ん先輩に写真でも見せられたとか」と息をついて、ふっと笑った。
「……え?」
茜と顔を見合わせる。彼女も何がどうなっているのか理解しきれていないのが志織にはわかった。
「先生、誰のこと言ってるんですか」
「ん? 藤田のことやろ?」
「藤田、さんって、生きてるんですか」
志織が、静かに、けれど普段の彼女にはない強い語調で笠木に尋ねた。
すると彼は「なん言いよん」と笑いながらデスクの引き出しを開け、がさごそ何かを探し始めた。
「そもそも死んどらんわ。ああ、いっぺん事故ったことはあるけどな。やけんあれほどバイクはほどほどにしとけって言いよったのに」
「あいつ優等生ヅラして、高校んときからバイク乗り回しよったけんなー。……お、あったあった。ほれ」と言って笠木から渡されたのは、一枚の写真だった。写っているのは彼と、一人の男子生徒。卒業式の写真だろうか。志織が見たこともない人物がそこにはあった。先輩とは似ても似つかない、藤田友樹という名の者が。
「――どこから、藤田さんが亡くなっとるって情報が出たっちゃろ」
職員室を出たとき、ふと入口付近で立ち止まり、茜が小さくこぼした。
「さあ……」
事実は折れ曲がって錯綜する。事実と真実は違うのだと、志織は改めて認識させられた。「知る」と「信じる」の違いは、いったい何なのだろうか。人は普段、確証のないものをどれだけ知って、どれほどそれらを信じているんだろう。その境界線はどこにあるのか。自分たちは、何を信じればいいのだろうか。
「また、ふりだしに戻っちゃったね」
志織は先輩の名前が藤田友樹ではない、という真実をようやく心の中で受け止めつつあった。彼が藤田友樹でないのならば、あのとき、彼に名を告げたとき、少しのタイムラグがあったあと「だれ、それ」と彼が首を傾げたのも十分理解できる。
茜が何か考えるように「うーん」と唸って、唐突に足を止めた。
「……志織、このあとさ、先輩の顔、描いてみてくれん?」
「やっぱ、先輩の顔がわかるのとわからんのでは、違う気がするんよ」と彼女は腕組みをして仁王立ちになった。なぜそこでエラそうにふんぞり返るのか志織には理解できなかったが、廊下で歩いている他の生徒の邪魔にならないよう彼女を端へ誘導しながら「それだったら、前に私が描いたの、先輩が持ってる」と志織は言った。
「あとで写メって送るね」
先輩はたぶん、まだ持ってくれているはずだ。おそらく学ランのポケットにでも入れているのではないかと思う。志織が彼の学ラン姿を暑苦しい、と言ってから、彼は志織の前では長袖のシャツを腕まくりして過ごすようになった。そのことを考えると自分の軽い言動を後ろめたく思うのだが、彼はさして気にしてもいない様子だ。
盆休みが明けてまた学校が始まったあとも、志織は先輩に「帰りましょう」と言って彼と一緒に下校するようになった。もちろん彼が二つ返事でついてきてくれるのは、志織の家に書庫があるからなのだろうけど。しかし彼女にとって何よりも大切にしたい彼との時間が少しでも増えるのは、とても悲しくて、嬉しいことに違いなかった。
閉じられた部屋の中から空の青を眺め、彼はひとり呟く。
「藤田、友樹」
どこかで、あの空を見たことがあるような気がする。誰とだったか。もう夏が近づいていると肌で感じた。あの日、初夏の匂いを、自分は確かに。
暑い、暑い、と繰り返して、誰に、何を言われた。
「季節への、礼儀……?」
誰だろう。あのとき隣で笑っていたのは。
誰だろう。あの背を追いかけて、笑っていたのは。
*
合格発表の日、宗一が受けた大学の構内はたくさんの喜びと悲しみで溢れかえっていた。自分の受験番号を探し、はっと顔を上げたところを地元のテレビ局と思われる取材のカメラが追いかける。しかし宗一が歓喜の声も上げずに再び俯いたのを見て、カメラは宗一とは違う者に焦点を当て始めた。その様子に意味もなく苛立ち、「うるせえよ」と心中で吐き捨てる。周りにはラグビー部のようにガタイのいい大学生たちから胴上げされている合格者の姿もあり、そんな彼らにテレビの取材陣も都合よく群がっていた。それらに映らないよう彼らの間を搔き分け、やっとの思いで門の外に出る。別に聞きたくもない歓声が強制的に耳に入ってくるのを阻もうと、宗一は制服のポケットからイヤホンを取り出した。iPodを操作して別に好きでもない曲をただ騒がしいという理由だけで選び、音量を最大にまで上げる。
――落ちとったわ~
ま、想定内やったけどなw
メールの作成画面を開き、できるだけ相手に気を遣わせない文面になることを心がけ、送信ボタンを押す。今ごろ勝広は自宅のパソコンで合否を確認しているはずだ。こういうときは、落ちたほうから連絡せねばならないことを宗一は知っていた。合否がどうだったかなんて自分からは到底訊けないものだ。携帯を扱いながら、あとは誰に報告せないかんかなと考え、頭に思い浮かんだ人物たちは家族だった。父さん母さん兄ちゃん……他はまだいいか、と独りごちる。件名に、朗報ではなくすみません、と打っているところで、宗一の右半身に衝撃が走った。
本当に驚いたとき、人は声も出ない。
クラクションは鳴らなかった。トラックの運転手は横断歩道を渡る宗一に気づいていなかった。宗一も携帯の画面に視線を落とし、耳にはイヤホンを嵌めていたため、信号を見誤ったトラックの存在に気づかなかった。
道路に転がった宗一の携帯が振動する。
――残念やったな
俺はなんとか受かっとった
でも、後期まで諦めんなよ
お前のことやけん、後期受
ける気ねえとか言いそうや
けどさ
応援しとくけ、
困ったら連絡しろな
……あと
フジ先輩、目覚めたって
ほんとよかった
ソウは今どこおると?
イマ、ドコニイルノ
*
「は、なんで兄ちゃんがおるん」
茜が帰宅すると、玄関に見慣れない大きな靴が脱いだ状態のまま放置してあった。茜の見たことがない靴だったが、その大ざっぱな脱ぎ方から持ち主は容易く想定できた。リビングに続くドアを開けると、予想通り、彼女の兄が我が物顔でソファーに居座っていた。
「お前、帰ってきたお兄さまに『おかえり』の一言もないんかって」
「おかえりなさいませぇ、お兄さまっ」
茜がメイド喫茶で働くメイドのように猫なで声を上げて兄を見下ろす。ちゃんと語尾にハートをつけるのも忘れなかった。兄の口が、への字に歪む。
「きしょいったい」
「やれって言ったのは誰よ」
「やれとは言っとらん」
「あー教育ミスったわー。俺もっと可愛い妹が欲しかったわー」と溜め息をつきながら兄がソファーの上で蹲る。大学生になって髪を染めた彼は、高校生と言っても差支えないほど童顔をしていた。顔立ちは茜そっくりで、双子と間違われることも少なくない。彼が髪を明るく染めているのも、これ以上年下に見られないためらしい。帰省した兄を労うこともなく、茜は「あたし可愛いもーん」と言って床に広げてあった兄のスーツケースを大股で跨いだ。
「性格が可愛くねえ」
「誰のせい?」
「俺のせいじゃねえのは確かやろ」
それは責任逃れというやつだろう。茜の言葉遣いの悪さはどう考えても兄から受け継いだものだ。そして兄妹は自分たちが人から好かれる容姿をしていることはだいぶ早い時期から知っていた。彼らのよい点はそれを自覚していても鼻にかけていないところだろう。悪い点はそのせいで対人関係が悪化したときに問答無用で周りを蹴散らすところだ。
荷物整理を始めた兄に「お土産は?」と訊くと「そんなもんあるわけねえやろ」とぶっきらぼうに返ってくる。期待はしていなかったがこうも簡単にあしらわれると逆に清々しい。彼の持って帰ってきた教科書やら漫画やらを眺めていると、分厚いビロード地の卒業アルバムがそれらの隙間から顔を見せた。こんな兄でも高校時代を懐かしむことがあるのか、と茜は少し興味を抱き、それを彼の許可なく手に取る。
兄のクラスは憶えていた。なぜなら彼が高校三年間ずっと一組だったことを何となく頭の隅で記憶していたからだ。
「――それにしても兄さん、写真写り悪いね」
「しょうがねえ」
引きつったような笑い方。見てくれはムダにいいのに、使われた写真がこれでは自分の兄ながら、こんな写真が卒業アルバムに載っていることをかわいそうに思う。と同時にざまあ、とほくそ笑む。家では笑いすぎて呼吸困難に陥ることも少なくない兄が、学校ではポーカーフェイスを崩さないらしいことを茜は彼の友人から得た情報で知っていた。この写真もカメラマンの男性がなんとか彼に笑うことを強要して撮ったものだそうだ。
「イケメンおらんかなー。人気あった人とかおらんと?」
茜が兄のいたクラスの写真を見渡すことに飽きたのか、パラパラとアルバムのページを捲っていく。一組から順々に見ていっていると、あるクラスのページで兄の指が一人の男子生徒を指した。
「こいつとか? 男バスのキャプテンやった」
志貴勝広、という名前が写真の下に記されている彼は、歯を見せずに片方の口角だけを上げて笑っていた。プライドの高そうな、挑発的な目つき。なんとなく、気に入らないとでも言いたそうに茜が目を眇める。
「あたしのタイプやないな」
「お前の基準は人とズレすぎ」
兄が再び茜に背を向け、一人暮らしの家から持って帰ってきた漫画を紙袋から取り出してそこらに積み上げ始める。それを横目に見ながら、探していた少年漫画を全巻根城に持ち込んでいた兄の所業に茜が舌を打った。「犯人はお前か」と心の中で呟く。しかしアルバムに茜が視線を戻したそのとき一人の顔写真が彼女の目に留まった。
ごくり、と、思わず唾を呑みこむ。
「こ、これ……ッ! 兄ちゃんこの人ダレ!?」
兄のTシャツを引っ張って茜が彼を自身のほうへ強引に振り向かせると、「あ?」と不機嫌そうに彼が眉を顰めた。茜の指差した人物を見て、彼が「あー」と何かを思い出すかのように目を見開く。
「男バスのナベやろ。さっきの志貴と仲よかったやつ。ま、こいつ気になるんなら、お前の目も正常やな」
「そーやなくて、この人、兄ちゃんと同級生やったと!?」
何を当たり前のことを、とでも言いたそうな顔をして「ああ」と頷く兄を見て、茜は携帯をポケットから取り出し、急いで写真フォルダを開いた。
ウソ。信じられない。まさか、そんな。
まー、俺、ナベと一緒んクラスなったことないけんよーわからんけどな
体育で一緒やったくらい
なんか合格発表の日に事故ったって前聞いたけど
そういやどーなっとるんかいな
俺、浪人中ヒトとの繋がり皆無やったし
独り言のようにぶつぶつ兄が呟いているのを脳で受け止めきれないまま、彼女の思考の渦から彼の言葉が弾き出されていく。
茜は兄の卒業アルバムを抱えながら、居ても立っても居られない様子で立ち上がった。
「は、お前、今からどこ行くん」
「志織んとこ!」
彼女に言わねばならない。伝えねばならない。そのことで頭がいっぱいで、他には何も考えられなかった。
自転車の鍵を鞄から取り出し、茜は玄関へ走った。その忙しない足音を聞いた茜の母親が夕飯の支度をしながら、彼女の背に声かける。
「茜、今から行くと? 志織ちゃんの迷惑にならん?」
「まだ七時前やし、たぶん大丈夫!」
茜は靴を履く手を止めず、母に答えた。コンバースの靴紐が緩んでいるのに気づき、それを急いで結び直していると今度は台所から母が出てきて直接茜に言葉をかけた。
「最近また近所に不審者出たけん、夜道は女ん子ひとりやったら危ないのに。……お兄ちゃん車で送ってってくれん?」
「ムリ。見たいテレビある」
「もー」
「一人で行けるやろ。外まだ明るいし」
テレビの前のソファーから微動だにしない兄が新聞のテレビ欄を見ながら言った。普段一人暮らしをする彼の家にテレビはなく、「この前、東京遊び行ってホテル泊まったとき久しぶりテレビ見たわ」と言う兄に「お前は東京行かなテレビも見れんのか」とダイニングの机上でパソコンを開いていた父が笑った。
「……葵、行っちゃらんとか?」
「なんでウチは茜にだけ甘いんかな」
父親からもじーっと何か言いたげな視線を送られた彼は、はあ、と溜め息をついて気怠そうに腰を上げた。しかしその手に車の鍵は握られておらず、彼はリビングを出て二階に上がり、自身の部屋に入っていった。部屋に入って一秒もせず彼から「ひいっ」と悲鳴が上がる。
「茜ぇ! お前俺の部屋使いよったやろ!」
「だって兄ちゃんのベッドふかふかっちゃもんあたしの煎餅布団と違って! 大丈夫エロ本とかちゃんとベッドの下に隠したままやけん!」
「そんなんねえわボケ!」
「持っとっても実家には置かんし」とぶすくれた彼の声が聞こえてくる。茜は玄関の戸を開けながら「大丈夫お母さん志織んちチャリで十分ぐらいやしすぐ帰ってこれるよ」と早口で捲し立てた。
「ご飯先食べとってね! いってきます!」
「あー待て待て」
「なん!? あたし急いどっちゃけど!」
茜の家は吹き抜けになっているため二階の廊下から玄関を見下ろすことができる。兄は二階から「これ着てけ」と彼女に向かって何か投げた。
「……なんこれ」
「それ着てったらぜってー襲われん」
「襲うとしたら、相当な勇者や」と兄がドヤ顔で言った。彼が茜に渡した黒いTシャツには「城高空手道」と白字で背中に大きく書かれていた。表には筆字で「拳魂一徹」とも、おどろおどろしくプリントされている。茜は痴漢に若い女性が襲われたというニュースを見るたびに兄がいつも「道着で帰りゃいいやん」とぼそっとこぼしていたのを思い出した。
「ふん! 着てやらんでもない!」
「お前マジ可愛くねえな」
「俺、志織ちゃんみたいな妹がほしかったわー」と嘆く兄を見て、茜は「志織がキレると誰の手にもつけられんよ」と言いたかったが、彼女から「余計なこと言うな」と釘を刺されていたのを同時に思い出し、口が滑りそうになるのをすんでのところで堪え、「いってきます!」と夕飯の匂いが充満する家をあとにした。
*
この五日間は平穏だった。いや、平穏であると無理にでも思おうとしていたのかもしれない。
志織は先輩が藤田友樹でないと知ってから、自身の中でぴんと張りつめていた緊張の糸が少し緩んだような気がした。依然としてすべての不安が払拭されたとは言いがたい状況ではあるけれど、自分から引き金を引くという事態がなくなった今、志織の心は普段と変わらない平静さを保てていた。
「志織、はよ最終巻読んでよ」
「もう少しですから」
姉が帰ってきたときや親戚が泊まりにきたときのために空けている部屋で先輩とともに過ごすようになった志織は、茜に薦められた本の最終巻を手にしたまま、ふふと笑った。
「この旅人って、先輩に似てると思いませんか」
「俺に?」
床に座り、ベッドを背凭れにしながら本を読んでいた志織は、CDコンポの前で音楽を聴いていた先輩に視線を移した。室内には電子ピアノとアコースティックギターも置かれており、この部屋に初めて入ったとき彼から演奏をせがまれて志織は何曲か披露せざるをえなかった。彼女は三歳の頃からピアノを習っており、今でも試験前になると猛烈に弾きたくなる病に罹患している。
いま部屋に流れている曲は、志織が最近よく聴いているアーティストが二十年ほど前にリリースした曲だった。先輩が歌詞カードを見ながら「音楽できる人ってすげえわあ」と感嘆の声を上げるのを見て、彼は音楽をこうして聴くのも生きていたとき以来だったのだろうか、と何となく志織は思った。
「そうは、思わんけどね」
「え、なんでですか?」
「俺、旅人みたいにお人好しやないと思う。旅人は困っとる人見たら放っておけんけど、俺は自分のできんことにわざわざ挑戦しようとは思わんもん」
先輩の言うように、主人公である旅人は自分の能力に限りがあると知っていながらも、自らを犠牲にしてまで出逢う人すべてを助けようとする。彼の自己犠牲の精神は、見るものによっては自己満足に他ならないのかもしれないが、志織はそうは思わなかった。どっちつかずと、八方美人と罵られようと、旅人はその姿勢を最後まで貫き続けるのだ。彼はいつも、他人の幸せを模索していた。カムパネルラではないけれど、彼は本当の幸せとは何かを、探す旅人であったとも言える。
「でも先輩、私に勉強教えてくれるじゃないですか」
うんうん数学や物理の問題を前にして唸っている志織を見ると、先輩はすぐに助け舟を出してくれる。彼は志織がわからなくなっているところまで遡って教えてくれるから、先輩が一家に一台いればどれだけの受験生が救われるだろうと、そんなどうでもいいことを考えてしまうほど、先輩の教え方は簡潔でなおかつわかりやすかった。そして彼のおかげで志織は苦手意識のあった理系科目もだんだん好きになり始めていた。
「それは、志織やけん」
「……今んとこ、訊かれてわからん問題もなかったし」と先輩が歌詞カードから顔を上げて、にやりと笑った。それは、彼がその言葉の意味もちゃんと理解して発しているという証だった。
「な」
じゃあ、私じゃなかったら、教えないんですか。
志織が口を半開きにして固まっているのを見て、先輩が彼女の反応を楽しんでいるかのようにクッと喉を鳴らして笑う。だが志織は「……そうですか」と返して、ゆっくりと目線を本のページに戻した。何も気にしていない素振りを見せたいけれど、話の内容はまったくと言っていいほど頭に入ってこなかった。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
「志織ぃ。茜ちゃんが来たよー」
誰が来たのだろう、とぼんやり思っていた志織は、まさかの自分への来客だったことに少なからず驚いた。携帯を見ると、茜からの連絡は入っていない。「いま行くー!」と母に二階から返事を返して階段を下りていくと、先輩も後ろからついてきているのが感じられた。「何の用っちゃろうね、茜ちゃん」と言う先輩に「どうしたんですかね」と志織は首を傾げながら答えた。
「どうしたの、茜」
玄関を出ると、門の前で何かを胸に抱えて立ち竦む茜がすぐ目に入ってきた。上には黒いTシャツ、下には制服のスカートを身につけて息を弾ませている彼女は、何かの部のマネージャーのようにも見える。
「とうとうそんなTシャツにまで手を出したんだ」
志織は見覚えのあるその黒いTシャツを見て笑った。あれは確か空手道部の部Tだったはず。今は茜が持っているものがジャマして文字は見えないが、「拳魂一徹」とも書かれていたのを志織は確かに憶えていた。そしてそれが彼女の兄のお下がりであることは疑いようもない。
「ちゃんとお兄さんに許可もらっ」
「ごめん志織! まさか、先輩がうちの兄ちゃんと同級生とは思わんやった!」
志織は自分の呼吸が止まったのがわかった。
茜が真剣な顔で訴えた言葉を、呑み込むのに精いっぱいだった。
「志織、……先輩って、この人、だよね」
彼女が胸に抱えていたのは、卒業アルバムだったらしい。ページを捲っていく茜に志織は「まっ、て」と小さく呟いた。だがその呟きは何の意味も持たなかった。茜が、あるクラス写真のところでページを捲る手を止める。そしてすぐに志織に向かってアルバムを差し出し、そのまたある一人の男子生徒の写真を指で示した。
そこには、志織に向ける笑みをそのまま写したような彼の笑顔があった。志織の知っている先輩よりも髪が少し短い。おそらく三年生の六月頃に撮った写真だ。志織や茜も、二か月ほど前に卒業アルバム用の個人写真を撮ったのは記憶に新しい。
眞鍋宗一
「まなべ、そういち」
写真の下に記された名を読み取ったのは志織ではなく先輩だった。「せん、ぱい」と緩慢な動作で後ろを振り向いた志織に、茜はようやくそこに先輩が居合わせたことを知ったらしい。急いでアルバムを閉じて再び胸に抱え込んだ彼女に、志織は何の嫌味など含めず、ただもう、すべてが遅いのだと、悟った。
「――俺の、なまえ?」
息を呑んだこの瞬間を、志織は永遠のように感じた。「あ」と彼から声が漏れる。
「志織、俺、ぜんぶ、思い出した」
先輩の声が震えるのを、志織は初めて聞いた。
「フジせんぱーい」
「なんや。俺は今、肉に集中したいんや」
男バスでは卒業式後の三年生を送る会が毎年全国チェーン店の焼肉屋で開かれる。肉の焼ける音と白煙が漂う空気のなかで、大事そうに肉たちを自分の領域で育てていた藤田に、宗一がその肉の一つをすすすと箸で自身の方へ引き寄せながら話しかけた。「あ、こら、俺の肉ぞ!」と藤田が制するのも遅く、宗一はその肉をご飯と一緒に口の中へ運んだ。うま、と思わず彼の口から至福の声が漏れる。
「ったく、しょーがねえなあ」
藤田は残りの焼いていた肉も宗一の皿の上に乗せてやった。「あざす」と宗一が口をもぐもぐ言わせながら頭を垂れる。「お前の分はさっきから俺が焼いてやっとったやろ」と今度は宗一の横にいる勝広が、網を挟んだ真向かいに座る藤田の皿に自分の焼いていた肉を置いた。
「かっちゃん、できた嫁やわあ」
「こんな甲斐性なしぜってえ願い下げやわ」
焼肉のときには必ず焼く係と食う係に分かれるのは面白いもので、宗一は今までにあのトングを握ったことすらなかった。宗一が焼こうとする前に焼いてくれる人が周りにいるのだ。まあその焼いてくれる役はいつも勝広だったわけだが。
「で、どーしたん宗一」
「腹でも痛いんか」と小さい子に訊くように藤田は首を傾げた。
「いや、痛いのは腹やなくて」
「ほう?」
「頭が弱いんです、ってか」
「ちょ、かっちゃん」
「宗一、なんかあったん?」
「――先輩。俺、どやったら勉強できますかね」
「……は?」
藤田の肩が、かくっと下がったのを宗一は確かに見た。彼は宗一の発言が突飛すぎてよく話を呑み込めなかったのか、「宗一って勉強できんの?」と本当に疑問に思っている様子で勝広に尋ねた。
「違いますよ先輩。こいつの場合、勉強できんのやなくて、勉強せんのです。追い込まれてしたときはそれなりに成績いいのに」
「モットーは『真面目に不真面目』やもんな」と勝広が言うと「ゾロリかよ」と藤田が笑った。
「気づいたら漫画に手が伸びとるんすよ。どっかいい勉強場所ってありますか。塾とか以外で」
塾に通うのは、なんとなく嫌だった。特に理由はないが、ただ「勉強しろ」と言われてもする気の起きない自分には向いてないだろうという勘が働いた。
「ソウ、先輩に甘えんな。全部お前のやる気次第やボケ」
「そりゃわかっとるけどー」
「家とか学校じゃできんと?」
「それができとったら苦労してませんわ」
勉強のできる人に勉強できない人の気持ちがあまり理解されないのは世の常であるとも思う。だって彼らはきちんと自分の欲望をコントロールしているから。だが締切や試験の直前にならないとスイッチが入らない人間もいるのだということを伝えたくて、宗一は「ぷりーずへるぷみー!」と藤田に泣きついた。
ふむ、と肉を新たに網へ投入しながら藤田が考え込む。
「そもそも宗一は勉強嫌いなんか?」
「好きと思ったことなどあろうか、いやない」
「反語かよ」と勝広が即座にツッコミを入れる。
「そ、そうか。でも勉強したいって気持ちはあるんやな」
「したいっつうか、現実問題としてせにゃならんとですたい」
「ソウ、孔子ば見習え。『学びて時に之を習う。亦説ばしからずや』っつうやろ。中学生でも知っとうぜ」
「俺はぁ、かっちゃんみたいにぃ、勉強がぁ、楽しいとぉ、思えんのよぉ、わかるぅ?」
「こいつしばいたろか」
「クソいらつくわ」と言いながらも勝広の目は笑っていた。いいコンビやな、と藤田は思った。人と広く浅く付き合ってきた藤田は彼らのような関係が築けるほどの友人をもてたことがないため、少しこの後輩たちのことが羨ましかった。
「あ、お前にいいこと教えとっちゃーか」
藤田が突然何かを思い出したのか、宗一にトングの先を向けて言った。
「なんすか、いいことって」
「図書室の奥にある部屋に行ってみ。たぶん集中できるぜ」
「……へ? 図書室?」
「図書室の奥に、またなんか部屋があるんすか」
「さあ、どうやろうなあ」
宗一と勝広の疑問をさらりと躱して、藤田が「ちゃんと勉強しろよ」と何か言外の意味を含ませながら笑った。
「――閉まっとうやんか」
四月。ふと藤田の言葉を思い出した宗一は昼休みにふらりと図書室へ訪れた。図書室に足を踏み入れたのは春休み前に本を数冊借りて、それを返却した以来のことだった。藤田の言っていた「図書室の奥にある部屋」とは、おそらくこの本棚の後ろに続く扉の奥にあるのだろうが、宗一がドアノブに手を掛けたところ鍵は開いていなかった。
その日以来、宗一の中でこの扉のことは隅のほうへ追いやられた。そして卒業するまで彼がそれを思い出すことは一度もなかった。
しかし、卒業式の七日後、彼はそこで目覚めることになる。
宗一は見覚えのない部屋で宙に浮いた自身の上体を起こした。
目に映るすべての物に触れられず、地面を踏みしめることもできない躰。
誰からも干渉されない世界。
自分が誰であるかもわからない。
ただ、本だけが。
本、だけが。
救いとなった。
宗一は、志織を見た。彼女が「先輩」と言った声が、彼の耳にはもう届かなかった。
霞む意識のなかで宗一は、ありがとう、と、彼女に伝えた。
しかし彼女にも、彼の声は届かなかった。
彼は、音もなく、影もなく、志織が何か伝えられる暇もなく、夏の夜に消えてしまった。
後期の夏期補習が始まって一週間ほど経ち、休みの日にだらけていた体内時計も正常に動くようになった頃、志織は体育祭の練習をさぼって、放課後の静まり返った図書室の奥へと進んでいった。
あのとき先輩に尋ねていれば、尋ねることができていれば、もっと早くに先輩が誰かを見つけることができたのだろうか。
なんて、あっけない終わり方なんだろう。
先輩が消える一因を作ってしまった茜は志織より塞ぎ込んで見えた。志織が、茜のせいじゃない、と何度言っても彼女は自分を責め続けていた。
彼は約二年と半年を、この場所で過ごした。茜の兄が言うには、眞鍋宗一はバスケ部の副キャプテンだったらしい。だから志織の先輩たちも、同じ男バスに所属していた藤田友樹と彼を混同させてしまったのかもしれない。男バスと女バスは使用する体育館も違うため両者には深い関わり合いがないことも志織は知っている。しかも藤田友樹が事故に遭った一か月後に、何の因果か眞鍋宗一も事故に遭ったのだ。当時はニュースにもなったそうだが、あの惨禍によって一瞬で塗り替えられ、人々の記憶から搔き消えたという。その後、関係者の間だけで噂は広まっていき、形を変え、時を経て志織のところにまで辿り着いた。
遅かったか、早かったか、そんなのわからない。
ただ、先輩はもう、いない。
この部屋にはもう二度と、戻ってこない。
先輩。
ねえ、先輩。
わたし、
あなたのことが、
「好き、でした、」
突然、心にぽっかりと穴があいてしまった。どうやってこの穴を埋めればいいのだろう。誰か教えてくれないだろうか。その術を。
彼と過ごした時間は短かった。ひと月にも満たなかった。でも、こんなに密度の濃い、楽しい時間はなかった。
なんでだろう。なんで彼は今、ここにいないんだろう。いてくれないんだろう。この椅子に座って、本を読んでいないんだろう。
くたびれた新聞紙。積まれた本。座っていた状態のまま、引かれた椅子。紛れもなく、彼がここにいたという証。知らない彼の温もりさえも、そこに、そのまま残っていそうで。
ほら、夢なんかじゃ、なかったでしょ?
「だい、すき、でした」
先輩、聞こえますか。
私の声が、届いていますか。




