6 夢
朝補習。朝の七時半から始まる拷問とも思える一時間のことをいう。
大阪の進学校に通っているイトコに言えば、目を丸くされる。なにそれ、と。彼の高校では授業は九時に始まり、午後三時には終わるそうだ。その代わり部活動の時間が長くなってしんどい、と言っていたが、それはそれで羨ましく思った。にもかかわらず、進学実績は彼の高校のほうが圧倒的にいい。井の中の蛙大海を知らず、という諺は、地方に住む者ほど当てはまる対象はないだろう。結局勉強はやらされるより、自分からやったほうが身のためになるのだ。
「藤田くーん」
朝補習が終わり、ホームルームが始まるまで生徒に与えられた小休止の時間、机に突っ伏して意識を遠のけていた藤田の肩を、隣の席に座る関谷が控えめに揺さぶった。夜は日付を余裕で二時間は跨いだ時刻にようやく眠りにつき、朝は五時半に起きて電車に乗った藤田だったが、夢の中にダイブしかけていた意識を強制的に現実世界へと引き戻されたことで、少しだけこの同級生の女子のことを「容赦ねえな」と思った。
「起こしてごめんよー。すまぬが拙者に数学を教えてくれまいか」
「授業で聞いても、ようわからんで」と関谷は申し訳なさそうに肩を落として、おもむろに顔を上げた藤田をおずおずと窺った。「いいよ」と寝起きで少し嗄れた声が彼の喉から出る。
たぶん、いま胸が高鳴っているのは、自分だけなんだろう。
「オリスタのね……、何番やったかな。極値をもたんようにaの範囲を求めよって問題で」
「ああ、さっきやったやつ?」
「そうそう! aの範囲が、f'(x)が単調増加と単調減少するときってのはわかっとるんやけどね……。どうしても答えと合わんっちゃん」
答えが合わないのはおそらくどこかで計算ミスをしているという意味だろう。藤田は「まあ、解いてみるよ」と言ってペンケースからシャーペンを取り出し、プリントの裏を使って計算し始めた。いま起きたばかりとはいえ、さっき解いたばかりの問題だったのでペンは止まることなく動き、次々と数字や記号を生み出していった。
「藤田くん、字ぃかわいいね」
「そう、かな」
字が女の子みたい、と言われたのは別に彼女が初めてというわけではない。中学で同じ班だった女子や、部活の後輩から指摘されたことは何度もある。そう言われて喜ぶ男子はあまりいないと思うが、藤田は少なくとも褒められたものじゃないと思っている。一時は言われると少々ムカついてしまった頃もあったが、言われた内容は同じことであっても言った人によってはこうも内に生じる感情が違ってくるのか。我ながら現金なやつだなとは思うけれど、藤田は彼女になんとなく今の自分を見られたくなくて、机に肘をつき、利き手じゃないほうの手で自身の額を覆った。
関谷とは二年から同じクラスだったが、こんなふうに話し始めたのは三年になってからのことだった。それまでは特に関わり合いもなく、席が近くになったこともなかったため、お互いの名前と部活は知っている程度の仲だった。それがこのように彼女からたびたび質問を受けるようになったのは席替えがあったつい最近のこと。朝学校に来れば「おはよう」と互いに挨拶して、帰りには「また明日」と手を振る。何も珍しいことではないのだろうが、それを楽しみにしている自分がいることに気づいたのもつい最近だった。何気ない会話を交わすようになって気づいたことではあるが、関谷の知識は驚くほど幅広く、その豊富さに藤田が感心すると「試験には出らんけどね」と彼女は恥ずかしそうに笑った。だが一緒に話していて楽しいと思った女子は彼女が初めてだった。
「え? そこなんでそうなったと?」
「なんでって、平方完成で2で括ってあるけん、それ掛けただけやけど」
藤田が問題を解いていくのを横から目で追っていた関谷が、突然「……ぁあ!」と声を上げた。何事か、と藤田が紙の上から彼女に視線を移す。
「先に2で括ったことすっかり忘れとった! やけん計算合わんやったんかー……。申し訳ないこんな簡単なの訊いてしまって」
関谷が「ごめんっ」と手を合わせて藤田に謝る。彼女が言うと、侍の使う「御免」に聞こえるな、と思いながら「いいよ。自分で解きよったら、ときどきわからんくなるもんね」と藤田が言った。「テストでもケアレ・スミスさんが一向に減らんのです」と嘆く彼女を見て、藤田は少し変わった彼女のセンスを感じたような気がした。
「あ、あとね、ここの問題もわからんのやけど……」
ふと彼女の髪が揺れ動いたことで、甘い洗髪料の匂いが藤田の鼻腔をくすぐる。男兄弟しかいない彼にとっては普段なかなか得られない感覚でもあって、彼女への返答が一瞬遅れてしまった。
関谷の周りはいつもたくさんの女友だちで溢れていたけれど、彼女自身は誰とも連んでいる様子はなく、弁当を一人で食べている姿もたびたび目にした。だが仲間外れとかそんな幼稚なことでみなが彼女を避けていたわけではなく、彼女のほうが女子のグループとやらからキョリを置いているように藤田は感じられた。なぜなのかはわからない。でも彼女のそんな潔い姿に藤田が惹かれたのも事実だった。
「わーありがとう! なるほど! めっちゃわかりやすかった! 先生より!」
「聞き捨てならんな」
藤田がサイクロイドの応用問題を解説し終えたところで関谷が歓喜の声を上げたとき、ちょうど教室の入り口から担任の後藤が、にゅっと顔を出した。藤田と関谷の席は一番前のドア付近に位置していたため、彼女の素直な感想もしっかりと彼の耳には届いたようだ。
「ひぃっ。ご、後藤先生いらっしゃったんですか」
驚きで声が上擦った関谷の後頭部を後藤が「はよ席つかんか」と日誌で軽く叩きながら教壇に上がっていく。後藤は藤田と関谷のクラス担任であり、彼らの数学担当でもあった。女子バスケットボール部の顧問でもある彼は、授業でも部活でも一切の妥協を許さないことで有名だったが、藤田は別に彼の頑なな姿勢も嫌いじゃなかった。成績のよい生徒にだけいい顔を見せる教師よりよっぽど好感をもてるし、何より彼とは趣味の点でよく話が合う。彼のナナハンを一度見せてもらおうと藤田は密かに画策していた。
「藤田くん」
ホームルームの最中に関谷が顔だけを藤田のほうに向け、小声で彼の名を呼ぶ。関谷は少し迷ったように宙に目を泳がせながら、けれど何かを決心したように彼の目を見て、声を出さずに何かを伝えてきた。だが藤田は彼女の口の動きだけで十分その意味を理解してしまった。
あとでメアド教えてね
あまりに彼女が照れた顔で微笑むから、藤田は自身の表情が緩まないよう、机に視線を落としながら「うん」と頷いた。彼女とメールで「おやすみ」と交わすことになるのも、そう遠くない未来のことだった。
*
盆休みに入って四日ほど経ち、先輩を家の中で見るのにも慣れてきた頃、志織の携帯に一本の電話が掛かってきた。
「香奈先輩! お久しぶりです!」
懐かしい人物からの思いがけない着信に自然と笑みがこぼれる。志織の世話になった先輩たちが卒業して半年ほど経った今、彼女たちが後輩に連絡を入れるのはゼロに等しかった。そして彼女たちの中には大学生活を謳歌している者もいれば、浪人を選んだ者も少なくないため、こちらも気を遣ってそう簡単にコンタクトをとる気にはなれなかった。けれど電話をくれた彼女とは帰りの電車も同じ方向で、志織にとって先輩の中では一番仲がよかった人物と言っても過言ではなく、心から尊敬できる大好きな先輩だった。
『久しぶり、しーちゃん。元気やった?』
「はい、元気です。香奈先輩は?」
『元気元気超元気。インハイ予選惜しかったんやって? ごめんね試合観に行けんで。その日どうしても空いとらんかったちゃん』
「そうですね、先輩が応援してくれてたら勝ってたかもしれません」
『相変わらず言うねえ』
香奈先輩の快活な笑い声が志織の耳を心地よく打つ。こんな冗談を電話ごしでも言い合える先輩を持てたことがとても誇らしかった。
電話が掛かってきたとき咄嗟に読んでいた本のページに入れていた指を抜いて、代わりに栞紐を挟み込む。そのとき新聞紙を敷いたベッドの上で寝転びながら本を読んでいた先輩と目が合った。「部活の先輩?」と小声で訊かれたので、それに「はい」と頷いて答える。
「香奈先輩、今日はどうされたんですか? 来年のOG戦なら今年と同じ日にありますよ」
女バスのOG戦はいつも正月に催される。ただその日にちは毎年固定されている、というわけではない。たまたま来年は今年と同じ日に決定しているが、今回彼女が志織に電話してきたのはその日を知りたかったからだろうか、と深く考えるまでもなく志織は漫然と彼女に尋ねた。
『あ、そうそう。今日電話したんは、この前しーちゃんに訊かれたことでな、ちょっと話したいことがあって』
OG戦の日は知っとうよ。一月二日やろ? と笑う彼女の声が、一瞬志織の脳内に入っていかなかった。
『私も、しーちゃんに、ここ数年で亡くなった男子生徒知りませんか、って訊かれたあと、一つ上の先輩に訊いてみたのね。そしたら藤田さんって人が、事故に遭って亡くなっとるんやないかって』
『藤田友樹って人。男バスのキャプテンやったみたい』と彼女は何も意識していないような軽い口調で志織に平然と言ってのけた。これが電話ごしでなく直接会って話すような場であったならば、彼女も志織の異変に気づき、言葉を詰まらせていたことだろう。志織は、自身の顔から血の気がさあっと引いていくのを感じた。そしてそれは近くにいた先輩にも容易く気づかれてしまった。
「志織、大丈夫?」
上体を起こして志織の様子を窺う先輩に対し、「大丈夫です」と笑って小さく返事をする。耳元では依然として話し続ける彼女が、志織の中で存在を主張していた。
彼女の声が先輩に聞こえていなければいいと思った。
その勇気すら持ち合わせていないのだ。
彼に本当の名を伝える、勇気を。
よくも、こんな状態で、先輩の名を探す、などと意気込めたものだ。
彼女との電話が切れたとき、志織は自身の中から込み上げてくる笑いを無理に抑えようとはしなかった。
「先輩は、……藤田、先輩は、男バスの、キャプテンだったんだって。……私たちより四つ上になるのかな」
盆休みが明けて夏期補習がまた新たに始まったその日、志織は茜に女バスの先輩から連絡が来たことを包み隠さず打ち明けた。その前に携帯で彼女と連絡をとらなかったのは、彼女には直接、志織を見て話を聞いてほしかったからだ。
「それで、大学一年の終わりに、バイクに乗ってたところで、事故に遭った、んだって」
茜は志織の話を聞いたあと、ごくりと唾を呑み込んで苦しそうに「そう」とだけこぼした。何も知らない人から見れば、彼女は泣いているようにも見えたかもしれない。志織は、ここまで巻き込んでしまった彼女に、初めて申し訳ないと思った。
志織が先輩を好きにならなければ、自分たちがこんなに醜い感情で苦しめられることもなかっただろうに。
『藤田さんって私の三つ上やけん見たことはないっちゃけど、勉強も運動もできる人で有名やったらしいよ。彼女も可愛くて、みんなの憧れやったんやって』
志織にとって聞きたくもない情報まで教えてくれた彼女のことを恨まない気持ちがないと言えば嘘になる。そこまでできた人間でもなければ、きれいな感情だけが心を占めている人間でもなかった。
先輩、あなたには、好きな人がいたんですね。
その姿は、あなたの思い出が詰まった姿だったんですね。
授業が終わって志織が先輩のいる部屋を訪ねると、彼は開いた本の上に突っ伏して眠っていた。
その髪に突然触れたいと思ったのは、自分でもなぜだかわからない。
しかし志織が彼に手を伸ばそうとした瞬間、ふっと、空気の流れが変わり、彼の読んでいた本の、表紙が閉じた。
先輩が、いなくなった。
*
「あー、あっちい。まだ五月なのになんでこんな暑いん」
引退する三年生が参加する最後の練習日、五月の空は光化学スモッグのためか少し霞んでいて、けれど強い日射しが鋭く目に刺さってくる。宗一はマネージャーが部員分用意してくれていたスクイズボトルをぐっと呷った。風を入れるため開けっぱなしにしている体育館の横のドア付近に、どかっと座り込む。
「あぢーあぢーあぢーくそあぢー」
「うっせったいさっきから」
勝広が宗一の後頭部をボトルで叩くとバコン、という小気味いい音が鳴った。「いてっ」と声を上げる宗一を見て、二人に近づいてきた一人の三年生が笑う。
「言わせとけ言わせとけ。暑い寒いっつうのも季節への礼儀ってな」
「ほらー。フジ先輩がいいって言っとるんぞ」
「もうお前が無礼なのは季節も承知しとうけん黙っとってくれ。余計暑くなってくる」
フジ先輩と呼ばれた三年生が宗一の隣に「よいせ」と腰を下ろした。勝広は立ったままドアの端に寄りかかり、宗一と同じようにボトルを口に含んで喉を上下させている。宗一は首にかけたタオルで汗を拭いながら、横に座る先輩を観察した。背は宗一や勝広ほど高くないが、白いユニホームの4番が彼によく似合っていて、男から見ても先輩はかっこいいと思わざるをえない。こりゃ女子もキャーキャー言うはずやな、と宗一はひとりで納得した。
「あ、勝広」
勝広が外に向けていた視線を戻し、先輩を見下ろした。ボトルを口から外して、「なんすか」と首を傾げる。
「お前、次の部長な」
「明日、八時に集合な」とでも言うような軽いノリで先輩が勝広に言った。勝広が一瞬、面食らったかのように目を見開く。しかし彼は小休止に入っている周りの様子をしばし見渡したあと、「……はい」と素直に返事した。
「んで、宗一。お前は副な」
勝広から何の反論もなかったことに気分をよくしたのか、先輩は笑顔で宗一に話を振った。「えー」という不平が即座に宗一から漏れる。
「『えー』じゃねえ。勝広を支えますぐらい言えや」
「カツヒロヲササエマース」
「わりぃな勝広。こいつが副で。笠木先生との間でもう決定したっちゃん」
「いいです。別に期待してませんから」
「あっ、ひでー。かっちゃんひでー」
笠木先生というのは男バスの顧問の名前だ。そして思わず「えー」と言ってしまったのにも、理由がないわけではない。自分は勝広や先輩のように上に立てるような人間じゃない、と宗一は思っている。責任の伴う地位に立つこともだし、人に指示を出すのは昔から苦手なのだ。何を言ってやればいいのかわからず、適当に「大丈夫」と言ってしまう気がする。そしてそれは気のせいじゃないと断言できる。
「まあ、お前と宗一やったら、いいアメとムチになるやろってな」
「こいつがアメで、俺がムチっすか」
「そういうこと」
先輩に、鞭、と比喩された勝広が、ぴくっと片眉を器用に上げる。そして何かを考えるようにじっと先輩と宗一を見たあと、ドアの端に凭れ掛かりながらずりずりと床に腰を下ろした。
「ソウが人に甘いんわ、人のことなんかどーでもいいけんっすよ」
「え、そんなことねーよ」
宗一が咄嗟に口を尖らせる。確かに今まで面倒事を避けて生きてきたという自覚はあるが、十七年生きてきてそれなりに人間関係に悩んだことはある。と、思う。いや、ないかもしれない。あるか? いや、ないか。
「そやな。その人のためって想うと、きついことも言わないかんときがあるしな」
先輩いま「そやな」って言いましたね、と宗一が呟いたのは華麗にスルーされた。
「確かに勝広は、いつも正論を言う。でもな、それを真っ向から相手に叩きつけるのが正しいとは限らんとぜ?」
「……どういう意味っすか」
「勝広やったら、相手が傷つかん言い方もできるやろ」
正しいことを正しいと言って何が悪い。勝広は納得できないように眉間に皺を寄せたあと、頑然として口を開いた。
「でもそんなん、言われて傷つくほうが悪いんやないすか。勝負の世界でそんな甘ちゃんやったら生きてけませんよ。俺やったら『なにクソッ』つって、もっと努力します」
「そんで、言ったやつに俺のこと認めさせます」と勝広が先輩の目を見て言い放った。そのとき宗一は、はっとあることを思い出した。そうだ。あった。ほんの数十分という短い時間だが人間関係に悩んだことが。
あれは中学生のときだったか、今と同じようにバスケ部に所属し、勝広はやはり部長を務めていて宗一は何の気兼ねもない平部員だった。しかし勝広と部員たちとの間で口論があり、宗一は両者の間で板挟みになった覚えがある。勝広の言うことは正しく、かといって部員たちの言い分も理解できないわけじゃない。宗一は双方の合点がいく帰着点を探して、なんとかその場を収めた。あのとき心情的には勝広を支持していたのだが、これからのことを考えて宗一は彼を抑えるほうに回った。宗一が口を挟むまで引く態度を一切見せなかった勝広は、釈然としないながらも首を縦に振ったのを何となく憶えている。
「まあな。注意されてありがとうって思わな、人間成長できんしな」
先輩の言葉に、その通りやな、と宗一は思った。勝広に注意されて不満を露わにしていたような連中は技術もそれ以上伸びなかったし、ここぞというところでミスを連発していた。それに比べて勝広は、普段から練習を本番と思って真剣に取り組んでいたから、結果もちゃんとついてきていた。たぶん彼らは、何でもそつなくこなす勝広が妬ましい半分、羨ましかったのだろう。その裏にある努力を見ようともせず。知ろうともせず。
「宗一のいいとこはな、人の嫌がることとか傷つくことを、絶対に言わんところっちゃん」
「ま、勝広みたいに深く考えてねえってだけかもしれんけど」と付け加えて、先輩が宗一の背を軽く叩いた。今のは褒められたのか? と宗一が訝しげに首を捻る。
「つまり、ソウを見習えと」
「見習えっつうか、他ん人のいい部分はどんどん盗んでけってことかな。それに、俺は別に勝広のことを全部否定しとるわけやないんぜ」
先輩に自分でも気にしている欠点を指摘されて、少しだけしおらしくなっていた勝広がゆっくりと顔を上げた。
「人に注意できるっつうことは、その人のことをちゃんと見とるって意味やと俺は思う」
勝広が先輩に何か言おうとして、でも途中でやめて、床に置いていたボトルに視線を落とした。誤解されやすい勝広は、敵を作ってしまうことも確かに多かった。先輩はちゃんとわかってくれとったんやな、と宗一は幼稚園来の幼馴染みを想って嬉しくなった。
人に厳しく自分にも厳しい勝広。人に甘く自分にも甘い宗一。
あれ、俺のほうこそ、かっちゃんを見習わないかんっちゃね?
宗一の背中に冷や汗ではないが汗が一筋、つうと伝っていった。
「お前ら、足して二で割ったらちょうどいいのに。でもそしたら、二人のいいとこまで薄まってしまうけんな」
それもそうだと宗一は首肯した。宗一は今の自分が別段嫌いではないし、勝広も無理に変わらなくていいと思っている。というより宗一はそんな勝広を心から尊敬しているのだ。すべての人に理解されなくてもいい。わかってくれる人は先輩みたいに、必ずどこかにいる。
ただ、いつまでもそれに甘んじていてはいけないのだろう。
「人にはできることと、できんことがあって、当たり前やし」
先輩がそう言って立ち上がったところで、休憩終了の合図であるブザー音が鳴り響いた。思い思いの場で休んでいた部員たちがぞろぞろと体育館の中央に集まっていく。
「ま、あとはよろしく頼むわ」
先輩が宗一と勝広の頭をくしゃっと撫でる。「うえ、おめーら汗やべえな」と汗で濡れた手をユニホームで拭う先輩に「なら触んなって話っすよ」と勝広が毒づいた。
「……フジ先輩、まだ引退せんでください」
「お前はツンデレか」
「卒業せんでくださーい」
宗一も冗談半分に上目遣いで訴えると先輩は「させてください」と笑った。「はよ立てや」と言って背番号4を二人に向ける先輩を見て、宗一は先輩みたいな人になりてえな、と何となく思った。そしてそう考えたのは宗一だけではないかもしれなかった。
*
先輩、先輩!
志織は眠っている先輩に届くよう、自身の声を必死に張り上げた。さっきから心臓が早鐘を打ち続けている。どうして自分は先輩に触れることができないんだろう。この声さえ届かなくなったら、いったいどうすればいいんだろう。叫ぶことしか今の自分には残されていなくて、しかしまだ先輩をこの目で捉えられるという実感だけが、縋ることのできる唯一の道筋を志織に照らしてくれていた。
「……あ、……しお、り」
先輩! と志織は顔をゆっくりと上げる彼を覗き込んだ。床に付けていた自分の膝が少し震えていたことに志織は気づいていた。膝立ちし、椅子に座っている先輩に顔を近づけて叫んでいたせいで、いま志織と先輩との距離は十五センチほどだった。それが少しも気にならないくらい志織の意識は先輩にだけ集中していた。「よかった、」と力なく呟いて、志織が床にへたり込む。彼の座る椅子に顔を突っ伏して、また「……よかった、」と吐き出す志織を見て、先輩は「しおり……」とまだ微睡の中にいるような声で彼女の名を呼んだ。
「おれ……、なんか、前と変わったとこ、ある?」
先輩は何かを確かめるように、広げた自身の手のひらに視線を落としていた。顔を俯せたまま、いいえ、と志織が首を横に振る。
「……ただ、一瞬、先輩の姿が、見えなくなっただけです」
怖かった。もう、二度と逢えないのかと思った。
まだ、まだ、心の準備ができていないのだ。
目の前で先輩がいなくなったとき、志織にはまだ彼を笑顔で見送る勇気も、突然の別れに耐えられる自信もなかった。それでも志織の中では、彼に本当の名を伝えるか、伝えまいか、という葛藤が雁字搦めに志織の意志を縛っていて、もう自分はどうすればいいのか、本当にわからなかった。でも本当は、何が一番正しい解答であるのか、彼女はわかっていた。
先輩は志織の頭に手を置いて彼女の髪を撫でるように手を動かした。しかし彼に触れられている感覚がわからない志織は彼の手の動きにも当然気づかなかった。
「なんか、夢、みとった」
先輩が、ぽつりとこぼした言葉に、志織の躰が、ぴくりと反応した。彼は志織からおもむろに手を離し、机上にあった本の表紙に手を置いた。その感触を確かめるかのようにページをパラパラと捲っていく。
「――どんな、夢、でしたか」
志織は先輩の膝から顔を上げ、彼の横顔を見た。その表情からは何も読み取ることができなかった。ぼうっと、どこに焦点を当てているのかもわからない眼差しと、結ばれた唇。
「それが、もう、思い出せんのやけど」
そのとき初めて、志織には彼の顔が苦痛で歪んだように見えた。思い出せないのが、ひどくもどかしいとでも言うように。眉を顰め、下唇をきつく噛んでいる。
先輩は片手で額を押さえ、瞼を閉じ、「……でも」と小さく掠れた声で呟いた。
「なんか、めっちゃ、懐かしかった気ぃする」
胸が、一気に苦しくなった。その夢には、志織の出る幕なんて一秒もないのだ。彼が、藤田友樹、という一人の人間として生きていた時に、志織が彼に干渉できる方法など、どこにもない。そんなの、最初からわかっていたことなのに。
これ以上ないくらい、驕っていた。思い上がっていた。先輩と話せるのは自分だけなんだと、彼の過去にも勝ったような気がしていた。
「先輩」
もう、すべて吐き出してしまおうかと思った。それを受け止める彼の想いなんてどうでもいいとさえ、考える自分が、いる。ただ、楽になりたかった。自分が、楽になりたいだけなのだ。
ん? と先輩が首を傾げた。床から立ち上がって、膝やスカートについた砂塵を手でさっと払い、椅子にストンと座る。
「……先輩って、……資料室に入るときは、扉に鍵が閉まってるのに、どうやってこの部屋にまで本を運んでたんですか」
それでも、言えないのは。
まだ、ここにいてほしいからだ。
他の誰でもない。幽霊の彼にだけ。
「ああ。ふつーに本使って、鍵を内側から回しよったよ」
先輩が本を持って鍵を回す仕草をした。ただ資料室から出るだけだったら、彼は扉を通り抜けて外に出ることができるのを志織は知っていた。だが本を持って帰るときに扉が開いていないと、本を中に持ち込めないのではないか。確かに外から入るには鍵が必要だけれど、内側からはただサムターンを回せば鍵は開くため、先輩はそれ自体には触れないが、本を使うことで扉の開け閉めをすることができていたのだという。
「それに、この部屋にある本は全部学校のやけ、すぐ返しにいけるし」
「この、洋書もですか?」
「『ESCAPE FROM FREEDOM』……?」と言いながら志織が彼の持っている本を指した。月刊誌でもないのにペーパーバック版で販売されるような本は洋書に多い気がする。
「何冊かあるよ? たぶん誰かが寄贈してくれたんやないかな。俺もときどきは外出て県立図書館にも行くし。……大学の図書館とかよう入り浸りよったな。……まあ、図書館で読むのはたいてい夜やけどね。俺、夜目が利くけん」
先輩が「すごかろ?」とでも言いたそうに笑った。ほんとに猫みたいだな、と志織は思った。猫のように気まぐれに動いて、夜に行動を活発化させる。でも志織は自分と知り合う前の先輩が何をしていたかもっと知りたくて、「昼は、何してたんですか」と尋ねた。
「休館日で誰もおらんやったら昼でも大っぴらに本読んどったよ。あと大学に潜り込んで講義聞いたりもしよった。校内では……、この時期になると三年のロッカーの上にセンターの分厚い黒本とか二次の赤本がだんだん積まれてくるけん、それ勝手に解いてみたり。……部活見にいったりもしよったかな。あと、電車で行けるとこまで行ってみたり、新幹線に乗って京都とか名古屋とか」
「……けっこう、楽しんでたんですね」
肩透かしを食らうとはこのことかもしれない。やはり、先輩にとっては志織と話せることなど、些細な出来事の一つに過ぎないのだろうか。志織が初めて先輩を目にした日も、彼は終始落ち着いていたし、特に驚いた様子もなかった。でも彼は志織と話すとき、本当に楽しそうに笑うから。志織は何が彼の真意であるのか、いつも図りかねていた。
「けど、さ」
先輩は一瞬視線を空に留めたあと、天井を仰いで、笑った。
「人混みに紛れて、やっぱ俺は死んだんやなって、自覚したわ」
渋谷のスクランブル交差点でずっと佇んでいても、誰からも声をかけられず、車は自分の躰を容赦なく突き抜けて進んでいく。空を飛んでみせても、テレビ局に潜り込んでも、この世ならざる存在に気づく者はなかった。動物にすら、見向きもされなかった。
「やけ、人混みは、ちょい、苦手」
もう、生きてないって何回も自覚させられんのは、きつい
志織が聞き取れないほどの声で、そうこぼした先輩は、ふふと笑って「ごめんな」と志織のほうを見た。
私は、いったい、先輩の何を見ていたんだろう。
彼の本当の気持ちなんて、わかるはずがないのだ。
だって、先輩はわざと悟らせないようにしているのだから。
志織は、人のことをよく見ているつもりだった。今、彼は、彼女は何を思っていて、何を求めているのか。自分に何をしてほしいのか。他人の思考を先読みして生きてきた。相手がどんな言葉を欲していて、どんな言葉に傷つくのか。それがわかっているのに自分の主張を誇示することもあった。自分の欠点をはっきりと認識しているのに、それを直そうと努力しなかったところが志織の短所だった。だが先輩は、巧みに志織の視線をすり抜けていく。容易に摑ませてはくれないのだ。その影すらも。
「先輩」
志織は、覚悟を決めた。これが覚悟、と言えるのかはわからない。でも、志織にとっては自分の進路を決めるよりも重大な決心に他ならなかった。
「私、わかったんです」
「何が?」
私が、見つけてみせる
彼の名も、記憶も、最期さえも――
あのときの決意を、はっきりと、憶えている。
だが彼の名前を彼の前で口にした瞬間、彼は志織の前から消え去るかもしれない。
それでも。
私は。
「先輩の、名前が」
伝えると、決めたんだ。
先輩は、志織が何を言ったのか、理解したらしい。つい今まで浮かべていた微笑みが、彼から消えた。
「……え?」
志織は先輩の目を、じっと見つめた。見つめ、続けた。彼の姿を、心に刻むために。
「……なん、で?」
膝の上で握りしめた拳に、汗が滲んでいるのがわかる。先輩が、本当に動揺しているのが、彼の目を見てわかる。
「――すみません。勝手ながら、先輩のことを、調べていました」
志織は何か言いたそうに口を少し開いては閉じる先輩の唇を見ていた。
「先輩の名前は」
唾を呑み込んで、志織は息を吐き出した。
「藤田、友樹といいます」
先輩は射抜かれたように、すべての動きを止めた。
二人は瞬きもせず、ただ、互いの時が流れる音だけを聴いていた。




