5 八月の夜
八月に入り、下級生は補習から解放され午前中から部活動に励むため、彼らの筋肉化した脳内では未だ補習が続いている三年生への配慮は隅のほうに追いやられていた。部活中に声を出すのは大切なことだと頭ではわかっているものの、もうちょっとボリュームを落としてほしい。特に今はセンター試験対策の一環であるリスニングの時間だ。「ジョーコーファイオッファイオッファイオッ」という野太いかけ声が窓の下を通過したおかげでマイクがジェニファーになんと言ったか聴きとれなかった。
「なんでここの図書室には卒アルがないんよ」
「私に言わないでよ」
英語の授業が終わり、昼休みに入った教室の中は幾分生徒たちの解放感とお弁当の匂いで満たされていた。なぜなら前期の夏期補習はあと一コマで終了し、明日から盆休みに入るからだ。しかし今月の十六日からはまた後期の補習が始まる。後期補習は始業式――八月末までみっちり続く。僅か一週間ほどの夏休みをどう過ごそうか。今、彼らの頭はそれでいっぱいに違いない。
「だーーッッッ!! ああもお腹立つッ! 図書室にも受験生ってことにも体育祭にも!」
志織の向かいで茜が突然雄叫びを上げた。
「フラストレーション? てかチア断りきれなかったんだ?」
「そーだよもう! あたしがチアってガラかッ!?」
「私は似合うと思うよ。性格にでなく外見には少なくとも。中身おっさんだからねアナタは」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「どういたしまして」
茜は友だちの欲目を抜きに見ても可愛い。目もくりっと大きく睫毛も長い。ただ中身が残念なだけなのだ。口も性格もよいとは言えなければ女らしいところも少ない。胸もなければくびれもない。椅子にはスカートを気にせず座るし、ハンカチも普段から持ち歩いていない。トイレのあと手を洗うだけまだマシだが、そのあとはいつも雫をぴっぴと飛ばして自然乾燥。私服も彼女の兄からもらうお下がりで済ませている。茜には自分を飾ろうとする意識が皆無なのだ。志織は彼女のそういうところにも惹かれた。周りの目を気にしないその強さに憧れた。
が、しかし。
「ああああ。このあたしがひらひらスカート穿くとかサブイボ。脚を見せないかんことにもドン引き」
「いいじゃん。太いわけでもなし」
「脛毛をそ」
「ストップ」
今まさに弁当のおかずのひじきを食べていた志織は純粋に食事を楽しむためにお下劣な話題はできるだけ避けたかった。
「……はッ」
「今度はなに」
茜は何か思いついたのか、進めていた箸の動きを止めた。嬉々とした表情で再び志織に向かって話し始める。
「そーやん、チアは毎年黒のニーハイ穿きよったよね? ああよかったあこれで脛毛」
「貴様こらクラすぞ」
「いやん志織ちゃんコワぁい。でもキレたら訛るとこ好きぃ」
(いちいち癇に障るやつだなホント)
志織は半ば彼女への矯正を諦めて食事を再開した。母の作ってくれた弁当は毎日の密かな楽しみとなっている。弁当を食べるために午前中の授業をがんばってきたと言ってもいい。そこまで食い意地が張っているわけでもないが、講義で疲れた頭と躰に栄養補給は不可欠だった。
「女の子なら毛の処理ぐらいちゃんとしときなさい。どうせ練習するときの体操服は半ズボンだし、そのときはハイソじゃなくてスニソでしょ。後輩からドン引かれてもいいわけ」
「毛ぇ生えとうぐらいで引く後輩とかそもそもいらんし。てか毛ぇ剃るのってメンドくないとみんな。そんなにみんな毛ぇ濃ゆいと?」
「なんでそんなに他人の毛事情を知りたがる」
「気にしすぎっちゃもん女子のみなさんはよう。芸能人だってアイドルだってうんこするしおならするし彼女たちにだって三日経てば黒々しくて太い腋毛が生えてくるったい。……あ、今は脱毛が流行っとるんやったっけ」
「完全に今の時間アウトだよねその話」
気にしすぎることもよくないがあまりにも美に関して無頓着すぎるのにもまた問題があるなと志織は思った。
「……それで、どうする? 卒アルがダメとなるとあとはもう訊いて回るしかないよね」
「地道な作業やなあ。ま、今あたしたちは先輩が三年になって亡くなったっていう仮定を大前提にして手がかりを探しようけんね。一、二年の間に亡くなっとっても卒アルに顔写真が載るかまでは知らんしさ」
誰が幽霊がいます彼の名を探してくださいという根も葉もない話を信じてくれるというのか。信じてくれる者はいるかもしれないが、志織は先輩のことをむやみやたらと触れ回す気もなかった。本にだけ唯一触ることのできる実体のないヒト――それだけで人々の好奇心を煽るには十分な設定だろう。いや、志織にとってはそれが事実なのだ。だがこのまま口を噤んでいてはわかることもわからないままであるかもしれない。
『ここ数年の間に、亡くなった男子生徒を知っていますか』
志織たちが文字として伝えることのできる情報はそれだけだった。志織が描いた先輩の似顔絵は彼が持ってしまっているし、名前もわからない者の似顔絵をなぜ描けるのかと問われると返答にも困る。
「この一週間、部の先輩たちに訊いてみても『そんな人おったかな』って返事しか返ってこなかったよ」
「女バスもダメやったかあ。せめて先輩が何部やったか憶えとってくれたらなあ。――あ、ごめん……」
ばつが悪そうに茜は視線を下に落とした。志織は何も言わず首を横に振った。自分が何も憶えていないことを一番遣りきれなく思っているのは先輩自身なのだ。それにこれは、決して彼に頼まれてやっていることではなく、志織が自分で決め、勝手に実行していること。ただの自己満足に他ならないのかもしれないと最近は疑いさえもち始めている。
いつどこで亡くなったかもわからない先輩。ただ彼は志織が通う高校の制服を着ていて、資料室の奥にある部屋で本を読み続けている。それだけはわかっている。だが、もしかすると彼が亡くなったのは高校時代のときではないかもしれない。彼の一番思い出深いときの姿として、あの姿が形作られたのではないか。そう考えると影を摑むように不可能なことを自分たちはしようとしているのかと思えてくる。
「まあ先輩も帰宅部やったっていう可能性も否めんし、あとは、」
茜が「ごちそうさまでした」と手を合わせる。
「先生たちやね」
志織も最後の一口を咀嚼しながら頷いた。
十何年も前からこの高校で勤務している古参の先生は何人かいる。誰か一人ぐらいは先輩のことを知っている、という根拠のない自信が志織の中ではあった。
「でも先生に訊くのだけは避けたかったよね。よっぽどわかってくれる先生やないと絶対理由訊いてくるやろうし」
問題はそこにあるのだ。
「そもそもこんなこと訊けて、かつ連絡先も知ってる人って一つ上の先輩ぐらいしかいないんだよね。私、一年のとき三年生の顔と名前憶える前に先輩たち引退しちゃったから」
「バスケ部って引退早いもんね。一番早かったら四月の終わりやったっけ」
「悪かったな弱小で」
「違う違う。弱いとは言っとらんよ。志織のときも最後は一点差やったて聞いたし」
三年のインハイ予選。高校生最後となるかもしれない試合。あと一点というところで志織たちのチームは相手校に敗れた。茜の言葉が引き金となり、志織の中であの日の記憶が甦ってくる。勝負の世界とはたいてい、そういうものだ。あと一点、あと一ミリ、あと零コンマ一秒の差で無情にも勝鬨を上げるほう、上げないほうに分かれる。試合終了の笛が鳴り響く。
あのミスがなかったら。自分があそこで決めていたら。もっと速く反応できていたら。ゲーム後に笑えたのは自分たちだったのだろうか。もう着ることのできなくなったユニホームで涙の入り混じった汗を拭いながら志織は歯を食い縛ったのを憶えている。しかし終わったことを悔やむことほど哀れでどうしようもないものはない。そこからの反省はまた自らの礎を築くものとなるが、過去を変え、それをなかったことにすることは決してできない。
自分たちは負けたのだ。敗者となったのだ。その事実を受け止めるには、自分が夢中になったぶん、一生懸命に打ち込んだぶんだけ重く、耐えがたい。
今でもあの時、あの瞬間を思い出すと、胸に熱いものが込み上げてくる。ここまで続けてこられたという誇りとまだこのコートに立っていたいという想い。苦しいことのほうが圧倒的に多かった。何度も、何度もやめてやると心の中で叫んだ。それでも途中で逃げ出すことができなかったのは、またあの瞬間を味わいたかったからだ。恍惚として、何にも代えることのできない、あの勝利の瞬間を。最後に笑うのは自分たちだと、信じていたかった。
「懐かしいね。あんなに部活やってたのがウソみたいに思えてくる」
「忙しかったもんね志織。正月にはOG戦あるし休みないし顧問は厳しいし。ごめんけど女バスには入ろうとも思わんやったわ」
「裏切り者め。自分も中学までしてたくせに。あんた私より上手いじゃん。所詮、私は高校からだし」
「なんのことかわかりましぇんな」
茜は中学までバスケをしていた。それこそミニバス時代からだ。宝の持ち腐れている状況に我慢ならず志織は彼女を何度も部活に誘ったが、彼女は首を縦に振らなかった。それは一度決めたことは頑として変えようとしない彼女の強い意志の表れでもあった。
「もう今日にでも先生んとこ行ってみる?」
「誰先生がいいかなあ。やっぱ重鎮の森永センセか? あと大山センセにもいっぺんあの部屋のこと訊いてみないかんよね」と茜が水筒の蓋をキュッと回しながら言った。森永先生とは志織たちの国語の先生であり、志織と茜は二年生のとき以来、彼から現代文を教わっている。この高校の主ともいわれる彼は二十年ちかく、ここで教鞭を執っている。そして大山先生とは言わずもがな図書委員長の茜がよく懐いている四十代半ばの司書の先生で、彼女は志織たちが入学した年に赴任してきたらしい。つまり今年で三年目だ。
「いや、」
志織が口を挟む。
「別に、今日じゃなくても、いいんじゃないかな」
そのとき志織は自分でも何を言ったかよくわからなかった。
「そう?」
「ああ茶がうめぇ」と茜が喉を鳴らして茶を飲んでいくのを志織は半ば呆然と見ていた。
今日行かないとすると、次のチャンスは盆明けになる。今日行くほうがいいに決まっているのだ。それなのに自分は何を言っているんだ。言い直す気も起きないのはなぜなんだ。
「先輩、なんで亡くなったっちゃろーね」
志織は言葉を詰まらせた。そんなの、志織のほうが訊きたかった。
先輩は、なぜ亡くなったのだろう。
病気、交通事故、災害、……自殺?
あらゆる可能性を頭の中から弾き出して、志織は一つ身震いした。
知らないほうがいいこともあるよ、と、彼から言われているような気がした。
*
前期の夏期補習、最後の一コマが終了した瞬間、男子の間で「ぅぉぉおおお」という雄叫びが次々と上がるなか、志織は荷造りを早々と終わらせて例の部屋に一人向かった。来月初めにある体育祭の準備のためか、廊下はいつもより少しだけ騒々しい。去年までは三年生についていくだけだったのに、今年は自分たちが引っ張っていかねばならない。そんな意気込みが彼らの生き生きとした表情から読み取れる。志織は学校行事を楽しみこそはするものの、それを誰かと共有しようと思ったことは残念ながらあまりない。そう思える人が志織の周りには少なかったのもある。いつも誰かを見下しているような瞳は意識せずとも人を寄せつけない効力を発する。損な目つきだと自分でも思う。
「……先輩?」
コンコンと静かにノックして先輩を呼ぶと「志織?」と彼の声が扉ごしに聞こえてきた。志織の頬が自然と緩んでいく。扉を開けると先輩が本から顔を上げて「今日はどやった?」と笑いながら志織に尋ねた。
「今日でやっと前期の補習が終わりました。……十五日まで一週間ほど盆休みです」
後ろ手に扉を閉めながら、今日で前期の夏期補習が終わったことを先輩に伝える。彼は「そっか。もうそんな時期か」と何かを思い出すように独りごちた。
「お盆になると人もおらんくなるけん、どこでも本が読めるようになるっちゃんね。いちいち隠れて読んだりせんでもよくなんのは、楽やな」
先輩はこの部屋で何回目のお盆を迎えることになったのだろう。志織は「それは、よかったです」と呟くように言って、いつも自分が座る椅子に腰かけた。同時に、ふう、と力の抜けたような息をつく。
「そのわりには全然解放感なさげやね」
先輩は肩を落とす志織の様子を見て、心配そうに自身の眉を少し寄せた。
「まあ、一応受験生なので」
悩んでいるのは先輩のことだったのだが、志織はそれを悟られないよう、あえて今の自分にあてはまる話題を選んだ。そういえば、受験生でなくとも高校生になってから夏に遊んだという記憶が、まったくと言っていいほどないような心地がする。部活まみれのあとは宿題まみれになって、お盆の間は祖父母の家に行くぐらいしか他に選択肢がなかった。
「志織は大学どこ受けると?」
先輩に尋ねられ、志織は「……まだ、決めてません」と小さく答えた。膝の上に置いた通学鞄を抱え込む。
高三の夏休みになってもまだ、行きたい大学がはっきりと決まっていないのは、受験生としての自覚がなさすぎるのだろうか。いや、本当は行きたい大学なんて、とうの昔に決まっているのだ。その大学のレベルに自分が見合わないだけで。自分でもそれがわかっているから、志織はつきたくはないウソをついた。
「行きたい学部とかあるん?」
「……宇宙に興味があって、理系を選んだんですけど」
志織は幼い頃から夜空の星を眺めるのが好きだった。いつか宇宙に行ってみたいと願い、小学生のときに描いた夢は、宇宙飛行士。今ではもう、宇宙飛行士になりたいという率直な想いは消えてしまったものの、空の彼方へと馳せる想いの強さは変わらない。
それは変わらないのだが。
「どうやら私に、理系センスはないようです」
努力が足りないのだとも思う。国語や英語と違って、答えは一つと定まっているはずなのに、その真理に辿り着くことができない。センス云々の前に、繰り返し解くことで身につく力があることもわかっている。しかし苦手意識が先行してしまって、それ以上手が出せない。
要するに甘えているのだ。今の、この現状に。
「諦めるのは、まだ早いっちゃないと?」
先輩に図星を指されて、志織の胸がズキリと痛む。でもその痛みを認めたくなくて、志織はムッとした表情で「諦めては、いません」と口を尖らせた。
「……でも、挫けそうには、なってます」
こんなふうに人に弱音を吐くのは昔から得意じゃない。だからか今まで誰かに相談したことも数えるほどしかない。相談したとしても、最終的に決めなければいけないのは自分なのに、どうして人は自身の弱い部分を赤の他人にさらけ出せるのだろう。志織はそんな彼らの心情をいまいち理解できなかったが、なぜか今それをしている自分がいる。
「勉強するの、楽しい?」
そう問われて、今この世界で何人の学生が「楽しい」と答えることができるのだろうか。とても純粋で、簡単な、難しい質問。
「昔は、楽しかったです。勉強すればするほど、自分の知識がどんどん増えていくのが実感できて。……でも今は」
「楽しくない、と」
「……はい」
本当に甘えてる、と自分でも思う。学ぶことができる喜びを忘れてしまった人間ほど学ぶ資格がない者はない。この国で生まれ育ち、教育を受けることが当たり前になった世の中で過ごしてきたからそんなことが言えるのだ。志織は何だか恥ずかしくなって、開いた鞄の口に自身の顔を埋めた。穴があったら入ってしまいたい気分だ。
「好きなこととか、楽しいことやったら、人は何事も続けれるもんなんやけどね」
先輩が「どうすればいいんやろうなー」と首を捻らせるのを横目に見て、志織は本当に申し訳なくなった。こんなのはやはり人に話すべきことじゃない。ただの愚痴だ。やらなければいけないことは、自分でもちゃんとわかっている。志織は、もういいですよ、と言おうとして顔を上げた。先輩は腕を組んで目を瞑り、難しいことでも考えているかのように眉を顰めている。
「――そういうときは、我慢せんで、好きなことやってみていっちゃない?」
先輩が突然目を見開いて、ぱっと顔を輝かせる。志織は彼の言ったことをうまく呑み込めなくて、思わず「は?」と訊き返してしまった。
「一回自分の欲望満たしたら、あとはさっぱりした気持ちで机にも向かえるんやないかな」
「はあ」
「やけ、志織の場合は、いま一番何がしたい?」
先輩を見たまま、ほんの一瞬だけ志織は固まってしまった。自身の欲望に対して忠実に動くこと自体が、とても不謹慎なものに思えて仕方ない空気に包まれていたせいか、咄嗟に答えを導き出すことができない。
「……私、は」
いま一番何がしたいのだろう。
本当は受験勉強なんてしたくない。朝の六時には家を出なければならないこともだし、志望校で頭を悩ませることも。寝られなくなるぐらいまで寝てみたいし、起きて夜中にずっと星を眺めていたい。どこか遠いところにも行ってみたい。自分のことを誰も知らない土地で、一度でもいいから過ごしてみたい。
――でも本当は。
私が今、本当にしたいことは、
「本が、読みたいです」
それだけだった。ぐるぐる考えて、回り込んで、辿り着いた結論。
なんだ、私、それがしたいだけなのか。
他にやるべきことがあるのに、それから目を逸らして違うことをしてしまうのは現実逃避だと言われても仕方ないのかもしれない。試験前に限って部屋の片づけを始めたり、昔の名作漫画を全巻読破してノー勉のまま試験当日を迎えたり。あとで困るのは自分だとわかってはいても、それをせずにはいられない。だって、心がそう欲しているのだ。しなきゃいけない、というような使命にさえ思えてくる。でもそれで別にいいじゃないかと思えてきた。一度きりの人生だし、型にはまったままの生活を送っていても、それが将来どんな役に立つかは、結局お墓に入るまでわからないのだ。
「よし。じゃあ読もっか。読みたい本、選んできたら?」
先輩が自分の読んでいた本を少し掲げて、にかっと笑った。我が意を得たり、とでも言いたそうな目を志織に向けてくる。彼の思惑通りに動いてしまう自分が少しだけ悔しくて、志織はその瞳を不満げに受け止めながらも、荒んでいた心がすうっと軽くなっていくのが自分でもわかった。
「では、お言葉に甘えて」と先輩に告げ、いったん部屋を出たあと、真っ暗な資料室を慣れた足取りで突っ切り、図書室に足を踏み入れる。この瞬間がいつも緊張するところで、誰かに見られたらどう説明しようかと悩む場面でもあった。でも志織や茜の運がいいのか、今までそんな状況に陥ったことは一度もない。
読みたい本は深く考えるまでもなく志織の中で決まっていた。数多く並ぶ本棚からお目当ての本が収納された棚を目指し、それに向かって一直線に進む。装丁がシンプルに揃えられた、しかし巻ごとに色味が異なるシリーズの第一冊を抜き取って開くと、自分が前に読んだページのところで栞が収まっていた。あのあとこれを手に取って読んだ者はいないらしい。
「それ、なんて本?」
「先輩、読まれたことないんですか?」
「うん。ない、かな」
志織が本を抱えて部屋に戻ると、その表紙に見覚えがなかったのか先輩が早々に尋ねてきた。そういえば先輩が好んでよく読む本は現代小説じゃない。もう読みすぎて飽きてしまったのかは知らないけれど、もっと実用的で、なんというか知識が直接頭に入っていくような本。サラリーマンが年に同じような本を何冊も買って後悔するような啓蒙書の類ではない。大学の図書館に置いてあるような書物だった。この前なんか源氏物語を原文の、しかも写本のままで読んでいて「光源氏ってマジしょうもねえやつやな。ただの幼児誘拐拉致監禁野郎やんか」と顔を盛大にしかめながら毒づいていた。変体仮名をすらすら読み進めていく先輩も先輩だが、そんな本が何十冊も置いてあるこの高校の歴史の古さに、志織はひとり驚いていた。
「これはですね、茜にお薦めされた本なんですけど、旅人の話なんです」
「旅人?」
「はい。タイトルに、『星の旅人』とか『海の旅人』とかあるように、旅人が色んな世界を旅していくんです。……でも、この本で一番面白いのは、そんな冒険ファンタジーチックなとこじゃなくて、彼が物語の中を旅してるっていうとこなんですよ」
嬉々として本の内容を紹介していく志織を見て少し驚いたように、「ほう」と先輩が頷いた。
「たとえば、神話にまつわる星座はたくさんありますよね。というかそんな星座がほとんどなんですけど」
「ギリシャ神話とか?」
「はい。この、『星の旅人』では、その神話の中に旅人が登場していきます。そこで旅人は神さまたちと協力して旅を続けていったり、逆に旅人が彼らのケンカに巻き込まれちゃったりするんです。東と西の神々との間で星を巡る戦いが勃発して、旅人はどうにかそれを止めようと自身も争いの中に身を投じる……というのが大まかなあらすじです。トロイア戦争とも、少しリンクしているところがあるかもしれません」
オデュッセウスのように何十年も放浪するわけではないけれど、旅人は心の赴くままに旅を続けていく。彼は個々の神話や物語の結末を知っているせいかそれを変えないよう孤軍奮闘するが、いつの間にかその物語の中で重要な登場人物へと化してしまうのだ。
「へえ、面白そうやね」
志織の説明を聞いて好奇心を揺さぶられたのか先輩が目を輝かせて微笑む。彼の共感を得られたことが嬉しくなって、志織も「でしょう?」と言って心からの笑みを彼に見せた。
「とても長いんですけど、でも、もう、読んじゃいます!」
私って自分が思っているよりもずっと単純にできているのかもしれない。「読め読めー」と催促する先輩に押されるように、志織は本を開き、栞紐を外して物語の続きを目で追い始めた。旅人が女神たちの争いに巻き込まれ、「お前は誰の味方なのか」と問い詰められている場面だった。
「――志織が読んだら、俺も読んでこっと」
先輩の呟きは残念ながら志織の耳に届かなかった。彼女の意識は既に物語の中に向けられているらしい。昔からそうだった。志織が本を読んでいるときや何かに没頭しているとき、家族や友人に話しかけられて彼女が気づいた例がない。だが先輩は気を悪くした様子もなく、逆に安心したように息をついて、自身も読んでいた本に視線を落とした。
本のページを捲る音と、扇風機の回る機械音だけが二人を優しく包み込む。静かに、本当に静かに、終わりの見える砂時計の砂のように、さらさらと時が流れていった。
二時間ほど経過して志織が最後の一文を読み終えたとき、図書室閉館十分前の合図が遠く聞こえてきた。腕時計を慌てて見ると針は十六時五十分を示していた。
「ちょうど読み終わった?」
顔を上げると、先輩が頬杖をついて志織を見ていた。「あ、はい」と二回ほど頷く。ほんの今さっきまで先輩の存在さえ忘れてしまっていた自分に志織は驚いた。彼の呼吸音も当然のように聞こえてこないから、本当に一人の世界に入ってしまっていたようだ。だって、本当に面白かったのだ。読み終えてしまうのを残念に思うぐらい。この本を薦めてくれた茜に志織は心から感謝した。
そういえば、この旅人って、先輩に少し似ているかもしれない。
大ざっぱで、大らかで、よく笑う。博識なところも、涙を簡単に見せないところも。
でも旅人よりも先輩のほうが、志織にはずっと魅力的に思えた。
「もう帰らなやね」
先輩が「忘れ物ない?」と机の下を見たり、本を片づけたりして、志織に早く帰ることをそれとなく促す。志織はこの時間が来てしまうのがいつも寂しくて、切なくて、何だかよくわからない想いが彼女の胸を締めつけるのだった。先輩との間に引かれた一線を感じてしまう瞬間でもあった。いつも志織とキョリをとっているのは志織ではなく先輩のほうで、志織が彼の心の内に立ち入ることは、この数週間という短い期間では決してできなかった。だから志織は彼が夜や土日の間、何をしているか知らないし、自分から訊いたこともない。一度、彼が眠る姿を見たことはあるけれど、彼がいつどこで何をしていたかなんて、志織には到底知りえない情報だった。
だが、彼のことを今以上にもっと知りたいと思ってしまうのは、志織の我が儘なのだろうか。誰でもそうじゃないのか。好きになった相手のことを知りたいと願うのは、自分勝手だけれど、ひどく自然で、普遍的な想いなんじゃないか。
ない勇気を振り絞って、ずっと志織が思っていたことを、いま彼に伝えてもいいだろうか。
「先輩」
「ん?」
「その、お盆の間、私の家に来ませんか」
一週間。たった一週間。その間だけでも毎日のように会っていた彼に会えなくなるのが志織は嫌だった。それに、彼は別にこの部屋に囚われているわけでもないし、どこにでも自由に移動することができる。ならば、志織の家にだって彼が来ることになっても、なんら支障はないはずだ。
「私だったら先輩の話し相手になれるし、その、うちにもけっこう本ありますし」
志織の父親は大学で教鞭を執っているため、志織が物心のつく前から彼女は大量の本に囲まれて生活していた。どれほどかというと書庫が庭に建っていて、父の寝室にも本が溢れかえっているほどだ。「本に埋もれて死ぬとかやめてね」と志織が言うと「本望」と父親からそっけなく返ってきた。ときどき真顔で発する彼の親父ギャグは、なかなかに面白いものだったりする。
「部屋も、一つ空いてます」
「あと、先輩が寝れるように、ベッドの上に新聞紙も敷きますから」と志織は視線を何度も宙に泳がせながら、先輩にどう言えば彼が家に来てくれるのか考え倦ねていた。彼からの反応が何もないことを不安に思い、志織が「先輩?」と首を傾げる。そのときようやく志織の意図を理解したのか、先輩が、はっと彼女を見て嬉しそうに笑い、両手を大きく広げた。
「ぎゅーってしていい?」
「な、なに言ってんですか!?」
「バカですか!?」と志織が彼の言動を受けて声を上げる。だが予想だにしていなかった彼の返答が志織を喜ばせるものでしかないことがなんとも腹立たしくて、そしてそれをわかってやっている彼の態度が悔しくて、志織は先輩と目を合わせないまま「帰りますよ!」と鞄を持って勢いよく立ち上がった。
「かーわいっ」
志織の背を、くすくすと彼の笑い声が包み込む。もし志織が恥ずかしさで顔が紅潮してしまう体質であったなら、今の自分は茹でダコ状態になっていると言っても過言ではないかもしれない。そして羞恥で人の鼓動が止まるとすれば、いま確実に自分はこの世にいないだろう。
それに、そんなの、今まで誰かに言われたことなかった。
ましてや自分が想いを寄せる相手から。
*
先輩と一緒に外を歩くのは初めてで、志織はいつもと少しだけ違う空気を纏う彼の姿にひとりドキドキして、何だか無性に恥ずかしかった。しかしこの空の下で、自分ひとりだけの影が地面に伸びるのを見て、志織は立ち止まりそうになる足を意識的に速め、再び彼の横に並んだ。誰の目にも彼のことは見えていないだろうけど、志織の隣には確かに先輩がいる。志織は躰の片側だけが熱をもっていくのを感じ、「暑いですね」と彼に話しかけた。でもその瞬間あることに気づき、志織は「……すみません」と声をしぼませ、肩を落とした。
なぜ自分はいつも口に出す前に気づけないのだろう。後悔したときにはいつも遅くて、そのことを高校生にもなってまだ繰り返している。何度も、何度も、学習しているはずなのに、直せない志織のクセだった。
だが先輩は志織の言葉を特に気にした様子もなく、へらへらと笑っている。
「なんで謝るん? 俺のことは気にせんでよ。確かに俺は暑いのとかわからんけど、暑いとか寒いっつうのは、季節への礼儀って言うやん?」
「……そんなの初めて聞きました」
「え、そう?」
なんか本で読んだんやったかいな、と先輩が首を捻らせるのを見て、志織は、ほっと息をついた。今回は志織の杞憂に終わってくれたらしい。気にしすぎ、と言われたらそれまでなのだが、志織の場合、今までに己の言動を省みたことがなかったのがそもそもの原因だった。でなければ中学生の頃、教室でひとり孤立することも、部活で協調性が皆無と言われることもなかったはずだ。
「志織は、夏と冬、どっちが好き?」
先輩が少しだけ夕日のオレンジに染まり始めた空を見上げながら志織に尋ねる。まだ東京に住んでいたときの自分を思い出していた志織は、ぼうっとしていた頭を切り替えつつ、「秋です」と深く考えるまでもなくそれに返した。
「……おるよね。そういうせこい答え方するやつ」
「暑いのは嫌ですし、寒いのも嫌です。……でも、最近は夏のほうが好きかな、と思ってきました」
あなたといるからですよ、とは到底言えるはずもなく、でもそれを自分の意図とは裏腹に思わず口走ってしまいそうになったので、志織は己の動揺を誤魔化すように「先輩は?」と半ば強引に話を振った。
「俺は、夏が好き。冬は、なんか寂しい気ぃするけん」
暦の上でイベントが多いのは冬だけれど、先輩にとっては夏のほうが賑やかで楽しいものに思えるらしい。確かに部活動の大会などは夏を目標に据えて練習に励むことのほうが圧倒的に多いだろう。三年生の冬にまで部活を続けられるのは卒業後の進路が確定している者たちだけなのではないか。そして自分はそんな彼らを羨ましいとは思えども、彼らのような才能がどこにもない自身の躰を、ただ単に先の見えないレールの上に置く道しか残されていなかった。
夏の思い出なんて、志織の中では悔し涙を呑んだ記憶と体育館の蒸し暑さとが綯い交ぜになってしまっていて、特にこれが楽しかったというような、そんなきらきらした思い出を抽出することなどとうの昔にできなくなっている。しかし同時にそれらの奥底にはちゃんと、木の緑が真夏の陽光を受けて眩しいくらいに光っている姿や、そびえ立つ白と背景の青とのコントラストが美しい入道雲とか、道路に浮かんで揺らめく透明な陽炎が、鮮やかに目の中で像を結んで蓄積されているのだった。
音も、匂いも、他の季節とはまったく異なる、夏の面影。
彼女を追いかけて志織が追いつけたことは一度もなく、これからもどうしたってできないのだろう。昔日の尊い記憶は自分さえも手の届かないところで仕舞っておいて、その存在すら忘れてしまったほうがいいに決まっているのだ。
ふとした瞬間にそれが甦ったとき、一層輝かしく、大切で、泣きたくなるほど愛おしいものに思えるように。
だからヒトは忘れるのだろう。忘却を忘却と認識する生き物なのだろう。
そして、しだいに忘れてしまいたい記憶だけが心に残り、それらが棲みついて根を生やしていくのだ。思い出すのはいつも、捨て去りたい澱んだ過去のほうで、透き通った眩いだけのきれいな想いなんかじゃない。そのたびに忘れてほしい、と志織は願う。私は忘れないから、この過去を背負って生きていくから、どうか私のことは忘れてほしい、と。あなたの中に、私はいなくてもいいから。亡き者にしてくれてもいい。一生、思い出してくれなくてもいい。だから、
「忘れて」
志織の声は特急列車がホームを通過した音で容易に搔き消された。隣に立つ彼の耳には当然届かなかっただろう。彼に対して言った言葉、というわけではない。だって彼に抱くこの想いは志織の胸に堆積した感情の死骸のように後悔に溢れたものではないから。だが、今はまだ彼の言動に一喜一憂しているこの生きた情動も、これからは過去となった彼の面影によって同じように浮遊させられ、時とともに水底に陥っていくのだろうことを志織は覚悟しなければならなかった。
「の、覗かないでくださいね」
「あ、うん」
誰かに怪しまれることもなく帰宅した志織は、そのポーカーフェイスを以てして家族との会話も普段と変わりなく進めることができ、夕食のあと母の用意してくれた風呂に入る時間となった。先輩は志織の邪魔にならないよう気を遣ってくれていたのか、食事中も彼女の視界に入ることはあまりなかった。だが志織の両親を見て、「志織は目だけお父さん似で、あとはお母さん似なんやね」と言って笑った。志織が「姉はその反対ですよ」と彼女の写真を見せると、「家族って面白いねえ」とこれまた愉快そうに笑っていた。でも志織はうまく笑うことができなかった。彼と彼の家族を想うと、どんなふうに言葉を紡げばいいのかわからなくなった。それなのに先輩は、志織には何も悟らせてはくれず、いつも通り志織をからかっては、本当に楽しそうに笑うのだった。
「覗くなって言われたら覗きたくなるよね」
「絶対やめてくださいね!」
しかし終始お風呂場で背後を気にしていた志織とは裏腹に、当の先輩は庭の書庫で本棚の前に立ったまま読書に没頭していた。最初に彼をここに案内したとき、彼の目が爛々と輝いたのを志織は見逃さなかった。先輩が気に入ってくれたらいい、と思っていた志織にとって彼の反応は嬉しいものに違いなく、本から顔を上げた先輩に「なんかいいことあったん?」と訊かれるまで、志織は自分が笑みを浮かべていたことに気づかなかった。
そのときだ。ドンッ、ドンッという控えめな破裂音が二人の耳に届いた。
「……花火?」
「あ、今日みたいですね。……通りに出たら、少し離れてますけど見えますよ。ここ、高台なんで」
十九時半になって最初の花火が打ち上げられ、志織は海沿いで毎年催されている花火大会のことを思い出した。志織は行ったことはないけれど、三日ほど前にクラスの女子が誰と行こうか何を着ようか、うるさくて思わず眉を顰めてしまうほどはしゃいでいたため、花火大会がある、ということは志織でも知りえていた。それにこの時期になると毎日のようにどこからか打ち上げ花火の音が聞こえてくるのだから、知らないことのほうが異常だ。ただ志織の場合、そのようなイベントの存在自体きれいさっぱり忘れてしまうのだ。
クロックスを履いて外に出ると、ちょうど大きな花火が打ち上げられた瞬間で、志織は思わず「たーまーやー」と呟いた。家族で外に出て「ぉお」と歓声を上げながら見物したのは、この土地に引っ越してきた最初の年だけで、翌年は一時間音を聞くだけで終わった。だが夏の夜空が鮮やかな色彩で彩られていく姿は、いつ見ても心を賑わせる。でも頭の中はなぜか冷静で、音速が三四〇メートル毎秒だから、花火が打ち上げられて八秒後に音が聞こえたということは、この家から海岸までは約二・七キロか、と即座に計算してしまうあたり周囲から可愛げがないと言われる所以なのだろう。
「今やったら鍵屋って言わなくない?」
「え、なんでですか」
志織は隣に立って同じように花火を見ている先輩を見上げた。
「志織、そもそも玉屋ってなんかわかっとる?」
「知ってますよ。江戸時代の花火師さんの屋号でしょ」
「そうそう。もともと鍵屋から暖簾分けしたのが玉屋なんよ。でも玉屋が大火事起こしたけん、玉屋は江戸の町から追放されてしまったっちゃん。そんで、今の時代にまで続いとるのが鍵屋さん」
「お、でっかいの上がった!」と先輩は間に挟んで続けた。
「まあ、『たまや』っつうのはもう花火んときのかけ声みたいになっとるけんね。あの花火見て『かぎや』っつっても、ホントに鍵屋さんの作った花火ってわけでもないやろうし」
志織は「……それも、そうですね」と相槌を打って口を噤んだ。花火の音だけが二人を包んでいく。花火はどうもいけない、と志織は思った。何だかよくわからないけど、感傷的な気分にさせる。それは一緒に見ている人が、いつもと違うからなのだろうか。家族でも、友だちでもない。自分の好きな人と見る花火は、こんなにも胸を締めつけるものだったのか。志織はクラスの女の子たちに、ごめん、と無性に謝りたくなった。
「細かいことはいっか」
先輩と目を合わせる。花火が打ち上がるたびに、彼の顔が明るく輝いて見えるのは気のせいなのだろう。
彼は人じゃないのだ、もうこの世に生きてはいないのだ。
でもそんなこと、最初からわかっていたから、今こんなにも、彼と過ごす時間を、彼と共有できる瞬間すべてを、胸に抱えたくなるほど大切なものに思えるのだろう。
「たーまーやー」
「かーぎーやー」
花火の上がる一時間のあいだ、志織はポケットの中の携帯で写真を撮ろうかどうか迷ったが、結局それは最後まで取り出さなかった。この目に焼きつけておきたい、と思ったのは、花火でも何でもなく、実体をもたない彼のほうだったから。文明の利器に支配された生活を送っていると、その力の及ばないものなんてどこにもないのではないかという錯覚を覚えてくるが、志織は彼のそばで笑うようになって初めて、自分の属する世界と認識がどれほど狭いものだったかを知った。
「あれ、志織! 今ほうき星ながれんやった!?」
最後の三分間は大玉連発のおかげで夜空はずっと明るかった。先輩は「すっげえ! やば!」と声を上げて笑っていた。最後の一発を見終えて家に戻ろうとしたとき、頭上で星が流れたのを見た先輩が花火の興奮を抑えきれないままで「志織! ねえ、見た!?」と膝を折って彼女の顔を覗く。残念ながら志織は見ていなかったため、少し顔を引いて「彗星ですか? それはないでしょう」と答えた。先輩の顔が近いことのほうが志織にとっては心臓を飛び跳ねさせるほどの事件に違いなかった。
「なんでそんな冷静なん! 彗星やなくて、流れ星……あ、ほうき星って彗星のことか」
「はい。ほうき星と流星は似てるようですが、両者はまったく違う別ものですよ。英語でもcometとshooting starで違います」
「今、志織の発音のよさにびっくりしたわ」
心臓の鼓動を先輩に悟られたくなくて、志織は早口で捲し立てた。発音がいいのは英会話を習っていたからなのだけれど、発音がどんなに良くたって英語がペラペラと話せるわけではない。
「そやったそやった。流星の元が彗星のチリで……、彗星の尾って太陽の反対側に伸びるけん、頭のほうが進行方向とは限らんのよね」
先輩の言葉に「その通りです」と志織が頷く。
「まあ、頭というかコマというか……」
「志織ってホントに天文好きなんや」
「――大学でも好きなこと勉強できたら、すっげえ楽しいやろうね」と先輩が夜空を見上げながら言った。星座の早見表を使わなくても、星の名前を言えることは特技と言ってもいいのだろうか。空に目を向けるようになったのは、どうしようもなくつらいときに下ばかり向いていたのを直そうとしたからだった。確かに小さい頃から星は好きだったけれど、このように詳しく勉強したのは十四を過ぎてからのことだ。
「私も、そう思います」
勉強するために大学に行く。もっと勉強したいから大学に行くのだ。そう考えると、大学に行く意味も、そのために受験を乗り越えねばならない理由も素直に理解できた。遊びに行くために学費を出してもらうわけじゃない。自分の将来のために他ならないのだと、志織は遠回しに、決して意図していないのだろうけど、そう教えてくれた先輩に感謝した。
志織の目には一等星と惑星しか見えなくても、そこに星は必ず在るのだ。本当は夜空を埋め尽くすほどの星々に囲まれているのに、市街地のなか肉眼で見える星は驚くほど少ない。
先輩の姿も、そうなのかもしれない。と志織は思った。
「家に戻りましょう」
志織がそう促すと、「うん」と先輩から素直な返事が返ってくる。
夏の星が二人の遙か頭上で燦然と輝いていた。




